モズの高鳴きにせき立てられて
秋空にモズの高鳴きが聞こえます。ハヤニエ(虫などを捕えて木の枝に刺しておくこと)をしながら縄張りをつくって冬支度に入るモズに出くわすと、高鳴きの声にせき立てられるように翌春までの予定が脳裏をめぐります。
多忙さの中に身を置いて、さまざまな仕事・家事・雑事に追われていると、虚ろな心境に陥ることがあります。鶴見俊輔氏のいう「インテグリティ」(9/9,16ブログ参照)が損なわれ、外部のさまざまな事情に自分が振り回され、ボロボロになっていくような感じです。
そこで、世の中は何かにつけて「癒し」が大流行り。ヒーリングを掲げたヨガやダンスの教室などにはじまり、「癒し系美女」(まったく怪しい!!)という言葉さえ氾濫しています。このような「癒し」に対して、私ははなはだ懐疑的です。
今年お亡くなりになった著名な歌人である河野裕子さんは、宮中歌会始の選者でもあり、第12回紫式部文学賞など数々の文学賞を受賞された方です。晩年は、乳がんから転移した病魔と闘いながら歌を詠んでこられたらしく、最後の歌集となった『葦舟』(2010年小野市詩歌文学賞)の中では、癒しの歌というのは嫌いだ、「歌をつくることだけが私にとっての治しだ」という主旨のことを語っておられます。
このスピリットこそ王道です。困難の多い時節であるからこそ、インテグリティを見失うことなく、本筋でものごとを「つくる」ことを見定めたい。
しかし、障害領域は、「社会福祉基礎構造改革」以来、制度上の落ち着きを見た試しがありませんから、障害のある人はむろん、支援者、自治体職員まで気の休まる暇はここ数年殆どなかったのではないでしょうか。
私のゼミの卒業生で自治体の障害福祉課に勤める人たちは、残業に残業を重ねる日々を送っています(残業代はほとんど出ていませんし、病休者まで続出するありさまです)。それでいて、「公務員の月給を下げる」なんて剥き出しのポピュリズムを振りかざすだけの政治家もおり、その態度には心底憤りを感じます。
高等学校の学費を無償化したと思えば、国立大学の運営費交付金を大幅に削減しようとします。学生と親御さんたちに向かっては、「高校までは楽できるのだから、大学では苦しんでください」という政策なのでしょうかね?
先日、職場で午後3時頃にT先生の研究室を訪ねたら、「昼ご飯」を食べておられました。私もそうですが、この業界で「昼飯にありつけない日」はしょっちゅうで、同業者の友人に訊ねても「そうそう、俺もしょっちゅう食べてないよ」と答えます。
ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「ジャスティス」という授業がテレビで放映され、話題を集めています。が、サンデル教授にはアドミニストレーション・オフィサーがついていて、大学で雑事に追われるようなことは決してないでしょう。「先進国の大学」はどこでもそのような条件が整備されています。嗚呼、羨ましい!
大学でさえこうなのだから、小中学校の先生方や福祉現場の支援者も「さぞや」と思います。「振り回されているな」と感じたときに、自分が「いい仕事」「いい実践」をしているようなことは絶対にありません。いうなら、時間と仕事に追われて危なっかしい車の運転をしているような塩梅です。
そこで、自分らしさを取り戻すことのできるような身の置き方や構えの建直しをはかるための「間」をつくらなければならないとつくづく思うのです。今こそ、じっくりと「いい支援」をつくりたいとお考えなら、なおのことではないでしょうか。生活の質を向上させるための支援には、支援者の生活の質を守り発展させる工夫が必要だからです。
私にとってのそのような「間」は、たとえば前回の「栗の渋皮煮」をつくるようなひとときなのです。これは、「ヒーリング」ではなく、自分のインテグリティをじっくりと回復させる営みなのです。
コメント
よく、ヨーロッパの国は昼休みが長いと言いますが、本当にうらやましい限りです。日本の昼「休み」とは名ばかりで、実際はご飯を食べる時間を確保するのに精一杯で、休む時間はほとんど無いですよね。宗澤さんに至っては、お昼ごはんを食べられない日がしょっちゅうあるとは。。健康に気を付けてお過ごしください。
地元ではよくモズをみたものです
モズの羽根で架けた橋を渡るのも懐かしい
その高鳴きとハヤニエに、私は泣いてしまった
高校生までの無償化をすることに関しては、家計が火の車であるうちの親は喜んでいました。しかし、、そんな親に対してあまり迷惑をかけたくないので、授業料を必死に自分で稼いでいますが、なかなかうまくいかないものです。
政治家はなぜ自分たちが裕福に暮らせることを考えていて、国民の生活を考えていないのでしょうか?しっかりとした政策に加えて、生活向上をするための案を考えてほしいものです。お金をかけるところが間違っています。
お体にはお気お付けください。
僕はもう5年ほどレストランで、ウェイターとして働いています。社員はみな「サービス残業」をする毎日。もはやゲストに「サービス」する余力も残っていない程です。
この不況。就職難、さらに労働環境が全体的に劣悪化している現状で、私たち若者は「働く」ということの意味をどのように捉えるべきなのでしょうか。
僕は、「はたらく」ということを「傍楽」と解釈しています。職務を通じて、そばにいる誰かを楽にしてあげるルーティンな営み、という意味です。誰かのために何かをすることで、自己が確立し、幸せに直結していく。働くとは、本来そういう意味を持っていると思っています。
しかし、誰かのために何かをする、ということは、本来ゆとりがなければできないものです。誰かのために何かをすることで、心にゆとりが生まれてくる、ということも言えるのでしょうが、それもまた、根本的なところに、ゆとりの部分がないとできないものです。
いま社会はギスギスしているように思います。ゆとりが無い。どこからゆとりを生みだしていくべきなんでしょうか。「どこから」は、いいでしょう。「誰が」社会のゆとりを作って行くんでしょうかね。
国の舵取りのこれからに、哀願します。
先生、「ぼくを探しに」という絵本、おススメです。一度、読んでみてください。
私は今学生でそんなに生きる事に追われるという事もないので、働いている皆さまのゆとりのない辛さ、癒しを求める行動はなかなか理解できるものではありません。自分らしさを大人になって失いがちになってしまうのは周りに押しつぶされそうなあわただしい生活を送っている方々に多いように見受けられます。
お昼ごはんの時間も確保できるゆとりのある学生時代だからこそ、きちんとアイデンティティを確立したいものだと、実感しました。また、「癒し系美女」などではなくもっと手軽に、けれど癒されるような趣味の一つや二つを今のうちに見つけておきたいです。
高等学校学費の無償化は、高校までは行かせてあげられるけれど大学は厳しいかもしれない、とい家庭でももしかしたら大学に行けるようになるのかもしれない、と考えていましたが、やはりそう単純な話ではないのでしょうね。
小中学生のときは生徒の私でも昼休みが短いと感じていました。それならば、授業の準備などもある先生たちはもっと余裕がなく、とても休むどころではなかったのだろうな、と思いました。
また、特に部活動のある中学校の先生は、放課後も残業手当もなしに練習をみたり、熱心な先生になると毎朝の朝練まで生徒に付き合ってくれたりしていました。
そのような生徒と真剣に向き合ってくれる先生になんの報酬もなし、というのはあんまりだと思います。
「自己犠牲の精神で頑張ることは素晴らしい」的な考えはおかしいと思います。
以前、私はひょんなことからスェーデンからの留学生と話をする機会がありました。スウェーデンは大学の学費も無料なので、就職先が決まらなかったら、卒業後にまた大学に入って今度は別の分野を勉強するそうです。この話を聞いたとき大学の学費がタダなのも考えものだなと思いました。
また、少し前の話ですが、ある知事が私立高校へ通う家庭への補助金をやめたそうで、複数の私立高校の生徒が知事にやめないよう直訴しに行ったニュースを見ました。自分の家の事情を説明し、補助金を訴える生徒に対し、知事はそこまでの事情を分かっていながらなぜ私立高校に進学したのか問うていました。知事と生徒の討論が非常に興味深かったのを覚えています。
これらの政策もそれぞれ工夫だと思います。それぞれの政策にはいい面ばかりだけではないでしょう。悪い面が多ければ廃止になり、そうして私たちは振り回されていると感じるのかもしれません。そういった政策を考える人は「良い間」を持ってないのかもしれませんね。
教職を目指す私にとって「教師の雑務」の問題は非常に大きなものであると思います。多くの教師が、高いモチベーションをもって教壇に初めて立った後に現実(教育以外の問題)に押しつぶされるのはよく聞きます。教育が荒んだ国家は土台を失って崩れざるを得ないと思います。
以前実家でモズがメジロを追い掛け回していたのを見たことがあります。
以前ニュースである小学校が昼休みや休み時間に子供たちに校庭で積極的に遊ばせるようにしたら子供たちの体力や運動能力に向上が見られたというものを見ました。しかしながら、自分が小学生だった時は休み時間も昼休みも短く、昼休みにいたっては給食を食べたらほとんど終わりという状態でした。なのでそのニュースを聞いたときはうらやましかったですね。
生徒ですら短く感じていたのですから先生たちは、授業の準備などでもあるので大変だと思いますね。
私の地元でもモズをよく見かけます。
よくみるとモズのくちばしはきちんと噛み合ってないんですよ。
なんでもはやにえをしやすくする為に進化したんだとか。
写真のモズとてもかわいいです。
こんにちは。
モズの鳴き声なんてしばらく聞いてないです。私もそのような癒しの時が好きです。私は自然を散歩するのではなく、よく音楽を聴いて休みます。いつもがんばっていると、そのようなほんのひとやすみが至福のときです。たった10分ほどでも絶大な効果を発揮します。
今はレポートなどをやる合間に音楽をききますが、社会に出たら仕事です。やらなければいけない仕事も多いとき、休みなしでつきすすむのは危険だということを考えさせられました。私は忙しくなると休みも惜しんでしまうタイプです。しかしそのようなときこそ休みをしっかりとることを意識すれば、逆にもっと仕事もはかどるということですね。これから大事にしていきたい考えです。
モズの声を聞いて情緒を感じられるような落ち着いた気持ちになることは素晴らしいと思うし、そんな落ち着いた心を持ちたい。
私の父も公務員という職についているので、給料を下げるなんて何事だということを言っていました。
今の日本には、「癒し」というよりも何事に対しても持てるような「余裕」の方が大切なのではないかと考えます。
日本の職場では、休むことが悪いことであるかのような風潮がはびこっていると思います。有給休暇をとることは働く人に与えられた当然の権利であるにもかかわらず、休暇を取ると上司にいい顔をされなかったり、最悪クビになったりする場合もあります。そのため一人一人が毎日仕事に追われ、先生がおっしゃったように満足に昼食をとることもできなければ、サービス残業をしなくてはならないといった状況が生まれているのだと思います。しかし休む間もないほど一人に与えられる仕事が多いなら、その仕事を何人かで分担し、雇用の人数を増やすといった対策をしてほしいです。それなら雇用の拡大にもつながるし、仕事量も減って一石二鳥ではないかと単純な私は思ってしまいます。実際はそんなに簡単な問題じゃないこともわかるのですが・・・。難しいです。
小中学生のころは、一日一日が長くて長くて時間を持て余していたような気がします。しかし高校生になると急に時間の少なさを感じ、さらに大学生になった今、一週間があっという間でのんびりと過ごす余裕がありません。こうして大人になるにつれて時間に追われる日々を過ごすことになっていくと思うと少々寂しい気持ちがします。まだ学生である今のうちに時間を有効に使う技術を身につけておかなくてはと思いました。
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