印刷物の記憶痕跡
先週のブログでお知らせしたさいたま市の「ノーマライゼーション条例(仮称)PR横断幕」は、NACK5スタジアムのピッチをハーフタイムに一周したあと、埼玉県のJR大宮駅西口の高架歩道橋のデッキに飾られています。
JR大宮駅西口の条例PR横断幕
この横断幕をNACK5スタジアムで見た人は、熱気溢れるサッカーゲームのハーフタイムに市長を先頭に行進する記憶が残っているでしょうし、大宮駅西口で横断幕を目の当りにした人は、大勢の人が行き交う雑踏や周囲の光景と共に記憶されるかもしれません。
ショパン弾きとして活躍したアルトゥール・ルービンスタイン(1887-1982)が存命中に、テレビのドキュメント番組の中で「暗譜の仕方」を話す場面に遭遇したことがあります。確か私が小学校高学年だった時代の出来事です。ピアノ曲が難しく長くなってきた頃から、1つの曲を第1楽章から終楽章まで暗譜するのが苦手で困り果てていた頃でした。稀代の名ピアニストがいかにして楽譜を暗記するのかを語るのですから、食い入るように見入りました。
ルービンスタインは譜面台に楽譜を置いた練習の合間に、ピアノの前からソファに移り、楽譜を眺めながらよくコーヒーを飲んだそうです。彼は、ある楽譜の一部をカメラに向けて、「ほらっ、ここにコーヒーをこぼした染みが残っているでしょう」と示し、メロディと和音とリズムの運びだけを記憶するのではなく、自分が楽譜とやりとりしながら曲想について考える中で起きた「たとえば、このコーヒーをこぼした染みのような出来事の痕跡とともに、いつのまにか楽譜が頭に入っていくのです」と語りました。
「なるほど、それなら俺にもできるじゃないか、覚えにくい曲の楽譜にコーヒーをこぼしてやろう」と大阪のいささかできの悪い小学生にふさわしく試みるのですが、上手くいくはずはありません。「自分が楽譜とやりとりしながら曲想について考える中で」という肝心の部分が抜け落ちていたからです。
中学校の半ばを過ぎたあたりになると、ルービンスタインの語っていた事柄が、これまたいささかできの悪い中学生にふさわしく、納得できるようになりました。私はどちらかというと曲の好き嫌いが明確な質でしたので、曲想を考えて弾こうとする気持ちの入った曲では、練習の最中に余儀なくされる譜面をめくる瞬間も、途切れなく演奏しようとする癖がありました。そのために、楽譜の右側のページはボロボロになってしまいます。
そして、このように譜面を咄嗟にめくるときについた皺やちょっとしたページの破れの痕跡と共に、長いピアノ曲のすべてが暗譜できるようになっていました。
譜面と格闘した右ページの痕跡
その後、長い年月を経て現在の職業についてからも、私にはこのような記憶の流儀が続いてきたと自覚しています。
研究の必要から格闘した書物ほど、手垢に汚れ、さまざまな書き込みをし、所々にコーヒーをこぼした染みがついています。その書物の読後数年が経ち、「あのことはどこに書いてあったっけ」と想いをめぐらすようなとき、著者や本のタイトルよりもむしろ、その書物と自分がやりとりをしたときに生じた出来事の痕跡からその書物をつきとめるようになりました。
それに対して、小説や随筆の類の書物は、私の場合、「1回読んでお仕舞い」という読み方をすることがほとんどなので、このような記憶の辿り方がまったくできないのです。
さて、現在話題となっている電子書籍についてです。それは、自分と書物とのやりとりや格闘の痕跡が残らないために、職業的に必要とされる書物には不向きなのではないでしょうか。小説や随筆の類ならともかくとしても、書物との真剣なやりとりを要する内容のゆたかなものほど、私には紙媒体の書籍が残り続けるような気がしてなりません。中央法規のみなさん、ここは考えどころですよ。
コメント
この前小学校の同窓会で出身の小学校に電子書籍が入ってました。自分も驚かされました。しかし、生徒からはパソコンをいじっているようで面白いとの意見が上がっていました。
紙の媒体を使っていけばいいのか?それとも子どもたちが面白がりながら勉強していったほうがいいのか?意見が分かれそうなところです。
実際は、媒体に何かをしたというほうが記憶の片隅でも残っているような気がします。
記事を読んで、自分もかつては紙辞書を愛用しており背の部分がボロボロになった辞書に色んな記憶とともに愛着を持っていたものだと思い出しました。
ですが大学生になった今、私が使っているのは電子辞書のみです。使いやすく場所もたらず、何より軽いという電子辞書の特徴は長い距離を通学しなくてはならない私のような学生にはとても魅力的なものです。ですが、やっぱり宗澤さんのお書きになっているように辞書というものを学習で使うにあたり、様々な痕跡と共にエピソード記憶を刻んでいく事のできる紙辞書のほうが優秀だと思う面も多々感じています。
辞書の件に限らずいえる事だと思いますが、何かを便利にすることは何かを犠牲にするということと表裏一体なのだと考えさせられました。誰を対象に、何を特化させなにを諦めるのか。物事の進歩というのは常にそのバランスを検討しなくてはならない、予想以上に難しい問題なのかもしれません。
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