一元的物差しと商業的ステークホルダー
大学入試センター試験の監督業務を終えたばかりです。大雪と強風のため、日本海側を中心に、試験開始時間の繰り下げ措置を余儀なくされた試験会場も出ましたが、試験の実施に大きな混乱はなく終了しました。受験生の皆さん、本当にご苦労様でした。
大学入試センター試験会場
この大学入試センター試験は、準備段階の問題作成から、印刷に校正、当日の会場設営等と運営事務、そして試験監督とたくさんの人たちの多大な労力によって成り立っています。試験当日の事務方にあっては、午前7時から12時間以上となる大変なお仕事です。試験監督は、なんら面識のない不特定多数の受験生を「監督マニュアル」に従って、ミス一つ起こさない業務を至上命題にしますから、大学入試センター試験ならではの消耗と疲労がつきまといます。
ちなみに私の担当した試験会場の要員体制は、最大時のリスニング試験時に、次のようでした。受験者最大数960名に対して、試験監督者81名(内、9名が予備監督)と本部要員35名の計116名です。これは、保育所年長組の子ども10人当たり保育士1人の配置基準を上回る大掛かりな態勢です。
センター試験をめぐるさまざまな批判はあります。ただ、奇問・難問の類が大学入試からかなり払拭されたという改善点とリスニングテストの精確な実施については間違いはありません。
私の大学入試のころは、「1575年長篠の戦で使われた鉄砲は何丁だったか?」などというおふざけとしか言いようのない入試問題までありました。長篠の戦は、鉄砲の威力を示したという点で日本史上の画期をなす戦ですが、使われた鉄砲の数を現代に確認できる術はありません。正解はいうなら「多数」です。この問題は、ひょっとすると長篠の戦の絵図に描かれた鉄砲の数をもって正解としたのではないかと推量しますが、問題作成者の不見識もはなはだしい限りです。
リスニングテストについても、ICプレーヤーの不具合による再開テストの実施にさまざまな批判があります。今回のリスニングテストでは、受験者513,576人の中で不具合等による再開テスト対象者は108人に過ぎません。再開テスト対象者は、ICプレーヤーの不具合に限られているわけではりませんが、仮にこれらすべてがICプレーヤーの不具合によるとしても不具合の確率は0.02%であり、あらゆる工業製品に発生する不具合の割合としては抜群の優秀さです。
しかし、このセンター入試の時節には、二つの問題点が私の胸をよぎります。
一つは、「一元的な物差しで輪切りにする息苦しさ」についてです。
センター試験の前身である「共通一次テスト」は、導入の検討段階の議論に参加された先生方の話によると、「大学入学のための資格試験」として承認した経緯があると伺いました。それが、いつの間にか入学試験そのものとなり、一元的な物差しで輪切りにする息苦しさが受験生と大学を覆うようになりました。
偏差値による一元的な評価が独り歩きすることには、それぞれの子ども・青年のもつ能力の多様性を受け止めて交りあうための眼と術を見失っていったのではないかという心配があります。レオナルド・ダ・ヴィンチやモーツァルトは、今にいう発達障害をもっていたという有力な説からいえば、彼らが現代に生きていたとすれば到底その才を発揮できない教育システムになっているのかも知れません。
また、このような一元的な尺度へのアプリオリな信頼は、要介護度や障害程度区分の判定に通底してしまい、多様な生活ニーズを一元的な尺度でつまみ出すことへの国民的な疑問が出来しにくい「教育効果」もあったのではないでしょうか。これらには「かかりつけ医の意見書」があるとはいえ、家族の多様な生活状況を考慮しない一元的な尺度を基本とする、福祉・介護サービスの利用の可否とサービス利用を規定する仕組みが、あたかも「平等である」と多くの人が受け止めるようになっているとすれば、それこそ大きな問題です。
もう一つは、産業としての大学入試センター試験です。センター入試は、予備校・塾、出版社、印刷業界、リスニング機器製造業、試験問題と解答用紙を運ぶ運送業界、弁当業界(試験当日の運営要員に必要)にとって、今やなくてはならない「ビジネスチャンス」となっています。マスコミ報道にしても、大学の入試ミスに対してはここぞとばかりにあげつらいますが、論説文の入試問題への引用の多い某新聞社は「大学入試出題数、今年も○○がナンバー1」と購読数の拡大をはかろうとし、「高校別各大学合格者数」を掲載して販売部数を伸ばそうとする新聞社系週刊誌があるなど、大学受験にあやかる商売根性は下劣そのものです。
これはなかなか厄介な問題です。教育と入試制度のあるべき姿から大学入試のあり方を議論し改善していくという、単純な問題構造ではなくなっていることを意味します。本来の教育とは異なるステークホルダーが五万といるのですから、今さら廃止・縮小する方向へのシフトを切るわけにはいきせん。
私の学生時代に、当時の総評議長の太田薫氏がある評論誌の対談で次のような指摘をしていました。それは、「労働運動と平和運動にとって軍需産業の拡大ほど恐ろしいものはない。軍需産業が拡大してしまえば、軍需がないと日々の暮らしを送ることのできない労働者が大衆となるのだから、労働運動は平和運動につながらなくなってしまう」という趣旨の発言でした。この指摘から敷衍すると、教育制度の根幹的課題の議論と入試のあり方をめぐる議論は、商業的ステークホルダーの跋扈によって引き裂かれるように乖離したといえるでしょう。
社会福祉基礎構造改革は、ニュー・マネジャリズムにもとづくシステムを福祉サービスの世界にもたらしたものです。この変化の中で潤ったのは、決して利用者ではなく、また福祉サービスの事業主体や支援者でもありません。介護保険システムの運用に用いられるPCソフトの業界と国家試験の資格養成・受験産業に偏って潤いをもたらす、莫大なビジネスチャンスとなったに違いありません。
教育と福祉の世界は、構造改革の時代を経て、教育・福祉の本来的目的から乖離した経済的利害に左右されるようになってしまったのではないでしょうか。
コメント
監督係お疲れ様でした。
他人と考え方が違っているからセンター試験で結果が出ない。
確かに一瞬だけ見たらそれは頭が悪いと捉えられるかもしれないですが、それはその人の本質を見たとは言えないと、私も思います。
また、センター試験は一度きりの勝負であり、調子が悪かった等で将来が決まるというのは少し疑問に思います。
しかし、センター試験をもし無くしてしまえば、足切り制度が無くなることにより有名校に多数の申し込みが来て許容人数を超えたり、センター試験を使っている産業関係にも大きな打撃を与えるでしょう。
センター試験は受験者を見極める参考資料のようなものと考え、本当に受験者を選考するのは各大学が画期的な試験を考え出す必要があるのではないかと思いました。
センター試験監督お疲れ様でした。実は私も廊下要員のアルバイトという形で今年のセンター試験に携わりました。無事に終わり何よりです。
さて本題ですが、私は先生の「一元的な物差し」という表現にとても共感しました。全員に平等と言っても個々の多様性は計る事が出来ないのでは?受験生時代私は何度かこのような疑問を抱いたことがあります。
そして「センター試験がビジネスチャンス」というのも全くその通りだと思います。現に私もアルバイトという形でセンター試験を利用しました。各進学塾などの教育方針は表向きは生徒の学力の向上ですが、本当は生徒の有名大学合格による塾自身の著名化だと思います。
実際某進学塾に通う私の高校時代の友人は、塾の講師に「落ちてもいいから早慶を受けろ」と言われ難関私立大を意味もなく多く受けさせられたそうです。教育の世界に商業的要素が深々と絡んでいる現状は黙視できないと私も思います。
このブログを読んでなにか大きなものに気づけた気がします。
センター試験は確かに個々の多様性を計ることができず、センター試験の商業化は現在当たり前のようになってしまっています。
こういった状況と同じようなことが福祉の世界でも起こっているのは残念です。
福祉や教育といった本来ビジネスと離れたものまで経済的利害に左右されているのは問題だとおもいました。
試験監督お疲れ様でした。
この時期になると2年前に受けたセンター試験の記憶が蘇ってきます。
私は先生の「一元的な物差し」という考えに共感します。私は高校時代、センター試験という一つの尺度によって大学入学の合否が決定されることに疑問を抱いていました。なぜなら、マーク方式では人それぞれの能力や価値観、考えといったものの介入を一切許さないからです。現在のセンター試験の制度では、受験者がみな、同じ問題を同じ環境で解くという点で平等だとしても、人それぞれのアイデンティティーが反映されないという点で不平等であると言えます。
そのことを踏まえて、大学側はセンター試験に重きをおいて合否を判断するのではなく、受験者をもっと多様な角度から見ることができる試験を作り、それを主な判断材料にするべきであると思います。
試験監督お疲れ様でした。確かにセンター試験のみで人を区分けするのはいかがなものかと思います。一人ひとりの個性を発揮する機会を奪っているように感じます。もっと改善できないものかと思います。
センター試験がビジネスチャンスというものがありましたが、私はそれでいいと思います。確かに教育にそういったことを持ち込むのはどうかとは思いますし、一歩間違えれば危険な思想になってしまいますが、そのおかげで生活が成り立っている人もいますし、絶対にどこかで儲ける人はいます。それらは経済のあるべき姿なのではないかと思いました。だから私は、教育にビジネスを持ち込むのは仕方のないことなのかなと考えています。
あのアインシュタインも興味がないものに関しては、言葉は悪いですが馬鹿だったと聞きます。このような人物もいることを考えると一元的な評価というものは、有能な人物を埋もれさせているような気がしてなりません。とはいえ、莫大な数の受験生を1人1人的確に評価するのは不可能。なかなか難しいものです。
試験監督お疲れ様でした。私は、一年浪人してしまったため、センター試験を2回受けました。やはり、2回とも緊張し、とても不安な気持ちにもなりました。勉強するのが嫌になる時が何回もありました。しかし、逃げ出さずに大学に合格することができました。
私は、一般社会において、社会と教育は密接な関わりを持っていると思います。就職することがなかなか難しい状況で、最低限必要となっているのが教育で身に付けた知識です。この知識が十分に身につけられていない場合、社会で適応していくのはなかなか難しいものとなると思います。
私は、受験で味わった勉強の大変さを糧に、これからも勉強して知識を多く身につけていきたいと思います。
試験監督おつかれ様でした。
埼玉大学の人間形成と教育の講義を受けいている学生です。先生の授業を受けると毎回日本という国の教育・福祉分野での発達の遅れをひしひしと感じられます。
ゆとり教育などが原因と挙げられている日本の学生の学力低下が叫ばれ、国をはじめとして保護者や学校などでいろいろな対策が行われていますが、豊かな社会の中でこそ学力というものは身についていくのではないでしょうか?
また、現在の一元的な学力だけによる競争にも疑問を感じます。
「知識だけのための教育」を推し進める前にやらなければならないことがあるのではないかと思います。
試験監督お疲れ様です。自分が何年もあのようなピリピリした場の試験官をやると思うと、発狂してしまいそうです。
わたしは一回で済みましたが、2回目のセンターを受ける人は本当にお疲れ様と言いたいです。多様性を失ってしまう、というようなことがありましたが、個人的には、個性を潰すというよりも自分の個性を見いだせないでいる人がそれを見つけられる場を得られるほうが多いと思います。なので、センターの一元的な評価もあながち悪いものとは言えないのではないか、と思います。
こんばんは。
様々な国家試験や資格取得の試験がひそかに行われている中で、センター試験だけはすごく目につきやすい気がします。それだけセンター試験というのは、社会の目を惹き付ける何かを持っているのだと思いますが、受験生にとっては少し外野が騒がしいかもしれません。
私のところでは、センター試験を受けるのは当たり前で、みんな必死に本番に向けて勉強していました。今思うと不思議ですよね。まず始めるのは、センターの問題になれることや選択肢の見極め方なのですから。エジソンがセンター試験を受けたとしたら、「なぜ、この選択肢の中から選ばなければならないのだ?」と言いそうです。
また、年に1回しかないというプレッシャーから、予備校や塾のキャッチフレーズに心が惹かれます。センター試験を利用した様々なビジネスもまた、受験とは違う勝負に出ているのだと思います。でも需要と供給がつりあわなければ、意味がないなと思いました。
試験監督お疲れ様でした。私はちょうど2年前にセンター試験を受けましたが、とても嫌な思い出でした。両親をはじめ、高校の先生や友達までも私の事を一個人としてではなく、偏差値や点数で見ることにすごくストレスを感じました。
話が少しそれますが、先日老人ホームに行く機会がありました。ほとんどのお年寄りの方が車いすで移動をし、誰かしらの介護無しには生活できないような方々が生活していました。私達は身の回りでお年寄りや障がいのある方をよく目にするわけで、社会規模で考えれば共生しています。
ですが、どうしても自分とは違うとか、少し特別な人として見がち…。目には見えない物差しで測ってしまっている気がします。障がいをお持ちの方は、そうやって特別視されていることに対して、実際とてもストレスを感じていると思います。
年をとれば誰でも老人になるし、大きなケガをすれば誰しも介護無しに生活は難しいはずです。つまり私達も障がいのある方もさほど大きな違いは無いわけで、お互いに理解し、助け合えるはず。現実には難しいですが、偏った物差しを払拭した社会で共生できれば、私達にとっても障がいのある方にとっても、安心で住みよい社会になるのではないでしょうか。
試験監督お疲れ様でした。
一元的物差しとしてのセンター試験について述べられてましたが、この問題はたしかに難しいものだと思います。個人が持っている能力および個性を長所ととるか短所ととるかは人それぞれです。つまり価値観の違う人間がひとりの人間をどう評価するかはやはりひとりひとり違ってくるのです。
ほかの人と自分はここが違う、だからそこを評価してくれという人が一万人いて、やはりそのひとりひとりの個性がどう違い、どう優れているのか考えなければいけないのならば、それは恐ろしく時間のかかることでしょう。死後にその才能が認められた詩人や画家の話もこのことに当てはまっているかもしれません。
故に社会において広範囲にわたって通用する能力判定の方法、そして効率よく多くの人を「見て、考える」方法としてはセンター試験は非常に優れた試験なのかもしれません。優れた手段であるために、この資格試験の重みがますます増してしまったとも考えられます。
いろいろな可能性を秘め、これからそれぞれの方向へ枝分かれする20才前後の若者をひとりひとり多様性を見つめて…なんてことは理想ですが、キリがないのでしょう。一元的な物差しで測ったほうがはるかに楽です。
それでもひとりひとり違う能力を見つめたいのであれば、おふざけとしか言いようのない問題を解かせることが案外いい手段ではないかと私は思います。
センター試験監督お疲れ様でした。
人の能力を測る手段としてのセンター試験について述べられてありました。僕もこれについては少し疑問を持っていました。
大学の名前が人の価値を表すという考え方が、近年増してきてるように感じます。その証拠に、Fラン、マーチ、早慶など大学ごとに様々に格付けされています。
学力という一点を測るのにはたしかに効率的で優れた体系をなした試験であるとは思いますが、ただそれの出来高だけで人の価値を測れるものではないと思います。
今後、学歴社会がより発展し、さらに学力の価値が高くなったとき、この試験は個人の人生を分ける大きな分岐点になると思われます。
学力が人の価値、試験の出来がその人を評価するにあたって大部分を占めるのは、間違った考えであると思います。
学力は人を測る上で絶対ではないということを忘れてはいけないと思います。
試験監督お疲れ様です。
今や大学全入時代とも言われるほど、大学数が増えています。受験生も増えています。このような状況では、とにかく効率的にかつ分かりやすく受験者の力を測ることが求められると思います。
「一元的な物差し」という先生の言葉は最もだと思います。学生1人1人の力を「学力」や「偏差値」のみで測りきることはできません。
しかし、膨大な数の受験者がいるわけですから、センター試験のような方法が1番簡単で分かりやすいのではないでしょうか?さまざまな面から受験生をみることは大切ですが、とにかく人数が多い。莫大な時間と費用が必要になってくると思います。
さらにほかの方法も取り入れていくと、それぞれに対して予備校や出版会社などが対策を考え、宣伝を始めます。先生がおっしゃるようにマスコミなどもミスがあると騒ぎます。一度定型化したシステムを替えるのはとても大変なことです。こういったことを考えると、センター試験がふさわしくないとは一概にはいえないと思います。
また、私自身、大学という場は「学ぶ場」であるとともに「考える場」「行動する場」でもあるると考えています。大学生になれば自己責任でこうどうしなければなりません。したがって、大学に入ることで、学力以外の力もより一層身に付くのではないかと思います。
センター試験の監督お疲れ様でした。
確かに、受験生にとっての試験は一生を左右する大一番であるのに、それをビジネスとして捉えられている状況は存在していると思われます。
特に、大手予備校の「○○大学△名合格」という宣伝文句を見ると、彼らは生徒を大学に行かせる意味を間違って捉えているような気がします。学歴や試験の出来が人の価値を測る尺度としているのではないでしょうか?
もっと個人を理解する上で大事なものがあると私は思います。
試験監督、お疲れ様です。
僕が受験の時にもこういった話はよく耳にしていました。実際マーク試験で個を判断するというのはとても難しい、さらに言えば不可能に近いのではないかと思います。
しかしこのことを、大学入試全体に目を向けてみると、これは別にセンター入試に限ったことではないのではないかと思います。
もちろん小論文であれば多少は個人の意見というものを見ることはできますが、マーク形式から論述形式にしたところで、結局はその問題に合った正確な答えを書かなければ、大学受験に受かることはできません。
こうなってしまうと、大学入試全体を一から見直さなければならないため話に収拾がつかなくなってしまいますが、僕としては、大学入試に個の判断を求めることをやめ、ただ単に「入学のために、勉強を頑張った結果としての大学入試」という物差しとして扱えばいいのではないかと思います。
センター試験監督お疲れ様でした。
私も正門係員としてセンター試験に携わらさせていただきました。
係員をしながらセンター試験についていろいろ考えましたが、自分がセンター試験を受けるときにはセンター試験のあり方など考える余裕など全くなかったのでなんだか感慨深かったです。
確かにセンター試験という一つのものさしでほとんどすべての受験生の能力を測るのはやはり問題があると感じました。
私もそうでしたが、受験生は大学に入るための学力を測る手段であるはずのセンター試験の勉強を、センター試験を目的として勉強してしまいます。
やはりそれぞれの大学が問題を準備し、その大学に見合った学力のある受験生を合格させるシステムを作っていく必要があるのではないでしょうか。
試験監督お疲れ様でした。
大学側がセンター試験の結果のみを利用して生徒を選ぶのには問題があると思います。
しかし私が受験生のときにはクラスのみんながセンター試験という同じ目標に向かい切磋琢磨していたという良い印象もあります。
センター試験を一概に否定するのではなく、センター試験を利用する大学側が問題を別に作成するなど工夫することによってよりよいセンター試験の利用ができるのではないかなと思いました。
確かにセンター試験は全国の受験生を一つの基準で判断しなければならないので、問題の作成が大変難しいと思います。
難しすぎたら点数にかなりの開きができてしまうし、かといって簡単すぎたら点数に差がつきすぎず実力がある人にとって不利なものとなってしまいます。自分が受験生だったころは、問題が易しければいいなあとか、この年の問題は簡単だなあくらいにしか思ってなかったけど、大学生になってみてその作成の難しさがわかりました。
また人には得意不得意があるように得意教科苦手教科というものがあります。そんな人がセンター試験で安定した得点を取ることは、大変厳しいです。
私立大学はそんな人たちが評価されるための試験を用意してありますが、経済状況が厳しい人たちにはその選択の幅が狭まってしまいます。
なので全教科安定した点数を取らなければならないセンター試験はなかなかハードルが高いと思いました。
試験監督お疲れ様でした。
去年のセンター試験が懐かしいです。
僕のバイト先の某ハンバーガーショップでもこの受験の時期に乗っかってミルフィーユ勝バーカーという受験生応援の商品を出していました。ユニークな商品を開発して商品のCMなどは流さずにニュースなどで取り扱ってもらおうとする企業戦略らしいのですが、センター試験の前日に本当にニュースでやっていたので驚きました。
受験シーズンも商業的な目線で見るといいチャンスなのですね。
センター試験は、全国の受験生の学力を一元的な物差しではかるものです。確かに、この一元的な評価方法では、受験生一人一人の個性や才能を見きわめることはできません。しかし、現代では、個性も大事ですが、ある程度の学力も必要です。学力だって、一つの個性だとみなすこともできるのではないかと考えます。
それに、学力以外の個性や才能を見きわめることは簡単なことではないと思います。基準を定めることも難しいし、受験生全員が試験の場でその個性をアピールすることができるとは限りません。明確な合否の基準を設けられない試験では、試験官によって基準が変わるなど、受験生にとっては、納得しがたい結果に終わることも多くなると思います。
ですから、私は、センター試験のような一元的な方法で学力をはかるのも悪くないのではないかと思います。
大学入試センター試験とは、本当に大学に入るためだけの試験ですよね。どこかに就職するときに、センター試験を受けていないから評価が悪くなるということはないと思います。推薦入試を受けた人の中にはセンター試験を受けない人もいます。
それなのに多くの人がセンター試験を受けさせられ、その結果の良しあしでその大学をうけるかどうかを判断しなければなりません。去年私もセンター試験を受けましたが、いわゆる難関大学を目指していた周りの人たちがセンター試験の結果が悪かったためにレベルを落として、ほかの大学に進路を変えるといったことがありました。私の希望する大学の倍率もこのことが原因で一気に上がりました。
センター試験は大学受験において大変重要な役割をしており、今更廃止なんてできるとは思いませんが、このように可能性をせばめるものであってはならないと思いました。
試験の監督お疲れ様です。センター試験は自分にとって非常に身近なものであると思う。去年は、受験という形でかかわり、今年は、センター試験の廊下の警備という形でかかわったので、非常に身近なものと感じるようになった。
センター試験は最近よくニュースなどでよく目にする。記事にも書かれていたように受験は企業のビジネスチャンスとなっているのは、下劣であると思う。受験生にとって受験とは将来を決める大きな要因となる。そのような重大なものをビジネスチャンスとしている企業のモラルの低下を感じてしまい、悲しく感じる。
センター試験には賛否両論あると思います。学力を図るための手っ取り早い手段ではありますが、その人の考え方や個性は知ることができません。また、答えが一つしかでないことも良い面でもあり悪い面でもあると思います。実際に就職活動をするときや社会に出た時に求められるのは、個性やその人の考え方だと思います。センター試験のような問題ができても、社会ではあまり通用しないのではないでしょうか。
私が受けている授業の中で、これから私たちが解かなければならない問題には解が存在しないということが多いとおっしゃっていた先生がいます。私も確かにその通りだと思います。センター試験のような答えが1つしかない問題ばかりやってきた私は、これから社会に出て解が存在しない問題にあったときにうまく対処しきれるのか少々不安を感じています。センター試験のような問題に慣れさせるよりも、解がない問題に慣れさせたほうが将来的にも役に立つと思います。
試験監督お疲れ様です。
確かに大学入試は一元的なものさしで個々の多様性の発揮の場を奪ってしまっている点は良くはないと思います。
が、同世代のこんなに多くの人たちと一元的なものさしで競うことができるのは大学入試だけで、それぞれに苦手・得意、好き・嫌いのある中で自分なりにどうがんばれるかが結果となってあらわれるこの試験は成長する上でものすごく大切な試練だと思います。
結果はどうであれこの競争によって得られるものはものすごく大きいと思います。
結果をはかる尺度としての入試は一元的ですが、目標に向けてがんばる過程は多様性にあふれていると思うのでこの制度はこれからも続いていいと思いました。
試験監督お疲れ様でした。
私は1年前はまだ高校生で、私の在籍していた高校はセンター試験第一と考え、3年間勉強に取り組んできました。だから私は推薦で希望校に合格したのですが、センター試験は強制的に受けさせられました。
確かにセンター試験は自分の進学先を決める上で、判断材料になるデータを入手するために大事なものかもしれません。しかし、たった一回の試験で算出された偏差値がすべてなんでしょうか?それだけで人生が変わってしまうのは、違うと思います。ダ・ヴィンチやモーツァルトが現代に生きていれば、その才を発揮できなかったかもしれないという文を読むと、いかに現代の日本の教育システムに柔軟性がなく、愚かだということを感じます。
人の才能はペーパーテストや面接でいい結果を出すことがすべてではありません。個性を尊重し、色々な能力を開花、存分に発揮させていく教育システムに変わるべきです。そういった体制が世界に通用する社会を作り上げることに繋がると思います。
試験監督お疲れ様でした。
一元的なものさしとしてセンター試験を捉える見方は大変興味深いものだと思います。
私は、もし時代が学歴重視で人間を見定めてしまう社会でなくなれば、むしろセンター試験は、産業・人間を育てる素晴らしいものになるのではないかと思います。大学に進学することが良い人生を歩むための重要なファクターではなく、ひとつの選択肢に過ぎない社会になれば、受験勉強はいわば、青春時代の良い思い出作り程度になるのではないかと思います。ある人がスポーツに励むように、受験勉強に励んでセンター試験という一律の条件下で培ってきた力を試すというものであれば、そこでの失敗もまたよい思い出になるのではないかと思います。
このように考えてもやはり、現在のセンター試験から大学受験の流れは、一元的なものの見方の連鎖のように思えます。簡単に変えられるものではありませんがこれからの制度変更に注目ですね。
「一元的な物差し」という言葉でセンター試験の評価方法の問題点について述べていらっしゃいましたが、私はどんな試験でも個々の才能や個性を正しく評価することは難しいと考えています。
適正な評価に限界がある以上は効率性を優先させるべきで、センター試験のようなマークシート方式の試験でも致し方ない、と私は思いました。
それに、センター試験の評価方法云々よりも、センター試験を受けるということや大学に進学するということなどについて、どのように受験者が捉えているのかという点に着目すべきだと思います。
大学に合格することがゴールになってしまって、何のための受験勉強だったのか見失う人もいますし、恵まれている人ほどあまり物事を考えずに、なんとなく大学に行ってしまいがちに思えるので…。
すごくもったいないことだと思うのです。
そういう人たちを無くすには、ということを先に考えるべきだと思います。
センター試験監督お疲れ様でした。
私は約1年前にセンター試験を受けたわけですが、受験生として勉強していた1年間、「この努力が1回きりの試験で終わらされて済むものか!」と思っていたものです。実際に私は第一志望の大学に合格することができたのですが、もし失敗していたら、センター試験という制度を大いに憎く思っていたことでしょう。
また、センター試験が「ビジネスチャンス」として利用されているという話、とても納得するものがありました。しかし受験生が将来のために必死で頑張っている横で、何だか悔しいような気もします。
私自身、センター試験という制度に一概に反対だとは言えませんが、将来有望な人の将来を潰してしまうことがないよう、もっと改善されたらいいな、と思います。
試験監督お疲れ様です。
私も埼玉大学に入学するにあたりセンター試験を受験しました。大学進学を希望する人が増えるに従い、効率性を重視するためマークシート方式を採用することは仕方のないことだと思いますが、センター試験の結果によって希望する大学独自の試験を受けられないという仕組みには疑問を感じます。私もあと2パーセント正答率が低かったら埼玉大学は受験していませんでした。
最近ニュースになっていましたが、来年からセンター利用入試を慶応大学が取りやめるそうです。独自の特色ある入試を導入するとコメントしていましたが、センター試験のような個性の見えない試験では分からない部分が多々あるのだと思います。
センター試験監督お疲れ様でした。
センター試験について、「一元的な物差しで輪切りにする息苦しさ」と述べられていますが、学歴主義である日本において、受験生を一つの基準で判断しなければならないので仕方がないことであるようにも思えます。
そもそも勉強すること自体が、人の仕事に対する姿勢を育てるものである。と高校の先生に言われた事があり、妙に納得した事も覚えています。
今でも有名大学ではセンター試験は足切り程度であり、「共通一次テスト」の経緯も、完全には失われていないと思います。
一元的な物差して人を測るというのは良くないことだと思いますが、自分の個性や自分の能力見つけるというのも難しいのではないのでしょうか。
「一元的な物差しで輪切りにする息苦しさ」
現代の教育にはそのような見方ができると思います。「つめこみ教育」から「ゆとり教育」へと教育の制度が変化し、「個性」の大切さを言いながら、人と違うことを排除したがる矛盾を感じます。
また、センター試験と産業が強く結びつくと、純粋に平等に試験を受けることができなくなる恐れがあるのではないかと考えます。受験にも家計の問題や親の所得の問題が関係してくるのではないでしょうか。一元的な物差しをもつセンター試験を受ける人々はちっとも一元的ではないのです。
現代社会において、教育と産業は強く結びついているので、子供たちのために一番よい形をとるのは簡単ではないとおもいます。しかし、何が大切なのか考え、その制度自体を変えていかなくてはならないと思います。
センター試験は大学受験には必要なものなのだとは思います。一元的なものさしがなければ、全国の大勢の受験生の能力をはかることは非常に難しいことだからです。
しかし、大学受験を経験した人の大多数は、センター試験というマーク式の機械的に感じられる試験法に、一度は疑問や不満を感じたのではないかな、と思います。
例えば、日本史の試験で、ある戦乱についての設問があったとします。ある人はその戦乱についての知識がまったくなく、カンで選んだ結果正解し、又ある人は、その戦乱について非常に多くのことを知っていて、正解を選ぶことができる、ということがあると思います。
このとき、前者と後者はその設問に正解したことによって、同じ点数をもらうことになります。しかし、私はこの両者の正解の重みは全然違うと思います。それなのに、採点者には、その違いがまったく伝わらず、同じように扱われるのです。これは不公平なのでは?と私なら思ってしまいます。
また、介護の問題についてでは、私の祖父が介護が必要になったとき、要介護度が低いとみなされて、祖母や両親が苦労していたことを記憶しています。実情を見てみないと分からないこともあるのに、機械的に判断されてしまっては困るなぁと思いました。
どちらも、「上っ面しかみてもらえない」ということが問題だと思います。
センター試験と商業が密接につながってしまうことはよくないと思いました。商業が絡んでくると物事の本質が見えづらくなってしまうと思います。
私は、日本史で、朝鮮戦争が起こったことによって日本では特需が起こり、そのおかげで発展した、ということを学んだとき、「日本はラッキーだな」と思いました。しかし、その戦争で当然苦しんだ人も大勢いたのだということに、いまさらながら気づかされ、自分の考えを恥ずかしく思いました。
このように、商業が絡んでくると、世界の平和よりも自国の発展を望んでしまう、というように、正しい判断ができなくなるので、問題だと思いました。
センター試験監督お疲れ様でした。
「一元的な物差しで輪切りにする」
僕は大いに結構なことだと思います。
例えば、小さな部品がどれだけ小さいか1円玉と比べるように、誰にでもわかる物差しがないとその大きさを知ることはできません。その物差しとして知識を問うセンター試験という形が取られているのだと思います。そこで個性云々の話をするのはサッカーグラウンドにいるのに僕は野球が得意だと言っているようなものだと思います。
スポーツ選手や芸術家ではなく、大学という研究機関という進路を選んだからこそ入試において知識という個性を発揮するべきだと思います。また、そのために必死に勉強して積み上げた点数や偏差値というのは意味のないものだとは思わないし、そこで必死に努力できたということは社会に出ても自分を助けてくれるように思います。
センター試験監督お疲れ様です。
確かにセンター試験のみで受験生の才能の全てを測ることはできないと思いますが、かといって受験生の才能をすべて測ることができるような試験というのもそれはそれで難しいと思いました。
試験をビジネスにとって大きなチャンスになるというのは今まで考えたこともなかったですが、もし受験中にそれを知ってたらなんか嫌な気分になりそうですね。
試験監督お疲れ様です。
私はこのブログを見てセンター試験を今までと違った視点を見ることができ、色々と考えてしましました。レオナルド・ダ・ヴィンチやモーツァルトなどの素晴らしい才能を持つ人々が現代でその才能を生かすのは確かに難しいのかもしれません。偏差値が低くても個々の才能を生かせるような社会にするにはどうすればいいのか今はまだ思いつきませんが、そのような社会になれば、今の日本経済もよりよくなるのではないかを思いました。
センター試験監督お疲れ様でした。
今週、浪人している友達から連絡がありました。「今回のセンターの点数だと後期は自分が希望している学科は絶望的だから受ける学科を変える。でも、前期は挑戦してみる。」という内容でした。
確かにセンター試験を実施することには、多くの利点があるのは分かっています。しかし、センターの点数が受ける大学のものさしになってしまい、希望していた大学・学部を諦めざるをえない人がたくさんいるというのも事実です。才能を開花させる前に夢を諦めなければならないということがあっていいのでしょうか。
センター試験のあり方をもう少し見直すべきであると私は思いました。
このブログを読んで去年、受験生だった時のことを思い出しました。あの時は点数を取らなければと焦っていたような気がします。
センター試験は一気に大勢の生徒を振り分けるので「一元的な物差しで輪切りにする」という見方もあるし批判もあるが毎年たくさんの受験生がいる中で特色の強いものをやっていたら時間がかかりすぎてしまうので仕方がない部分もあるかと思います。また試験において小論文の試験があるが、これは考えが見れるのでいいと感じられるが、これもまた見方を変えると採点者の主観が入ってしまえば不公平が生じるかもしれない。なので試験方法をについてはもっと深く考えなければいけないと思います。
ほかにも経済発展にセンター試験が大きく役に立っているといのはとてもいいことであり、とてもよくないことだと思います。
この問題はもはや教育と経済が複雑に絡み合っており、なかなか教育を本来の形にするのは難しいがしっかりと議論していかなければいけないと思う。
センター試験監督お疲れ様でした。
一元的なものさしでは確かに個人の能力の全てを測れないと思いますが、特に学力を測る一定の基準としてセンター試験は役目を果たしていると思います。
また、自分が経済学部に所属しているからかもしれませんが、センター試験をビジネスチャンスとして企業側が考えるというのは仕方ないのではないかと思ってしまいました。需要があるのだからそこで利益を生み出そうとするのは間違えた考えではないと思います。
試験監督お疲れ様です。
毎年毎年この時期になるとどこのメディアもセンター試験の話題で持ちきりになります。私はセンター試験を受けずに大学に合格してしまったので、あの独特な雰囲気を味わわずに受験生を終了してしまいました。
学力を人の判断基準とするのは単純に分かりやすいからなのだと思います。自分もなぜ学力で自分の良し悪しを判断されなければならないのかと苛立ちを感じたこともあります。今思うとそれは仕方の無いことなのだと割り切っていますが、それは現代社会の言いなりになっているに過ぎないのかもしれません。
センター試験の監督お疲れ様です
先にあげられたセンター試験の改善点については全くの同意です。むしろ、自分はセンター対策に数年分くらいの過去問を解くくらいしかやっていなかったので、使われた鉄砲の数を問われるということが衝撃的だったくらいです。
センター試験が一元的な物差しで輪切りにする息苦しさを与えるということに対してはほとんど間違っていないと思います。しかし、学力以外の才能を認めてもらいたくて大学の門をたたくならば、そういう才能に特化した学科の二次試験で才能を試されることが多いため、センター試験自体は今のままでもいいと思います。
センター試験をビジネスチャンスにすること自体は、センター対策をするまでは特に何も思わなかったのですが、対策して初めて、勉強ではなく点数の取り方を教えてくる予備校なんかはまずいんじゃないかと思いました。受験生の努力をセンター試験の裏技で踏みにじっていくやり方が、いまだに腑に落ちません。
それこそ、自分が去年まで受験生だからってことあっての主観交じりの意見になってしまいますが、自分はそう思いました。
試験監督お疲れ様でした。
確かにセンター試験は一元的な尺度によって評価するため個々人の能力をはかる手段としては疑問に感じます。優れた才能をもっていても偏差値の高い大学を出ていないため就職できない、ということにもつながると思います。しかし、一人ひとり個別に能力をはかることは難しく、大勢の受験者の中から短期間で合格者を選ぶためにはやむを得ないと思います。
センター試験がビジネスチャンスになっているということについて、今まで考えたことがありませんでした。多くの企業が関わることで、教育・福祉の目的が本来のものから外れてしまうことは問題だと思います。何のための教育か、何のためのセンター試験かを考えていくべきだと思いました。
試験監督お疲れ様でした。
私は去年センター試験を受けましたが、国立志望だったこともあり試験中はプレッシャーと緊張に潰されそうになったことを覚えています。
1回の試験で受験生の人生が変わってしまうというのは、受ける側にとってはもちろんですが、選抜する大学側にとっても非常に怖いことだと思います。
自分が受験生だった時は、受験とはそういうものだと言い聞かせていましたが、大学側はもっと多くの判断材料で慎重に選抜してもいいのでは、と思いました。
センターの試験監督お疲れ様です。
確かに、センター試験はマークシート方式ですし、一回きりのテストなので、それで個人の実力は決めるのは難しいかもしれません。しかし、センター試験のためにも、かなりの勉強をしないと点数は取れないと思います。そこで、良い結果が出たのなら、その勉強した過程なども評価してよいのではないでしょうか。また、受験生が大勢受ける最大規模の試験だといえるので、受験生の一種のハードルや目標になると思います。
また、産業的に扱われていることも多々あると思いますが、それにより、センター試験に関係がない人まで興味をもてる一つのきっかけなのではないでしょうか。新聞やテレビにより、教育に興味、関心が増えるのであれば、少々不満もありますが、良いのではないかと思います。
試験監督お疲れ様です。
実は私もアルバイトで、連絡員としてセンター試験に関わらせていただきました。
去年も同様に連絡員として会場の廊下に立っていました。その際感じた感想を率直に述べさせていただくと、受験生にも、真面目そうな人やいかにも不真面目な人、一生懸命暗記に励んでいる人など一見しただけでも多様な印象を抱きました。
しかしそのような印象もセンター試験の解答用紙からは当然見えません。コンピューター処理によって学力の優劣が付けられてしまうだけです。
学力に優れなくてもアイディアに富んだ人、真面目に正確な仕事ができる人など、個人の能力を生かす機会を大学の入り口で狭めているように思えてなりません。
ですが現代では大学進学希望者の増加によりそれぞれの大学を膨大な人数が受験します。
それを一人一人見ていくのは非常に困難です。
ですから一次試験としてのセンター試験の利用はしょうがないことなのではないでしょうか。
なのでそれぞれの大学の二次試験などで受験者の個性を見て行けたらいいのではと思います。
しかし私は一番大事なのは受験者の努力と自分に合った将来の見据え方なのだろうとも考えています。
センター試験監督お疲れ様でした。
一元的な物差しで輪切りにするセンター試験ですが、これは現在の日本を端的に表し少なくない若者の初の試練だと思います。
センター試験は良くも悪くも学歴を重視する日本に合ったシステムです。優劣をつけられない人を試験という全国で統一された一つの単位で平等に図るといえば聞こえはいいですが、すべての人の個性を取り去り数字と記号にしているようにも感じます。
その一方で決められた日までしっかり準備し体調を整えておくという点においては正確に計れていると思います。ただ、その出来不出来で一生が決まってしまうのは学生には酷過ぎる試練と思います。
私としてはセンター試験は必要だと思います。ただ、試験以外の面で人を見れる部分をもっと増やせればいいなと思います。法人化がすすんでいるので独自に受験生を見れる試験を実施する。そういった大学個々に特色を学内だけでなくそういった入試の際にも出せていければと考えます。
センター試験監督お疲れ様です。
確かに一元的な評価によってそれぞれの子ども・青年のもつ能力の多様性を受け止めて交りあうための眼と術を見失っているというのは分かる気がします。
自分も一元的な評価によってここにたどり着いた人間の一人ですが、人間を一つの物差しだけで計ることについては疑問を持ちます。
勉強ができるかできないかという側面だけで人を判断するというのは、あまりにも酷な世界だと感じます。
大学入試の理想的な形は、受験者が一元的な試験に向けて努力するのでなくて、大学側が努力して多様な受験者からダヴィンチのようになり得る人を探すというものなのかもしれません。
しかしそこにもまた不平等というのは生まれるもので、平等というものの難しさを感じます。
試験監督お疲れ様でした。
私は去年センター試験を受ける側でしたが、その時はもう試験に何が出るのか、緊張しないで自分の力を全て出せるのか等のことで頭の中がいっぱいで試験監督の方々の苦労など微塵も気にしていませんでした。
でも試験が成り立つには監督の方々の並々ならぬ苦労があってこそだったんですね。
今後何かしらの試験、検定を受ける際には退出時に試験監督の方に一言「ありがとうございました」と言おうと思います。
試験監督お疲れさまでした。
思わず自分の高校時代を思い出してしまいました。できればセンター試験のあの緊張感は体験したくないです。。。
さて、センター試験についてですが、正直そこまで深く考えたことはありませんでした。確かに人間を一つの物差しではかるのはどうなんだろう。私は教師を目指している身でありながら、センター試験を「大学に行くために受ける試験」とだけ認識していたことに恥ずかしくなりました。
しかし、学力で力をはかることも、また大事なこと。人を何かで優越つけるのは、やはりなかなか難しい問題です。
試験監督おつかれさまでした。
このブログを見て高校三年の時のセンターのことを思い出しました。あたりには緊迫した空気が流れていて、こんな環境の中自分は、二日間気持ちを切らさず受検することができるのかと、不安でしかたなかったのですが、いざテストが始まると思いのほか、問題と向き合うことができました。
しかし、そこには、試験管の先生がいて成り立っていることなど考えてもいませんでした。
このような、全国の多くの学生が受けているセンター試験には、それだけ多くの先生方の助けによって成り立つのだと改めて認識しました。
こんどから、試験などのときは、周りの支えにより成りっているのだと思い、感謝できるようになりたいです。
確かに、教育と福祉の世界は経済的利害に左右されてしまっていると思います。
教育や福祉の場をビジネスチャンスとし、より様々なサービスが受けられるようになることは良い思います。その際、企業が利潤のみを考えることなく、社会的に貢献することも念頭に置いてほしいです。
私の実家の近くにあるケアセンターはきれいで設備もいいと評判ですが、入るためには高額の費用がかかるそうです。
貧富の格差が広がる現代の日本では、富裕層だけでなくすべての人がサービスを受けられる制度が必要だと思います。
試験監督お疲れさまでした。
去年のセンター試験を思い出します。
去年、センター試験を受けるときには緊張と不安でセンター試験のあり方がよくわかってなかったと思いました。
センター試験で高い点数を取って、いい大学に入ったから頭が良い、センター試験で点数取れなかったから頭が悪いと決めつけられるものではないと思いました。
実際にいい大学に行ってる人が人間的に良いかどうかもわからないし、偏差値の高い大学がいい大学かもわからないですよね。
でも、今の日本は学歴社会なので偏差値の高い大学、有名な大学=いい大学となってるのは仕方ない気がします。
試験監督お疲れさまでした。
個人的には学力なんてものは、たくさんある物差しの中の一つでしかないと思います。
勉強してればいいって感じで育てられ、そのままの流れで大学に入るという人が多すぎるように感じます。
高校生のうちにバイトでもしてれば新しい視野が得られると思うのですが、校則が厳しい進学校ですとそれすら許されない。
本当に大きな人間になるなら大人になりきる前にいろいろな経験をすべきだと思ってます。
私はバイトで塾講師をしているので、センター試験の情報には敏感になっています。
今年は、どこかの大学で、試験時間を1時間遅らせたそうな。。。
大学は一生を決める入り口なので、失敗のないよう私たちもサポートしていきたいです。
試験監督お疲れさまでした。
学力による一元的な評価については議論すべき課題だと思います。勉強が得意な人がいれば、スポーツが得意な人もいます。勉強のほかに素晴らしい能力を持っている人が社会で評価されないのはおかしいと思います。
また、大事なのは頭がいいかどうかではなく、どれだけ真剣に取り組めるかだと思います。せっかくいい大学に合格しても、その後勉強しないで遊んでばかりでは、その人がその大学にいる意味がないと思います。偏差値が低い大学に通っていたとしても、夢を持って真剣に勉強している学生の方がよっぽど優秀だと私は思います。
お疲れ様です。確かにこういった風潮は今日の疲弊しきってる日本では仕方がないことかも知れませんが、やはり自分も憤りを感じます。
さらに残念なことに、この風潮が将来、より強まると自分たちの子供たちの世代に強い被害がでてしまいます。このような事は無くなってほしいのですが、自分の未来予想図は不安でしかたありません。
試験監督お疲れ様でした。
自分は昨年センター試験を受験しましたが、時間的に余裕があるわけではなかったので、あっという間に終わってしまったという感があります。模試などの試験監督をみてても思ったのですが、試験監督は本などを読むこともできず、何時間もひたすら監督をしていなければならないため退屈である点と、センター試験においては強い義務感も生じると思うので、終了後は解放感とともに精神的疲労を感じたことと思います。
自分も偏差値には疑問を感じます。偏差値が高いのは(遺伝的に)頭がいいからとか偏差値が低いのは(遺伝的に)頭が悪いからのような世間的な目があるという点です。私は、いわゆる(大学受験では機械的な?)勉強ができなくても、いろんな頭の良さがあってもいいと思います。創造的な漫画家とか、自分が好きで得意な分野で力を発揮する人はみんな頭がいいと思います。
努力するのが大切なのは間違いないと思いますが、努力の方向性の違いを無視して偏差値でくくってしまうのは個々人の個性的な才能をつぶしてしまうのではないかと思いました。
センター試験の監督業務お疲れ様です。私も試験監督のバイトをしたことがあるのですが、マニュアルに従って、物事を円滑に済ませなければいけないことに非常にプレッシャーを感じました。
私は偏差値による評価はあまり好ましくないと思います。試験で一発勝負ですし、皆同じような問題を解いて、それを頭に詰め込み、それを繰り返すばかりです。これでは個々の独創的な考え方が生み出されなくなると思います。
たとえば、国語の文章題で、模範解答が①とします。しかし、人によっては、②とか③が模範解答だと考える人もいると思います。私も、高校のときに納得できない問題・解答がありました。
これは人によって、文章・問題のとらえ方が違うから間違いが起こるのだと思います。だから、問題を間違えて、国語の点数・偏差値が低いからといっていける大学・将来を絞り込まれることではいけないと思います。
ブログを読み2年前のセンター試験を思い出しました。当時はとにかくいい点をとって有名な大学に行くことが成功と思っていました。
ブログを読むと個々の学力を測れないという面や、ビジネスチャンスになっているという面を見て違う角度からセンター試験について考えさせられました。ただ私個人ではやはりセンター試験は一回きりであるからこそ、そこに向けて意欲がわき長い受験勉強を乗り切れるのではという気がします。
試験監督お疲れ様でした。
私も、この大学へ入るために、センター試験を受けましたが、やはり、私もセンター試験は大学へ入るための試験の一つにしか考えることしかできていませんでした。過去問から今年の試験問題の予測をしたり、何度も予想問題を解いたり。センター試験で良い点を取れなければ死んでしまう、というくらいかなりシビアな勉強生活な毎日を送っていました。
このブログを読んで、今までそう思っていたセンター試験に対する考え方がすこし変わったような気がします。センター試験のその裏にはたくさんのひとの努力と、教育と、そして産業。大学を合格し、もうセンター試験を受ける必要がなくなった今、あらためてセンター試験について考えてみたいなと思いました。
試験監督お疲れ様でした。
私は、センター試験は必要だと思います。一元的な物差しではかることで個人の能力や個性をはかれないかもしれませんが、かなり多くの人が大学を受験するなかで、センター試験は学力の一定の基準を与えてくれると思います。
それより問題なのは、親の年収によって子供の受けられる教育に格差が生まれていることだと思います。
こちらのほうが、個性や能力を発揮しにくくしていると思います。
監督お疲れさまでした。
一年前もセンター試験当日は大雪で、会場に行くのが大変だったことを思い出しました。
さて、僕は一回のセンター試験で個人の実力を決めるのは難しいことだと思います。
しかし例えば、どんなにプロスポーツ選手だってミスすることはあります。ただ、ミスを少なくするために努力することで、プロの中でも一流になれると思います。
受験も志望校合格のために、努力した人がミスなく良い点を取れるのではないかと思います。
センター試験は「運」とも言われますが、努力した分だけ「運」も味方についてきてくれるかも?
今年のセンターは去年より平均点がかなり上がったそうですね!去年の数ⅠAはひどかったです!
思い出しただけでも手に汗が…
お疲れ様でした。自分も去年の辛かったセンター試験を思い出します。未だに自分が埼玉大学に通えていることが信じられません。
この記事を読んで、自分が受けた時のセンター試験を思い出しました。私のこれまでの人生で一番緊張しました。そのセンター試験を終えた次のニュースを見たら、センター試験が終わってからテストができなかったため、自殺をした学生のニュースがやっており私は身震いしました。命を絶ってしまう人がでるほどの重大な試験をやる必要があるのか私は少し疑問に思いました。
センター試験は対策が出来ます。早いうちから自分の学力と目指すべき学力を知り、参考書を使い、予備校を使い、過去問を使い、時には漫画を使えば、東大にだって合格できる。これは一見、平等な正しい社会のシステムに思えます。
しかし、学問する、ということは対策することでしょうか。模試で高得点をとることが学ぶということでしょうか。
人は‘学びたい’という意思を本来持つものです。しかし、わたしたちは‘学ばされる’という意識をもつようになってきています。
小学校の学力テスト導入も一概に良いとは言えないと思います。
正解を出す、ということより、考えることに面白さを見出す、ということの方が、学問として、価値あることなのではないでしょうか。
センター試験は、その価値を生かせないシステムだと思います。
試験監督お疲れ様でした。
センター試験、懐かしいですね。結構悲惨でした。たしかにセンター試験は一元的な物差しかもしれないです。でも僕は、その一回のチャンスを自分のものにするための今までの努力の量を測るもので、結果も点数だけでなくその人の努力も見えると思います。
試験管お疲れ様でした。
今でも去年のセンター試験のことが思い出されます。ただあのつらかった日々を体験したからこそ今の自分がいると感じました。
試験監督お疲れ様でした。
センター試験、懐かしいですね。結構悲惨でした。たしかにセンター試験は一元的な物差しかもしれないです。でも僕は、その一回のチャンスを自分のものにするための今までの努力の量を測るもので、結果も点数だけでなくその人の努力も見えると思います。
自分が受けていたときは、考えもしなかったセンター試験の商業化。受験生の登竜門なだけに少し寂しさを感じました。これが今の日本の背景なのでしょうね。
試験監督おつかれさまでした。埼玉は天気にも恵まれてよかったと思います。確かに現代の教育制度は、偏差値による一元的な評価システムに偏りすぎていて、才能ある人たちの芽を摘んでしまうものであると思います。しかし、学問によって優劣をつけるのも、その人のそれまでの努力で優劣をつけていると考えたならば正当なものだとも思えます。
センター試験監督お疲れ様でした。
センター試験には、一元的なものさしではかることにより個人の能力を決めるのは難しいというような批判も多くあるようですが、私はそれでもセンター試験が必要であると思います。
大学による二次試験の前に、センター試験によって自分の学力レベルがある程度レベル分けされることは、受験の効率化に大いに貢献していると思うからです。
また、一回の試験だけで決めてしまうのでは当日の体調や予期せぬミスにより実力を出し切れないこともあるので不公平だという批判をよく聞きますが、わたしはそれも実力のうちでありしかたのないことだと思います。
そのようなことを防ぐために、日ごろから体調管理をしっかりしたりウッカリミスに気をつけることが大切だと考えます。
センター試験はもはや、頭で解く試験というよりは、テクニックで解く試験に変わりつつあると思います。数多く出版されているセンター試験対策の本や大手予備校では、いかに点をとるかのテクニックを伝授することが多いからです。
そのような状況にある今、センター試験は誰にとっても平等で公平な試験ではなくなっているように思えます。かといって、センター試験がなくなってしまったら、受験生の学力や努力を知る基準がなくなってしまうし、合否の基準がなくなてしまうので、センター試験という「一元的な物差し」は必要不可欠なものだと思います。
この記事を読むと、一年前にセンター試験を受けたときの緊張がよみがえってきます。当時は、「センター試験で将来が決まる」と担任の先生や両親に言われ続け、何の疑問も無く勉強に励んでいました。
この記事を読んで、大学生になった今(時間は有り余っているので)、センター試験について冷静に考えて見たいと思いました。
最近はセンター試験に対する認識・捉え方が変わってきていると思います。
かつての大学入学の資格試験というものから、受ける大学によっては、センター試験の結果がそのまま合否につながるという現状があります。これでは大学それぞれの入学試験に特有性がなくなり、本当にその学生が入学するのにふさわしいかが測れなくなってしまいます。
そういった点で一元的な物差しにすぎないセンター試験と、それぞれの大学特有な視点で学生をみる個別試験との関わり方というものをもう一度見直してほしいものです。このことは活気のある学生の育成に繋がるのではないでしょうか。
センター試験…自分はつい1年前に経験したばかりなのでとても新鮮な気持ちです。
たしかにセンター試験だけで学力をはかり入学者を決める制度には少し納得できないところもありますが、なら他にどうすると言われたときに今以上の意見は思いつかないのでしかたないのかなと思います。
自分は特に力を入れてなかった科目がマーク式のためたまたま運よく点がとれたということがありました。
こういうのは本人はうれしいですが他から見るとやはりよくないと思います。
逆に自分のまわりには普段より全然ダメだった人も多数いました。
運も実力のうちとは言いますが、さすがに1回の試験で人生を左右するのはどうかと思います。
2回試験をしていいほうの成績を使うとかはできなかったのでしょうか??とかも思います。
そして今になって思うのがブログにもあった監督者や試験を利用した営業などですね。
自分的には正直「うまいこと商売にむすびつけたな」と考えています。
やはり商売もその人達の人生がかかってるわけですし汚いとかはないかと思います。
あと監督者の人も大変ですよね。
ミスできないプレッシャーがかなりありますし。
そんな大役を無事にこなすことができた先生はすごいです。
監督お疲れ様でした。
先生の、「一元的な物差しで輪切りにする息苦しさ」という部分にとても共感しました。
今の日本の大学入試の状況では、センター試験が例に挙げられるように”学校の勉強が得意”ということが圧倒的に有利であると思います。当然人によって向き不向きがあり、ただその、学校の勉強という一面でその人の価値を決定してしまってるような気がして心苦しいです。
試験監督お疲れ様でした。
センター試験が一元的なものさしである側面を持つことなど考えもしませんでした。自分たちはそういう時代に生まれ、その時代の流れに乗って生きていかなければならないものだと考えていたので何も考えずセンター試験を受けました。しかし、このブログを読み、そんなひとつの考えしかできない自分が恥ずかしくなりました。ひとつのものを様々な側面から眺めることの大事さを痛感しました。
講義を受講している者です。
センター試験監督お疲れ様でした。
このブログを読んで去年自分が受けたセンター試験を思い出しました。自分が受けた時は、自分のことで精一杯でこの試験がどれだけの影響を及ぼしているかなんて全く考えていませんでした。
実際は、試験監督をしてくださる方々や準備をしてくださる方々がいて成り立っているんですよね。さらに、そこに商業的なことに大きく影響を与えているとは驚きでした。
また、センター試験は「一元的な物差し」であるという考えもとてもよく分かります。でも、人の個性などを試験に取り入れていくことは、尺度がないだけに人によって偏り、とても大変なのではないか、とも思います。
これからの試験や教育がどのようなものであるべきかは難しい問題だと改めて思いました。
試験監督お疲れ様でした。
自分は高校3年生だった去年センター試験を受けました。その頃はただひたすら偏差値が上の学校に行くことだけがいいものだと思っていました。確かにそうかもしれません。しかし大学を卒業し社会に出たときにセンター試験の勉強は役に立たないのではないかと最近思いました。仕事ができる、できないとかそういうことに学歴は関係ないと思います。
ここ数年の就職氷河期ではなんともいえませんが私がアルバイトしている企業では大卒も高卒も関係なく働いています。同じような年頃でも高卒で主任になっている人もいます。どこの大学を出ようが関係ないと思うようになりました。必死に頑張っている受験生には申し訳ないけどどんな大学でも自分が入学した大学でしっかり自分磨きすることが最も大切だと思います。
試験監督お疲れ様です。
私は一浪したので、センター試験は2年受けました。一年あったとはいえ、なかなか自信を持っては挑めませんでした。でもなつかしいですね。
ちなみに私もセンター当日、予備校で実施された数学解答作成のアルバイトをやりました。解答作成といっても、問題を解くだけでしたが。問題が到着してすぐコピーを刷って、数学ⅠAと数学ⅡBと解くという業務でした。これで予想平均点を出すのだそうです。
点数はわからないままですが、やはり満点とはいえなかったと思います。
ところで、わたしには二浪している友達がいます。部活の仲間で色紙を書いたり、御守りを作って送ったりしました。浪人する苦労は大変なものです。本当に頑張ってほしいです!
監督お疲れ様でした。埼玉大学の「人間形成と教育」を受講している学生です。
センター試験ほど理不尽なテストはないと思います。例えば、今年は社会で日本史が難化しましたが、地理は易化した。単純に考えると地理選択者が有利です。
しかし、全教科の難易度が有名私立・国立ほど高くなく、全体的に平均的なテストで全国の高校生の学力を確認するテストとしてのセンターは有りだと思います。
試験監督おつかれさまです。
大学生になり、早一年が経ちますが、センター試験の日のことは色濃く心に残っています。時間との勝負であるセンター試験、その一回のテストで自分の進路が決まると思うと心臓に良いものではありませんでした。試験終了時に泣き崩れる人もいたり、受験者の数だけそれぞれの思いがあるのだと思います。
今、授業は大変ではありますが、穏やかな大学生活を送れていますが、もうセンター試験を受けたくない半面、もう一度受けてみようという気持ちもあります。何かに一生懸命に目標を持って刺激を受けて生活することが大切だなんだなと大学生になり実感しています。センター試験は青春の一つなのかもしれません。
センター試験お疲れさまでした。
去年のことが思い出されます。
センター試験では少しのミスで受けることのできる大学が減ってしまい、ひどいところでは足切りなどあるので、センターが全てのようなものです。
埼玉大学もセンターと一般で8:2なので、ほぼセンターで決まりのようですね。
昔は面白い問題が出てよいですね。今では学歴社会と言われているので、まじめな問題しか出ないと思うとなんだかつまらない感じがします。
センター試験も二回やってよい方を使う制度のほうがよいと思いました。
お疲れ様でした。私はセンター試験と聞くと苦い思い出がよみがえり二度とやりたくないと強く思いますが、それでもセンター試験は大学というなかで細分化された学問を学ぶ上で、教養を養わせるには必要なことではないかと思います。
またある分野において天才的な人たちといわゆる‘受験戦争’で平凡な私たちが渡り合うには、センター試験のような評価基準があってもいいのではないかと思います。
ただ、テストで点数が取れるだけの学力でその人の人間的優劣を決めるのはどうかと思います。難しいですね。
私は双子で、そのわたしの双子の弟は浪人して、今年センター試験を受けました。センター試験は当事者にとっては大変なものだけど、ひとつの人生の分岐点としてよい思い出だと改めて感じました。
試験監督お疲れ様です。自分もセンター試験のことを思い出してもあまり良い思い出とは言えません。そして、センター試験は確かに人のはかれない面を多く持っていると思いますが、それでも自分はセンター試験までの過程を経てなにか成長できたのではないかと思います。なので自分の考えではこれからも続けていってもらいたいものではあります。
監督お疲れさまでした。
僕ももちろんセンター試験を受けましたが、今になってもあの頃の緊張感、緊迫感を思い出します。化学の試験では前の休み時間で教科書を確認したところがそのままテストに出て、ついてるなぁ~、と思う次第であります。
自分が必死に頑張ったセンター試験が1年前だったことに驚きを隠せません。受ける側ではただ自分の実力を最大限に発揮しようとしていたため、周りの運営その他の係りの努力など考えもしませんでした。
今大学センター利用入試のあり方が叫ばれていますが、実際に上位層の差が出にくいのは事実です。今後の大学入試制度に注目したいです。
コメントさせていただきます。
センター試験業務お疲れ様でした。私もこの時期になるとセンター試験を受けたときのことを思い出します。私は極度のあがり性でテストになると毎回のようにお腹が痛くなり、さらにお腹の音がまわりに聞こえているという恥ずかしさから問題に集中出来ず本来の力を出せずに終わりました。
結局センター試験は2回受けましたが、2回とも実力を発揮出来ず自分が望む学部へ進学することが出来ませんでした。あまりに主観が入り過ぎているかもしれないですけど、センター試験を個人の能力の物差しにしてしまうことにはあまり納得出来ません。
あとセンター試験がある意味ビジネスになってしまっているというのにも同感です。もはや高校までもがそのビジネスの歯車の一つになっています。
高校時代は自分のペースではなく毎週のように模試を受けていました。各予備校が時期をずらして実施するので絶え間ない状態でした。あげられている例ももちろんあります。ここまでするなら韓国のように受験生の待遇をしてくれてもいいかなぁと思います。
センター試験を受けてからしばらく経ちましたが、その当時はセンター試験をビジネス的観点からとらえたことはありませんでした。
ただ、自分の人生を決める大きな分岐点ではあると意識していました。
確かにセンター試験だけでその人の能力や可能性がはかれるとは思いません。
しかし、才能の差はあっても高得点を取る者たちは、たいてい努力を惜しみなくしていた人たちだと思います。
そのように、努力をはかる指標としてのセンター試験は必要だと私は思います。
監督お疲れ様でした。
そんなにもたくさんの人がセンター試験に関わっているなんて知りませんでした。
そもそも大学の選抜試験であるはずなのに、ひとつのビジネスチャンスになっているのは少し残念な感じがする。この事が一人歩きし、受験生に悪い影響が出ないようにしなくちゃいけない。
自分は浪人したので、センター試験2回受験しました。
今はもう受けたくないですが、本当がんばって良かったと思います!
後輩も結構浪人してるので、吉報が聞ける事を願っています。
私が大学入試センター試験を受けたのは4年前の話です。その直前が人生で一番勉強した時期だったのではないかと考えています。
しかし、大学入学して4年が経ち、その勉強した内容のほとんどを覚えていないのが現状です。大学のテストにおいても、ただ単位を取るために勉強するだけで、それがその後に役立つのかどうか全くわかりません。
その点今回受講した、人間形成と教育の授業はテストもなくただただ授業を聞いているだけでしたが、他の授業と比べ楽な気持で授業が受けられ、記憶に大きく残っています。自分の知識が少しだけ増えたと感じる講義でした。
ブログの中にある、一元的物差しという言葉がとても気になりました。
現在、大学入試においてセンター試験は不可欠なものになっています。センター試験は一発勝負であり、失敗してしまえば希望の大学に進学することができない場合もあります。
センター試験だけでそれぞれの人の本質を見極めるのは難しいです。
しかしどこかで物差しを用意しなければならないのが、現在の教育の世界だと思います。
その物差しがセンター試験であり、それを踏まえて、各大学が個人の本質を見極める努力をしていくべきだと思います。
センター試験監督お疲れ様です。
センター試験は大学入試において重要で人生が決まってしまうほどの影響力があります。
試験官の方々、問題を作成する方々など多くの人が関わっていることを改めて実感しました。今までの問題とかぶらないように良問を作成するのはとても困難なことだと思います。
そこまでの労力が使われてるからこそ受験生がセンターの勉強に励みいろいろな意味で成長することができると思いました。
試験監督おつかれさまです。
私も去年センター試験を受けましたが、「ここでAを選ぶかBを選ぶかで人生が変わってしまうんじゃないか」という恐怖の中で受験したことを覚えています。
確かにセンター試験が「一元的」な性格を持ってしまっているのは問題だと思いますが、私が一番問題だと思うのは「試験のための勉強」が最優先されてしまっていることだと思います。高校では大学に入るための勉強(センター演習等)が重視されますし、大学に入ったら就活のために資格をとることを重視します。これでは自分のためになる勉強に比重を大きくすることができず、自分を高めるチャンスが失われてしまっていると思います。
試験監督、お疲れ様でした。
私は推薦で大学に合格することができましたので、センター試験とは無縁の受験生でした。しかしクラスメイトたちが、それこそ必死に勉強をしていたことを思い出しました。
このブログの中で「産業としての大学入試センター試験」の話題が非常に印象的でした。今まで考えたこともありませんでしたが、確かにその通りだと納得しました。正に「一元的物差し」で見ていました。センター試験は受験生だけのものではないのだと実感しました。
「一元的な物差し」の問題について興味を持ちました。
先生の考えることにもはとても納得できました。今の時代に子どもや青年を見るだけで彼らの多様性を見抜くことは到底できないと思います。なので、その「物差し」としてセンター試験の偏差値しか判断材料がないのだと思います。
たしかにこれは解決しなければいけない問題だと思います。ですが、自分が受験の時は「センターで点を取ればいいだけだ」と割り切ることでセンターに対してポジティブに考えていました。なので、センター試験というのは案外とてもシンプルなのかもしれません。
センター試験監督御苦労さまでしたwwwwww
センター試験には多くの受験生が苦労すると思います。努力したのに成果がなかなかでない人も多いのではないでしょうか。それでも毅然とした態度で日常を過ごすのが大切なことだと自分は考えています。そう、ちょうどオシャレ先生が書いている某漫画のキャラクターのようにne☆
斬魄刀100本分伸びるだけの始解に絶望してからもう何十年を数える。
ずっとずっと卍解の修行をしてきた。
辛くても寂しくても修行してきた。
ロリ巨乳…ちゃう、乱菊と離れることになっても修行した。
真央霊術院に入学しても修行した。
天才と呼ばれても修行した。
一年で真央霊術院を卒業しても修行した。
キモいメガ…ちゃう、藍染隊長に勧誘されて劇団藍染…ちゃう、護廷十三隊の五番隊に入隊してからも修行した。
鐵☆拳☆断☆風はんを失笑…ちゃう、六車はん達で実験しながらも修行した。
その結果、待っとったんは13km伸びるだけの卍解やった。
あんまりや、あんまりや。
彼も様々な修行をしてきたのでしょうね。なのに結果は13km伸びるという力だけでした。世の中にはこんな感じの残念な受験生もいるはずです。つまりなにが言いたいのかというと、みっちゃんは俺の嫁というこ・・・おっと誰かきたようです。では、次回の先生の講演を楽しみにしています。
試験監督お疲れ様でした。
一元的な物差しという点に非常に興味を持ちました。学力だけが才能ではないと思うので他の才能を見つけられる方法があればよいと思います。しかし、効率が優先される現代では偏差値の代替物を考えないのが残念だと思います。
長篠の戦の鉄砲の数問題。今では考えられない面白い話ですが今の入学試験にこのような問題があっても良いのではないのでしょうか。
先日、何かで「地方新聞会社の変わった入社試験」という記事を見ました。ちょっと曖昧ですがいわゆる萌キャラという女の子の絵を見て萌え要素を挙げよというような問題でした。私は記事を読んでいて会社の求める人材が一発でわかるうえに答えがない点においてすごく良い試験だと思いました。
私は現在就活をしています。そのなかで企業側からよく耳にするのが人物重視ということばです。(本当かどうか疑問ですが…)
能力を測るある程度のものさしは必要かもしれません。ですがもっと個人の人間性や特技を活かした大学試験があってもいいのではないかと思います。
すごく多面的な見方があるんですね。
深いと思いました。
私も二年前にセンター試験を受験しました。当時は点を取るのに必死で、センター試験の問題点について考える余裕なんてなかったです。センター試験は努力の指標としては、悪くないと思いますが、確かにあれだけで個人の能力を見極めるのは難しいと思うので、もっといろいろな入試を考えてもいいと思います。
監督お疲れ様です。
たしかに今センター試験は大きなビジネスにもなっていると実感しました。
受験生は点を取ることに必死だけどその裏にさまざまな問題点があるということも知り、興味がわきました。自分の身の回りにある些細なことにもこれから興味をしめしていきたいです。
試験監督お疲れ様でした。
この時期になると1年前に受けたセンター試験の記憶が蘇ってきます。今思うと、懐かしくていい思い出です。友達と問題を出しあったりしてクイズ感覚で勉学に励んでいた日々を思い出します。人生における青春の1ページですね。
さて、人の能力を測る手段としてのセンター試験について述べられてありました。僕もこれについては前々から少し疑問を持っていました。なぜかというと、センター試験の結果で通うことになった大学名で人を評価したり、就職する際にも少なからずの影響をもたらしているからです。確かにセンター試験は一種の学力を測るのに適した試験であるが、ただそれだけで学生の本当の価値を測れるものではないと思います。
しかし、学力以外で学生の才能や長所を見極め大学の入学試験を行うのは非常に難しいことで、現実的にかなり厳しいと思います。なぜかというと、毎年センター試験を受験する人数は数十万人にも達し、ほとんどの受験生が納得のいく、その評価方法が何通りに達するかわからないからです。
ここで見方を変えて、センター試験は学生の学力という一つの個性を測るものだと思えば、少しは納得いくのではないかと思います。センター試験のために幼いころから努力を積み重ねてきたり、努力してきたことに対して評価することも一つのアイデアだと思います。
次に、産業としての大学入試センター試験についてです。センター試験をセンター試験に携わる企業がビジネスチャンスとして、なんらかの行動することは仕方がないことだと思います。
なぜかというと、毎年数十万もの学生がセンター試験を受けるということは、それだけ大規模な需要があるということで、そこから利益を求めようとする企業側の考え方は合理的であるからです。
しかし、予備校などが利益追求だけを求め、学生のことを商品の一部としか見ていないとしたら、あまりにもかなしいことです。現代社会において、教育と産業は強く結びついているので、今後さらなる議論が必要であることは言うまでもないと思いす。
センター試験お疲れ様でした。
ブログ拝見しました。
たしかに、センタ-の見方としてそういった考え方もできるかもしれませんが、自分の考えでは、現在のセンタ-はあくまで努力次第ある程度、個人の能力を見るのが二次ではないのかと思います。
また、もっと特別な能力を伸ばす場所として、専門大などの選択肢もあるわけなので、現在のセンターは、それはそれでありなのかなとも思います。
私が受験したときには自分の事でいっぱいいっぱいで全く気づきませんでしたが、センター試験にはこんなにも手厚く人員が割かれていたのですね。今更ながら多くの人に支えてもらっているのだなあと感謝しています。
一元的なものさしという話は本当にその通りであると思います。逆に大学から見たときの"優秀な学生"というのも"筆記テストが優秀な学生"ではないのではないかということを感じました。
個性的な学生を積極的に受け入れられる仕組みを大学がつくってもいいのではないでしょうか。
たしかに一元的な評価の独り歩きは心配ですが、現在では人の多様性を見抜く術がないためしょうがないことだと思います。
ですが、自分としてはセンターで点を取れさえすればいいという考えだったのでシンプルな判別方法だと考えます。
センター試験のことを「一元的な物差し」と表現していましたが、確かにその様な面があると思います。しかし、現行の教育制度は、30人1クラスという大人数、で統一された知識を詰め込むだけのようなカリキュラムで、考える力や個性を伸ばす様なものではないと思います。そのため、教育の延長線上にある受験、というものがこのような形になってしまうのは仕方のないことだと感じます。もっと多様な発想力を育てるような教育システムになってほしいです。
自分はセンター試験に関わらずどんな形であれ大学受験というのは人生の中ですごく大切なことを学べる時期だと思っています。まだ20年しか生きていないので受験というものがこの後の人生でどれだけの糧になるかは死ぬまでわからないと思いますが、少なくとも自分は大学受験をして良かったと思っています。
センター試験は個人の多様性や才能を潰してしまう可能性があることを危惧してみえますが、自分はそれでも良いと思います。まず今の世の中は何もかもを便利にしすぎていて、苦労するということを排除するために尽力しすぎだと思います。人生の、それも18歳という時期に理不尽な試験が一つくらいあって何が悪いのでしょうか、全員が同じ条件で受けることのできる試験でこれ以上まだ未知なる本人の可能性を引き出すべく改善する余地があるのでしょうか。
正直今の子供(自分も含め)は相当に甘やかされて育っていると思います。いわゆる「ゆとり世代」の自分が思うに、そもそもゆとり世代とはある特定の年齢層を指すのではなく、時代の風潮を指していると思います。若いうちの苦労は買ってでもしろ、と言いますが子供は進んで苦労などしません。子供に限らず人間はたいてい放っておけば怠けるほうに進むものだと思います。
今の若い世代にはセンター試験くらい理不尽なテストを受けさせたほうがいいのではないかと思います。そこで失敗しても浪人すること、これからの人生でその失敗をリカバリーしていくこと、たくさんのことを学べると思います。その試験に合格して(本来の目的である大学入試の資格試験に合格して)こそ社会人としてのスタートを切ることができるのではないでしょうか。確かに大学受験でやる勉強はほぼ確実に今後使わないものがほとんどだと思います、しかしそれを勉強すること自体に意味があると思います。努力することを学ぶ場としての受験があって良いと思います。
その意味からするとむしろ推薦入試の方こそ先に撤廃するべきだと思います。どうして推薦されるような人間が一般の入試を受けないのか、そちらの方こそお金や各大学の思惑にまみれているように感じます。いずれにしろ現存するシステムでこともなく成り立っている大学受験やセンター試験に大人があれこれ言ってしまったら、今現在大学入試に向けて一生懸命勉強する子供たちに失礼だと思います。センター試験という公平で理不尽な物を乗り越えて、人間として一つ成長していけばいいと思います。
と、ここまではセンター試験そのものには賛成なのですが、商業的に見たセンター試験については下劣であると思わないでもないことが多々あります。そもそも本当に子供の合格を願ってる会社や人たちがウ〇ールだキット〇ットだのを発売するわけがないですし。しかししょうがないことでもあると思います。
これに限らずバレンタインだクリスマスだ母の日だ敬老感謝の日だなんだで人の気持ちに付け入った商売というのはさりげなく日常で多々行われています。大学受験も受験生やその家族以外の人から見たら一年に一度の年中行事の一つに過ぎないですし利用することでお金が動いて経済としてお金が回るのであれば今の日本には良いことだと思います。
しかし受験生に対し悪戯なキャッチコピーや宣伝文句で精神衛生を脅かすものもあります。本当に子供のことを考えたセンター試験の応援になれば良いと思いますが、なかなか難しいことだと思います。センター試験に対する見方を子供だけでなく大人も変えていかなければならない時代が来ているのかも知れません。
センター試験監督お疲れさまでした。
私は「一元的な物差し」は確かに今の社会に多くみられると思います。評価側はその「一元的な物差し」があればどんな人物も見定めることができます。ただ、それは被評価者のわずか一面を評価したに過ぎないでしょう。
そのような評価が短期間に多くの人を評価する際には有効だということは分かりますが、その評価結果が必ずしも有意義なものになるとは到底思えません。
これから日本の様々な分野の試験・評価といった類のものが多様性を容認できるようなそれに変わっていってほしいと思います。
センター試験監督お疲れさまでした。
確かに「一元的な物差し」は今の社会の中で多くみられます。この評価の仕方は被評価者の一面だけを評価するもので、必ずしも有意義な評価結果にはならないと思います。
これからの日本の多くの分野の試験・評価といたものが多様性を容認できるようなそれに変わっていってほしいと思います。
私は一浪したためにセンター試験を二度受けましたが、こんなにも様々な人が関わり、ビジネスチャンスと関連付いているとは考えたこともありませんでした。センター試験は共通一次試験として、経済的利害に左右されるのはとても違和感を感じます。
センター試験監督おつかれさまでした。私は昨年度のセンター試験を受験したのですが、当時は余裕もなくて今回のブログを読んだことによって改めて多くの人の協力があったから成り立っているのだと感じました。
試験監督おつかれさまでした。
センター試験に関してですが、私もこれを受けて大学に入学してきたので、善し悪しを把握しているつもりです。受験者の評価を客観的なものにするためには、このような試験方法しかないとは思いますが、疑問な点も多々あります。
この試験を受ける以上、大学入学に意欲がある者ですから、センター試験の総得点が大学入学資格の評価の一部とすること自体考え物です。大学はそれぞれ、求める学生像が違うわけですから、大学独自の試験で受験者を評価するのが最も妥当です。
また、こうして決められた偏差値や大学名による名声は、就職時にレッテルとして貼られるものであっても、その人個人の能力の高さや企業に勤めるようになってからの仕事の出来具合と結びつくものではありません。
一元的な評価しかできない今の受験制度を変えるには、各大学が主体性を主張しなくてはいけません。もう慶応義塾大学では動き始めていますよね。
私はセンター試験のあり方に疑問を感じる。マークシートのためのテクニックがあることも確かであり、そもそも学力とは何だろうか、と感じる。
たとえば、埼玉大学は、およそトータルで7割、センター試験での点数を必要とするが、それは同時にどの分野も7割取れればいい、もしくは、10割とって4割の教科があってもいい、という態度でもある。この時、我々の学力、学びの姿勢は果たして健全か、結果的に大学に合格すればいいのか、疑問が残る。
自分は1浪したので、センター試験は2回受けました。しかし、何回受けても、センター試験独特の緊張感に慣れないものだなと思いました。
センター試験が産業面でも関連しているとは、驚きました。確かに、予備校や運搬業者にとっては、なくてはならないものだと思い、新たな一面でセンター試験をみることができました。
試験監督お疲れ様でした!
センター試験の時期になると駅のホームやスーパーのガラスなどに、「がんばれ受験生!!」というような応援メッセージが溢れており、「自分も昔がんばったな」という気持ちと、「みんながんばれ!!」というちょっぴりさわやかな気持ちになれてしまいます。
センター試験入試制度について考えるのは難しいことですが、「経済的利害に左右されない教育」だけを追求することはとても大変なことなんだということが少しわかりました。
センター試験から半年が経ちましたが、コメントさせていただきます。
まず、リスニング問題での不具合について、私はたとえ0.02%しか不具合がなかったとしても、0%になるような方法で行うか、不平等になるような形式はやめるべきだと思います。なぜなら、たとえ、再テストを受けられたとしても、不具合があった後の教科には少なからず影響があり、心的余裕がなくなってしまうと思われるからです。
次に、一元的評価という点で、センター試験の結果のみで合格になる大学が年々増えていることは問題があると思います。センター試験はマーク式であることや、出題範囲が狭いことにより、パターンを覚えてしまえば点が取れる方式であり、個人の特性による差が出にくいと考えられ、学生が想像的な思考を捨てる手助けをしているように思われ、改善が必要だと思います。
今まで、受験や過剰な競争、学歴社会についてあまり変だと考えることなく、何となく受け入れてきた気がする。しかし最近、これらのことについて違和感をもつようになった。
「テストは努力した人が努力しただけ報われるから公平だ」とよく聞くし、私自身、そのような考えを持っていた。しかし本当にそうだろうか。例えば親の収入が少なくて塾に行けない人、家庭の事情で家事をやらなければいけない人などのことを考えると、公平だとは言えないと思う。それなのに、テストの点数が他人からの評価、将来の生活にまで大きく影響するといっても過言ではない。
やさしさ、思いやり、誠実さなどの人間性よりもテストの点数の方が大切なのだろうか。私はそれは違うと思う。私は教師を目指す者として、子供に競争させること以外の教育の方法を考えていきたい。
私も以前からセンター試験の制度には疑問を持っていたので、この記事を読んで非常に共感できる部分がありました。先生がおっしゃっていたように一元的な物差しだけで優劣をつけることには問題があると感じます。なぜなら、その一元的な物差しによる評価が大学を決定し、その後の就職活動における優劣を生んでしまう一方で、その人が実際に大学や企業等で貢献できる能力があるかどうかは判断できないと思うからです。また、センター試験はその時のたった一回の成功または失敗によってその後の進路を大きく変えてしまうという点でも問題があるのではないかと思います。たった一回のそのときに大きな失敗をしてしまった場合、大学側からは能 力不足、努力不足と判断され、それまでの継続的な努力に関しては全く評価されないということになるからです。確かに定員がある以上、「学力試験」という方法が一番やりやすいのかもしれませんが、学生個々の多様性や日々の努力を評価する別の何かがあっても良いのではないかと感じます。
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