風景を愛でる
風景を愛でることは、障害のあるなしにかかわらず、心和むひとときです。眼科通院の帰途、検査のための瞳孔を開く薬効が切れるまでの間、読書をすることもできず、新宿御苑に立ち寄りました。
新宿御苑のユリノキ
ある光景を前にして心惹かれる何かがあるとき、私たちはそれを記録にとどめたいと望み、写真や録音による記録と表現を一つの文化として育んできたのです。録音機能のつく動画さえ今や簡単にできますが、写真(静止画像)や録音というそれぞれの単体でこそ表現できることや感じ取れるものがあるでしょう。
ロウバイ-新宿御苑
今年で創立100周年を迎える鳥取県立鳥取聾学校には、さまざまなフォトコンテストで多くの入選者を輩出している写真部の活動があります。実際、私がよく目を通すカメラ・写真雑誌のコンテストでも、しょっちゅう入選しています。
1981年の写真部創設以来、指導をされていた高田啓一先生は、「聴覚障害者が持っている何かが映像面で力を発揮するんじゃないでしょうか。われわれは目と耳で判断するけど、彼らは目を頼りにした生活をしている。そのぶん視覚が鋭いと思うんです」と語っています(雑誌『アサヒカメラ』2008年1月号、295頁、朝日新聞社)。
現在、同校のホームページのトップ(http://www.torikyo.ed.jp/toriro-s/)に、二科展で「アサヒカメラ賞」を受賞した高等部3年須崎陽子さんの作品「桜の木の下で」が掲載されていますので、みなさんぜひご覧ください。モノクロの作品でありながら、満開の桜の木の下でこれからへの期待と抱負を胸に秘める学生の姿が映し出された作品です。構図といい、テーマにふさわしい切り取り方といい素晴らしい写真に仕上がっています。
写真撮影の基本に「写真は引き算」という言葉があります。目の前に広がっている光景をあれもこれも入れようとすると、テーマのない漠然とした画になることを戒めた基本です。そこで、撮影意図にふさわしい切り取り方、テーマの中心となる被写体の位置づけを踏まえた構図等を考えて撮ることが大切だといわれています。
鳥取県立鳥取聾学校では、この基本を学ぶために鳥取砂丘を舞台にポートレートや「演出写真」を撮る活動に取り組んできたそうです。余計なものを構図の中に収めない省略化によって、視覚上のテーマを先鋭化する営みなのでしょう。
また、砂丘を訪れる観光客をスナップするための指導には、健聴者の多い観光客に積極的に声をかけて係わらなければならない点が重視されています。ポートレートの撮影に相手の同意が必要だという一般的な注意だけでなく、聴覚に障害のある生徒たちの生きる力を高める取り組みにもつながっている筈です。
聴覚に障害のある分「視覚が鋭い」という点に加え、このような指導と研鑽を積み重ねるからこそ、生徒たちは秀でた撮影者に育っていくのです。
音だけで風景を表現する世界もあります。それは、今年度で放送25周年を迎えたNHKラジオの「音の風景」(http://www.nhk.or.jp/otono-fukei/index.html)で、視覚に障害のある方の人気番組の一つです。毎日、昼間の午前・午後、夜間・深夜の概ね3~4回の放送をしており、私も好んで聴く番組となっています。
人や動物の声と息遣い、体の動き、林を通り抜ける風、海岸に打ち寄せる波… これらの音がテーマごとに見事に録音され、時折入るナレーションとともに「音の風景」が広がります
たとえば、この間放送された番組の中に若狭湾の「水中綱引き」がありました。それは、3時間ほどかけて綱引きに使う綱を編むところから、海中に入った綱引きまでを録音したものでした。私はこの実際の光景を見たことはありませんが、大勢の男衆が水音ともに掛け声をかわす音を耳にするだけで、体から湧き上がるような湯気や寒風吹きぬける日本海の光景を目の当たりにするような「風景」が瞼に浮かんでくるのです。
視覚に障害があると「風景を愛でる」ことはできないと決めつける無理解は、この番組を聞くだけでも払拭されるでしょう。
このように、鳥取県立聾学校写真部の活動や「音の風景」の番組は、遠感覚(視覚・聴覚)の一部に障害はあれども、生きている遠感覚の活用に工夫と力を尽くすことによって、ものごとの捉え方・表現、ひいては生きる力のあり方にまで、無限の可能性と多様性が拓かれることを指し示しています。
特別のニーズにふさわしい教育と生活の手立てを尽くす努力を貫いて、それぞれの人の多様な歩みにふさわしい世界を万人が共有し愛でるようになるまでを創る営みが、支援者本来の仕事なのでしょう。
コメント
鳥取聾学校の須崎さんの写真、拝見しました。
モノクロなのに、矛盾しているかもしれませんが鮮やかだなと感じました。
また「生きる」力をつけさせるための砂丘での授業、とても興味を持ちました。こういう授業は、聾学校だけでなく普通学級でも行っていくべきではないでしょうか。
障害に対する支援のニーズにふさわしいものを支援者・教育者が把握することはもちろん、それは、普通学級にも言える事ではないでしょうか。生徒一人一人のニーズを教師が把握し、生徒と教師、家庭と学校とが意思疎通できるのが理想。しかし、一教室に三十人も四十人もいる現状では難しい。
話が逸れてしまいましたが「音の風景」は聞いたことが無いので、機会があれば聞いてみようと思いました。
最近では身体機能に障害のある人々を取り上げるメディアなども増え、私たちも障害を持つ方たちへの理解を広げてきていると思います。
しかし本当の意味で理解しているのかというとそうでもないのかもしれません。
なので先生も紹介しているような番組を聞いてみたり、鳥取県立鳥取聾学校の活動のような障害を持つ方たちの活動に触れてみたり、私たちから積極的に理解しようとする姿勢が大切で、必要なのかもしれないと思います。
人間は、何かを失った場合、他の能力が秀でることがあることを授業で勉強しました。
聾学校の方たちもそんな視界から入る情報に対して優れた能力を授かったのだと思います。
「音の風景」は私も時々ラジオで聞いておりますが、毎度よくこれだけの音源を用意できるものだなぁと感動させられます。
そのほか音楽番組でもある程度演奏経験のある楽器は音だけで楽器の動きが伝わってきます。視覚に限らず五感の持つポテンシャルにはそれぞれ奥深いものがあるのだと感じさせられました。
「桜の木の下で」すばらしいと思いました。モノクロだからこそ、期待を抱く学生の姿がより強調されているのだと思います。もしカラーの写真だったら、桜の鮮やかさにそのような学生の姿は埋もれてしまっていたと思います。
たまには自然の風景を撮ってみたり、目を閉じて耳だけで風景を楽しんでみるのもいいかもしれませんね。風景を愛でることはだれにでもできることですからね。
私も時々NHKラジオの「音の風景」を聴いています。
事前の音を聴くだけで,自分の周りの風景が消えて自然の中にぽつんと取り残されたような気分になります。
私もたまには目を閉じて周りの音に集中をむけ,自然を感じるということも必要だなと思いました。
似たような話で、「視覚障害者の聴覚が常人より優れている」というものを聞いたことが有ります。わたし自身過去に盲学校にボランティアに行ったことがあり、確かに視覚障害者の方の聴感覚は信じられないものでした。
ヒトは五感を用いて周囲の情報を得ますが、その内のどれか一つが欠けても、それをある程度まで補える能力が備わっている気がします。
「美しい」「風景」といった、ある種漠然としたものである「写真」にもその能力が活かされているのだとしたら、これは興味深い事だと思います。
ヒトが生きていくために「美的感覚」を必要としているとも考えられるのではないでしょうか。
私も高校時代は写真部だったので、一眼レフを持って風景や人を撮りに出かけてました。今は生憎カメラを持っていないのですが、それでも普段の生活の中で心に留まった物は携帯のカメラで撮ったりしちゃいます。
目が見えない人、耳が聞こえない人にもそれぞれの風景の感じ方があるのですね。確かに散歩をしに外に出たりして、ふと“冬の匂い”を感じたりすると、そわそわするような切ないような不思議な気持ちになります。目だけ、耳だけといったひとつの感覚に頼るのではなく、全身で風景や季節を感じるってとても素敵だと思います。
須崎陽子さんの作品拝見しました。
本当に鮮やかなものは単に今、目で見てるものではなく、想像や思い出など思いを巡らせるときに感じるものなのではないかと感じました。
わたしも自然を見たり、写真を撮ったりするのが好きです。でも、自然の写真て、写真であの美しさとか、感動をつたえるのは案外難しいものですよね。
音で自然を感じるというのは素敵だと思いました。
「桜の木の下で」を拝見しましたが、モノクロだからこその深みと味わいを感じました。
写真にはあまり詳しくありませんが、純粋に素晴らしい写真だなぁと暫く見入ってしまいました。
聴覚に障害があるからこそ視覚が研ぎ澄まされ、視覚に障害があるからこそ聴覚が研ぎ澄まされる。
これは割と色々なところで取り上げられている事ですが、今回この写真を拝見して改めて実感しました。
この様な活動をもっと人々が知れば、障害を持つ方々に対する偏見が薄れ、さらに一般にはあまり知られていない彼らの能力について理解が深まっていくのではないかと思います。
新宿御苑の趣のある雰囲気が好きです。
落ち着いたクラシックとか流れてそうです。
わたしはファーストフード店でアルバイトをしています。この前、盲目のお客様が来られました。
お会計を告げると、お札と小銭をちゃんと財布から出していて、内心すごいなぁと思いました。
おつりを渡すときは、その方の手に触れてからお返ししました。
待っていただくとき、うちの店はカウンターが狭いので、他のお客様がそのお客様にぶつかってしまうということがありました。
私はそのお客様をあまり動かすのはよくないのかなと考え、その場所にいていただこうと思ったのですが、それは失敗だったのかなとも思いました。あともう一つ後悔しているのは、出口まで案内できなかったことです。
そのお客様はうちの店の常連のようなので、今度は自ら案内したいと思います。
先生の授業を聞いた後の出来事だったので、考えることも多かったです。ありがとうございます。
無意識のうちに視覚や聴覚などあって当たり前と、かん考えてしまっている自分にきづきました。NHKのラジオも目が不自由な方にとって、自然を感じとる素晴らしい機会がであるはずでしょう。ラジオに関わらず、このような特別なニーズに対する支援や生活の手立てが増えることを望みます。
都心の中でも自然を感じられるところがあるというのは非常に素晴らしいことだと思います。
私たちは自然をしっかりと目で見て、耳で感じて生きていくべきべきですね。
自然の風景というのは人間の心を癒してくれ、自らが正直に慣れるものであると思います。
聴覚障害の人は健常者よりも五感の中で目を中心として生活しており目で感じる感覚は素晴らしいものがあると思います。
そのように目の前にあるものを当たり前とは思わず様々な目線で見る事によって新たな発見があるのではないのだと思います。
冬の空気は澄んでいて、とてもいいものだと思います。
たとえ目や耳などに障害があったとしても、何かしらで季節の移り変わりが感じられると思います。だから、この自然が長く保てるように1人1人が自然保護について考えるべきだと思いました。
私は鳥取県の出身で、鳥取聾学校は実家から車で20分くらいの所にあります。また、写真が趣味でもあり身近に感じたのでコメントしました。鳥取聾学校の写真部がどれだけ優れているのかはコンテストを見たわけではないのでわかりません。確かに、聴覚障害者は視覚の感覚が優れているのかもしれません。しかし、私は写真には音も必要だと考えています。記載されている花の写真は、その周りを飛んでいる虫の音などが想像できるからこそ、よい写真だと感じるのだと思います。
風景を見て、穏やかな気持ちになれるのは、感情をもった、ヒトだけではないかと思います。
私も、天気のいい空や、雲の合間に見える月などを足を止めて眺めたりすることがよくあります。風景を眺めているだけなのに、そのとき整理しきれていなかった気持ちや、悩んでいることなどがすっと浄化されていくような気分になります。
「桜の木の下で」拝見しました。これからの未来にちょっぴり不安もあるけれど、期待でいっぱいの女の子が写し出されていました。きっとその写真を撮った須崎陽子さんには、その女の子の気持ちや、桜の木、まわりの空気などの会話も聞こえていたのではないかなと思います。
目が見えること、耳が聞こえること、当たり前のように感じていました。聴覚に障害があり、視覚が補ったり、視覚に障害があり、聴覚が補っている彼らの感情は、私たちよりも何倍も、何十倍も豊かで、私たちには聞こえない、見えない世界が広がっているんだろうなと実感しました。その世界を見てみたい、そう思いました。
「桜の木の下で」拝見しました。
モノクロ写真ならではの味わいが出ていて、桜の鮮やかな桃色を想像させられるような作品でした。
この写真を見たときに、聴覚に障害のある人と私とでは、写真に対する捉え方ににどのような違いがあるのだろう、とふと思いました。
視覚に鋭い難聴者の方だからこそ見える、健聴者の私には感じることのできない何かが、そこにはあるのではないかと思いました。と同時に、その景色が見えることに羨ましさも感じました。
以前テレビで放送していた「笑っていいかも」という番組内で、障害者と健常者に対するアンケート結果を比較したものを見たことがあります。障害者は大変だ、健常者に比べ損をしている、という質問に対しNoと答えた障害者が驚くほど少なかったのが印象的でした。
世間が思ってる以上に障害者の方は私たちと変わらない、それどころか私が羨ましいと思ったように、優っているところもあるのだな、と先生の授業やテレビなどを通じて学びました。
「音の風景」は私もラジオで聞くことがあります。
あのような音をよく毎回用意できるなと感心してしまいます。そしてたまにはラジオではなく本物の自然の風景を自分で探しに行きたいなとも思います。
ぜひ春休みにはそのうな所を自分で探す時間をもうけたいものです。
人間の視覚・聴覚というのはすごい可能性をもった素晴らしいものだと思います。
「桜の木の下で」拝見しました。やはり良い作品ですね。写真に素人の私がみてもすごくいい写真だなとおもいました。こちらのブログを拝見した後に見たので、撮影者の技術はもちろん、指導者の積み重ねられた努力も私には写って見えました。洗練された視覚だからこそ見えるものがあり撮れるものがあるのではと思います。
また、鳥取聾学校のホームページを拝見しました。100周年とはとても歴史のある学校なんですね。自己評価表にも目を通しましたがしっかり現状と課題が開示されてました。教育の専門性の不足や情報交流の低下が挙げられてましたが100周年を機に改善されることを期待します。
私も「桜の木の下」でを拝見させていただきました。私自身はあまり写真に興味はありませんが、良いものを追い求める姿勢には心を惹かれました。私は障害のあることはハンデにしかならないと思っていましたが、逆にそれが長所となるのには驚きました。
私はこれを見て価値観がかわりました。
「桜の木の下で」とてもいい作品でした。
聴覚障害を持った方は生活していく上で健常者より情報を得る手段が一つ減った中で特に視覚によって自然を感じ取った作品だったと思いました。
人間はなにか一つの能力を失ったときになにか他の能力が秀でると聞いたことがあったのですが、それを実感できるような作品だったと思います。
確かに、聴覚や視覚に障害があるからといって、人より感じるものが少ないということはないと感じました。むしろ、聴覚や視覚に囚われないからこそ感じるもの、見え方があるのではと思います。
「桜の木の下で」はそういうものがあるからなのか、不思議な印象を受けた惹きつけられる写真でした。
きれいな写真ですね。
癒されました。
写真から色を取り除くことによって、世界観が広がりますね。「桜の木の下で」を拝見したことによってそう思いました。障害を持つこともある種、同じようなことだと思います。
視覚のない世界だからこそ見える景色、膨らむ光景、聴覚のない世界だから聞こえる音、など目や耳といった器官は機能しなくとも見聞きはできるし、そこに世界を膨らませることもできるのだと思います。やはり、障害を持つ者が健常者よりも劣っている、不自由であるとは一口には言えないと思いました。
私も自然の風景を観察したり、その写真を見るのが好きです。自然を観察していると、ふと時間の素晴らしさと儚さを感じてしまいます。
私は自然は五感すべてで感じることによって理解できるものだと思っていました。しかし、今回の記事を読んである感覚がそがれても自然を感じることができるということがわかりました。
最近は昔より身体障害者の方達を取りあげるようなテレビや新聞記事などが増えているような気がします。
その中で身体障害者の方達に関心を示す人や理解を深めようとしている人もいると思います。
しかしその一方で身体障害者の方達を見下しそのような方達に高圧的な態度を取る人がいることも事実です。この間そのような状況を大宮駅の改札前で見かけ、非常にいたたまれない気持ちになりました。
そこで私は世の中のもっと大勢の人が身体障害者の方達に関心を寄せ理解を示すことが必要であると感じたのです。
少しずつでもいいのでこれからの世の中が身体障害者の方達にとって生きやすい世の中になることを私は願っています。
変わりゆく周りの風景に、ちょっと心休めて、眺めてみることはとてもいいことだと思います。私は今日外の空気が暖くなっているのを感じて、冬もだんだん終りに近づいているんだなぁっと思い、早くも春の訪れを感じてしまいました。
また、埼玉大学で花が咲いている木に鳥が何羽かとまっているのを見て、心がぽかぽかと暖かい気持ちになりました。障害者の方たちは、気温の変化や、気候の変化に対応しきれないことがあるかもしれないが、きれいな景色を見ることで、このストレスのたまりやすい現代社会のなかで、リラックスしてほしいと思いました。
このような記事を見ると風景って確かに視覚だけ、聴覚だけ、一つの感覚だけで感じるものではないなあと思いました。
私もたまに公園に行ってぼーっとしたり、目を閉じて自然の音を聞くことがあります。←大げさですが…
それは、健常者と身体障害者とで感じ方に差異はないもので、みんなが共有できるものであってほしいと思います。
人間は、五感のうちどれかを失うと、他の感覚が冴えてくると聞いた事がありますが、やはり視覚というのは日常生活に不可欠なように思えます。 以前先生に授業で習ったように、私たちもその様な人たちの事を日々考えながら生活しないといけませんね。
カメラワークの「引き算」という表現が何やら私を刺激した。
大切なものを得るためには多少の犠牲を伴う。そこまでいかないとしても、何か本質的に訴えてくる力を私は感じた。
我々、健常者は引き算することなく生活しているのか、もしくはその当たり前の日常、情景、音、の値は0なのか。日々の幸福を感じていなければ、その値は0のままである。そして引き算することもないのだから、何か感じることもできないだろう。
生きることに貪欲、誤解を生みそうであるから積極的でなければ、理解、知識は得られないのかもしれない。
障害を抱えた方や写真のアングルの話から何か生きる姿勢について考えさせられるものを感じた。
「鳥取県立鳥取聾学校で行われている写真の基礎を学ぶ取り組みの一つで、砂丘を訪れる観光客をスナップするための指導の一つに、健聴者の多い観光客に積極的に声をかけて係わらなければならないことがある。それが聴覚に障害のある生徒たちの生きる力を高める取り組みにもつながっている」
という活動の内容が印象的に映りました。福祉の分野とは離れた話になってしまうのかもしれませんが、コミュニケーション能力を育てるといって、アサーショントレーニングやRPGのような模擬的な体験学習を経験させることのみで能力育成は十分とすることはせず、何より実践を通した学習、つまり予想外の出来事にあふれている社会の中で経験を積めるように支援すること、ここでは、「良い写真を撮る」という目的達成のプロセスの中にそういった他者との関わりの必要性がある指導を展開していたところが、素晴らしいと思いました。「人とのかかわり方」の学習を支援していく立場に立つ身として、これから、勉強することはいくらでもあるなと思いました。
私も、風景を見ることが好きで、時々空の写真を撮ったりもしています。
私は、今まで風景を視覚的にとらえることが多かったです。しかしこの記事を読み、もし目に何かしらの障害があり、風景を視覚的にとらえることができなかったとしても、風景の良さを聴覚などを使って感じることもできるのだなとあらためて思いました。この記事を読んで、視覚的に風景を感じることに囚われずに、視覚以外の感覚を使って風景を感じると、また違う角度から風景の良さを感じることができるのではないかと考えました。
視覚に障害があっても風景を愛でることができるし、聴覚に障害があっても目だけの力で、一般の人より素晴らしい写真を撮ることだってできる。人間の五感は必ずしも五つなければ生きていけないというものではないだろう。何かが無くなっているとしても他のものでカバーできるということをこの記事から考えさせられた。
きれいな風景が人を癒せる能力が持っていると思う。たとえ障碍者としても、心の中できっと、自分一番行きたいところや一番見たいものがあるはずと私はそう信じている。目が見えない人々が、周りの音を聞き、頭の中で、風景が想像する。耳が聞こえない人々が、目を通して、頭の中で、音を想像する。
そして、目も、耳も障害がある人々が、物を触って、感じた物の形だけで、幸せだと思っている人も少なくないと思う。
風景が人を選べないから、どんな人の前でも変わったりしない。その点から見れば、風景は人より優しいではないだろうか、誰でも公平で、差別もしない。それは私たち人間が足りないものでもあると思う。
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