当事者・支援者・第三者-その2 ある施設の閉鎖性から考える
かつて、ある入所施設で10cm四方の織物に「¥9,800」の値札のついている「授産製品」が飾ってあるのを見とめました。その訳を施設長に訊ねると、「わずか10cm四方の織物をつくるのに、これをつくった障害のある人は大変な時間と労力をかけたのだから、当然の値段だ」と言います。半ば「気の利いたジョーク」のつもりなのかもしれませんが、福祉人としての信念を表現したもののようでした。
はっきり言わせてもらいますが、この「値札」は障害のある人の権利擁護に資するものではありません。この織物をまじめに「授産製品」扱いしていない姿勢はむろん、いかなる労働観・経済観に立つとしても明らかなこの戯言が、この職場では「利用者を大切にしている」ことと思い込まれているのです。いうならスターリニズムを限りなく幼稚にしたごとき思考回路に過ぎないのですが、ご本人は自らとその施設のことを「利用者のために最大限の頑張りを続けてきた」と信じて疑わないのです。
この閉鎖性は恐ろしい。その職場には、「当事者」と「支援者」は閉ざされた世界の中に存在していますが、第三者の良識の視点は欠如しているといっていい。
そのような時空間で行われている支援は、ことによると「代理人によるミュウヒハウゼン症候群」に近似した構造があるのではないかとさえ疑われます。つまり、「このように重い障害」のある人に対しても、支援者は献身的に懸命に頑張っているのだという姿を周囲にアピールし関心を引こうとすることに固着した動機があるということです。「相手に対してひたすら頑張り続ける姿」が自己の存在理由となって生じる共依存であるとの指摘もできるでしょう。ちなみに、「代理人によるミュウヒハウゼン症候群」は、宗教的信念や文化的信念が強い要素となる場合があることは指摘されてきました(ロビン・E・クラーク他編著『子ども虐待問題百科事典』、154-156頁、明石書店、2002年)。
これほどひどい職場とその長はさすがに珍しいとはいえ、限られた福祉の職場や団体で長年勤めてきた年配の人たちの中に、ときおり内在的な提案力や仕事・事業への創造力をほとんど喪失している人を見受けます。そのような年配者は、若い支援者が職業人として魅力を感じるような存在ではありませんから、未来に向かう事業や専門性をともに考える営みにつながることはありません。年齢にふさわしくないアクティング・アウトをしていたり、狭い経験主義にもとづく方針を語ることに終始することがしばしば認められます。
福祉の世界では、誰もが「当事者」になれるわけではありません。義務教育の世界は、誰もが一度は「当事者」であることをくぐりますが、現行制度を前提すれば、高齢者福祉の領域でさえ要介護状態になるのは最大限に見積もって高齢者人口の2割に過ぎません。
すると、このような福祉領域の支援を市民全体が共有する文化として育むためには、福祉の世界の営みそのものが「当事者-支援者」に閉じられていてはダメなのだと考えるべきなのではないでしょうか。
生活上の困難が高い人たちを前にして「当事者主体」の支援を実現しようとすることにつきまとう際限のない献身性や共依存への傾向性を、不断に点検し乗り越えていくための「良識ある第三者の視点」が福祉領域の支援者に必要不可欠なものだと考えます。
この「良識ある第三者の視点」は、福祉の世界を市民の文化にしていくための視点でもあり、あらゆる福祉事業を地域の共有事業に発展させていく視点でもあり、これが仕事の中の提案力や創造性につながっていくものです。
このような視点の形成には、職業的には支援者の立場にある人が、職場を離れた時に「良識ある第三者」性をもって生きていることが必要不可欠な条件です(一般市民の視点の必要を指しているのではありません。それは、必ずしも「良識ある第三者」性を担保している保証はないと考えます)。働きづめで狭い職場に埋没していたり、職場を離れても仕事のことや福祉のことしか考えていないような人は、いつしか「健康で文化的な生活」の輪郭や奥行きそのものを見失っていくでしょう。
このような観点から卒業生のその後を鳥瞰したとき、熱心に働きはするが決して職場に縛られるような生き方をせずに、「良識ある第三者」性を涵養しているような人が、間違いなく次代の支援者にふさわしく羽ばたいているように思えます。
「良識ある第三者」性を堅持して働く某県児童自立支援施設職員(左)-まさに「健康で文化的な」結婚式でした
コメント
¥9800の授産製品の話を通して、改めて障害を持った方々への対応について考えさせられました。
確かに時間と労力をかけて作ったものではあるけれども、障害を持った方々もみんなと同じように一人の生産者です。妥当な値段で売ることこそが、障害を持った方々への権利をきちんと擁護していると思います。
そして、私自身も良識のある視点を持ちたいと思いました。
この話を聞いて、確かに福祉の職場ではそこに閉ざされた空間ができやすく、どうしても支援者は閉鎖的な考え方になりやすいのかなと思いました。
このように福祉の世界を閉ざされた物にしないためには、支援者が「良識ある第三者の視点」を持つ必要があるのは当然だと思いますが、一般市民である私たちにも良識ある視点を持つ必要があると思いました。
このブログを読み、改めて障害者について考えていく必要があると感じました。いくら労力がかかっている、時間がかかっているといえども1人の生産者として見てもらいそれ相応の値段で販売されるべきだという点に深く同意しました。そのような気遣いのつもりが逆に差別を生んでいるということを考えさせられ、改めて障害者についての考えを見直していく必要があると感じました。
福祉人としての新年を表現をしたことについてはいささか感銘しました。
「良識ある第三者性」は文化的に生きていく上で必ず必要になるものだと思いました。
福祉関係で次世代を担う人はこういった視点を持ち合わせてほしいものです。
いくら障害がある人が作成したものといえど、そのたった10cm四方の織物に9800円というのは高すぎると思いました。正常な人でもものをつくる大変さに見合った値段がつかない商品だってたくさんあるのに障害者がつくると高くつくというのは、施設長は良かれと思ってやっているつもりかも知れないが、それは、ただの障害者差別でしかないのではないかと思いました。施設という閉ざされた職場しか知らないというのは、恐ろしいと思いました。私はもし閉鎖的な職場に就くとしても、目線はいろいろなところをみて、このようなことにならないようにしていきたいと思いました。
福祉については当事者にならなければわからない点があり、誰しもが良識ある第三者の視点をもつことは困難であると思いますが、もとうとすることは可能でなので、頭の中に入れておきたいと思います。
授産製品の話を読んで、今の世の中では「支援者」が障害を持つ人に対して、特別扱いをする傾向が強いということが象徴されているようでした。障害を持っているからという理由で特別扱いをすることは逆に障害を持つ人に対する差別につながると思うので、良識のある第三者の視点を育むことが大切だと思いました。
ブログを読んで、障害者や福祉社会について深く考えさせられました。
僕の父の弟さんは、生まれながらの知的障害者で、50歳近くの年齢ですが、5歳ほどの知能しかありません。いつもは福祉施設で生活していますが、長期的な休みに入ると、毎年何日間か一緒に暮らしたりします。とても恥ずべきことを言っているのはわかるのですが、正直接するのがとてもしんどいです・・・ほんの数日間しか接しないのに、いざ支援者の立場に立ってみると、想像以上の苦難があります(これは接してみなければわかりません・・・)。ほんの数日間でも大変ということが支援者の立場にある自分にはよくわかるため、毎日接している支援者の方は一体どれほどの苦労があるのか・・・そのような方が良識のある第三者からかけ離れて行ってしまうことにたいして、正直納得してしまう自分がいるのです。
そうならないためにも、介護という役割から完全に解き放たれたリフレッシュの時間というのは絶対に必要であり、なくてはならないと思います。ブログにもあるように、「健康で文化的な生活」の輪郭や奥行きそのものを見失ってしまいますね・・・
働きづめにならない、支援のことばかり考えない、良識のある第三者になりたいし、今現在支援者の立場にいる方々にもそうなってほしいと思いました。
最初にブログを読んだときに、障害を持った人が頑張って作ったのなら高くてもしょうがないのかなと思ってしまった自分がいたのが後からだんだんと恥ずかしくなりました。
自分は障害を持った人を特別な目で見ていて、ある種の差別をしていたのだと思いました。
通常の製品と同じような値段で販売してこそ、障害を持った人の権利が守られるし、彼らにとっても自分が差別されていないとかんじることができるのではないかと思った。
一見、なるほどとも思ってしまいましたが、読み進めていくうちに「¥9,800」の値札の含む違う意味合いも理解することができました。
この値札は障害者への配慮の方向を間違った結果のうちの一つではないでしょうか。
世の中にはまだまだ配慮の仕方を間違えているにもかかわらず、それを誇りであるかのようにふるまっている人間が多くいます。
そのような人々を減らすためにも、まずは自分自身が正しい良識を身に着けることが必要なのだろうと思います。
私も「良識ある第三者の視点」を福祉の現場に取り入れることが必要なのだと思います。
その視点を取り入れていくためには、長い間福祉の世界で働き続けた年配の方たちの考えを変えなければならないと思います。
ですがその閉鎖的な考え方を変えるのはとても難しく、どのように「第三者の視点」の必要性を広めていくかを考えていかなければならないのではないかと思いました。
冒頭の施設長さんは、おそらくそれを善かれと思って、10cm四方の織物に「¥9800」などと付けたのであろう。しかし、その行いは、言い方は悪いが、施設を利用する方たちを見世物にしているのではないかと推測してしまうほど、酷いものであるように思う。「障害があるのにここまで出来るようになった」と発表し、いかにも障害を持った方を悪い意味で特別視しているかのような態度である。
どんな立場にあったとしても、常識の範囲内で、自分に出来る精一杯の自由な生き方を実践できる人間が、「良識ある第三者」観を手に入れることができ、「健康で文化的な生活」を送ることができるのだと思った。そして、できることなら私もその域に達し、次代の支援者たるに相応しくありたいと強く望む。
始め9800円という数字がいいのか悪いのか正直分からず、「障害者が労力と時間をかけてつくったのだから」ということで「たしかに」とも思いました。しかし、読み進めていき自分なりに考えて見て、この数字は障害者と健常者を明らかに区別した結果なのだと思いました。
この記事を読んで、障害者を支援する人々についても考えなくてはいけないと改めて思いました。
障害者と向き合うということはとても大切なことだとは思いますが、その狭い世界に閉じこもってしまうのはよくないと気づきました。実際の支援者が第三者としての良識をもつことは大変なことかもしれませんが、本当に必要なことだと思います。
障害者が作った物を高い値段で売ることで障害者の頑張りを評価することは間違っていると思いました。確かに、健康な人が1つの物を作るのと、障害者が作るのではかかる時間や労力は全然違いますが、それでは障害者との隔たりが大きくなる一方だと思います。これからの福祉社会では「良識ある第三者の視点」が本当に大事なのだと感じました。
障害者の作ったものを特別な値段で売る、この値段の差が障害者差別ととれることに初めて気づきました。たしかに、9800円の値段をつけることは、その売り上げは障害者にとって大きな収入となるのだろうけれども、支援者が最後の最後で「障害者」ということを主張して、健常者ではないということを、差別を示しているようだと思いました。支援者が第三者の視点を見失わないようにする重要さに気づけました。
施設長が、「障害のある人が大変な時間と能力を・・・」と言っているところから障害者を特別視してしまっていると感じました。
この文章を読んでいたら施設長は何でそんなこと言ったのだろうと思ったけれど、もし実際自分が当事者になったときにもそうならないよう、良識ある第三者の視点というものを忘れずに接することができるようにしたいと考えました。
10cmの織物をいくら障害者が作ったとはいえ9800円という値段で売るのはいくらなんでも高すぎると思います。障害者が大変な時間と労力をかけて作った物だと言われれば何か納得しがちですが、これは健常者と明らかに区別して考えた結果だといえます。この記事を読んで良識ある第三者性の重要さがいかに大事かを考えさせられました。
障害のある人がつくった、10cm四方の織物に9800円という値段は高すぎると思いました。
この値段をつけた施設長は、その理由として障害者が作ったもの、ということを考慮している。
自分の考えとして、10cm四方の織物の値段にはそれなりに妥当な値段をつけるべきであり、障害者と健常者に違いを作っているのは障害者を差別しているように感じました。
障害者が作った商品は健常者の何倍もの労力と時間をかけているから9800円というのは独りよがりな善意だと思います。通常より高い価格の商品を買おうとは思いません。売れる価格設定をしなければ作った方のためにもならないと思います。
いちどそれが良いと思うと自分で修正するのは難しくなりますから他人の意見も良く聞くように心がけようと思いました。
私は、9800円という値段に違和感を持ちませんでした。この値段は作った障害者がつけた値段ではなく、支援している人がつけた値段であり、この織物に値段をつける意義は、売れた利益をどうするかではなく、支援者の障害者に対する愛情のこもった評価だと思ったからです。
しかし、ブログを読み進めているうちに、(この閉鎖的な職場には、「当事者」と「支援者」は閉ざされた世界の中に存在し、第三者の良識の視点は欠如している。)というフレーズを読み、私自身も支援者の側に立ち、第三者としての良識ある視点を失っていることに気づきました。もとから感情移入しやすいことは承知ですが、少し読んだだけでこの様では、支援者はどれだけ欠如に気づくことができないか思いやられます。そのために、第三者である周囲からの喚起が必要だとおもいました。
どんな職業においても、客観性を持つことは重要だと思います。
しかし、福祉の現場においては毎日同じ場所で同じ人を相手に同じことをするため、閉鎖的になりがちなのかなと感じました。
そして、福祉に携わっている人には、心のどこかで「障害のある人に対して優しくして”あげる”」という気持ちがあるのではないかと思いました。そうした気持ちが、今回の記事の冒頭でのああいった行動に繋がっているのではないかと思います。
福祉という特殊な職種においても、客観的な視点を忘れずに持ち続けることが、非常に重要なのだと感じました。
「第三者による視点」というものを福祉の仕事について考えたことがなかったので、非常に感心させられると共に、今の福祉について不安を感じた。確かにあのように閉鎖された空間では、その中での勝手な行動や施策が他人の目に入ることがなく、すごく偏った政策になってしまうこともあると思う。
だが、どのようにその第三者の視点をその場に持ち込むのかということだが、それはやはり内部の人間からの働きかけが必要だと思う。内部で政策を行っている人は自分の盲点に気づくことはないし、第三者としての外部の人は、私のように全く何も分からないという人が少ないこともない。自分が本当に思う「福祉」というものの信念を貫くことで、それに関わる人々には頑張っていただきたい。
障害のある方がつくった商品とはいえ、このような破格の値段をつけることは「特別扱い」をしていることとなり、差別につながると思います。
一見、障害のある方々を支援しているようにも見えますが、そういった考えをもっているから今の社会から障害のある方への偏見、差別が消えていかないんだと考えます。
だから、障害のあるなしに関係なく平等の目を向けることが重要だと感じました。
この話をよく考えると「当事者ー支援者」の関係にある福祉の世界において、良識のある第三者の視点が必要になるのは当たり前だが、そのことに気づくのはなかなかに注意深い考慮が必要になると思う。閉鎖された空間では、その内部で完結された価値観があるから、障害者が作った10㎝四方の織物が9800円という値段が当然と思ってしまう。
このことの改善のためにも良識のある第三者の視点を導入しなければならないという意見は賛成できる。また、このことはさまざまな場面で活かせることだと思うので、私たちも日々気をつけていかなければいけないと思った。
障害のある方が頑張ってつくった品に高い値段がつくことは、正しいことなのではないかと思いました。しかしそれはただの差別であり、その品物相応の値段をつけることが、障害者のかたを1人の生産者と認めることなのだなと感じました。
気遣いのつもりでしていることが障害者の方への差別となっていることを知り、改めなくてはと思いました。
私も福祉についてしっかりした知識をもち、良識ある第三者の視点をもちたいと感じました。
私はこの話を聞いて何とも言えない恐ろしさをおぼえました。
施設長は自分の行動に自信を持ち、善いことだと思い込んでしまっている。だが実際は健常者と障害者の差別に他ならなかった。
どんなに正しいこと、善いことと思っても結局それは自分の判断。常に客観的に物事をとらえ、時には周囲からの助言を求め、受け入れることも大切なのだなと思いました。
第三者の視点を取り入れるためもっと福祉施設と社会の間に交流を持たせるべきだと感じた。自分は中学校の総合の授業や夏休みの職場体験で老人ホームのお手伝いをさせてもらったこともあるが、それは仕事内容としては大変だなと感じることもあったが施設の人たちとの交流はとても楽しいものだった。これからより子供たちにさまざまな施設に見学に行く機会を与え、福祉施設をより身近なものにしていけば、自ら感じた感覚、第三者としての視点が養われるのではないか。
先日、おしぼりの包装袋に「このおしぼりは、わたしたち障害者が包みました」と書いてありました。あけてみると、なるほど、多少グチャグチャになっている箇所が見られましたが、気にするほどのことでもありません。おしぼりなのですから。
そこで思ったのは、もし障害者が包んだと書いていなければ、きっとどこも気にかけることはなかったのではないかということです。そういったアピールも、ときに余計なのではないかと思い、福祉の難しさを感じました。
私も小学生時代に重度の障害のある人がクラスにいたことがありましたが、その人のために、給食を作ったり、車いすを押してあげたりしたとき、私はしてあげたっていう感覚がありました。そうゆう感覚がきっと支援者の方にもあるのかもしれないけど、確かに支援するのはいいことだけど、その考えは障害者にとってすごく失礼なことだなって、深く考えさせられました。
「障害者」が作ったものだから価値がある、というのは一見評価にしているようだが、よく考えると障害者はものを作れないと言っているように思います。健常者が作ったものも障害者が作ったものも同じ値段にするのが本当の平等だと思います。どうしても健常者は障害者を補助してあげる、というような、上の立場にいる感じになってしまうと思います。本当の平等の難しさを改めて感じました。
この値段の高さには驚きました。普通に市場の値段よりもはるかに高くて、助けてあげようという気持ちが強すぎて逆に差別というか分けているように思えました。同じようにできるものは分けずに同じようにしたほうがいいと思います。
この現場だけに言えることではありませんが、外部の目の届かない閉鎖的な空間は多大な危険性をはらんでいると思います。障がい者の方の生産品に常識的にありえないような高額な値段をつけることは大変な差別であり、また消費者側にもさらなる差別を植え付けてしまう結果になり得るものです。濁った感性で現実を見失うことのないよう、学習に励んでいきたいと思います。
この話を聞いて、改めて障害者に対する態度について、考えさせられました。
いくら障害者とはいえ、同じ人間であるのだから、健常者と同じ扱いを受けるべきです。
自分もそういった偏見を見つめなおそうと思いました。
この記事を読み、障害者の方への対応の難しさを感じました。
ただ気を遣い、甘やかしていくだけでは閉鎖的で自己満足な関係になってしまうけれど、普通の人と同じように接するわけにもいきません。
周囲の人間が気付き、注意していかなければ、支援者と障害者との関係はますます閉鎖的なものになっていくかもしれない、と考えました。
そのため、私も福祉に対してさらに関心を持ち、注意できる人間の一人にならねばならないな、と感じました。
この話を聞いて、障害者も一人の生産者としてみるべきだと思いましたが、それはたいへん難しいことだとも思います。自分も障害者は障害者として見ていると思います。ただこの話を聞いて少しでも良識ある見方をしていきたいと強く感じました。
9800円の値段が織物につくことは、障害者への差別以外の何物でもありません。
こういった施設では、確かに第三者が介入しにくく、閉ざされた空間になることは言うまでもないでしょう。
私は、皆が福祉に関する知識をしっかりと身につけ、障害者への差別がないような社会になることを祈ります。
最初だけを読んだ時、なるほど障害を持つ人の労力などを評価しているのだな。と思いましたが。第三者の目という考えを見たときに考えさせられました。
第三者の人がその製品を購入するということは同情から来る場合のみだと思います。障害をを持つ人が懸命に作った製品を同情で買われて喜ぶのか?普通の市場の中の一つの製品として買われていたほうが喜ばれるのではないか?とおもいます。
9800円の理由を聞いて最初はなんとなく分かる気もしたが、やはりそれは障害者の人権を擁護していないように思える。だいたいその利益は作成者のもとへその分ちゃんと届くのだろうか。高すぎて売れなければそれこそ意味がないではないか。
しかしここに「良識ある第3者の視点」がないのはあきらかであるが、じっさいに「当事者―支援者」という閉ざされた関係ではこれが妥当に思えてもしかたないかもしれない。改善するためには、一人ひとりがつねにどこかに「良識ある第3者の視点」を持つべきであると私は思った。
この記事を飛んでまず私が思ったことは、先生が公務員という言葉を使用していなかったことです。そして私も常々公的セクターに対してのマスコミの暴虐ぶりには、呆れを通り越してマスコミの行く末を案じるまでになっています。以前論文で読んだのですが、メディアの中の子供虐待というのも問題になっているそうです。マスコミという情報伝達・発信する側が、それを受ける側にとっていかに影響力を持っているか、それに伴うマスコミの責任というものを改めて問い直してほしいものです。
障害者が頑張って作ったものだからといって、明らかに不適当な値段をつけるのは間違った支援です。アファーマティブ・アクションと呼ぶには少し度が過ぎていると思います。と、反対することはいくらでもできますが、では他に障害者の努力を評価してやる方法があるかと問われれば、私はこの支援者がとった行動以外にすぐには思いつきません。健常者に比べて、確かに障害者同じものを作ることには健常者の労以上に評価されるべき点があります。これは差別(逆差別?)や贔屓ではなく、正当な区別であると思います。健常者の優位を無視するのではなく、かといって障害者をその障害ゆえに逆差別スレスレまで優遇するのではなく。その調整具合がとても難しいところだと記事を読んで思いました。
「9800円」の話は現代社会における障がい者へのいわばが反映されている話だと思います。障がいのある方をいわゆる「健常者」と同等の扱い・視点で接していくことが、本当の意味での人権保障になると思います。
「福祉の文化を市民の文化にしていく」ことはまだまだ課題があるし、問題解決には具体的に何をしたらいいのか私もまだ分かりません。11月に5日間の介護等体験に行くので、そこで何か考えることができたら…と思います。
わたしは9800円という値段を織物に付けている事を、最初は冗談としか思えませんでした。
それは単に値段の高い安いの問題ではなく、その施設長がその商品を売ろうとしていない、と感じたからです。
本当に障害を持つ方の社会進出を望むなら、その織物に妥当な値段をつけ、健常者の作る製品と同様に扱われるようにアピールするでしょう。
しかしここでは先生の仰るように、障害を持っているのに頑張っている、ということをアピールしていて、これでは社会進出を促すどころかかえって社会から隔絶してしまっています。
障害を持つ方を支援する立場に立ったとき、「利用者を大切にしている」という自己満足で終わらせるのではなく、「利用者のために何ができるか」を考えることが必要なのだと思いました。
10cm四方の織物に9800円。これは確かに高すぎる。しかし施設長はこれをよかれと思ってやっている。
こういった気づけない差別は、きっと私たちの周囲にいくつもあるのだと思う。
「良識ある第3者の視点」を持つことはとても大事だとは思うが、こういった事例が、そういった視点を持つことの困難さを表していると思う。
「代理人によるミュウヒハウゼン症候群」についてとても興味を持ちました。人のためにしていることであっても、結局は自分がそれをしてることで周囲に認めて欲しいという心理が働くのは当然のことでしょうが、それに依存してしまうのは良くないと思いました。
これを回避するためにも、良識ある第三者の目線は役立つのではないでしょうか。
このブログを読ませていただいて、障害者に対する支援者の正しい対応の仕方について考えさせられました。
私は、初めの時点では値段がどのような意味を持っているのかいまいち理解できませんでしたが、その後の施設長さんの言葉に違和感を覚えました。確かに、障害のある方が障害を乗り越えて織物を作ったということは、素晴らしいことだと思います。しかし、それはある意味、同じ人間を“障害者”として差別していることになってしまいます。
私は現在、実習という形で障害を持つ子どもたちと関わらせていただいているのですが、そこで今までの自分がいかに間違っていたか実感させられました。障害を持っていようがいまいが、人はみな同じ生き物です。ひとりひとり様々な文化を持っているように、障害もまたひとつの文化なのではないかと私は考えます。こういった偏見をなくすためにも、良識ある第三者の目線というのは、支援者にとっては特に重要であると思います。
福祉の現場が閉ざされた世界になりやすいというのはこのブログを読んで初めて実感した気がします。
確かに誰もが当事者にはなれませんが、誰でも支援者になれるようなシステムは必要になると思います。誰もが支援者になるという経験があれば「良識ある第三者」を超えるもっと福祉の現場を知りもっとよい環境をつくれるような人が生まれるはずだと思います。
このブログを読ませていただいて、障がい者の方への対応の仕方について考えさせられました。
まず、10cm四方の織物に9800円という明らかに高いと思われる値段が付けられていても、この織物には作った人の大変な時間と労力がかかっているのだという理由付けで納得してしまう環境が、実際に出来あがってしまっている場所があるのだということに驚きました。障がい者の労働に対して高い価値を与えることによって、かえって障がい者と健常者を差別している。でも、その事実に当人は気づくことが出来ない。
こういった、事態を防ぐために、「良識ある第三者」の目線はきっと役に立つと思います。でも、その目線を持つことはとても難しいことだろうなとも思いました。
困難な事だとは思うけれど、自分は「良識ある第三者」の目線を持てる余裕を持ちたいなと思いました。
はじめに織物の値段を見たときには、あまり違和感を感じず、これが少なからずも差別的なものを含んでいるとは思いませんでした。たしかに、言われてみれば10センチ四方の織物に対する値段としては高いと思います。これが職人さんや高価な原料で作ったものであれば値段も納得できますが、障害者の方が作ったからといって値段を高くすることは、障害を持たない人と比べているようで差別しているのではと考えれます。施設に勤めている方も意識外の差別に気づいていないのであれば、少し悲しいです。
このような意識せずとも行っている差別的な考えは、多くの人がもっていると思います。それはやはり、障害を持つ人は特別だという考えが少なからずあるからではないでしょうか。もっと地域社会との交流の場を拡げ、障害の有無を問わない考え方が拡がればいいなと思いました。
10㎝四方の織物に¥9800という値段は確かに高いと誰もが思うと思います。その中に生産者の時間と労力が含まれている言い分も全否定することはできないと思いました。この値段は障害を持った方々に対する支援だけでなく、福祉全体に関わり協力する人が少ない現実を如実に表した数字だなと思いました。
障害を持っていない人と障害を持った人とで値段の違いが生じてしまう時点で、日本は障害を持った人に対する支援が足りないことを示していると思います。少しでも早く障害を持った人が住みやすい社会に国になるよう自分も取り組みたいです。
この記事を全て読まずに冒頭の話だけを聞いたら自分は「温かい話だな」と思っていました。でもそれは「良識ある第三者の視点」を欠いたものであることを、記事を読み痛感しました。
この「良識ある第三者」としての視点を持たないと、自分では障害のある人のためを思ってやった事が逆にその人の差別につながってしまうことがあるという事がわかりました。そしてまた、もっと一般の方が支援者として福祉に参加することは大事だと思いました。そのようにして福祉というものを市民の文化にすることで、多くの人が障害のある人への関心を持つきっかけを増やし、社会全体が障害のある人を受け入れるようにすることが必要ではないかと思いました。
10㎝四方の織物に9800円という値段をつけて、障害者が時間と労力をかけて作ったものであるから妥当な値段だと言っている件について、自分はその考え方は間違っていると考えます。
障害をもっている、もっていないというだけで値段に差が出てしまうということは障害者を特別視しているということであり、障害をもっている、もっていないということにおいて差別化をしている日本では、バリアフリーを実現させることは困難だと思います。
というのも、自分にとってバリアフリーとは、階段にスロープを付けたり、エレベーターのボタンを低い位置につけたりして、障害を持っている人にとっても活動しやすい環境を作るだけでなく、障害を持っている人も持っていない人も、同じ人間として生活できるようになることだと考えるからです。
福祉という世界を閉鎖的な物にしないために、支援者が「良識ある第三者の視点」を持つのは必要だと思う。だがそれだけでなく、普段福祉に関わりの無い人も良識ある視点を持ち、福祉に積極的に参加する必要があると感じた。
福祉の職場が閉鎖性を持ってしまうのは仕方のないことだと思うが、支援者と市民全体との協力がその世界を広げるのに役立つと感じた。
障がい者が時間と労力をかけてつくった織物に高い値段をつける気持ちもわからないではないが、これでは売るために作られたものではなく、当事者の中の自己満の産物となってしまう。自分もブログに書かれているように一般的な良識を持ち、特定のことに固着し視野を狭めすぎることのないようにすごしていきたい。
先生こんにちは。またまたためになるお話ありがとうございました。
私がアルバイトしている生活ホームでは以前、作業所等に行っていない利用者の方の日中活動として布草履作りを行っていました。布草履は600円という値段をつけてバザーへ。そのバザーでは他にもたくさんの作業所が出店していて、どの商品も私が見る限り「もっと高くても買うのに…」といった値段でした。
でもその考えが偏った思考だと、この記事を読んで気づきました。
やはり何も考えずに同じところに長い間留まっていると感覚が麻痺しがちになるように思います。
そうした中で「良識ある第三者」の視点を持ち続けるためにはやはりそれを日々頭において意識していかなければならない。 そのことに気づくことが出来て良かったです。
そういえば、生活ホームのみんなと旅行に行った際に立ち寄った土産物屋で、同じような布草履が1200円で売っていて、みんなで驚愕したことを覚えてます。
その布草履の出自は知りませんが、適切な値段をつけることが如何に大切か改めて考えさせられました。
今、うちの布草履はワンコインの500円になっています。
制作者としても「いくらで売れたか」は全く気にかける点ではないようです。
それよりも「今日は2足も買ってくれた人がいたの」と話していた嬉しそうな表情が印象的でした。
障害を持っている方への配慮のつもりが、知らず知らず自らのエゴに摩り替わっていることへの危険性というものを感じました。
奉仕と自己満足は紙一重のようなものなので、それを是正するためには第三者の評価が必要なのでしょう。しかし、現代の日本社会には正当に評価できるような姿勢が失われているようにも感じられました。
「可哀想」や「お大事に」という気持ちで済まされるものではなく、もちろん五体満足でないからといって区別するでもない、地域社会の仲間であるという意識がなくなっていることが、今回の記事のようなことに繋がっているのではないかと考えます。
障害のある人が作ったからと特別な値段で売るということは差別であると思う。現代は障害のある人を必要以上に特別視しがちだ。障害をもっているのにこんなに頑張っている、障害をもっているのにこんなことができるなど障害を持っているということを特別視したテレビ番組が多い。
私は障害のある人は障害をもっていること以外障害のない人となんら変わりないという教育を受けてきた。しかし、障害のある人を特別視してしまっている人は多い。障害者差別のなくすためには、障害のある人を「障害を持っている」ということでテレビに出すことをやめる必要があると思う。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。