斉藤和義さんの「ずっとウソだった」
シンガー・ソングライター斉藤和義さんの「ずっとウソだった」が動画共有サイトで公開され、その原発と原発行政を痛烈に批判する歌詞に対しては、インターネットで賛否両論の話題となっています。
桃の花は満開-今年も福島の桃を食べたい
大震災から3日後の3月14日、政府のスポークスマンは「放射性物質が大量に飛び散る可能性は低い」と記者会見で発表しました。今日の段階で、この言葉は大ウソだったと言わざるを得ません。
震災直後の段階で流布された「買い占めはやめましょう」は、ここにきて「買い控えはやめましょう」「過度な自粛ムードはやめてもらいたい」と変わっています。これらに一貫しているのは強権的で操作的な姿勢だけであり、国民の側の納得と同意に基づく行動規範につうじる情報や方針の提起は未だに明確ではありません。
近隣諸国にあらかじめ説明することもなく「低レベル放射能汚染水」を海に放出したことに、国際的な批判が起きるのと同様の姿勢でしょう。
「自粛ムード」といいますが、私の周辺で確認できる行事やイベントは「自粛」というより「中止を余儀なくされた」ものだけです。各地の夜桜見物を一つとりあげても、電力供給の不足を受けて電球を灯すことができずに中止せざるを得なくなっているだけです。
その背後には、自然災害としての震災ではなく、人災としての福島第1原発の「深刻な事態」と計画停電があり、しかも今後の推移を見通しづらい点が行事の抑制を主催者に強いているのです。
埼玉大学では、この春の卒業式と入学式はともに中止となりました。さいたま市では、年度末の社会福祉審議会や障害者施策推進協議会などの多くの会議が中止となりました。これらの中止の判断は、大学の場合、被災学生とご家族の式への参加が難しいこともありましたが、むしろ計画停電による交通の混乱と、福島第1原発から大量に漏れ出した放射線の今後が見通せないことに拠るものです。
人を集めておいて、突然、原発から重大な放射線漏れが発生した場合、行事の主催者は混乱を収拾できないでしょう。すでに、「重大な放射線漏れ」が始まっているのですから。
「風評被害」という表現も実に怪しい。「放射線の基準値を下回っているから安全だ」という言説が空疎な響きでしかない事態をつくってきたのは何故なのでしょうか?
原子力にかかわる「安全性」にお墨付きを付与してきた原子力安全委員会や原子力安全・保安院等の国の機関と「有識者」は、もはや社会的権威としての性格を喪失し、信用度は地に堕ちている点が決定的です。要するに、「専門家面しているところが怪しい」となっています。
「目にみえない」放射線の性質だけでも不安は高まるのですから、根拠が明確でわかりやすい説明を重ねてもらわなければ、私たちは「動こうにも動けない」のです。
外気で浴びたり、食物から体内に取り込まれた放射線量の蓄積総量が今後どのように推移するのかは分からない、なぜ特定の野菜だけの数値が放射線の基準値を上回るのか不明である、魚は大海原を回遊しているのだから福島第1原発周辺の漁港で水揚げされる魚介類だけの調査では信用できない、「原発ジプシー」(堀江邦夫『原発ジプシー』、講談社文庫、1984年-この本は本年5月に現代書館から新装改訂版が出ます)と呼ばれる原発末端労働者の放射線による健康被害がこれまで闇から闇へと葬られてきた事実…。
疑問は次から次へと湧いてきます。これらは風評に惑わされたものではなく、国の機関が必要十分な説明責任を果たすべき疑問です。
国民は史上類例を見ない巨額の義捐金を拠出していますし、民間企業の中には、亀田製菓のように「大震災によって内定取り消しを受けた人」を優先的に雇用する社会的なシェアに取り組んでいるところまであります。このような国民サイドの高い自主性を見失うことなく力と知恵を結集するためには、強権的で操作的な姿勢は百害あって一利なしと考えます。
さて、冒頭の「ずっとウソだった」を視聴して、私個人はまことに痛快に感じました。斉藤和義さんは今は亡き忌野清志郎さんの影響を多大に受けた方のため、忌野さんのアルバム『Summer Time Blues』『Love Me Tender』『原発賛成音頭』(CDからは排除されたものがありますが、すべて動画共有サイトで視聴できます)を彷彿とさせてくれます。
歌詞に賛否両論があるのは当然です。しかし、ミュージシャンが音楽を創るときには、ミュージシャン自身の生身の人間としての感情や心の運びが前提されるのですから、今回のような斉藤さんの「確信に満ちた怒り」による(少なくとも私にはそのように思えました)動画サイトへの投稿は大歓迎です。
ベートーヴェンが、交響曲第3番「英雄」の楽譜を破り捨てた逸話があります。共和主義者だった彼は、交響曲第3番をナポレオンに献呈するつもりで作曲したところ、ナポレオンが「皇帝」に納まって民衆を抑圧する立場に変質したため、「それではやっぱり、ただの人間にすぎなかったのか!」と楽譜の最初のページを自ら破り捨てたため、この交響曲は「エロイカ」と呼称されるようになりました。1821年にナポレオンがセント・ヘレナ島で死んだことを知った時、「もう17年も前に、私はこのあわれな結末に適合した音楽を作っている」(交響曲第3番第2楽章の「葬送行進曲」を指す)と言うほどに、確信に満ちた怒りだったようですね(ジャン・ヴィトルト著『ベートーヴェン』、音楽之友社、1971年)。
コメント
テレビでよくやっている「元気を出そう」歌番組にうんざりしていたので、斉藤さんの歌はまさに今の気持ちを代弁してくれていて痛快でした。消去されてもたくさんアップされるのはうなずけます。
納得できる正しい情報が、わかりやすく、タイムリーに発信されない限り、風評も買占めもおさまらないと思います。
こんばんは。僕は埼大の1年生です。
今回のブログの記事を読み、僕自身の考えたことを恐れながら書かせて頂きます。
今回の地震による福島第一原発の事件により多くの人々がパニックに陥ったと思います。
国民はもちろん、国外の人々も同様に混乱しています。
その原因のひとつには、宗澤先生がおっしゃるように「説明不足や対応の悪さ」があると思います。
僕のような無知な若者からみても、上手く連携がとれていないのは明白でした。
そしてもうひとつ、僕が感じたこととして、「大衆の悪さ」もあると思いました。
「自分達は悪くない」、「自分達は被害者だ」、「自分達は弱いのだから」といったスタンスをとる人があまりにも多すぎる。
確かに専門的知識を持たない人々の方が圧倒的に多いわけで、それをカバーするのが専門家や政府の仕事ではあると思います。しかし、現在の事態に対して文句を言う人々の全てが、はたしてわずかでも知識を身につけようと努力をしてきたのでしょうか?
また、原子力発電所のこともそうです。
確かに「ウソだった」と言わざるを得ない状況なのかもしれません。しかし、そういっている人々の全てが自分自身で福島第一原発の安全性を調査しようと努力してきたのでしょうか?
「原子力発電所自体にそもそも反対だ」と言う人々の全てが、原子力発電所のつくった電力の恩恵をいっさい受けていなかったのでしょうか?
はっきり言えば、これらの答えはすべて「NO」です。
政府や東電等に責任があることは明白です。しかし僕達一般大衆にも非がないのかと言えば、それは「NO」です。この国に住んでいるのですから、責任の一端は少なからずあると言えます。文句を言っていいのは「一人で」全てのことをこなして、「一人で」生きている人だけです。でもそんな人はこの世界にはいないのです。
もちろん、だからといって政府や東電に責任が無いわけじゃ無い。
要するに、どちらの側にも少なからず非がある。だから「被害者面」をするのは、単に相手を「非難する」だけじゃダメだということが僕は言いたいのです。
今僕達がするべきことは、誰かを非難することじゃないんですよ。反省することなんです。そして、この二度と経験したくもないような経験を忘れず、次の世代へ伝えることなんですよ。
こんな事態なのに相手を責めることに時間や労力をかけるのは間違っています。
相手を責めることなんて後でもじっくりできます。でも人が苦しんでいるのは、辛い思いをしているのは「今」なんです。「今」動かなきゃいけない。
個人のできることなんてちっぽけなことですが、それが重なれば大きな力になるんです。
その力は良い方向にも、悪い方向にも働く可能性を秘めたものです。出来るだけ良い方向へもっていけば、きっと人は救われる。そんなごく当たり前のことが大切なのだと僕は思います。
私の所属は教育学部なのですが、原発教育については本当に悲惨です。
『CO2を削減できるクリーンなエネルギー。未来の地球を、子供たちを救うものだ。何の心配もない。絶対的に必要な技術なのだ。』と、子どもたちは刷り込まれるのです。私もその一人です。
これが今後どう変わるのか、とても気になりますね。
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今、まず政府がすべきは原発の真の恐ろしさ・危険性・それを踏まえた上でのとるべき行動を子供たちを含めすべての国民に伝えることです。
先生のおっしゃるところの「説明責任を果たす」。
これが何より大事だと思います。
大臣や皇室が「福島の農作物は安全です」などといって食べている姿を見せつけているうちはこの国は変わりません。
世界各国の政府が原発縮小の動きを見せているのに、当事国である日本がこんなに余裕たる所以は何なのでしょうか。
それは今まで「ずっとウソだった」のを認めないためではないでしょうか。
正直言って、福島の食品が危ないのは事実です。
それを安全だと主張し、お茶の規制を緩め、国民をあえて危険にさらそうとしている政府は「ずっとウソだった」ではなく「ずっとウソのまま」なのです。
国民はそれに対する不満を吐き出すこともせず、たとえ吐き出しても報道で取り上げることさえされず…(高円寺の『反原発大規模デモ』は、あれだけの規模にかかわらずマスメディアに取り上げられることはありませんでした。本当に腹が立ちます。そんなに反原発勢力を抑えつけたいのか?)。
しかしそんななか、斉藤さんの歌は私たち国民にしっかり届いています。ACのCMで、頑張ろうだとか、日本は強い国だとか言われるよりも、その大きな力に抗おうとする斉藤さんの姿によっぽど勇気をもらいます。
自分も、信念をもってこの事態に立ち向かっていく強さがほしいと感じました。
自分は、風評被害について先生のブログ意見に共感する部分がありました。今、原発について様々な情報が、様々なメディア媒体を介して報じられています。その中には偏った情報や一部しか取り上げていない情報があると考えられます。
「正しい情報の取捨選択をすることが大事」とよく言われますが、その正しい情報か否かを見極めるものさしも、結局はそのメディアに作られたものさしであることを思うと、原発事故に関しても、その他の問題に関しても、無知であることで蔓延する情報に左右されることを恐ろしく感じました。
自分は、今回の震災による「自粛」について考えることがあります。世間では過剰な自粛が批判されていますが、それは日本人としては仕方のないことなのではないでしょうか。今回の震災で東北の人たちに配慮して花見やその他の行事を中止せざるを得なかったのは、周りの人の行動に同調して動く日本人の性質から考えて「過剰な自粛はおかしい」と言い出せなかったからなのではと自分は考えます。
今回、「ずっとウソだった」には、とても共感させられた。私は福島県出身で、今回の地震では大きな被害を受けた。ただでさえ緊急の状態で正確な情報が求められているときに、矛盾した東電側の説明には怒りを感じた。あんなに安全だと訴えていたのにもかかわらず、「想定外」という言葉で切り捨てられた。地元の人々は目に見えない脅威に怯えているというのに、あの説明は納得できない。また、政府の矛盾だらけの発言にも嫌気がさす。そういった矛盾した発言やあいまいな説明が国民に不安や恐怖を募らせることを、国民の代表者として自覚するべきだ。
天災ではなく人災であると言われている今回の福島第一原発の事故で、原発付近に住んでいた福島県民は避難を余儀なくされた。避難期間については、「原子力災害対策特別措置法15条4項」で、原子力災害の拡大の防止を図るための応急の対策を実施する必要がなくなったと認めるときは、原子力安全委員会の意見を聴いて、原子力緊急事態解除宣言をするものとすると規定されている。つまり現段階では避難期間は未定ということだ。
斉藤和義さんの「ずっとウソだった」の歌詞にあるように、「原発は安全です」と嘯かれ続け、今回の大惨事が起こった後は「想定外」という言い訳のみを投げかけられた福島県民、日本国民の東電に対する憤りは想像するに難くない。
斉藤和義さんは、その国民の怒りを自分なりのやり方で代弁してくれたのだと思う。私は、彼の勇気ある行動は評価すべきであると考えている。
今回の東日本大震災という災害は地震だけではなく、前代未聞の規模の津波、そして原発問題という三重にも問題が重なってしまった災害になってしまいました。
私は被災地で暮らしているわけではないので三重と述べましたが、被災地の方々にしかわからない問題を含めれば三重どころでは済まないでしょう。
そんな中で政府は原発の危険性を国民に伝えることもなく総理の退陣の問題など今回の震災に全く関係のないことで向けて討論していました。それなのに私たちが“必ず立ち直れる”とか“日本は強い国だ”とかいう言葉だけを掛けられて“よし!頑張ろう!”と気持ちを切り替えることが出来るわけもないと思います。
今回私は国民の本音を代弁してくれた斉藤さんを尊敬します。発言は自由だけど言いづらいことはなかなか言えない、そんな雰囲気を壊してくれたからです。原発とか放射能とかいう言葉にみんながナーバスになっている今こそ自分の伝えたいことを声を大にして訴えていくことの重要性を斉藤さんの姿から学んだ気がします。
私はこの「ずっとウソだった」という歌には賛同できません。非常に無責任だというイメージを受けます。
「想定外」を言い訳と歌っていますが、では誰がM.9の日本の観測史上最大の地震を想定できたでしょうか。私は岩手県出身で以前の二度の宮城県沖地震も岩手・宮城内陸地震も体験していますが、今回の揺れはそれまでの地震とは一線を画すものでした。その揺れまでも想定した耐震設計など、誰か提言できた人がいたでしょうか。「想定外を想定すべきだった」と言う人がいますが、それも責任転嫁に過ぎないのではないでしょうか。
そして一番大切なのはこれからどうしていくべきかだと思います。批判よりも先にできることがたくさんあるのではないでしょうか。
この歌には賛否両論様々な意見があるが、私個人は何回も聞くほど好きな歌である。今回の震災によって原子力発電は100%安全と保障してきた東京電力は文字通り「ウソ」つきだったことが皮肉にも証明されてしまったのは確かなことである。もし今回のような問題が想定外だとすれば、原子力発電を続ける限り放射能の危機がなくなることはまずありえないと私は考える。
周りの意見に流されず、自分の考えを貫くことは難しいことである。しかし、音楽は自分の思いを素直に様々な人々に届けることができるので、斉藤和義さんの散った行動は間違いなんかじゃなく、すごく意味のあることであったと後世の人々に言われるように僕たちの世代が行動で示していきたいとこの歌を聴いて思わされた。
私は福島県出身ということもあり、この曲には衝撃を受けました。被災当時、電気も水も止まっており、ラジオから流れる情報だけが頼りだったため情報の信ぴょう性、正確さはいつも以上にとても大事な要素でした。情報もライフラインの1つだったのです。
日を追うごとに東電、保安委員、政府の意見が食い違って『ウソ』がばれていく様子は、被災地からみて、怒りを通り越してあきれたといった感じでした。そんな感情を代弁してくれたのがこの曲だと思います。
ミュージシャンの中にはCDの売り上げを義援金にまわしたり、被災地に出向いて歌を歌って励ましたりと、様々な行動がみられました。その中でも斉藤和義さんのこの行動はもっともミュージシャンらしい行動であったと思います。賛否両論はあると思いますが、私は斉藤和義さんの行動は評価できるものだと思いました。
福島第一原発事故による風評被害ははかりしれないというニュースを見て愕然としました。届けられるはずの物資が福島県に入るのを拒むトラック運転手が多くいて届けられなかったり、福島県産の農作物が破棄されたりなど、さまざまな情報に流されて何が正しいのかわからない状況に陥ってしまっています。
この未曾有の大震災を経験して、与えられる情報をただ受動的に受け取るだけでなく正確な情報を見極めることが重要だと感じました。
斎藤和義さんのこの曲を聴いたとき、歌と歌詞のメッセージ性に聞き入っている自分がいた。おそらくこの曲を否定的に捉えている人の心のどこかにもこの曲が訴えかけていることに考えさせられる自分がいると思う。
最近の日本のアーティストはこれまで社会風刺ソングは自重する傾向にあったが、斉藤和義さんの行為に触発され、今後次々とメッセージ性の強い曲が生まれると音楽関係者は述べており、実際に公の場ではやらないが、個人的なライブで今回の震災をネタにしているロックミュージシャンは多いという。泉谷しげるさんはその筆頭で 斉藤和義さんの替え歌は日本のアーティスト像に変化をもたらすかもしれない。
原子力にかかわる安全性を国民に保障してきた原子力安全委員会や原子力安全・保安院等の国の機関に携わっていた人物は実際には原子力の専門家ではないとメディアで知った時、国家の在り方に不信感を覚えた。またその時の内閣の原子力に関係する国務大臣は原子力の専門ではなく法律の専門であったというではないか。
菅首相のその国務大臣任命に関して、なぜ専門の人材を当てないのか、またその専門ではない人物を当てた意図を問いたかった。今も党内で敵対しあい、国会議員は被災地の人のことを本当に考えているのか、目を向けるべきところが違うだろうと言いたくなる国会討論をしている。被災地の一刻も早い復興を心から願っている。
大震災当初の津波、そして福島原子力発電所の原子炉建屋の水素爆発それに続く放射能もれ。 チャルノブイリの原発事故後言われた言葉「あれとは型が違うので日本の原子力は安全です」そして今回の福島、多用された「想定外」と言う言葉。
この歌詞よく当たっている。さらに言われる様に疑問や信用失墜のようなことばかりだと私も思います。
しかし今は、震災からの復旧、復興をはかりながら、日本の進むべき道を決めるべき時と考えます。
日本は今まで、何事においても安全の値段を安価に見積もってきたと私は思う。原子力に漠然とした不安を感じながらも、日本経済の成長の為には必要と考え原子力政策を進めてきた。
今もう一度再考すべき時と考えます。現世代が、後世に汚点を残さない為に。
恥ずかしながらこの記事を見てから、斉藤和義さんが「ずっとウソだった」を歌っていると知りました。この曲を聴いて、鳥肌と涙が止まりませんでした。わたしは地震や津波や原発事故が起こったとき宮城県にいました。たくさんの噂が出回っていて何を信じてよいのかわからない状態だったのに政府の言葉もウソだったなんて政府に絶望していました。私はずっと前から斉藤和義さんのダイレクトに心に響いてくる歌詞とむちゃくちゃな歌が大好きです。和義さんが思ったことを、自分の気持ちを表現するツールである歌にしてみんなの目に触れるところに発信したことに感動しました。周りの意見を気にせず、自分の言いたいことをいうことはとても難しいです。和義さんは政府の「うそ」だった対応に憤りを感じている、たくさんの人の気持ちを代弁してくれました。
この曲は、現在の日本の状況(私がこのブログへコメントを書き込んでいる現在でさえ)に対して、非常に的確な批判である。これは、政府と同様、正しい情報を発信することも出来ず、無責任な言動の目立つマスコミの批判とも異なっている。
童話に登場する狼少年と同様のポジションで、日本政府や関係者が存在し、国民の信用は完全に失われてしまっている。こんな日本になってしまったことが、非常に残念である。
埼玉大学の一年生です。僭越ながらこの件について考察してみたいとおもいます。
記者会見で「想定外だった」「千年の一度の災害にいちいち備えていられない」というような発言を聞くことになるとはまさに「想定外」でした。
おそらく多くの国民が抱いていたであろう怒りや疑問を高らかに歌い上げる姿は、宗澤先生の仰るとおり本当に痛快なものでした。斉藤和義さんの動画については賛否両論ありますが、いずれの立場にせよ彼の歌詞に共感する部分、あるいは何かを考えさせられたであろうことに異論はないと思います。
買占めや買い控え、自粛ムードや風評被害などに関する政府側(原発機関や専門家を含む)の発言や曖昧な説明はまさに責任転嫁と言えるでしょう。
ただここで重要なのは「確信的な怒り」を発露したうえで、それをどのように生かしていくかだと思うんです。
「放射線は怖い」「まったく政府は何をやってるんだ」「原発反対」と嘆くことは簡単です。
ですがそこに私たちの責任放棄が存在していないでしょうか?
「そもそも放射線とは何だ?」
「原発事故を防ぐにはどうすればいいのだろう」
「原子力発電に依存せずエネルギーを確保するにはどうすればいいのだろう」
これらをきちんと自分なりに考えたうえで批判をしている人はとても少ないと思います。
確信的な怒りを表現したうえでこの先どうすべきかを(すべての人が)自分自身で考えなきゃいけないんじゃないでしょうか。
そういった意味でも斉藤和義さんのこの唄は、個人的に痛快ではありますが賛成とは言えません。
「何かがしたいこの気持ち」だけでは不十分だと思うのです。(歌詞引用:参照http://blog.310326.com/2011/04/daichiazuma.html)
斉藤和義さんの替え歌は「騙されていた」という「被害者ぶった」意味にしか聞こえず違和感を覚えました。疑いもせず信じ切っていたのは自分たちではないか、と、自業自得という言葉さえ浮かんできます。しかし大衆がすべてを把握すべきであると思うわけではありません。それは現実問題、無理であると思います。私たちは専門家に頼らざるを得ないことを自覚した上で無条件の信頼癖から脱却し、常に疑い続けるという姿勢を保つべきであると思います。
震災直後に『自粛』のムードが広まった時は、いかにも日本人的だなあと思いました。
なんとなく同調して、なんとなく空気を読みあって。
我々はリアルタイムではしりませんが、昭和天皇が亡くなる時もこういうことがあったんですよね。
これはもはや日本人の国民性として、一時そういうムードになるのは仕方ないと考えた方がいいのかもしれません。なるべく早く間違いに気付いて軌道修正できれば問題はないのです。
http://www.caramelbox.com/stage/kinkyu2011/index.html
上記URLより、役者の西川浩幸さんの「もう、ウチは、こういう時は、バカみたいに芝居するしかないんですよ」という言葉には考えさせられるものがあります。
誰もがいつも通りのやれることをやるしかないのでしょう。
劇団は芝居を、シンガー・ソングライターは歌を、我々は節電を、というように。
人の心を負の方向に煽る歌というのは、どうも賛成しかねます。多数に向けて自分の思いを発信する術がない人にとってアーティストは良き代弁者なのかもしれませんが、腑に落ちません。
「教科書もCMも言ってたよ 安全です」それで騙された、騙された、というのは勝手です。しかし、安全だと言われて、そうですか、安心ですか、と納得するもいかがなものでしょうか。信じて疑わなかった側にも問題があると考えます。懐疑心をもって、物事にあたることが自分の身を守る得策ではないでしょうか。
「ずっとウソだった」確かにそうかもしれない。わたしが見る限りではテレビや新聞、学校の教科書でさえ原子力発電の危険性を警告したものは今までなかった。原発は安全なものであるという前提で、「環境にいい」という部分ばかりがクローズアップされていた。わたしは恥ずかしながら今回の事故で初めて原発の実態とその危険性を知ったが、そのような人も多いのではないだろうか。
しかし、ここで問題なのは、今まで原発の危険性を覆い隠した報道や教育を続けてきた政府やメディアだけではない。わたしたち自身が、今まで日々の暮らしにおいて湯水のごとく使ってきた電力の供給源である原発を知ろうとせず、何の疑問も抱かなかったのも問題である。
日本は世界で唯一原爆の恐ろしさを、身をもって知っている国だというのに、核物質を使った原子力発電にわたしは何の疑問も抱いていなかった。原爆で「死の灰」と呼ばれた核分裂生成物が原子力発電の過程で生まれ、しかもいまだに後処理の方法が考えだされていないという恐ろしい事実さえわたしは今まで知らなかった。
今になってウソだったのかと批判するだけでは何も変わらない。原発について一人ひとりが正しく知り、理性的な判断と訴えかけをすることがこれから求められていくのではないだろうか。
私は何度も斎藤さんの「ずっとウソだったんだ」を聴かせていただきました。その中で共感できる部分が多々あり、全力で歌い、熱い想いを歌う斎藤さんに様々なことを考えさせられました。
この原発問題に関して私は一律に原発関係者全てが悪いとは思ってはいません。やはりあの震災前から私たち市民にできていたことは多くあったと思います。でも知識がない私たちは原発関係者が「安全です」というならそれを信じることしかできなかったのが現実です。それでも私たちはもっと原発について知識を深める意義があったのだと、今回のことで痛感させられました。
結局、原発関係者だけではなく、日本人みんなの考えが甘かったのです。だからこそ今回の事件を無駄にはしないために、日本人全員で考えなくてはいけないのです。
そして個人的な意見では原発はもう反対です。原発がなくなれば電力不足という問題も出てくるでしょう。安全な原発もあるとよく耳にはします。だけどもう信じられないというか、福島の方々の悲痛な叫びを聞くと、二度と繰り返してはいけないことだと強く思えるからです。
これから二度とあのようなことが繰り返されないように、私たち日本人は歩んでいかないといけなのです。
私はこの記事を読んで、斎藤さんの行動に賛同しました。しかし、同時に大人たちに対する不信感と、自分の今後に対する不安を感じました。というのも、この記事に書いてある通り原発の存在自体に対し疑問を投げかけ続ける「大人」は多くいました。
しかし、現在このような状況になって私に見えてきたものは、そういった人たちがいたにも関わらず追従も賛同もしてきていない「大人」たちが声を大にして東電を国を罵倒している姿です。そして、そこから私は自分は将来どちらの「大人」でいられるだろうかという不安を抱きました。大人が大人として、将来の子供たちのためにと思って行動するならば、政治家任せの政治や、他人ごとのような生き方はしてはならないのであろうと私は考えました。
この記事を拝見して、斉藤和義さんの勇気ある行動に感心しました。現在の日本のメディアは、「震災に負けずに頑張っていこう。」というような内容のニュースは大きく取り上げていますが、原発に対する疑問や否定的なことはあまり取り上げられていないように感じます。誰かがこの原発の問題の疑問を投げかけなければ、これからの日本の原発問題は何も変わらないと思います。斉藤さんは、「ずっとウソだった」を配信したことによって、政府や原発を否定する行動をみせてくれました。しかし、これはまだ、個人的な行動です。国民の中から、このような考えを抱きながらも、行動に移すことができない人は数多くいると思います。多くの人々が自分の考えや、主張を常識の範囲内ですが、行動に移せることができるようになることを願うとともに、私も自分の考えを行動に移すことのできる人間になりたいと思いました。これからの生活の中で、少しずつでも自分の行動を変えていけるように努力していきたいと思います。
私はこの記事を読んで、斎藤和義さんの「ずっとウソだった」を聴きました。
斎藤さんの正直な気持ちを歌った姿はとても心に残るものであり、原子力発電所について、さまざまなことを考えさせられました。
日本は世界で原子爆弾による唯一の被爆国であり、放射能の恐ろしさは嫌というほどわかっているはず、それにもかかわらず54基もの原子力発電所を稼働させ、事故が起これば「想定外」として間違いを認めなかったということが多く批判されています。
悪いのはすべて政府や東電だとも言われていますが果たして本当にそうでしょうか。
私たちが騙された、のでは無く、教科書やCMの、「安全です」の一言を鵜呑みにして、原発の危険性について考えようともしてなかったのではないかと感じることがあります。
結果論ですが、もっと関心を持っていれば、ここまで問題になることはなかったと思います。
福祉の世界でも、私たちの無関心が、いまだ気付けていない問題をどんどん大きくし、哀しい事件が起きてから、気付かされ「想定外」だったということにならないように、たくさんの人に関心を持ってもらわなければならないと私は考えます。
正直私は、政府や東電の対応、また、マスメディアの伝える真実とは離れた一部の情報には憤りを感じるものがあります。迅速で的確であるはずがそうではない対応、伝えられる情報の不透明さが私たち国民の不安を増幅させ、ネット上ではウソかホントかもわからない様々な情報が溢れています。少し以前にtwitterで「速報:○○県の水道水からDHMOが検出」といったDHMO=水にもかかわらず、イタズラに不安を煽るような嘘の情報もあふれかえっていました。私たちには目に見えない放射能といった恐怖は襲い掛かっており、政府や東電の根拠のない大丈夫といった言葉は、私たちを非常に不安にさせているのです。斉藤和義さんのミュージシャンとしての訴えはとても響きました。そもそも、アメリカなどとは違って、日本の歌の歌詞は特になにかを批判する、訴えるといった歌詞があまり見受けられないように思えます。批判的な歌詞は大抵、メジャーな音楽業界からは阻害されがちなのだと思います。テレビでよくやる「日本を元気に」といった風の音楽は正直うんざりさせられます。だからこそ、賛否両論のある今回の斉藤和義さんの歌詞の訴えは私にとって衝撃であり、それはもっと多くの人に聞かせるべき言葉であると思いました。
未曾有の大惨事となった東日本大震災は、福島第一原発事故の放射能流出により人々を混乱に陥れた。オーストラリア・ドイツでは原子力発電に関わる学者がメルトダウンを考慮し、直ちに大使館職員を全員非難させています。日本政府がメルトダウンを認めたのが2ヶ月も後です。専門家達の間ではメルトダウンが起きることは分かっていたはずなのに何故、2ヶ月も後になった事を疑問に思います。大量の放射能が流出し野菜、魚介類などの放射量数値が種類によって違う。形となって見えないだけ、政府の発表は疑わしく不安はつのるばかりです。国民の「知る権利」が保障されているならば、政府は正しい情報を開示する義務があると思います。
原子力を持つこと自体が命の危険を伴う恐怖です。「想定外」ではなく「想定内」だったのではなかったのでしょうか。つまり起こるべきして起こった人災事故とだと考えます。
音楽は言葉や活字以上にこころに響き訴えてきます「ずっとウソだった」の曲を通して国民の思いを斉藤和義さんの発信していく勇気には感動します。
世界の誰もが原子力の恐怖を知っています。原子力の安全性を政府や電力会社が訴え続けている事が理解できません。国民は政府に何を期待すればよいのでしょうか。国民が安心・安全に暮らしていけるように政府から原子力の危険性を知らせていくことが大事なのではないでしょうか。原子力に変わるエネルギー開発が必要不可欠であると考えます。
ずっとウソだった。
この言葉はウソではない。
今回の原発問題を、教育の観点から見てみたい。
わたしは今大学2年生だが、小学校中学校そして高校の授業で、「原子力は安全でクリーンなエネルギー」であると教わり続けてきた。先生が、教科書が、そう教えてくれた。だからそれを疑ったことはないし、原子力発電は地球温暖化をストップする切り札であるかのように考えてきた。
そこで起こった今回の原発問題。
わたしたちが教わってきたことは幻想だったのか。ずっと騙されていたのか。誰が騙していたのか。
東電?政府?先生?…
将来教職を志す者として、今回考えさせられることが多々あった。
未来を担っていく子どもたち。その子どもたちを育てるのは間違いなくわたしたちである。わたしが大人たちから学んできたように。そうであるならわたしたちは、真実を子どもたちに伝えなければならない。誤った知識、認識を子どもたちに教えることのないようにしなければならない。きっと今後、教科書から「原子力は安全でクリーンなエネルギー」という言葉は消えるだろう。
本当に正しいことは何なのか。真実と嘘の中からそれを見極めさせる力を子どもにつけさせることも大切だろう。しかしそれを重視するのは教師の怠慢であると考える。原発教育が今後どのようになっていくのか、とても気になるところだ。
自分が教えた生徒に、「先生から教わったことは嘘だった」と言われるのだけはごめんである。
今回の原発の問題では、たくさんの人たちがさまざまな意見を公表しています。
私自身は原発に関して自分自身の意見を決めかねています。
この問題はまだ事態の収束も見込めませんし、私にとってはとても難しい問題です。
ただ、メディアに溢れる「個人の意見」が「事実」になってはいけないと思います。
斉藤さんの歌はあくまで斉藤さん個人の意見であり、実際に「ずっとウソだった」ということの証明ではありません。
東電が今回のような大規模災害を想定していなかったのが悪いのか、それとも想定外の被害だったのだから仕方がないのか、日本中の様々な人に様々な考えがあると思いますが、そのどれもが意見であり、事実ではありません。
「東電が悪い」ということも、「東電は悪くない」ということも、あくまで「どんな食べ物が好きか」という話と同じレベルの意見でしかないと私は思います。
しかし中にはそういった意見を考えなしに見聞きし、それが事実であると勘違いしてしまう人もいるでしょう。
それが風潮として日本中に広まってしまえば、ありもしない事実が日本中の人々によって作り上げられてしまうことになります。
これはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。
インターネットが普及した今、自分の意見を世界中に発信することはとても簡単になっています。
しかしその発信は、無自覚なものであることは許されません。
震災直後にはtwitterなどで根拠のないデマも飛び交っていました。
今回の震災や原発の問題を通して、改めて「意見を公表すること」と「メディアリテラシー」の持つ意味について考える必要があるのではないでしょうか。
3月11日以降、斉藤さんの歌うとおり、私たちは騙されていた。そして、今も騙され続けている。食品の問題が代表的な例で、放射能の基準は未だにはっきりと国民に伝わってこない。放射能についての嘘は明らかになったが、まだまだ明らかになっていない嘘もあるだろう。
しかし、原発の安全神話に騙されたという風な歌詞には反対だ。政府や東電が言い訳に使うのは許せないが、震災の被害の大きさは間違いなく想定外だった。神話だって想定外のことには対応できないのだから、それを責めても仕方がない。どちらかと言えば、安全性を全く疑わず、神話として祭り上げた私たちに問題があると思う。
しかし、斉藤さんのように声を上げることは、アーティストの仕事の一つとしてとても大切なことで、万人が賛成するようなことを歌う必要もないと思う。斉藤さんの歌は、重要なことを考える機会を私たちに与えてくれたと思っている。
私は、斎藤和義さんが「ずっとウソだった」を動画共有サイトにアップしたことを知った時、すぐに食いつきました。私はこの歌に対しては賛同しています。実際に、日本政府は国民の混乱をさけたのか本当の情報を地震発生直後に伝えていませんでした。そして結果論かもしれませんが今の国民、被災地の方々はかなり混乱していると私は思います。ニュースなどで被災地の様子など見てみると被災地の方々の混乱している様子が伝わってきます。
なぜ地震発生直後に政府は本当の情報を国民に伝えなかったのか。政府の考えが間違っているのかはわかりませんが、私ははっきりとした正確な情報を伝え、被災地の対処にあたるというのが今の国民にとって一番良いのではと感じました。
大震災・原発被害の中、福島県から千葉県に避難してきた男児へのいじめなど、追い打ちをかけるような悲しいニュースがありました。そんな中、気になる話を耳にしました。
その話は、東北出身の女性が出身地の問題で結婚破談になったというものでした。女性は大学進学の際に他県に移り住み、就職し、結婚相手の方と出会いました。長い交際期間の上での結婚、お互いの家族にも祝福されていました。ですが2人の結婚は、破談となりました。理由は、「東北出身=放射能の影響で元気な子供が生まれない可能性がある」「もしかしたら原発の影響を以前から、少なからず受けているかもしれない」という相手方親戚の偏見でした。しかし女性は年に数回帰省するだけで、他は主に他県で生活していました。
原発が奪ったもの、それはそこに住む人たちの現在・未来・日常・幸せなど、多くのものだったと私は考えます。幼いころに親から、「嘘はどんどん大きくなり、しまいには取り返しがつかなくなる。」と教わりました。斉藤和義さんの「ずっとウソだった」は、今では取り返しのつかない嘘・事態になっている原子力問題の現状を表していると痛感させられました。
斉藤和義さんの"ずっとウソだった"が話題になっていることはこの記事を読むまで知りませんでした。
動画サイトのコメント欄を見る限り、この曲には賛否両論あるみたいですね。確かに、内容としてはネガティブだと思うし国民の気持を前向きにしてくれるような感じはしませんでした。しかし、アーティストによる震災復興の願いを込めた楽曲の提供やチャリティーコンサートなどが頻繁に行われているなかであえてこの楽曲を発表したのではとも思います。
誰だって前向きな気持ちと後ろ向きな気持ちを持っています。だけど後ろ向きな気持ちは表に出してはいけないという社会観が広がっています。斉藤和義さんはきっと皆の後ろ向きな気持をこの曲で代弁しているのではないでしょうか。普段、皆が口に出来ないネガティブな気持ちを、誰かのせいにしてこのやりきれない気持ちをどうにかしたいという気持ちを斉藤和義さんはあえて代弁しているのです。
私たちには表現の自由がありますからきっと彼は彼なりの表現で私たちのこころを励まそうとしてくれていたのではないでしょうか。
原子力発電は発電力が高いけどリスクを伴うことは皆わかっていました。だから"最初から反対していた"、"そら見たことか"、と想っている人もいるでしょう。
しかし私達が電気を湯水のように使い贅沢が出来ていたのは原子力発電のおかげではないでしょうか。私達はリスクよりも贅沢な生活を選んだのです。だから一概に政府を恨むことは出来ません。そして恨んだって批判したってなんの解決にもなりません。
起きてしまったことをどうこういうのではなく、ならばどう解決して行くのかということを今こそ皆で知恵を出し合って協力して復興していくべきではと思いました。
この歌手のネット配信で歌われたため、この曲を知りました。これは一般大衆に受け入れられやすい歌だと思います。
(よく家で議論すると科学者視点と評されるのですが、)実際問題今回の事故およびそれに対する対応での私の考える問題点は以下の2つに集約されると思います。
1)事前の段階での人為原因の増幅
我々が何らかの技術を用いているとき、それは分解すれば次の手順によります。
[要求]--[運用]→[効果/被害]
主張は、今回の問題が科学が科学内で責任をとれる範囲でない、要求(および運用)に関する人為ミス*1の重なりによっておこっているということです。
今回の例でいえば、ニュースなどで指摘されている問題である、震度6や津波の危険性を指摘されても、(たとえば経済的な理由で)想定していなかったということです。
2)対応段階での情報の隠匿
科学は再現性を前提に事実(データ)を公表します。*2そして、そのデータをもとに帰納的な結果を考察します。つまり得られた実験データは書かれた条件を満たす場合にだれでも再現可能で、それと既存知識をもとに最も考えられる結論を考えるということです。今回の場合、地震後の速やかに制御棒が挿入完了したという捏造報告や、各地点で得られたとして公表された放射線数が(福島市の値のように室内で計測されるなど)すでに捏造されたものだった、などそもそも初期条件が満たされていません。さて、地震後TVに呼ばれ発言した科学者の多くが、まさか発表データがねつ造されているなどと考えなかったのだと思います。実際私も家族から聞かれたときにも発表データから同様の結論を帰結しました。
そして、それに付随して浮かび上がる問題があります。これは大学の文系の友人においても散見されるのですが、TVなどで一般人の意見として語られる多くが自分のわからない部分を一緒くたにしてそれ全体をネガティブに評価することです。先に指摘したように、原因は[要求]がしっかりと行われなかった、あるいは[事実]が捏造されたことにあり、それにもかかわらずこれだから科学技術は危険だなどというムードになっていることを悲しく思います。私からすれば、それはその程度の安全でいいと決定した会社側に責任があるというのに。
*1畑村洋一郎 『図解雑学 失敗学』ナツメ社 参照のこと
*2 マイクル・シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』早川書房 参照のこと
今回の震災でまず初めに、私たちは情報や知識を吟味したり、選択したりする力が弱いと感じました。私自身、今回の震災があったことで、原発に関して初めて知ることばかりでした。とても恥ずかしかったです。
国が「原発は安全だ」と言う以上、それを調べる力は私にはなかったと思っていたし、その言葉を疑いもしなかったです。今回のことで、自分の無関心と無知を自覚しました。
国民にその場しのぎの嘘をつき続ける国には疑問を感じます。腹立ちも感じます。ですが、その嘘に対して、少しも疑問を持たなかった私にも十分責任はあると考えます。
ただ、自分にも責任があったのだから、国を東電を批判してる場合じゃないというのは、どうなのでしょうか。「批判」は、国を監視する行為であり、それを放棄することは、権利や義務の放棄だと私は考えます。私が果たしてこなかった責任とは「監視」だと思うんです。ここで、なあなあにしてしまっては、また同じことの繰り返しなんではないでしょうか。
潜在的な野党性を持つメディアすら、利益を追いかけた結果、その機能を果たせていません。国に対しても、国の政策を伝えるメディアに対しても、私は疑問を持ちませんでした。
今回のことで感じたのは、これからの国民に必要なのは、偏らず幅広く知識・情報を得ようとするバランス感覚と、それを冷静に判断する俯瞰した視点なのではないかな、と思います。そして、ひいてはそれを育てる教育なのかな、と私は考えます。
私はこのたびの震災での東京電力批判について意見したい。そもそもの批判の原因は先生が仰るような政府による数々の「嘘」、震災直後の彼らの「不手際な対応」のためなのであろうが、私はその他に、人々の私情のようなものを感じざるを得ない。
震災という目に見えず実態の無い「加害者」という状況に、人々はそのやり場のない「不満」を、目に見え実態のある「東京電力」というものに対してしかぶつけられなかったのではないだろうかと私は考える。別に彼らを擁護したいわけではなく、私が云いたいのは、このたびの原発事故が起こってしまったことは事実なのであり、それを受け止めたうえで、こんな言い合いばかりしていないで、そろそろ復興に向けて彼ら東京電力を含むすべての人々が協力すべきなのではないかということである。
現場では今なお、放射能を浴びながらも必死で働き続けている作業員がいる。彼らを許せとはいわない。少なくとも故郷を奪われた福島住民は一生涯許しはしないだろう。しかし、だからといって事実を事実として受け止めなければ前に進めはしないと私は考える。すべての被災地の早期復興を切に願う。
今回の原発事故において、関東では大規模な計画停電による理由だったことから確かに「自粛」というより「中止を余儀なくされた」ということもあっただろう。しかし、関西・九州でも花見の中止が相次いだという事をテレビの報道で知った。このことはやはり「自粛ムード」による中止だったのだろうと考える。
斉藤和義さんの「ずっとウソだった」については、歌手であるがために今後の自分の生活に影響するだろうに、自分のありのままの感情をぶつけたモノをあえて公開する精神力の強さに感服した。
この曲の存在を知ったときとても衝撃を受けました。私は宮城県出身で、実家では被災が起きてから、電気や水やガスといったすべてのライフラインが止まり、電波も入りにくくなっていたため情報収集が困難だったようです。情報源が少ないので、より正確さや信憑性が問われていたと思います。
「不謹慎ムード」が流れていた中、斉藤和義さんのような行動をとれるような人はそんなにいないと思います。アーティストとして評価できる行動であったと感じました。
私は福島県出身で現在大学1年生です。当時、斉藤和義さんの「ずっとウソだった」を聴いて衝撃を受けました。歌うことを商売としてる人が、歌を用いて真っ向からぶつかっていくその度胸は計り知れません。まして、この動画が動画共有サイトにアップされたのが原発事故が起きてから間もないことだったと記憶してるので行動力の凄さにも驚きました。
この「ずっとウソだった」が動画共有サイトにアップされたのは、原発事故が起きてから間もないころだったと思うので、斉藤和義さんの行動は原発反対運動の先駆けとなったという点は評価すべき点ではないでしょうか。
記事を読んですぐに斉藤和義さんの「ずっとウソだった」を聴きました。原発事故から2年と少し経った今もなお、被害は続いています。しかし政府は原発を再稼働しようといている。斉藤さんの歌詞に「俺たちを騙して言い訳は『想定外』」とありましたが、現在はもう「想定外」とは言えません。原発事故は起こりうることでその被害はとても大きいと誰もが分かった状態で、原発の再稼働を決めるということが何を意味するのか。先生の言葉にもありましたように、政府は様々なことにまだまだ説明責任があるように思えます。そこには私たち国民の無関心という問題も加わり、自分たちで行動することが重要になってきます。斉藤和義さんはミュージシャンとして、私たちにこの歌で伝えてくれました。私たちにできることは何でしょうか?
私はこの震災を通してマスメディアへの不信感を募らせることとなった。確かに国の機関は先行き不透明で、言動に矛盾が多くあるだろう。しかしマスメディアはそのことをただ垂れ流して国民の恐怖を煽ることしかしていない。はたしてそれで報道機関としての役割を十分に果たしていると言えるのだろうか。特に放射能に関してはシーベルトとベクレルの使い分けになにか含むところがあったと私には感じられた。ベクレルは単に放射能を測定した値であって人体の影響を考えたものではない。そのため同じベクレル量であったとしてもそれを受けた年齢によってシーベルト換算では値が違う。そのことも大して説明せずに数が大きくなるベクレル(例 成人の場合0.122mSv→5556bq)を多用していたように思う。
以上のことから、今私たちには周りの雰囲気に流されず、自分で情報を選択し、真贋を見極め、自分の意見を持つことが要求されていると私は考える。そんな中斉藤和義さんの楽曲は行政の言葉を鵜呑みにしていた今までの自分たちの態度に一石投じたものになったと思う。
*ベクレルとシーベルトの変換は社会情報リテラシー講義付録というところで行わせていただきました。
震災が起きた頃、石川県に住んでいた私は大きな揺れを体験せずにすみました。福島第一原発の放射性物質漏れなどの問題は、実感としてあまりなかったように記憶しています。しかし、次々と明らかにされていく各地の原発の安全性にたいする疑問、「放射線物質の検出量が・・・」と、不安を煽るような報道。私の故郷である石川県にも志賀原発があります。隣の福井県にも・・・。メディアからの情報は、私たちに原発に対してネガティヴなイメージを持たせるには十分でした。しかし、それはメディアからの情報を鵜呑みにしているだけで、「原発は安全」という政府の言葉を鵜呑みにしていた頃と何ら変わりがないことに気づきました。このような危機に陥っている状況でこそ、私たちのメディアリテラシーが試されていると思います。
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