全会一致で可決
この2月にさいたま市議会に上程された「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関す条例」は、3月4日の本会議において、原案どおり、全会一致で可決されました(これまでの経過と条例のすべては、次を参照してください。http://www.city.saitama.jp/www/contents/1260336773439/index.html)。
大勢の人たちの労苦と希望の結晶である条例議案が可決された瞬間、傍聴席からは拍手喝采が湧き上がりました。この条例づくりに明け暮れてきた一年余りを想い返し、私も全身の細胞が歓喜にふるえるようでした。ここまで知恵と力を紡ぐ営みに参画された大勢の市民と関係者には、深く感謝申し上げます。
ツートラック制
この条例の実質化に必要な今後の課題はさまざまにあるものの、この条例づくりが「原案どおり」「全会一致で可決」するという最良のかたちで結末を迎えたことを、まずは率直に喜びたいと思います。
ここまで条例づくりを運ぶことのできた背景には、たまたまではありますが、統一地方選挙直前の議会に上程された事情も多少あるかもしれません。本質的に重要な点は、この条例づくりに「ツー・トラック制(2回路制)」(篠原一『市民の政治学-討議のデモクラシーとは何か』、102-113頁、岩波新書、2004年)が生きて働いたことにあります。
「ツー・トラック制(2回路制)」とは、すべての市民に開かれた参画型の条例づくりを進めること(直接民主主義)が、間接民主主義である代議制を刺激し、政治と地域社会に本来の民主主義を取り戻すことができるという考え方です。
さいたま市では、障害者施策推進協議会を中心に、この8年ほど一貫して参画型の施策形成を図ってきたことと、市議会が議会改革に前向きに取り組んできたことの2点が今回は相乗効果をもたらしたように思えます。
そこで、今回の条例づくりを地域社会と市民の側から考慮したとき、最大のキーポイントはすべての市民に開かれた参画を徹底して追求したことにあります。
まず、国連の障害者権利条約をふまえた条例づくりですから、参画のスピリットは当然ながら“Nothing about us without us !”でした。ノーマライゼーションの観点からいえば、「共に生きる」地域社会づくりを目的とする条例づくりですから、この条例のつくり方そのものが「共につくる」ものでなければなりません。一部の有識者や団体の幹部が少人数の委員会を構成して進めるやり方ほど、この種の条例づくりにそぐわないものはありません。
次に、参画を進める具体的なありようを冷静に見極める点です。「すべての市民に開かれた参画を進める」というと耳ざわりのいい響きですが、これほど困難の多い課題はありません。人が集まるのは簡単ですが、そこから議論を深め、条例づくりまでに結びついていくには、関係者が総力をあげ、知恵と工夫を重ねなければ前に進むものではないからです。
さいたま市の条例づくりでは、100人委員会という定員を設定しない委員会が多くの市民参画を担保する場となりましたが、この委員会をもつための最低限の形式的条件だけでも、バリアフリーの会場確保とその予算、手話通訳・要約筆記・点字資料の保障等が整わなければなりません。
ここで、参画の進め方については、政治の世界で横行しているポピュリズムとの関係で一言釘をさしておく必要があるでしょう。それは、構造改革の時代から流行りだした「タウンミーティング」などの参画手法が、特定の政策方針に向けて大衆の雰囲気を「盛り上げていく」装置として用いられてきた問題です。
とくに、昨今のポピュリズムの風潮に染まった一部の政治家は、お祭りのように雰囲気を盛り上げることが恰も参画の推進であるように誤解しきっています。それは、「打ち上げ花火」にはなっても、参画の促進につながる保障はありません。
参画とは、すべての市民が自分たちのことを協働決定するプロセスですから、地域社会に「討議と人権のデモクラシー」を育む地道な取り組みです。もし、他の地域の取り組みにこのようなポピュリズムに堕した考え方をもつ政治家がいるとすれば、そのような風潮をきっぱりと排除し、振り回されないことが肝心です。
あくまでも私の個人的なイメージですが、参画とは保育所や幼稚園の「芋掘り」の取り組みに似ているとつねづね考えてきました。
幼い子どもたちが、サツマイモ畑に行って、つるをかきわけ土まみれになりながら、サツマイモを傷つけないように掘り出す。そうして掘り出されたサツマイモを焼芋か蒸かし芋にしてみんなで頬張ると、何てことはないただのサツマイモなのに、これが本当に旨い!! 子どもたちはみんな実に美味しそうに食べます。芋を畑で育てるところからの取り組みであれば、なおのこと効果的です。
このようにして食べる芋の味わいは、スーパーに売っている芋とは全く異なります。出来合いの芋を買ってきて個人で消費することと、育てて掘り出すところから協働してみんなで食べる営みとは意味を全く異にするといえるでしょう。前者は私人としての消費行為に過ぎないのに対し、後者はパブリックな世界をつくってみんなで味わいをともにします。
このことは、福祉サービスのあり方と人権を擁護する営みについても同様に言えることではないでしょうか。
この条例の成立によって、さいたま市は、障害のあるなしにかかわらず、差別と虐待をなくし、市民が共に安心して暮らすことのできる地域づくりへの一歩を踏み出すことができるようになったことを確信しています。これからの苦労はあまたあるでしょうが、実りある取り組みを重ねていきたいと心から願っています。
コメント
ブログでは語りつくすことのできない、多くのご苦労があったことでしょうが、素晴らしいの一言です。温泉でゆっくり骨休めをする必要があるでしょうね。しかし、さいたま市の報償費(会議参加費)では、積極的に動けば動くほどポケットマネーからの持ち出しが多くなり、かなりの赤字でもあったことと思います。
行政や議会の皆さんは、こうした粉骨砕身の努力をどのように考えているのでしょうね。本当にご苦労様でした。
市民参画型の条例作りは素晴らしいと感じました。普段では、健常者と障害者が面と向かって話をする機会はほとんどありません。話をしないから、お互いを分かり合えず、だから障害についての誤解や偏見が生まれてしまうのですよね。
先生がおっしゃっていたように、障害を「誰もが生涯の内に一度は経験する状態」だと捉えれば、障害者は制度的に少数派にされることもなく、障害に対する無理解も無くせます。100人委員会では、様々な立場の一般市民が集まって話し合いをするので、相互理解が深まり、市民同士の一体感も生まれます。障害者の方、健常者の方のそれぞれの考えやものの見方を理解し合うことで、心の距離感も縮まり、どちらか一方に負担を強いるような案ではなく、お互いに歩み寄って支えあうような条例を作り上げることが可能になると思います。
さらに、政治への参加意欲も高まるので市民にとっても議会にとっても良いと思いました。100人委員会のような場を設けることは予算などの面で簡単に頻繁に行えるものではありませんが、本来の民主主義を取り戻すきっかけになるので、ぜひ私の住んでいるところでもやって欲しいです。
「共に生きる」「みんなでつくる」という言葉が、このさいたま市の障害者権利に関する条例においてどれほど重要なものなのでしょうか。
ツー・トラック制を知った時は、障害があるなしに関係なく誰でも平等な生活を送るために間接的ではなく直接的に行政に訴えかける必要性を改めて感じました。
また、記事の一部にある条例が言わばお偉いさんだけで作られてもこの条例には無意味であるという事に共感でき、私自身も全住民の価値あるものではなくなってしまうのではないかと考えさせられました。
自分の住んでいる市の条例がどれほどノーマライゼーションについて考え、そして取り入れているのかという事を今まで調べようと思った事がありませんでした。しかし、さいたま市の障害者に対する権利条例を目にしたことによって、自分の市がどれほど障害者の目線に立った制度や普通の生活を送る事ができる環境づくりをしているのかを知ろうとする一つのきっかけとなりました。
ノーライゼーションの考えである「共に生きる」やツー・トラック制の「みんなでつくる」という考え方がさいたま市に限らず、どの地域でも反映されていくことが自分自身必要であると記事を通して感じました。
さいたま市議会に上程された「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関す条例」は今回授業を受けて初めて知りました。
日本では法制度上の「障害」のある人の範囲は欧米や北欧に比べて狭くなっており、そのため日本で「障害」とは珍しくとらえられがちなのでは、と感じました。法制度によって生み出された「障害」についての誤解・無理解・偏見・特別視はなかなか消えにくいですが、「みんなでつくる」参画と協働決定はとてもいいことだと思います。
まず、地域社会のあり方について考え、顔見知りの関係から他者に関心を向け合う関係へと規定したことです。
次に討議とコミュニケーションの文化を考え、科学的心理に基づく理性、社会的規範に関する理性、表現に関する理性に目をむけたところです。これらをつくる営みとしての参画と協働決定がさいたま市であることに驚きました。それと同時にこの考え方は広がっていってほしいと感じました。
みんなが「障害」という言葉に壁を感じることなく、生きていける日本になってほしいと思います。
私の地元の地域では、小学校の行事として地域の方々との様々な取り組みが行われていたので、道ですれ違えばあいさつや軽い談笑をするのは当たり前でしたが、成長するにつれて、そういった地域とのつながりに対して目を背けるようになっていくと思います。現在の日本では地域離れというか、地域での関わりが薄くなっているという問題があると感じていたので、特に首都圏などからこの点を改善していくべきだということについてはとても共感しました。
また、私は保育園から中学校卒業まで、同級生にダウン症のRちゃんという子と一緒に過ごしてきました。物心ついたときからずっと一緒だったので、Rちゃんと一緒にみんなが楽しめるゲーム等を考えるのは私たちにとって当たり前のことでした。これから先、条例などは「誰もがよりよく」という概念のもとつくられていくべきものなので、障害を持たない人たちが「自分には関係ない」と言ってしまったら、「誰もがよりよく」暮らせるものはつくれないということは、前述した経験からとても納得出来ました。大事なことは、障害を持つ人だけにとって不利・有利だということではなく、すべての人が共に暮らしやすく、過ごしやすい社会をつくることだと思います。市民ひとりひとりの意識向上が求められるので、自分のことだけではなく、周りを見渡し、様々な意見を持つことも必要だと考えます。
そして、私たちのような若者が、自分の経験・体験などを生かし、さいたま市のような条例、さいたま市を超えるような条例を作り、日本をよりよく暮らせる国にしていくことがこれから先求められるのだと思います。
6月7日の講義で、国際的には「障害」が「誰もが生涯のうちに一度は経験する状態」と捉えられているという話を聞いて、少し驚きました。それは、自分に「障害」を「自分には関係の薄い何か特別なもの」と考えているところが少なからずあったためだと思います。日本では法制度上の「障害」のある人の範囲が狭いというだけあって、「障害」はごく身近なものであり、自分たちに深くかかわりあっている、という考え方はあまり根づいていないのではないでしょうか。
ツー・トラック制は、このような現状を打開するために必要不可欠な存在であるといえます。ポピュリズムの風潮にとらわれた一部の人間がさっさと計画を進めてしまうのではなく、「共に生きる」地域社会づくりを常に念頭に置いた丹念な政策…これは、障害者問題に限らずすべての問題で必要とされることだと思います。
一朝一夕に解決できる問題ではありませんが、少しでも多くの自治体が「共に生きる」社会の実現を目指し、すべての市民に開かれた参加型の政策が行われるような地域づくりがなされることが望ましいと考えます。
「みんなの」サービスを「みんなでつくる」と聞いた時には、「みんなでってどうやって。無理でしょう。」と正直思いましたが、条例制定検討体制を見たときには衝撃を受けました。100人委員会では、さまざまな立場のファシリテーターがおり、役所の方に書記をしてもらい市民の声を聴く立場に回るというのも「みんなでつくる」という参画と協働決定に沿って考えてあるなと思いました。
私はあまり国会とか詳しくないので制度などがどのようにして作られているかよくわかりませんが、さいたま市のやり方が、本来あるべき姿で、今あるさまざまな条例、制度などは本当に我々のニーズに合っているのか疑問です。さいたま市のやり方は、自分たちの声が直接届くことで、市民の参加意識も高くなります。
何事も無知・無関心が一番怖いです。私も含めて、どのようにつくられているかわからない、知らないという認識は避けるべきです。障害と聞いて、他人事のように聞こえる人も多いでしょうが、私たちは誰でもいつでも障害になりうる可能性はあります。私たちの市でもさいたま市のようにツー・トラック制を用いながら、そこに我々も積極的に参加していくべきであると思いました。
私の小学校では規模が大きいということもあって、特別学級が別の棟に作られていました。低学年のころはばだ本当に「お友達」という考えでよく遊びに行っていましたが、学年が上がるにつれ「友達」として遊んでいた特別学級の子供たちに「恐い」という思いを抱くようになり寄り付かなくなっていました。これは私だけではなく多くの同級生が同じ感情を持っていたと思います。
これは私たちに障害への理解が乏しく、障害を幼かった私たち自身が「人間としての違い」という偏見を持っていたからだと思います。しかし、障害を持つ方が人間として違うのではなく、ただ障害という個性を持っているのだということを感じ始めてから「恐い」は薄れていきました。
日本はまだアメリカなどの他の先進国に比べてまだ障害を「人間としての違い」として捉えてしまう傾向が多いように感じられます。電車やバスなどの中で、助けを必要としている方に対して無視をする人は少なくなったと思いますが、声をかけることに「勇気を使う」と感じる人が多いというのが日本の現状だと思います。声をかけるということに本当に勇気が必要なのか。力を貸すということで体力をほんの少し使うということはあっても勇気を使う必要は本当はないと思います。誰かが不利になる世の中ではなく、全員がフラットな世の中で共生していけるように法制度からの改革は必要不可欠だと感じました。
さいたま市のような制度はその第一歩だと思います。全市町村にすぐにでも広まり、バスに乗るときや電車に乗るときなどに、車椅子の方に自然と声をかけ手を貸してあげる、そのような光景が当たり前にみられる世の中になってほしいです。
そのために、一人一人の意識改革、法制度から誰もが住みやすい環境づくりをしていくことが必要だと思いました。
これから日本はもっと「障害」に目を向けるべきであるし、日本が世界の中でも福祉の面で発達できていないことを自覚しなければならないと思います。
日本は科学的、医療的にも発展した国です。しかし、福祉の面になると偏見、無知識が当たり前のように広がっており、すべての人が住みやすい国とは言えません。先生に教えてもらったように、「障害」を誰もが経験する状態であるという考えがを日本で持っている人は少ないし、知らない人が多いからこそ、日本はいまだに発展しないままなのかもしれません。すべての人が住みやすいと思えるためには、きちんと理解をし、働きかけていくことが大事なのだと、先生の話を聞いて感じました。
そのための第一歩として、今回の「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関す条例」が可決されたことは素晴らしいと思いました。特に「みんなでつくる」という方法が画期的だと思いました。「みんなでつくる」社会がもっと大きな規模で広がれば、日本は本当の意味で住みやすい場所になるのではないか、と思います。
「さいたま市誰もがともに暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」全会一致の可決よかったですね。
この条例や2回路制(ツー・トラック制)のことなどは、先生の講義で初めて知りました。私の住んでいる地域以外の福祉の現状を知ることができとてもいい機会となりました。
福祉に対しての条例、制度などには一番市民のかたの意見がとても大切だと私は考えています。さいたま市の「さいたま市誰もがともに暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」はとてもいいものだと思います。先生のおっしゃっていた通り市民が集まることができても、しっかりとした話し合いをするというのはとても難しいものです。しかし、それができることでいい社会ができるのだと私は思います。
この市民が直接条例作りに参加していく制度を日本の政治にも取り入れてほしいと私は思います。今の日本は間接民主制です。ですが問題がたくさんおこっています。そうなるのならさいたま市のように直接市民、国民が政治を動かすような体制がいいと思います。
今回のさいたま市の福祉の現状の話を聞き色々なことを考えさせられました。
私が育った町では、あまり地域の方との交流をしない学校が多くありました。だから私は今まで地域の交流という言葉を聞いてもピンと来ませんでした。
大学に入ってから、実習を通して小学校などにも通わさせていただきましたが、そこでは地域の方がいろいろな形で交流に関わっていました。一緒に授業を作り上げていくのは、すごく楽しく学びも多いものでした。
政治も授業と同じものなのではないか、と思います。私は今、投票権を持ってはいますが、政治に参加しているんだ!という気持ちは持てません。何をやっているのか全く分からないからです。知ろうとしても、専門用語ばかりで熱心に勉強しなければ分かりません。
さいたま市のように、市民が参加出来て、専門用語についても教えて頂ける場が提供されるような自治体に、私の住んでいる自治体もなってほしいと思いました。そのためには自治体だけではなく、私たち住民も強い関心を持ってもっと自治体に問題点を訴えていかなければならないと思います。そうすることによって、地域住民と自治体は手と手を取り合っていけるのではないかと考えました。
さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関す条例は8年という長い年月を得て、ようやく得ることの出来たものだと感じました。
すべての市民が平等に意見交流の場に参加でき、自分たちのことを協働決定できるということは、全市民の価値あるものを形成することへの足がかりであると深く感じました。
まだまだ条例の実質化には課題があると思いますが、今後も参画を進める動きに注目したいと思いました。
身近な地域でこのような参画を進める動きがあったことが、障害者の立場から見た日常生活の現状について考える良いきっかけとなりました。
「さいたま市誰もがともに暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」を作っていく過程を写真で拝見させていただいて、本当にいろんな方が参加されてこの条例ができたんだ、と感じました。
「みんなの」サービスと自立を考えるために、地域社会が、「顔見知り」の関係から「他者に関心を向け合う」関係に変えていくことが必要なのは、それぞれの地域だけでなく、今の日本全体に言えることだと思いました。
地域の人のことを知って初めて、「みんな」が、「みんなの」ことを考えていくことができるし、「みんなの」ニーズもこたえようと行動していき、そして、この動きを地域から徐々に範囲を広めていって、日本全体でこのような動きができるように「みんなが」もっと意識を持つ必要があると考えます。また、それに対して私自身ももっと、意識を高めていき、それと同時にもっと知識もつけていきたい、と本当に思いました。
この授業をきっかけにもっと地域を知ろう、と思い、地域の活動などにも、いろいろ活動にも参加してみようと思います。
6月7日はお忙しい中、講義して下さり、ありがとうございました。
条例議案の全会一致での可決、おめでとうございます。先生の講義を受けて、この可決は、宗澤先生方の努力の結晶だと感じました。
何より素晴らしいと感じたことは、「さいたま市誰もがともに暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」を作成していかれた過程です。
全ての市民に開かれた参画型の条例づくりは、容易なことではなかったと思います。
しかし、一貫して市民参画を徹底し、追求されている点が、先生の講義やブログから伝わってきました。
100人委員会のグループ編成では、異なる障害を持たれる方同士を一緒にされたと伺いました。この編成方は、画期的で先駆的な取り組みだと思いました。
障害が異なると、接する機会も少ないだろうし、どのような困難を抱え、何に苦しんでいるのか、お互い分らないままだと思います。
けれど、共に話し合いを進めていく中で、様々な人の現状や、想いを知ることができると思います。
既成概念が崩れ、他者理解に繋がる可能性もあると思います。
また、異なる立場にいる人と出会い、お互いに共感し合い、気持ちが通じ合えば、その後も交流が続くかもしれません。
先生方は、100人委員会において、すべての市民が自分達のことを協働決定するプロセスである「参画」を果たされました。
このような取り組みが、「ツー・トラック制」の示す、本来の民主主義を取り戻すことに繋がるのだと感じました。
誰もが、障害を負う可能性を持っています。病気にならない人はいません。
障害の有無に関わらず、誰もが安心して暮らせる街を皆、望んでいると思います。そのような街は、障害を持つ人と、持たない人が、共に暮らす中から生まれてくることを、先生の講義から学びました。
共に暮らすことで、互いの立場を尊重することができるようになる、と思います。
6月7日の講義で、先生から学ばせていただいた、一番大きなことは、
「自立」は、共に生きることを保障された上にある
ということです。本当に、先生の言われる通りだと思います。貴重なお話をお伺いすることができて、よかったです。ありがとうございました。
すべての市民が地域社会づくりに参画できることはとても素晴らしいことだと思いました。障害者も条例づくりに参加できるということはより幅広い視点から物事見るきっかけとなると思います。たくさんの工夫が必要であり、困難が伴うことではありますが、得られる成果も大きいことであると感じました。この記事を読んで「共に生きる」ということがどういうことなのかを考えさせられました。
私の義理の弟は筋ジストロフィーという病気で、重度の障害者です。自ら寝返りもうてず、喉に管を通しているため声も出せません。初めて会ったとき、正直どう接していいのか分かりませんでした。私がおどおどしていると、彼は西田敏行の顔真似をして和ませてくれました。
全身の筋肉が動かなくなる病気であるにもかかわらず、彼は表情豊かで社交的、何事にも意欲満々で、小説を書いたり恋をしたり忙しそうです。この前は、切ない恋の詩をつくり、それを読んだ有名な作曲家の先生にメロディをつけてもらい演歌歌手の方に歌ってもらったりと、なんだか彼のまわりはすごいことになってます。前向きでいつも何かに挑戦していて、とても大きな存在です。彼と出会い、障害者に対する見方が変わってきたように思います。そして、今まで自分は障害者に対し理解があるほうだと思っていましたが、まったくそうではないことに気付きました。
今回の授業を受けて、今までの経験から感じたことは、「ともに暮らす」ということの難しさです。言葉は適切かどうかわかりませんが、私たちは障害者慣れしていない、深く知る機会を奪われたまま大人になってしまったと感じています。大人になってから親友をつくるのが難しいように、心の底から障害者と向き合うのもむずかしいのではないでしょうか。
純粋に向き合える子供期に養護クラスは別棟や別の階で視界から消え、重度の子供は別の養護学校へ。年数回交流の機会があったところでどれだけ知ることができるでしょうか。いくら道徳の時間に障害者の話をしても接する機会がなければ無意味だと思います。
社会的スキルを養う練習の場である学校に障害者はいなかったのですから大人が自然と障害者をともに暮らす存在として受け入れるのは難しいのではないでしょうか。おそらくほとんどの人が障害者と対面したとき、私のようにどうしたらよいか分からなくなってしまうと思います。知らないから怖い、怖いから排除。頭ではわかっているつもりでも知らず知らず避けていることもあると思います。もしかしたら、福祉の専門家でも知らず知らずの偏見や差別もあるかもしれない。そういった意味でも、100人委員会はとてもすばらしい試みだと思いました。当事者が作ったものなら間違いない。
それに、障害者がバンバン社会に出て発言することにより、今まで障害者と接していなかった人たちにも彼らをともに暮らす存在として少しずつでも認識させていけるのではないかと思うからです。
ただ、義弟のように会場にいけない障害者の意見も聞いていただけるともっとよかったと思います。
条例を拝見し、25条の「障害の特性を理解」という言葉に重みを感じた。市や事業者に対しての障害への理解を求めたものであるが、日常で実現するのは難しいと感じた話がある。
病気の影響で歩行に障害を持つ親と一緒に、市の施設へ出かけた時の事、身障者用の駐車場がチェーンで囲まれ利用できなかった。一般の利用を控えて貰う為の配慮だと理解し、使用許可を施設の職員に申し出た所、「車椅子を持参した人以外は使えない」と断られた。もう一度尋ねると、「皆さん理解されてますから」との返事であった。
その言葉から推測すると、その駐車場は重度の障害を持つ人でないと使用できず、軽度の障害であればそこから600m程離れた一般の駐車場で我慢してという事である。そして、それを障害を持つ皆が受け入れている。その障害の度合いを測るツールが「車椅子」なのだ。
だが、持参の有無にかかわらず、施設の車椅子を借りる予定であれば、施設内を車椅子で回る事には変わらない。病気の進行を遅らせる為、あえて車椅子を常時使っていない場合や、駐車場に車を停めに行く間、その場所に一人で残す事でパニックを起こす場合もある。
当事者でなければ、外見でしか障害を判断出来ず、本当の「障害の特性を理解」できない事にジレンマを感じる。
別の話であるが、ある店で借りていた車椅子を返却しようとした時の事、隣車の女性が自分のカートと一緒に返してくれると言う。彼女の「私も親を看てましたから気持はよく分ります」という言葉がとても温かく、当事者の目を持ち相手を理解することの重要性を感じた。
このような当事者の声を大事にする、さいたま市の市民参加の条例づくりは、障害を理解する上でとても重要であったと思う。「ひとにやさしいまちづくり」を掲げるわが市も、こうあって欲しいと願うと同時に、私も障害の特性を理解できる人間になりたいと感じた。
お忙しい中、ご講義いただきありがとうございました。体力限界のなか日々条例づくりに明け暮れた努力の賜物として「原案どおり全会一致で可決」され心よりお喜び申し上げます。
障害を狭く限定し偏見・特別視・誤解・無理解が制度的に生み出され、障害のある特定の一部の人達が使うサービス・税金というイメージができます。WHO(生活機能分類)では障害は個人と環境との相互作用によって生じる生活上の活動制限や参加制約のこと。つまり個人の属性ではない。地域で日々の生活上の問題、社会的問題を解決・改善するために「障害のある無しにかかわらず地域社会の中で誰もが安心して豊かに共に暮らす」ことが出来る取り組みが、さいたま市では成功しています。それは、すべての国民に開かれた参画型の条例づくりが進められた事にあります。本講義を受けて人々が目標に向かって力をあわせ、努力することで大きな力となり今まで出来なかった取り組みも可能になることを学ぶことが出来ました。ツー・トラック制、他者に関心を向け合う関係、討議とコミュニケーションの文化を考えるさいたま市の取り組みを全国に広げていく必要があると考えます。共に生きる地域が広がることで、人々が社会に対する信頼、希望、喜びをもって幸福に生きられます。興味深い講義を受講でき「共生社会の実現と共に、自立が達成される」ことを学び幸せに思います。ありがとうございました。
ブログを読んで、さいたま市議会が「誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」をすべての市民に開かれた参画型の条例づくりによって原案どおりに可決されたことは、条例を参画した障害のある人や、さいたま市に住んでいる人にとって非常に良いことだと思いました。住民が参画して作られた条例なので、障害のある人自身が希望する内容が多く議論され、条例に取り組まれたと思います。また、さいたま市に住む人々にとって、障害者の権利を考える良い機会になったと思いました。これからも、このような参画型による条例づくりが盛んになればよいと思いました。
市民を交えて条例を作っていく100人委員会は市民の意見が反映しやすい一方で、条例を作る側は今市民が何を求めているかが分かり、両者にとってメリットのあるものだと思いました。
私達は議員と市民の考えが必ずしもいつも同じとは限らないのにもかかわらず、自分たちの住む市の議員を選挙で選任したら後のことは議員にすべて任せ、議員が何か不祥事を起こしてしまったら批判するだけになりがちのような気がします。
また学校教育で国の政治運用については政治・経済や公民分野で詳しく学習しますが、自分の地域に関して政治がどのように行われているのかよく知らないようにも感じます。
市民参画で条例を作ることにより、市民が自分の住んでいる市政について興味関心を抱く一つの契機になると思います。
確かに100人で議論を重ねて条例を作り上げるには、時間もかかり経済的負担も大きくなりますが、専門家による専門的知見に加え市民の声を取り入れて作られた条例は何事にもかえがたいものになると思います。
さいたま市のように市民参画型の市政に前向きな取り組みを行う市が増えて欲しいです。
「すべての市民に開かれた参画を徹底して追求」することは、とても大変で根気のいることだと感じました。
私は、「障害は個性」という言葉には何かを隠すものがあると感じていました。個性とは特有の性質の事をさします。それは、なんだか違うなと感じていたのですが、なぜだがわかりませんでした。しかし、先生が「日本では障害とは、医学的になおらない固定した状態。障害は個人の属性と考える。固定し、一部に限定する為、マイナーなことと一般市民にとらわれがち」といわれたことで、自分の違和感に確証を得ました。
日本的な考えならば障害とは、特別なことであり自分には関係ないことで、それならば無関心になってしまいがちです。
授業で、コミュニケーションの理性で一番難しいものとして、「表現に関する理性」を上げられ、「表現に関する理性」とは、ネガティブな感情を説明すること。自分のイラついている感情を冷静に相手に説明をする理性をもつことは難しいといわれました。困難な状況の中で、人はパニックに陥りやすく、冷静な判断が出来ず、相手に何かを伝える事自体が困難です。私自身、周りに「困っている」とうまく伝えることが出来ない性分なので、困難な状況にいる中で、周りに「困っている」とうまく伝えられるか、伝えられないかで、その後の状況が大きく違うにも関わらず、伝えられないデメリットの大きさは痛感しています。
よく言われる「やさしさ」などではなく、「わかりあえる、伝えあえる、いつくしみあえることは能力の一つである」と考えコミュニケーションの文化を市民に浸透できるかが、参画と協働決定の鍵になると感じました。
まずこの条例が「原案どおり」「全会一致で可決」したことに驚きました。その背景には、原案が誰もが納得いくものであったこと、とても質の高いものであったためだと推測します。それに加えて、さいたま市が以前より市民参画を進めてきたこともあったと思われます。
「すべての市民に開かれた参画を進める」というのは言葉で言うほど簡単なものではないと思います。まず市民に関心をもってもらうということから始めないといけませんし、そして実際に参加し、議論したうえで一つの形にしていかないといけません。市民がいかに自分のこととして関心をもち、積極的に関わっていくかというのはとても難しいことだと思います。今回の過程は、明確な目的と方向性及び透明性があったからこそ、市民の積極的な参画が実現したのですし、だからこそ「全会一致で可決」という結果に結びついたと言えるのではないでしょうか。
今日の社会では、政治や地域社会に関心が低くなっているように思われます。民主主義社会でありながら、代議制をとっているために、自分のこととして捉えにくいためではないでしょうか。少なくとも自分が住んでいる地域の仕組みや活動に関して、直接参加は難しくても、常に関心をもっていかなければならないと今回、感じました。
お忙しい中、講義をしていただきありがとうございました。
「さいたま市誰もがともに暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」全会一致で可決は宗澤先生方の苦労や努力の賜物だと講義やブログを通して、ひしひしと伝わってきました。
今回の講義で私が印象深かったのは、「みんなでつくる」や「共に生きる」といった協同で行うことの重要性であります。すべての市民が参加でき、協働決定できることは素晴らしいことだと思いました。このことに関して重要な点である2回路制(ツー・トラック制)はこの講義で初めて知り、良い仕組みだと思うとともに、国もこの制度を取り入れれば良いのではないかと思いました。このこといち早く取り入れ、地域社会の間柄や討議とコミュニケーションの文化をつくる営みとしての参画と協働決定を行ったさいたま市の取り組みを他の地域も吸収して、みんなが暮らしやすいより良い地域にしていきたい。
この講義を受講させていただいて、より興味を持つことができ、また知識もまだ乏しいので、学ぶ楽しさを感じることができました。他の地域のことを知る良いきっかけになりました。
障害児を産み、育て、社会で暮らしていくことは、今の日本の現状では過酷な道だと思います。成人した障害者に対する国や地域の対応も、不十分だと感じます。このような考えが、少子化に繋がるとも考えられます。実際に上記のようなことが原因で、子供を作らないという話を聞いたことがあるからです。
ですが日本も私が幼い頃に比べると、少しずつ良い方向に変化していると思います。友人の子供の学年に自閉症児がいます。その小学校では入学直後から、自閉症についての勉強やその子の性格やこだわりについて皆で勉強したそうです。今でも定期的に実施されており、子供たちも障害を理解することにより、仲良く一緒に遊ぶことができるようになったそうです。
私が小学校の頃にも、他のクラスに知的障害の男の子がいました。その子はからかわれていました。私は何もできず、男の子についてあまり理解できない部分もありました。今思えば、「当時に男の子の障害について勉強していたら、何か変わっていたのかもしれない」と考えさせられます。
今回の「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関す条例」は、すべての人々が「ともに生きる」ための、大きな一歩だと感じました。少子化問題・障害者問題・高齢者虐待問題など、様々な問題へのプラスのアプローチにもなると思います。そして良い方向に社会を変えていくこの条例を、今後は他の地域にも広げてほしいと思いました。
6月7日の講義を拝聴いたしました。「誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関する条例」が全会一致で可決されたことは、本当にすごいことだと思いました。
日本はまだ障害者を本当の意味で支援するための法律を作れていません。本来なら、民間団体が主体になって住民参加を促し、地域の生活課題に取り組んでいかなければならないのに、非営利団体に法人格を持たせるNPO法も、地域密着とは程遠い、市民から隔離されたホームを作り上げることを促してしまうことになりました。このような障害者の孤立が進んでしまえば、地域住民はさらに共助の可能性を忘れていってしまいそうで怖いです。
私も今まで、「ともに暮らす」ということをあえて考えたことはありませんでした。しかし今回の講義を聞いて、「ともに暮らす」ことの大切さと、そこから自立が生まれるということを知りました。
先生の講義を受けたものです。
この記事の内容である条例が全会一致で可決したことについて、さいたま市にとっても日本にとっても大きな一歩だったと思います。北欧等、他の先進国に比べたら福祉の面において、遅れている日本でこのような条例が可決したことでこれからもっと福祉関連の環境が変わっていえばと思います。そしてこの記事や講義で出できた、「100人委員会」という委員会の存在が今回の条例の可決に大きく活躍したのではないかと思います。
この委員会で多くの市民が委員会に参画したとの事でした。やはり、このような大事な条例を作る際には議員の人たちだけで作るのではなく、実際に市民を参画させ、市民の意見や要望をきいて、市民の意向が反映された物を作ることが大切なのだと思います。
この条例の核であるノーマライゼーション、つまり共生できる地域であるためにも、この委員会はとても画期的なものであると思います。今無縁社会といわれるほど地域の人と人の関わりが薄くなった今、このような条例を通じて関わり合っていく地域や社会を作っていく必要があるのではないでしょうか。
「みんなの」サービスと自立をみんなで考え、「みんなでつくる」という考え方は、今後の福祉の発展にとても重要な考え方だと感じました。
先生の講義で、日本は法制度上、国際的に見て障害の捉え方の範囲が狭いと知りました。今の私たちの感覚では、障害は一部の人が持っていて自分も将来障害を持つかもしれない、つまり障害のある人のためのサービスを利用するかもしれないと考えにくいのだと思います。どんなことを障害のある人が望んでいるか、本人や深くかかわっている人以外はリアルにはわかっていない人が多いのだと思います。
学校の講義で、障害のある人が「私たちがいないところで私たちのことを決めないでください」と訴えていると聞きました。これも「共に生きる」、「みんなでつくる」ということを実現するために必要なことだと思います。
障害ととらえる範囲を広くするのも大事ですが、まずはさいたま市のようにみんなでみんなのサービスと自立を考えることができるようになれば、障害に対するより深い理解も得られるのではないでしょうか。
ポピュリズム型の政治家もいるようですが、「みんなのこと」を「みんなでつくる」ようになれば、そのような政治家も障害のある人についての取り組みを充実させようとするのではないかと思います。
条例の原案通りの可決、改めておめでとうございます。
「すべての市民に開かれた参画を進める。というと耳ざわりのいい響きですが、これほど困難の多い課題はありません。」という先生のご意見に非常に共感させられました。私の市は今では環境モデル都市に認定されていますが、その原点は深刻な公害問題の克服であり、その発信はある婦人会の「青空がほしい」運動にあったようです。
地元の婦人会は、大学の先生を講師として招いて勉強会を重ね、企業とも交渉を行い工場が出す有害物質の量を調査、それらの結果をもとに、市長、市議会、企業に対して、公害対策を働き掛けられ、北九州市は公害防止条例を制定し環境規制を強化すると共に、汚染物質の排出削減や上下水処理の整備などに取り組まれたようです。これにも多大な資金が投入されたようですが、そのおかげで今私は環境問題に苦しまず暮らしやすさを感じています。
今回のさいたま市の市民直接参画による条例作りの姿と重なる部分があるような気がしました。住民が自ら使命感をもち何かをたちあげる。とても響きはいいですが、実働にかかるマンパワーも多大と思われますし、準備や企画あるいは交渉など表面化されにくい部分での先生の尽力は計り知れませんが、きっとその条例で恩恵を受ける方々は多く、後世において感謝されるものと思います。
先日はお忙しい中での素敵な講義のおかげで大切なことに気づけ、感謝申し上げます。
さいたま市の条例の可決、本当に喜ばしいことです。おめでとうございます。
健常者も身障者も、老若男女問わず、すべての市民が参画できる条例づくりというのは、難しいの一言で表現できるものなのではないのではないでしょう。すべての人が参加することができるための会場づくり、資料づくりなど、まず会議の土台を作ることが、非常に困難なものであることがうかがえます。
そして、いざ話をしよう、となると、宗澤先生のおっしゃる「百人委員会」というのは、驚くべき手法であると私は思います。
私も自治会に所属していて、週に2回、会議を開かなければならないのですが、「十人十色」の言葉があるように、人が増えれば増えるほど、考えはまとまりづらく、最悪の場合、決裂してしまうことさえあります。そのような状況の中で、宗澤先生はもっと難しい条件の中で、会議を進め、可決まで持ち込んだ先生のこれまでの努力には感服いたします。
これからも、お体に気をつけて、頑張ってください。
「さいたま市誰もが共に暮らすための障害者の権利の擁護等に関す条例」のような障害のある人ための条例や障害者のための活動はもっと必要だとおもう。
建物や施設だけ見ても障害者にとって住みやすいとは思えない。駅にエレベーターがなかったり、スーパーやその他の店も車いすの方が買い物できるようにはなっていない。
また目に見えないものとして、わたしたちの障害者への理解のなさも障害になっているように思う。
私たちは障害者を避けたりするのではなく、共に生きていく存在として、何不自由なく私たちと生活できるような社会を創り上げることが必要だと思う。
ご講演いただきありがとうございました。
私自身、今障害について勉強している途中で、その中で障害者が生活していくことはとても厳しい場面があるということ学びました。幼年期から学齢期までは、通園施設や学校などのサポートをしっかり受けることができますが、青年期を迎えその後のサポート環境がとても厳しいということは問題点ではないかと思っていました。
さらに、障害者に対しての“差別”や区別“はまだまだ多く、理解も進んでいないと感じることも多くありました。そんな中で先生の講義を受け、「合理的配慮の欠如に対する差別」というものも改めて考えされられました。
さいたま市の可決された条例の中の特に「施設に関する迫りか方」はすべての地域にとって必要なことであると思います。たくさんの人が子どもを産み、安心して子育てをし、安心して暮らしていけるそのような制度作りはもっと日本中に広まっていくべきだと思いました。
貴重なお話ありがとうございました。
この条例は可決されるまでにたくさんの人の優しさや思いやりに触れてきたのだと感じました。この条例が一部の人たちだけでなく、多くの人たちに知られて「だれもが共に暮らす」社会が当たり前の世の中になっていくべきだと思いました。
また、この条例の可決にあたってはすべての市民に開かれた参画が行われていたと書いてあって、その分市民のみなさんが興味を持ってこれから大事にされていくと思いました。
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