最終答申に向けて-さいたま市条例づくり
去る11月16日に、さいたま市「ノーマライゼーション条例(仮称)」に係る最終回の条例検討専門委員会が開催されました。ここで決定された条例要綱(案)によってパブリック・コメント(11月18日~12月17日)に入り、12月21日の障害者施策推進協議会における最終答申へ向かいます。
最終回の条例検討専門委員会
この条例要綱(案)の特徴は、以下の通りです(条例要綱案の全文は、次のホームページから「第10回条例検討専門委員会」に入り資料を参照下さい。
http://www.city.saitama.jp/www/contents/1260336773439/index.html)
1.障害のある人は「権利の主体」です
障害のある人をもっぱら「保護の対象」と位置づけるのではなく、社会の一員として、必要な支援を利用しながら、自分で決めたことや選択したことに基づいて社会のあらゆる分野の活動に参加し、参画する「権利の主体」であることを明記しています。
2.障害のある人の権利を守ります
(1)「障害」「障害のある人」に関する定義
ここでは制限列挙主義を排除して、社会の障壁との相互作用によって生じるものという考え方(社会モデル)を採用し、包括的な規定にしています。
(2)「差別」を防止する取り組み
「差別」の規定には「合理的配慮に基づく措置を行なわないこと」を含め、差別を克服・防止するための仕組み(相談・助言・あっせん・勧告・公表)を作ります。
(3)虐待を防止する取り組み
「虐待」の規定には高齢者虐待防止法と同様の定義(身体的虐待・ネグレクト・心理的虐待・性的虐待・経済的虐待)に加えて、「セルフ・ネグレクト」を含めた対応が可能なものとし、通報・調査・安否確認から始まる支援のできる仕組みを作ります。
3.地域で暮らし、働き、学んで行くために必要な支援を行ないます
(1)障害のある人とその家族の負担が軽減されるような総合的な生活支援を行ないます。
(2)障害のある人が働くことのできるようなきめ細やかな就労支援を行ないます。
(3)障害のある人が住んでいる地域の学校に通えるようにするとともに、みんながともに学ぶことができるような教育を行なうようにします。
4.ノーマライゼーション社会を実現するための施策を漸進的に進める仕組みをつくります
ノーマライゼーション社会は、この条例の制定によってすぐさま実現するものではありません。差別・偏見を乗り越え、障害のあるなしに拘らず誰もが地域でともに安心して暮らせる地域社会の実現に向けた取りくみと施策の改善を、常に検証し、うまず弛まず進めて行く協働の仕組みをつくります。
以上の条例要綱(案)に至るまでには、たくさんの市民の参画による知恵と力が撚り合わされてきました。さらに多くの市民の知恵と力を結わえる取り組みを最後まで継続し、市民の総意としてこの条例が制定され、さいたま市の新しいスタートが切れることを目指しています。
「希望のスパイラル」のはじまりに向けて、みなさん力を合わせましょう!!
コメント
障害のある人を保護の対象としないで、社会の一員として生きれるように必要なサポートを条例・法で行い、社会のあらゆる所へと参画できるようにするのはすばらしいことだと思います。
しかし結局は人対人なのだから、我々がどう行動するか、どう感じるかがもっとも大切なことだと思いました。
このようなバリアフリーで重要なのはやはり周知されることではないでしょうか。
自分も深く関心を持つとともに、市民に広く知ってもらうことも考えなくてはならないと思いました。
自分が行っていた中学校には、障害のある人が授業を受けるクラスがあり、運動会や文化祭などの行事などでは一緒になることはあったが、やはり授業が別々であったために一緒に学んでいるという意識はあまりなかった。
このような条例は、具体的に目に見える形で実行され、また、われわれの意識も変える必要があると思う。
条例により障害のある人とない人との垣根を越えて、どちらの人にも過ごしやすい社会を作ることが大切だと思いました。
私は障害のある人とない人で一対一で話し合える場をもっと設けるべきだと考えます。
一対一ならば心から障害のある人にむかい合えると思います。
障害者を特定の人々と扱うのではなく、我々となにもかわらない同じ人間として社会的に対応するべきであると思いました。
そのためにもどのように、またはなにをするべきかを考える機会を多く設けるべきであると思います。
ブログを読んでいて、「障害者は保護の対象」この考えが今の世の中には浸透していて、障害者の主体性が失われつつある社会が形成されているのだと思いました。この考えのままでは、差別や偏見、虐待を防ぐことは難しいと思います。
やはり条約も大切だが、より多くの人に「権利の主体」ということを伝えていくことが、大切なのではないかと思いました。
障害のある人を保護の対象としてでなく、権利の主体とすることは理想的な在り方だと思いました。
しかし、障害のある人が援助なしで自立し生きていくことは実際には大変難しいことです。
なので、障害のある人を周囲の人全体でカバーしていくことが当たり前だと認識のある社会づくりが必要であると感じます。
社会づくりというのは先ず個人個人の認識から始まるものだと思います。
学校などで障害のある人は特別なクラスがあったりしますが、そのようなとこからも私たちは障害のある人たちを「保護の対象」として見るという考えが植え付けられてしまっているような気がします。
同じ教室で共に学ぶ過程で、私たちが援助を自然に特別視することなくできるようになっていけばいいと思いました。そうすれば差別のようなこともなくなるのではないでしょうか。
特別でなく一緒だという認識が大事であると思います。
私の働いているお店に軽度の知的障害(この表現が合っているのかわかりませんが…)を持っている人がいます。障害を持っている人の採用枠での採用だそうです。
しかし、障害があるなしにかかわらず、やるべき業務は同じであり、お客様から見たらどの人も同じ店員なのです。また、その人は私より先輩なのでたくさんのことを教えてくれます。
障害者は保護の対象ではなく権利の主体であるということはそういうことなのかなと思います。障害を持っているから、特別業務。ではなく、みんなと同じようにやる権利がある。
また、保護することは視点を変えると、差別をしてるということでもあると思います。確かにできないことはサポートすることが必要。これは誰に対してもいえることです。しかし必要以上に「できないだろうからやらなくていい、してあげる」といって何もかもしてしまうことは、偏見を生むことにもつながると思います。その境界線を引くのは難しいことです。
しかしこの条例ができたことによって、たくさんの人がこのことにつて考えるようになるでしょう。そしてよりよい社会になっていくようになるといいなと思います。
障害者が健常者と同じように社会で生きられるようにしていくために必要なことは、「障害者」や「健常者」といった言葉を廃止することだと考えています。
そもそも、障害のある人とない人とでは、何が違うのでしょう。障害がある人もない人も同じ人間です。障害がある人の中には、自分は障害など抱えていないと考えている人や、障害のない人と同じように生活できる人も多いはずです。そういった意識を変えるためには障害のない人はもちろん障害のないひとも意識を変える必要があると考えます。
理想論になってしまいますが、我々が目指す目標とは、「人が自分とは特徴が異なる人を見たときに、何の疑問もなく自分と同じ生き物であると認識できる世界」なのです。これは、障害のある人、ない人の意識だけにかかわらず、人種の問題にもつながってきます。
グローバル化が進み、多種多様な人々が一つの国に住んでいるという現代においてそのような考えを持つことが必要になってきますし、それこそが、バリアフリーなのではないでしょうか。以上のことを考えると、今回の「ノーマライゼーション条例」は、はたしてバリアフリーにつながってくるのか疑問に感じます。
このように条例が作られる過程を見聞きすることは初めてでした。私が住む地域でもこのような条例づくりの仕方をしてほしいと思います。
福祉というのは生活を営む全員が幸せになろうという概念だとわたしは考えています。障害のあるなしにかかわらず、高齢者や子供、すべての人が幸せになれるような条例がやはり大切なのではないでしょうか。
ノーマライゼーションは障害者だけでなく、健常者も全ての人が暮らしやすくするものという考えがとても良いと思いました。小学校のときに障害のある人が同じクラスにいましたが、同じ授業を受け、みんな同じように接していました。障害は個性だという考えを聞いたこともあります。
全ての人が暮らしやすい社会を作っていけたらよいと思います。
私は、障害者が「権利の主体」というように考えたことはありませんでした。それは、今まで私は障害者は守られる立場であると考えていたからです。しかし、これからは、障害者が「権利の主体」として社会の一員になれるように、選択に困らないあらゆるサービスを私たちが提供していかなければならないと思います。そして、そのサービスを利用し、社会の一員になったら、次は障害者が社会に貢献する活動をしなければならないと思います。
このように、お互いを支え合うことが出来るような社会になってほしいです。私は障害のあるなしに関わらず、お互いのできないところは補っていくことが大切だと思います。障害があっても出来ることはあるし、障害がなくても出来ないことはあります。この考えが広まり、みんなが理解していけば、障害者、健常者という境界もなくなるのではないかと思います。
先日、私は友人の職場であるフリースクール(障害を持った児童向けの施設)に行き、実際にこの目で現場を見る機会がありました。私自身、多少なりの偏見を持っており、そのような施設においては職員が何もかも児童の世話をしているのだろうとばかり思っていましたが、それは大きな勘違いで如何に私自身が無知であったかを痛感させられました。
そこの子供たちは自分でできることはどんなに時間をかけてでも自分自身の手でやっており、予想を遥かに上回る活発ぶりでした。
「健常者」「障害者」とは何をもって区別しているのか、誰を基準にそう区分しているのか、疑問が止まらずに腹立たしいほどでした。大多数の人間ができることができないからなのか、などと。
彼らは自分自身で容易にできることができない相手に対してもごく自然に手を差し伸べ対等にむきあっています。
私たちが本当にまずすべきことは、私自身含め、「健常」「障害」なんて垣根を作らず対等に向き合いそれを自然にすることなのではないかと強く考えさせられました。
ただ、このような意見のうちはまだまだ時間がかかりそうですが。
このノーマライゼーション条例案が制定されると、障害者が地域社会に参画しやすくなり、健常者障害者の隔たりがなく、安心して生活できる社会へ向けて取り組むことができます。
しかしここで大事なことは、この条例を境にして私たちがどう変わっていくかということです。社会には今なお、障害者に対して差別や偏見が多くあります。私たちは障害があるなしにかかわらず、平等に人に接するべきだと思います。
さらにもう一つ大事なことは、私たちが社会の一員として、社会の変化に対応して、条例を見直していくことです。そのためには、個人のノーマライゼーション社会に対する関心が大事であると思います。
この条例によって障害者の方々はより活発に社会活動に参加することができるであろう。
さいたま市のこの条例を見習って、他の市や県でも実施してほしいと思った。
障がい者の方を特別視し、また健常者と比べることは差別や偏見につながるかもしれません。しかし、障がい者の方の権利を確立し、サポートしていくにあたって、私たち健常者が障がい者の方に目を向けることは大切なことだと私は考えます。
自分とは何ら関係のない問題と目を背け、関わりを断つのも一つの差別と言えるのではないでしょうか。一人一人が積極的に関わっていこう、正しい知識を持とうとすることが大切なことだと思います。
障害のある人を「保護する」のではないという考えについてはとても理想であると想います。しかし、これはあくまで難しい考えであるから理想なのだと想いました。障害を持つが故に課せられた日常生活に関わる負荷を周囲が補う必要があるからだと想います。福祉が注目されだしてから何十年もたっているように想いますが、このような疑問が生まれるのはまだ障害を持たない人たちが、障害を持つ人、また障害となりうるモノに接する機会が少ないことが挙げられると思います。
福祉に関わっていけ、障害に触れろ、というわけではありませんが私たちは障害、大まかに言えば福祉に対してすくなからずの関心を持ち時間をかけてでも理解を深めることが大切だと思います。障害があることを特別視しなくなれるまでには時間がかかるとは思いますが、そうしなければ真のノーマライゼーションには近づけないと思いました。
障がい者の方を特別視し、また健常者と比べることは差別や偏見につながるかもしれません。しかし、障がい者の権利を確立し、サポートしていくにあたっては、私たち健常者が障がい者の方たちにしっかり目を向けることは大切なことではないかと私は考えます。
間違った認識を持って、関わりあうと、障がい者の方を変に特別視したり、できるものを勝手にできないものと決めつけてしまったりするかもしれません。自分の全く気づかないところで差別をしてしまっていたりすることもあると思います。関わり合う上で差別の問題も難しいところがあるかもしれません。
しかし、一方で自分とは何ら関係のない問題だと目を背け、関わりを断ってしまうのも一種の差別だといえるのではないでしょうか。比べるから差異がうまれ、関わっていこうとしないから正しい認識を持つことができないのではないかと思います。私自信を含め、ひとりひとりが積極的に関わっていこうとし、正しい認識を持って接していくのが大切なことだと思います。
障害をもつ人を「権利の主体」として考えることはすばらしいが同時に難しいことだとも思う。
私のバイト場にも障害を持ったお客様が来られるが、その人に対して周りがどこまで手を差し伸べていいのかが分からず、また、思い切って行動したことによって『いらないことを!』と怒られたこともあり、私自身どうしたらよいのか分からずにまどろっこしい気持ちになっていた。
けれど障害を持っているからといってむやみやたらに手を差し出すことこそが、知らず知らずのうちに障害を持つ人たちを傷つけていたのかも知れない。
そうは思いながらも心の奥底ではまだ障害に偏見的な考えが残っている気がする。
今回のガイドラインを読んで、これを機会にもう一度障害について考え直さないといけないと感じた。
数年前、私が電車に乗っていると、車いすに乗った方が電車に乗ってきました。すると同じ車両に乗っていた高校生数人が、車いすの方を指差してくすくす笑っているのに気づきました。けれど、私はそれを見て見ぬ振りしてしまいました。私はずっとそのことを後悔しています。
本来ならばこのような条例が無くても、障がいのある方が普通の生活をしていけるようになっていなければならいと思うけど、実際には、今の社会はそうなっていない。なので、この「ノーマライゼーション条例」をきっかけにして、障がいについてよく考え、そのうえで、私たち一人一人がノーマライゼーション社会の中でどのような役割をもって生きていくのか、その答えを見つけて行ければ良いと思います。そのためにもノーマライゼーション条例が全国に広がっていって欲しいと思います。
以前ドキュメンタリーで障害者の方の生活がテレビで流れていました。その中で障害者の方は介助者に助けてもらうのではなく自力で行動しようとしていたことが印象に残っています。
今回の条例は自立や差別を無くすことの大きな一歩であると思います。
私は、まず障がい者を権利の主体と考えたことがありませんでしたし、そう考えている人はほとんどいないと思います。世間では、「障がい者は健常者と比べて弱い」という考えを持っている人が明らかに多いと思います。保護の対象ではなく権利の主体と考えるのは大切だと思います。どんな人も平等な社会を、ノーマライゼーション社会を築いていけたらいいと思います。
私の母がかつて養護学校の教員だったこともあり、障がい者についての話や学校での話を聴いたりしていたので、障がい者は私にとってまったくの他人というわけではなく、割と身近な存在のように感じていました。
今回の条例で、障がいのある人たちの暮らしがよりよくなることを願っています。
私が通っていた小学校には知的障害を持った子たちのクラスがあったが、学校行事以外の普通の授業などはいつも別々で顔を見ることもあまりなかった。だから学校行事のときもあまり馴染めていなかった。
せっかく同じ学校に通っていたのだから純粋にもっと仲良くなりたかったなと思っていた記憶があるので、これから少しづつでも隔たりがなくなっていって欲しいと思う。
障害をそうでないように接するというのが今まで身近にそういった人がいなかったので考えはするけど実行できていないです。だからこれからの生活のなかでこういった取り組みがさいたまにあるんだというのは実行する手助けをしてくれると思います。
障害者だから、という理由だけで無作為にすべての人を保護せず、その人の必要に応じた支援活動をすることが、その人の権利の主体性を最大に尊重することであると思います。だから私はこの条例に明記されていることは大切だと感じました。しかし、少数の人々がそう感じるだけでは大きな効果は得られないでしょう。この条例を多くの人に知ってもらい、その意味や背景などを私を含め、たくさんの人に理解してもらうことが必要であると思います。
条例によって人々の意識を正すことよりも、今、何が問題であり、何をすべきなのかを人々が自覚できるように、意識を向けさせることが重要だと私は思っているので、条例が制定されたということに関しては諸手をあげて喜べるものではないと思います。
しかし、この条例を制定するにあたり、市民の声が大きく取り入れられたということは、本当に素晴らしいことだと思いました。民主主義であるわが国において、政治に国民の声が取り入れられていると実感できる人間はなかなかいないと思います。そんな状況のなかでのこの条例制定は、他の自治体にも多きく影響を与えることになるでしょう。
今後もこのような取り組みが続けば、全国の自治体、ひいては政治の世界でもさまざまな立場の人間の意見が大きく取り入れられる、本当の意味で国民の声が反映される国家となるのではないか、と希望を持つことができると思いました。
障害者が保護の対象ではなく、「権利の主体」という考えが自分の中には全くありませんでした。確かに健常者からみると保護すべき人たちなのかもしれませんが、それはやっぱり「特別扱い=差別」の構造と変わりないなと改めて認識させられました。
健常者にも障害者にも住みやすい社会・・・・・それこそ万人が心地よくすむための必要条件だというのは分かりますが、なかなか実現できていないこともまた事実。ここは、市民が一体となって推し進めていくべき条約だと強く感じました。
そういう社会の実現出来るような機会があれば、自分も積極的に参加してみたいと思いました。
障がい者に対する理不尽な差別はもちろん許されるべき事ではないのですが、彼らは社会的弱者なのだから「保護しよう」と一方的に決めてしまう動きは私も疑問に思います。ですが、彼らも「権利の主体」であるという先生のような見解は社会にはあまり浸透していないのが現状のようです…。私は障がい者に対して変な気を遣うのも差別であると思うので、「五体不満足」の著者である乙武洋匡氏が提唱しているように、障がい者の方が障がいをもっていることを個性にできる社会になってくれればいいなと思います。
障害を持つ人を保護の対象としてではなく、権利の主体としてみるという考えを私自身も持っていませんでした。でも確かに障害を持っていても一人暮らしをして生活している人だっています。何かの作業をするにあたっても健常者と言われている人と比べても、時間はかかるかもしれませんが出来ないことはないはずです。現に仕事をして経済的に自立をしている人たちだっていますし、障害者の雇用の促進等に関する法律では障害者の雇用を義務づけています。障害を持っていてもそんなことは仕事をする上で関係ない、自分にできることをして働いているだけだという人を以前テレビで見てとても印象に残り、障害を持っているから何もできないだろうと考えるのはただの偏見だったのだと恥ずかしくなりました。仕事だってハンデを持つ人でも出来るものはあるはずですが、それでも障害者の人たちが働く場所をなかなか得られないのはやはり周囲が一線を引いてみているからだと思います。このような状況を改善するには国、そして地方自治体が積極的に障害者の雇用を促進するよう働きかけていくことが大切ではないでしょうか。人間は自分の目で実態を見ないと事実に気づかないので政策として実施することで人々の見方も保護の対象から権利の主体へと変化していくと思います。
こういった自治的な制度の仕組みは、障害のある人への支援として、とても大切なことだと思います。地域全体で変えていこうとする姿勢が好きです。
ノーマライゼーションという考え方は僕も必要だと思っています。それは、障害者への支援が権利として保障されていて、また実質的な平等を目指すという考え方が好きだからです。この条例が制定され、具体的にどういったことがなされるか気になるところです。このような形式的なものでは実現は難しいかもしれませんが、そういった姿勢が大切であると僕は思うんです。
障害のある人が援助なしで過ごしていくことは大変です。周りの人の協力が必要です。しかし、こういったときに障害のある人を「保護の対象」として見るべきではないと思います。その見方が差別を助長してしまうからです。なので、障害のある人を特別ではなくてみんなと同じであるという認識を持てるような社会づくりをしなければいけないと思います。
障害者を「保護の対象」から社会の一員として位置づけ、必要な支援をしながら自ら決めたことや選択したことに基づいて、社会の様々な分野の活動に参加し参画する「権利の主体」と明記したことはとても重要なことだと思います。
私たちは障害や病気をある人を見ると、助ける、保護するなど考え、自分との社会的地位より劣っていると潜在的感じている部分があると思う。しかし、その考えは人間皆平等と言う思いを持ちながらも、実際には思いや態度、行動でそうではないと発信しているに過ぎない。
私たちは誰もが「権利の主体」であることを肝に銘じて教育現場や社会で生活していかなければならないと思う。
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