哀悼 榊莫山
今年逝去された著名人の中に、書家の榊莫山氏がいます。私の子ども時代の鮮やかな記憶に残る方でした。
1960年代に、氏は私の通っていた大阪市立真田山小学校で「図画工作の先生」をしていました。榊氏の書家としてのご活躍は私が紹介するまでもなく広く知られていますが、「小学校の先生」時代の事実や人柄にふれた記録に出くわしたことがないため、ここに哀悼の意を込めて、当時の思い出を記しておきたいと思います。
小学校の先生時代の榊莫山-卒業アルバムより
当時の真田山小学校は、5年生以上になるとすべてのクラスの生徒たちが「図画工作」の指導を榊氏に受けることになっていました。
子どもたちが氏につけていたニックネームは「バクダン」。
4年生以下の子どもたちは、上級生から「バクダンだけには気をつけろよ」と諭されていました。それには、子どもたちなりの確かな理由がありました。
まず、莫山先生はおでこの張った仁王さんのような風貌です。身長は高く大柄で、子どもたちを叱るときには鋭く大きく「眼を剥く」ため、東大寺や法隆寺の金剛力士像が眼前に立ち塞がるかのように感じられました。
次に、よく通る声音が、子どもたちを叱るときには、天地を切り裂くような凄みに変貌する点です。大変な愛煙家で、前歯付近はタバコの脂だらけの上、確か一本歯が欠けていましたから、凄みのある声とそれを発する口元を見聞きするだけで十分に迫力がありました。
大阪市立真田山小学校の校章
以上のことは、「体育会系の教師」にも真似ることのできる外形的なことに過ぎません。
この小学校の校章は、戦国武将である真田幸村の六文銭に大阪市の市章である澪標(みおつくし)をあしらったものです。六文銭は三途の川を渡るために必要な銭で、澪標は難波江を行き来する舟が浅瀬に乗り上げないように立てた標識です。
そこで、確かな根拠を持たずに「バクダン」に逆らうことは、恰も三途の川の浅瀬につまずいて「地獄行きが確定する」のを覚悟しなければならないようにさえ思えました。
しかし、子どもたちは決して「バクダンはこわい先生だから恐ろしい」と感じていたのではありません。むしろ、子どもたちはバクダン先生に「畏敬の念」を抱かざる得ない何かを常に感じ取っていました。
その一つは、子どもたちからは筋の通った「信念のある人」と見えていたことです。風景画を課題にして校庭の様々な場所で生徒が画を描いている授業時間には、一人ひとりの子どもたちのところを丁寧に回って、それぞれの子どもたちにふさわしい指摘をする方でした。決して型にはまった指導をするのではなく、それでいて悪ふざけをした生徒を叱る段には首尾一貫した姿勢を貫くのです。全教科を担当する小学校の先生とは、次元を異にする威厳を放っていました。
子どもたちからみれば、ガキ大将から優等生までの区別なく、子どもたちと気さくに冗談を交わしながら指導する、公平さと公正さに溢れるような先生だったのです。
もう一つは、子どもたちの間では「バクダンは、世間では大変な先生らしい」という噂が飛び交っていた点です。学校の他の先生の口からも、「榊先生はふつうの先生やあらへんで」とときおり聞かされました。当時の学校の先生にはまだ十分な「権威」がありましたから、その学校の先生方が口をそろえて「普通の先生ではない、偉い人や」と言うからには「ものすごい人なのだろう」と畏怖されていたのです。
当時の校長は確か「全国小学校校長会会長」をしていた業界の「名士」だったと記憶しています。が、この校長でさえ「バクダン」に廊下ですれ違う時には校長の方から頭を下げる光景を子どもたちは普段から見ていました。「バクダン」は職員会議の時以外は「職員室」にはおらず、校舎の最上階にあった「美術室」に陣取っていました。校内で見かける「バクダン」は常に威風堂々たる姿なので、子どもたちに書や美術の世界のことは分からなくても「どうも大変偉い先生らしい」との噂は信憑性の高いものとして受け止められていたのです。
実際、私が小学校を卒業して二年ほどたった中学生の時に、ナショナル(現パナソニック)の冷蔵庫「花束」が発売され、この広告に使われた商品名「花束」の題字が「バクダン」作のものであることをみんなが知って、「やっぱりすごい人やったんやなー」というのが卒業生の支配的な感想でした。
ほどなく「バクダン」は小学校を去り、書家として幅広く活躍されることになります。
私が「小学校の図画工作の先生」として出会った頃は、榊氏が1950年代の初頭に日本書芸院展で2度に渡って最高賞を受賞された後に、書壇との関係を一切断ち切り、「人皆直行、我独横行」を銘に人のまねをすることなく、「詩書画三絶」の境地を独自に切り拓こうと模索されていた時代に当たるように思います。
あらゆる権威におもねることなく、「我独横行」を銘に独自な世界を創造しようとする姿勢が、何よりも子どもたちからの信頼と畏敬の念を生んでいたのです。
当時の真田山小学校の生徒としては、榊莫山は「バクダン」でしたから、その後NHK教育テレビにレギュラー出演するようになった時代の氏を見ると、何だか優しく穏やかなだけで拍子抜けの感がありました。
今から15年ほど前には、NHK総合テレビの「今日の健康」で「心筋梗塞」を取り上げたとき、心筋梗塞の発作のために自宅から救急車で病院に運ばれた経験をもつ愛煙家の榊氏のインタビューが放映されていました。自宅からタンカで救急車に運ばれる途中に、娘さんに向かって「タバコ忘れたから持ってきてくれ」と叫んだそうな。
小学校の先生を辞められた後のエピソードは、榊氏が「詩書画三絶」の世界を着実に歩まれるようになった時代の穏やかさと、「我独横行」の人間くさい一面を端的に表わしていると考えます。
なお、榊莫山氏をご存じない方のために、少しだけ作品をご紹介しておきます。著書は100冊を超えますから、私の印象に残った最近作3冊をとりあげておきます。
『莫山つれづれ』(単行本は2006年毎日新聞社刊、文庫本は2010年新潮文庫)
『大和千年の路』(2001年、文春新書)
『わたしの良寛』(1999年、毎日新聞社)
また、読売新聞の書評欄を飾る「本よみうり堂」、山田洋次監督の松竹映画『息子』などのタイトルや焼酎「よかいち」のラベルにある題字と絵など、様々な分野で氏の「詩書画三絶」をお楽しみ戴けるでしょう。
今年の大晦日は、焼酎「よかいち」でも呑みながら、ご冥福をお祈りしたいと思います。
みなさん、どうか良いお年を!
コメント
初めてのコメントです。
「書」というものとの関わりが薄かった私にとって、正直榊莫山さんという人物の存在は聞いたことがありませんでした。
気になって少し調べてみるとNHK連続テレビ小説の題字なども担当されているようで、こんな立派な方が小学校の教員をされていたのかと思うと、生徒の皆さんが少し羨ましいです。
かつて教員は天職として扱われ、世間の方々から絶対的な尊敬を受けていたと聞きます。このブログを読む限り、榊さんはその最前線にいたのではないかと思わされます。
畏怖や権力だけで生徒を従わせるのは難しいと思います。榊さんにはそれに加え、生徒たちから「尊敬されるような何か」が備わっていたのでしょう。そして今の教育現場に求められる「教師の資質」とはこれに近いものなのではないでしょうか。
関係ないのですが、「バクダン」は「バクザン」をもじったんですね。
確かに、権力だけでは生徒を従わせるのは難しいことだと思います。生徒たちから尊敬されるような教師の資質について改めて考えさせられます。実は私も塾講のバイトで一応教師をしているもので(笑)
「バクダン」先生のような、公平さと公正さを兼ねながらもどこか親しみのある先生というのは、私の経験してきた学校生活の中にも存在しました。そのまっすぐに筋の通った信念から、子どもはその先生に対しての「信頼」を形成するのでしょう。しかし、信頼を築くというのは実に大変なものです。
私自身、その大変さを身を持って感じたのが、二年間を通してアルバイトとして携わった学習塾の再建です。うんと評判が悪く潰れかかっていた学習塾を地域で一番栄える塾にするには一日200枚の「ビラまき」から始まり、生徒との授業の質の向上やコミュニケーション、保護者との情報交換にいたるまで、多大な労力と時間を要しました。その際、いつも教室長に言われていた言葉は「信頼は時間をかけてゆっくり築くものだ。でも崩れるのは一瞬だよ。」という言葉です。だから、その信頼を保つことのできた「バクダン」先生はとても偉大なひとで、誰もがこんな先生にあこがれるのだと思います。
私には名声も才能もないですが、時間をかけてでも信頼を築いていけるような、また、宗澤先生みたいに、教え子がいくつになっても一緒に集まって思い出話をできるような先生になりたいです。
大変豪快な愛煙家だったのだな、榊殿は。
禁煙至上の昨今は過ごしにくかったことだろう。
煙草増税の話にはうんざりしていたかもしれんな。
しかし!
わっはっは! 我独横行!
この御仁には禁煙の風潮など、文字通り何処吹く風かもしれんな!
いつ頃からか、子供たちの教師に対する尊敬が薄れていっている。
モンンスターペアレントなどという言葉が現れ、親の教師に対する尊敬も露骨に薄れ始めている。
いったいどちらが先なのか。
私は子供が先だと思っている。
教師を尊敬しない子供が親になり、その子供もまた、教師を尊敬しない。その子供もまた・・・といった具合かな。
教官が鬼と呼ばれる時代は終わってしまったのかもしれん・・・。
しかし!
流行り廃りは世の常だ。時代は繰り返す。
鬼教官も再び蘇る。
教師にに不可能はない! わっはっは。
教科書からそれたような授業を毎回のように行ったとしても、鬼のような形相で生徒を追いかけても、そこに愛があれば子供たちはそれを感じ取れるものなのだと感じました。そして、その当時は意識していなかったとしても、時を経て宗澤先生の中に生き続ける「バクダン」はとてもうらやましいと思います。
また同時に、常識にとらわれない、「バクダン」のような先生が今どれほどいるのか…少しさびしく思いました。
ああなるには、どうしても一歩枠からはみ出さないといけないと思います。
子供から見たらとてつもない威厳をもった「バクダン」も、もしかしたら居場所がなくて美術室にこもっていたのかも。
生徒から見える世界と現実世界には何か大きな壁があるのではないでしょうか。
昭和30年生まれの私も真田山小学校在校中に
バクダン先生の授業を受けておりました。
背が高く手足の長い飄々とした先生で、
髪型が後に知ることになるサイモン&ガーファンクルの
アート・ガーファンクルそっくりでしたね。
私にような劣等生に対してもかえって
優しく接してくれるような一種独特な
オーラを持った先生でした。
あの頃から50年近く過ぎました。
先生が3年前に亡くなられていたことを知り
時の流れに呆然とする思いがあります。
学校で飼われていた犬、「真田丸」や校庭にあった
二股の大きな木さえなつかしいです。
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