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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

「障害」の表記をめぐって

 夕方になると不自由な左眼に由来して眼精疲労が激しく、眼球全体が腫れたように痛みます。休息をたっぷり取れさえすれば眼にいいのにという恨み節とあいまって、昨今は「網膜症」とか「眼精疲労」という文字を見るだけでいささか嫌悪感が走ります。
 そんな折、この5月18日に第5回さいたま市条例制定検討専門委員会が開催されました。この委員会は第3回までは条例づくりの方法に時間を割いてきましたが、前回からは、条例の具体化に向けた議論に論点を進めています。ここでは、条例の基本的な目標と構想が話され、それに混じって「障害」の表記についての議論が出されました。

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第5回さいたま市条例制定検討専門委員会

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 「障害」の表記をめぐっては、複雑な論点が交錯しています。障害のある人への差別・人権侵害の事実の克服と、それに伴う差別的な意識・感情・イメージを払拭するために、ふさわしい表記に改めるという基本的な論点がまずあります。
 また、「障害のある人」ということばになると当事者にとっては「呼称」という性格を持ちますから、当事者が抑圧されることなく、当事者の側から世界の意味が読み解けるように、当事者自身の納得のいく呼称が求められるという論点もあるでしょう。女性の中には「嫁」という表記・呼称を「差別用語」とする方もおられ、「女」が「家」に入るという家父長制的な枠組に女性を閉じ込める象徴として問題を感じておられるのでしょう。では「妻」という表記でいいかといえば、「刺身の妻」という使い方をする場合もありますから、なかなか難しい問題ですね。それぞれの立ち位置の相違に由来する「意味」の違いを、どのようにして括るのかという問題もあるでしょう。

 法律や公文書における表記については、たしか1980年に身体障害者に関する用語の改正が行なわれ、例えば「つんぼ」を「耳の聞こえない者」というように改められてきた経緯があったと思います。
 そして、「障碍」という表記が主張されたりしつつも、昨今は「障がい」「障がい者」という表記が目立つようになりました。これは「障害」という表記が、「交通障害が発生している」と用いられるように「存在そのものがネガティヴなもの」との意味をもったり、公害や災害に含まれる「害」という表記が「多くの人にとって迷惑なもの」という意味で使われることから、表音文字であるひらがな表現に改めたものです。それでも「障」という漢字は「さしさわり」を意味しますから、私には「害」だけを表音文字によってニュートラルに記号化することには疑問が残ります。また、自治体の障害福祉課を「障がい福祉課」へ、障害者計画・障害福祉計画を「障がい者計画・障がい福祉計画」へとそれぞれ表記を改めたところで、別に計画内容が進んでいるわけではない事例などは枚挙に暇がありません。

 現時点では委員会としても、個人としても、表記に関する見解を固めているわけではありません。検討の方向は、当事者・市民の納得と了解を得ることのできる表記であるとともに、やはり障害者の権利条約の考え方を重視することが大切ではないかと考えます。つまり、「障害」とは個人の属性ではなく、社会的に解決されなければならない人権侵害や不利益を指し示すものだという理解です。ここからは、「障害」と表記されることの意味は、人権侵害をなくす社会的責任を明示することになります。

 一昨日の条例制定検討専門委員会では、このような障害者の権利条約の考え方の確認をするとともに、スウェーデンの障害概念の歴史等も出されました。彼の国では「障害者の範囲」を「非行少年」や「妊婦」など「一定期間に特別のニードをもつ人」というような大らかな括り方をしてきたことから、誰もが人生の中で必ず「障害者である」というような分け隔てのない考え方が定着してきたということです。
 少なくとも、わが国では障害の医学モデルからは完全に脱却し、包括的な概念とそれにもとづく表記への前進が求められていることは間違いのないところでしょう。

 さて、私の左眼の疾患は4ヶ月ほど経過し、そろそろ「一定期間に特別のニードをもつ人」となってきましたから、休息と「眼の保養」に誰か温かいご支援とご協力を…(嗚呼)。


コメント


 「障害者」の扱い方は難しいものがある。
 私の考えでは、障害者の範囲は医学的に認められた人だけに狭めるべきだと思う。人間には生まれた時からすでにハンデがあることが多く、また老いればできないことも増えてくる。〇〇ができない人がいて、自分もそうなり得るという認識があるならば表記の仕方など関係ないだろう。呼称のことよりも、障害者も健常者と同じように生活できる環境づくりを目指していきたい。


投稿者: トリィ | 2010年06月18日 00:00

 「障害者」という呼称に問題があるのではなく、その「障害」を持つ人に対する「視点」が対等でないから問題があるのではないか。
 私は、健常者であることが良いことで、障害者であることが悪いことであるかのように考えることは、全くの間違いであると考える。
 障害を持つことは、当人の社会的な一要素としてとらえれば、その人の「個性」であると考えることができる。
 だが、スウェーデンにおける「誰もが人生の中で必ず『障害者である』というような分け隔てのない考え方」には、ハッとさせられる思いがした。そもそも、私は無意識に「障害」や「けが」、「妊娠」をすべて別個の事例と考えていたからだ。この考え方は改めるべきであろう。
 社会的解決を得るには、政治だけ、民衆だけでは解決に至らないのは明白だ。
 私たちのまずするべきことは、関心を持つことだろう。多くの人の議論の末にようやく解決策が出てくるかもしれないのだ。
 私は、少しでも多くの問題に関する意見を聴く努力をし、考えていこうと思う。


投稿者: e531asube | 2010年06月23日 18:52

 「障害者」という言葉を聞いてまず思い浮かんでしまうのが、「普通ではない人」という自分を恥ずかしいと思います。きっと障害を持つ人は自分のことを普通の人として扱ってほしい、対応してほしいと思っているのではないでしょうか。
 しかし、そう考えると、障害を持つ人になんでもかんでも手を差し伸べてあげることは「特別扱い」にならないのだろうか。たとえば、車いすに乗る老人が歩道橋を使いたいのであれば、何人かで協力して運んであげることは当然のことに思えます。
 しかし、同じ条件の若者であったら、少し離れている横断歩道を使えばいいのにと考えてしまうのです。頼られたときになんでもかんでも手を貸すことは普通ではなく、その人にどうしてもできないことに手を貸してあげて、できる限り自分にやらせる方が、普通な気がするのです。障害者にとっての普通を理解することが大事なのだと思いました。


投稿者: GON | 2010年06月30日 15:51

 障害者に関する言葉の表記についての問題は難しいものがあると思うが、言葉の表記どうこうを考えることも大切だと思うがそれよりも障害者が住みやすい環境づくりを考えた方がいいと思う。
 障害者が障害のない人と平等に暮らせる社会を作り上げる社会である。
 しかし、そこには「障害のない人の障害者への意識」、「障害者のニーズにどれだけこたえられるか」など様々な問題が発生してくる。
 これらを一つずつ解決していくことがよりよい社会につながるのではないかと考える。


投稿者: フレーク | 2010年07月14日 15:15

こんにちは。
障害という表記の是非について…私はかねてより少し問題のある言い方なのではなかろうか?と胸に抱いておりました。
小さなときからの友人に、耳が全く聞こえない父親を持つ友人がいました。私もその友人も小学校のクラスが一緒だったときに、障害についての道徳的授業があり、その授業に際して、その友人がどことなく寂しげな表情をしていたのを幼いながらに感じたことを今でも克明に覚えています。
障害のある人だけに関わらず、その友達のような子にも「障害」という言葉は人の心を突き刺す効力があるのではないでしょうか?
確かに、呼び方を変えたところで、どうにもならないという意見もありましょうが、それによって苦しむ、悲しむ人がいるならば改善されるべき!と主張します。
ブログの記事のように「障がい」という表記や、「ハンディキャップを持つ」という言い方もあるでしょうが、もう少し婉曲的というか、柔らかい表現があると思います。
言葉狩り。という批判もあると思いますが、変えるべきです。例えば、「社会的に気を配られるべき方」などはどうでしょうか?もしこのような議会が今後もあり、ご検討いただけるなら幸いです。
話は変わりますが、高校生の時、通っていた電車に白杖をついた全盲の男性が毎朝同じ電車に乗って、おそらく勤務に行っていました。ある日その方が降りる際、たまたま同じ降り口で降りました。すると降り口に居た中学生らしき少年が「うわ!障害者」と男性に向かって口走りました。私は怒りと切なさを覚えました。私でさえ感じたのですからその男性のやりきれない気持ちは計り知れないと思います。このような非情な心を持ったまま大人になって欲しくないなと思いました。私は、人の苦しみや悩みがわかり、温かい心を持った人間になりたいと思います。


投稿者: 逹瑯 | 2010年07月20日 14:30

「障害」という言葉は私は差別的な言葉に聞こえる。しかし、それ以外の呼び方は思いつかないので、やはり「障害」という言葉を使わざるを得ないのかもしれない。私が小学生のころ、ある友達がある友達に「障害者~」などといって、ふざけていたのを見たことがある。私はそのとき、心が痛んだ。ふざけていたとはいえ、こんなことは言ってはいけないと思った。本当に障害を持っている人が聞いたら、さぞ嫌な思いをするだろう。
大事なことは、「障害」を持った人に対していたわる気持ち、そして行動だと思う。


投稿者: melo | 2010年07月20日 21:51

障害のない人にとって、障害を持つ人の気持ちはをわかろうとすることはおそらく絶対に不可能だと思う。だから障害について議論することはとても難しいと思います。

しかし、障害について考えることは必要だと思う。

まずは障害を持つ人と持たない人の「視点」を対等にするべきだと思う。


投稿者: ちーば | 2010年07月20日 22:34

私の地元である秋田市では平成22年4月1日から「障害」のひらがな表記が開始された。このように「障害」から「障がい」へ表記が変わる流れは進むであろうと思われる。しかし、表記を変えたところで言葉の響き自体は変わるものではないし、その印象も深いところでは変えられないと思う。
呼称の問題は大事であるが、まずは障害を持つ人、持たない人が同じラインに立ち、考えを共有する社会を作っていくことの方が重要であると思う。


投稿者: にっき | 2010年07月22日 17:06

 障害者ということばの表記について議論することは誤解が生じないようにするためには必要なことであると思うが、今まで気にされなかった表記方法を現在になって話し合うことに疑問を抱いてしまう。

 障害という文字がネガティブな表現であると改めて言われればそうかもしれないが、実際この表記方法は生まれた当初からそこまで意識して使っていた人はどれほどいたのであろうか。

 私は日本人には「おもいやり」の考えが強くあると考えている。今までこの話題に触れてこなかったのは、健常者とよばれるひとも障害者と呼ばれる人も互いに暗黙の了解としてごく自然にこの言葉をつかってきたのではないだろうか。

 いまさら表現方法について話題を掘り出して議論する必要性はあったのかわたしはわからない。


投稿者: かえる | 2010年07月27日 13:09

自分は、「障害」という表記自体は重大な問題ではなく、障害を持つ人たちとどう関わっていくかが重要だと思う。
確かに、いい意味の言葉ではないが、悪意を持って使う人はほとんどいないだろうし、もっと優先して話し合う問題がたくさんあると思う。


投稿者: キューブ | 2010年07月27日 23:24

私は障害者という表記になんとなく差別的なニュアンスを感じるが、なぜ差別的な要素があるのか考えてみると考えてみると、はっきりとはわからない。
最近は人権保護や、ジェンダーフリーの概念から「看護婦」ではなく「看護師」と呼ぶ、といったように様々な場面で表記の仕方について議論されてきているが、あまり重要には思わない。大事なのは我々の捉え方であると考える。
障害者という言葉になんとなく負のイメージを持ってしまうことに、社会の現状が表れていると思う。


投稿者: あおがえる | 2010年07月28日 13:45

そもそも、いかにオブラートに包んで呼ぼうか、という考えに問題があると思う。
そんな議論をするなら社会の障害をもつ人たちに対する、
ネガティブなイメージを払拭するためになにができるか。
という根本的な問題を解決するための議論に時間を割くべきだと思った。


投稿者: 西村西男 | 2010年07月29日 00:11

 問題は、「障害」という表記ではなく、健常者がその表記を見てどのようなイメージをするか、ということにあると考える。
 「障害者」と聞いた時に「害」の文字から「多くの人にとって迷惑なもの」だなんて考える人はあまりいないと思うし、交通などの「障害」と何か不自由を抱える「障害」という言葉の認識は、既に多くの人たちが違うものとして捉えていると思われる。
 確かに、当事者の方たちにとってその文字が人権の侵害だと感じることもあるかもしれないが、それは私たちの考えや理解のなさなど、今の社会もまた大きく影響していると考える。
 例えば、足に障害がある大学生がいたとして、講義を受ける権利はいくらでも持っているのに、教室が段になっているという環境のせいで受けるのに困難を強いられる。フラットな教室であれば、講義を受け、健常の大学生と変わることはないのに、その環境にぶつかった時点で、その方に対して「障害のある人」という認識が前面に押し出されてしまう。
 もし、「障害」という文字に「さしさわり」や「迷惑なもの」という認識を持つとするなら、それは何かしらの不自由を持っている方たちをさらに生きにくくする「環境」の方が、その認識を持たれるのにふさわしいのでは。言い過ぎかもしれないが、このブログを読んでそう感じました。


投稿者: なえ | 2010年07月30日 17:03

 小さいころから「しょうがいしゃ」という呼称を使ってきたので、この呼称を使うことに何の差しさわりもない…かのように思いましたが、このブログを読んで、「障害」の含んでいる意味が私たちと彼らとの間で大きく壁をつくってしまっているのかなという気がしました。
 よく言われることですが、「障害者」と言われる人たちの中には、〈自分が「障害」を持っているという風には思わない〉と言う方もいます。つまり私たちが勝手に彼らを「障害」保持者だというように決めつけている部分もあるのです。
 今さらスウェーデンのような価値観を持つ文化は形成できませんが、「しょうがいしゃ」を社会的弱者と位置づけてしまっている日本の文化を払拭できる何か大きな「パワー」が必要だなと感じました。


投稿者: とりぴそ | 2010年08月01日 11:36

 表記方法云々のような生産性のない議論を続けることにはなはだ疑問を抱く。
 差別的な意識やイメージは「障害者」という言葉にはなく、あるとしたらそれは一般的に「健常者」と呼ばれている人々の心の中にあると思う。表記方法を変えただけでその意識が払拭されるとは到底思えない。逆に下手に見立てだけを取り繕おうとすることで、「健常者」たちにさらなる差別的な意識がうまれる可能性があると思う。


投稿者: ねこ | 2010年08月02日 00:32

「障害」が「障がい」に改められる動きがあるのと同様に、「子供」を「子ども」を表記すべきという主張もありますね。
それはともかく、日本では「障害」という言葉の響きが持つネガティブなイメージからはもはや脱却できないのではないかと思われます。そしてそれは字面の問題ではありません。
私事ですが、私の弟は難病持ちで、障害者というよりは一定期間に特別のニードをもつ人(この表現、初めて知りましたが、すごくしっくりきました)なのですが、車椅子に乗って出かけることや、家族以外の他人の手を借りること、そういう姿を見ず知らずの人に見られることをとても嫌がります。
他人の目が気になる、またそれと同じくらい、彼には「障害者」と思われることに抵抗があるし、それは即ち彼自身が差別の気持ちがあって、「一緒にされたくない」と思っているようです。
先天的に恒久的な障害を持つ方の他にも、病気や事故などの後天的な理由で障害(やはりこの表現には語弊があると感じます)を持つようになった方はたくさんいるでしょうし、明日は自分がそうなるかもしれません。その時「自分は障害者になったんだ」と頭を切り替えられる人はどれくらいいるのでしょうか。
今の「障害」はやはり適用範囲が狭すぎる上に、それだけでもはや差別的な意味を含んでいるかのように扱われています。
それを問題として払拭する努力をするよりも、「生活する上で何かしら問題がある人」ぐらいの幅広い範囲をカバーできる、新しい言葉が欲しいと私は思います。


投稿者: えす | 2010年08月03日 14:25

「障害者」という言葉で何かの理由で生活に支障をきたす人を表現することが多いのはその言葉でひとくくりにすることはその他のいわゆる「健常者」と表現される人たちとの区別をつけているような気がする。
もし、本当に深い意味で福祉が完全に進んだら今「障害者」と表現されている人たちもきっと他の人たちと近い状態で生活できるだろうから自然とその表現も薄れていくのではないかとも思う。


投稿者: さーもん | 2010年08月04日 10:26

確かに「障害」という表記は考えものですよね…
かといって違う表記にしても気遣いをしている感じが逆に迷惑になったりしますもんね。

考えがいのある問題だと思います。


投稿者: ゆうき | 2010年08月04日 12:53

 言葉の表記というのは、本当に難しいものだと以前から感じていました。
 人はそれぞれ感じ方が違うもので、同じものを見てもそれに対して何も感じない人もいれば、何らかの疑問を抱く人もいるのです。今となって、表記の問題を考えることはそう簡単には解決することのできないものだと私は考えます。
 「障害」という表記問題を考えていく前に、まずは健常者である私たちがその言葉の表記を見て何を思い、どう考えていくべきなのかを議論していくべきだと思います。表記の仕方を変えたとことで、健常者たちが障害者に対して抱いている考え方、または偏見などがなくなるのでしょうか。その一歩として表記を改めるといった考え方もあるかもしれません。
 しかし、私はそういった先の見えない議論をするよりもまずは、差別意識をなくすための議論をしていくべきだと本文を読み感じました。


投稿者: にのまん | 2011年01月09日 15:40

 こんにちは、北九州市立大学の者です。先日は特別講義ありがとうございました。
 「障害」という言葉をどのように表記するかという問題は、私も以前から気になっていました。このことが注目されるようになってから、私自身「障がい」と表記することが多くなりました。しかし、このブログを読んで「障」という漢字にも「さしさわり」という意味が含まれているので、「障がい」の表記に疑問を感じました。
 ですが、「障害」という言葉の表記を変えたからといって、障害者の方に対する支援などは変わるのでしょうか。確かに、表記の変化によって今まで抱いていた障害に対するマイナスイメージが多少はやわらかくなると思います。しかしこれまで長い間「障害」と表記されていたために、これらの偏見を全て取り除くのは難しいと感じます。私はまずは、社会が障害者に抱くマイナスイメージを変えることが第一に必要なのではないかと思いました。


投稿者: ハニートースト | 2011年01月16日 17:20

 これまでのコメントでもありましたが、私が卒業した小学校でも「障害者〜」とふざけて言い合っている友人を見たことがありました。そのときは友人たちがどのような心境だったのかわかりませんでした。
 しかしいま考えてみると、子どもにとっては障害があるということで自分たちとは全く関係のない人になってしまうのかなと思います。このように考えてしまうと、「障害」の表記を「障がい」にしても変化はあまり期待できないようにも思えてしまいます。
 ですが、宗澤先生の『「障害」と表記されることの意味は、人権侵害をなくす社会的責任を明示することになる』という文章を読み、それではだめだと考えさせられました。変化があるないの問題ではないのです。「障がい」という表記にかえたことで皆の何か変わるかもしれません。変わらないにしても社会的責任の第一歩なのです。
 私は今まで、表記の変更には意義を感じていませんでしたが、このブログを読んで考えが改められました。


投稿者: えいと | 2011年01月18日 03:26

 「障害」という表記を改めたほうがよいか、また、改めるならどのような表現にするかは、とても難しい問題です。確かに、障害という言葉にはネガティブなイメージを受けます。だから、もっとやわらかい表現にしたほうがいいのではないかという考え方もわかります。しかし、やわらかい表現に変えたことにより、障がいを持った人への差別が消えるということではありません。また、表現が軟らかくなったことで、障がい者を軽視することにつながるのではないかとも考えてしまいます。
 一番大切なことは、私たち一人ひとりが障がいをもった人たちのことを正しく理解し、社会の一員としてともに生活することではないでしょうか。そうすることにより、障害という言葉もネガティブなイメージを完全に消し去ることはできなくても、薄くすることはできるのではないかと思います。


投稿者: ジジ | 2011年01月18日 16:17

 「しょうがいしゃ」をどのように表記するのか。最近よく似たような議題を聞きます。
 もちろん「障害者」と書くことで不快な気持になる方がいらっしゃるのだから、その議論は決して無駄ではないと思います。しかし、その議論以外にやるべきことがあると思うのです。
 表記だけを変えて「障がい者」としても、その「がい」の部分が元は「害」であることは皆が知っていることです。ひらがなで表記しても、漢字で表記しても、「しょうがい」という言葉を聞いて起こるイメージが変わるとは思えません。「障害者」という書き方が差別的なのであれば「障がい者」という書き方も差別的なのではないでしょうか。
 本当に差別的な意味を持たせないのなら、まさに「誰もがいつか必ず必要とする助けが、今欲しい人」という表記が一番だと思います。
 しかし最も理想的なのは、「しょうがいしゃ」と呼ばれるグループに属する人を無くすことです。議論だけでは無く、そのような社会づくりに力を注ぐべきだと思います。


投稿者: MO2 | 2011年01月19日 16:05

 障害者への差別を考慮したこの「障がい」の表記についてですが、ブログを読む前は「障害」と「障がい」の違いに何とも思っていなかったのですが、読んで改めて考えたところ、「害」の文字を用いるのは本当におかしいし、差別そのものだとおもいました。誰にも害することなどない同じ人間なのに、勝手に「害」という文字を用いて呼ばれるなんてたまったものではありません。
 これから、表記する際は「がい」で統一していきたいと思います。また、将来日本から「障害者」という文字が消えていけばいいと思います。


投稿者: maki | 2011年01月19日 18:02

 「障害」の表記については本当に難しいものがあると思います。
私は、「障害」という表記を改めようと議論することは必要だと思います。しかし、その前に障害という言葉自体を変えるべきではないのかと思います。つまり、障害という言葉を使うべきではないと思います。
 なぜなら、その言葉自体がすでに差別的であると思うからです。
「障害」という言葉を聞くと社会の人はたいていプラスのイメージというよりはむしろマイナスのイメージを持っているように思います。残念ながら私もそうです。
 「障害」の表記を変えることよりも大切なことは、障害のない人が障害のある人について知ること・知ろうとすることだと思います。そして、障害のある人もない人もみんな同じ人間であり、対等であるということを理解するべきだと思います。


投稿者: みに | 2011年01月19日 22:04

 「障害者」と呼ぶのをやめることは結構かもしれないが、表記を変えることを含め、呼び名を変えるというのは無意味だと思います。「障害者」がもしも「陽気」という言葉に代わっても、そのこと自体何の意味もないと思います。結局、「障害者」だの何だのといった、字面の問題ではないと思います。
 何らかの総称で呼ぼうとすること自体が、障害者/健常者という二分論を生み、ラベリングによる差別を助長する元凶だと思います。かといって総称を全くやめてしまうと行政上の不都合も生じる(障害者手帳とか)場合があるだろうから、そのバランスが難しいと思います。実際に障害を持っている方や、その関係者の方同士でも、「障害者」という言葉について考え方は十人十色だと思います。
 甘い考えかもしれませんが、やはり、大切なのは障害があるからといって特別な差別をしないことだと思います。「健常者」と呼ばれる人の中にもできないことは人それぞれです。その数の違いであるといった認識のもとに身を置くことが大切なことだと思います。


投稿者: さき.H | 2011年01月20日 01:07

「障害」の表記をめぐっては多くの意見があり、どの表記にしろ感情が伴っているためとても難しい問題だと思います。
 体にハンディキャップを持っている人を、持っていない人の側から「個性」だと決め付け、社会全体が進んでいます。私は体にハンディキャップを持っている人と接した場合、素直に「あ、少し違うんだな」という感情が出てきます。世の中では、この素直な感情すら差別だと言われるかも知れません。
 しかし、重要なのは、その先の問題であり、いかに健常者と同じようなきっかけで知り合い、同じような生活を送ることができるかにあるのだと思います。
 言葉の表記の話とは少しズレてしまいましたが、私達が「障害」という文字を見た感情も、これからの社会の変化により変わってくると思います。これからは違う別名で呼ぼう!という運動が起こるかもしれないが、ハンディキャップを持っている人たちが議論の中心にいることを前提とした話し合いが行われることを望みます。


投稿者: Anonymous | 2011年01月21日 13:49

 「障害者」という表記について昨今議論がなされていますが、「障がい者」と表記を改めたり、まったく違う呼び名にしてみたところで、障害者に対する認識が変わらなければまったく意味のないことだと思います。「障害者」という表記が差別的であるからという理由でしょうが、それが差別的に感じられるということは、我々が障害者に対して差別的な見方をしているからということに他ならないのではないでしょうか。
 呼称を変えるより、それに対する認識を変えるべきです。でないと根本的な解決にはなりません。それを考えると、スウェーデンの障害概念はとてもいいと思います。
 障害者を自分とは違う人間だと区別してしまうのではなく、自分もまた障害者でありうるのだという考えを持てば、差別的な認識は持たないでしょう。「誰もが人生の中で必ず障害者である」まさにその通りだと思います。日本でもこのような考え方になっていけばいいなと思います。


投稿者: maim | 2011年01月21日 14:40

 「障害」という表記においては確かにネガティブなマイナスのイメージがついて回ると思います。確かにスウェーデンのように障害という言葉の意味を大まかな括りにしているということは大変意義のあることだと思います。しかし、それを突然日本に取り入れたとしても日本にはそれぞれに合う言葉が定着しており、なかなか定着させるのは難しいのが現実ではないかと私は考えます。
 また、障害者にたいしてマイナスイメージを持っている多くの人は、障害に対する理解が乏しいのではないかと考えます。人は誰もが障害者となり得るのです。交通事故に遭ったり、また宗澤先生のように病気をしたり、骨折したなどでも障害といえると私は考えます。このように障害というのは私たちの身近に存在していると思います。
 しかし、多くの人はこのことについて深く考えようとしていないのではないでしょうか。なぜならば、勝手なイメージに持っているのではないかと思います。
 「障害」という表記については、表記を考えるとともに、各個人の意識改革を平行して行う必要があると考えます。そして、障害者が一番満足して納得することができるような表記を全体で考えていくべきであると感じました。


投稿者: 雪だるま | 2011年01月22日 16:29

 自分はこのことについて全然詳しくないので何とも言えない部分がありますが、いまさら「障害者」という表記を変えようとする動きが逆に余計な気遣いになるのではないかと感じました。
 今、「害」の部分を平仮名に変えるたところで何も「害」の字を使っているときと変わっていないと思う。この健常者・障害者という表記は差別に当たるというが、これの議論に限らず生活の中にいろいろ「違い」がつけられている。なので、どう理解して接するかのほうが大事だと思う。うまく言いたいことを伝えられないのが悔しいがこのブログを読んでさらに考えさせられました。


投稿者: 秋 | 2011年01月22日 22:54

 私はただの表記の変更は全く無意味だと思う。言葉の中には“障害者”のように、ある一部の人達を指す言葉がたくさんある。例えば“子供”という言葉にも障害という言葉と同じようなネガティブな意味を持っている。
 具体的には、オトナとコドモが主従関係にあるという背景がある。そこで1979年の国際子供念からひらがな表記にしようという動きが出てきました。しかし現在“子供”という表記を目にして、何か感じる人などいるだろうか。要するに、変わる必要があるのは表記ではなく人々の意識である。実際私には障害者の弟がいるが、私はその弟のことを特別な子とは思わない。少々苦手なことがあるだけの一人の男の子である。
 だから私は障害者という言葉に全く抵抗がないし、逆に表記だけを変えようとする人を見るととてもイラっとします。いくら障害者という言葉をオブラートに包んでも、そこに人々の障害者に対する意識の変化がなければ何の意味もないのです。


投稿者: mie | 2011年01月23日 15:59

 障害という表記についてですが、表記された文字が与える印象を変えることは非常に難しいことだと思います。
 「障害」を「障がい」に改めたところで、読む人によっては結局同じことだと捉えられかねず、そのときは「障害」へと脳内変換され、本質的な「障害」のイメージは払拭されずに残ってしまいます。

 新しい言葉で表記し直しても、読み手の意識が変化しなくては障害のイメージは改善されないと思うのです。

 表記形体を変えるのであれば、「障害」のもつ言語イメージから逃れるためではなく、新しい「それ」を読む人が、新たな「正しい」イメージを獲得できるようなものが望ましいと思います。(これが大変なのだとは思いますが…)


投稿者: ちくば | 2011年01月26日 09:51

 「障害者」の人を特別扱いするのはよくない、と私は常々思っていたので「障害者」という言葉自体使わないように今までしてきた。でも、社会でいう「障害者」を私は何て呼べばいいのか分からず、もややしていた。
 だから、スウェーデンの分け隔てない考え方にはとても衝撃を受けた。
 「障害者」という表記を議論する前に、日本人一人一人の考え方を変えていかなければならないのではないかと思った。


投稿者: ブロッケンjr. | 2011年06月30日 16:59

「障害者」という言葉を聞くと多くの人が、自分たち健常者と異なり日常生活や様々な活動を一人で行うのが困難な少数の人々と考えているのではないかと思います。実際私も健常者と同じようには行動できないので特別な支援が必要なのだと考えていました。しかし先生の講義で北欧や欧米では日本と違って「障害」の法制度上の範囲が広いため、「障害」のある人の比率は少なくないと知り驚きました。北欧や欧米では「障害」とは何らかの疾患によって生活上の支援を必要とする状態と捉えているのですね。確かに「障害」とは先天的なものだけでなく後天的なものも含まれると思います。たとえば足を骨折してしまう、また目に疾患を持ってしまうとなると不便な生活を送ることになります。北欧や欧米ではこのような場合も「障害」です。このように考えると私自身も「障害」を持つことは一生ないとは言いきれません。自分たちは障害者とは違うと線引きするのではなく、自分の人生でもいつか「障害」を持つことがあるかもしれないと認識しなければならないと思います。その上で障害者とは一部の人たちの呼称ではないと理解し、制度に関心を持たなければなりません。


投稿者: ひぐれ | 2011年07月04日 22:51

障害者が障碍者になることで変わることはなんだろうか?家族や身内、新たな呼称を手に入れた障害を持った人々だろうか?または、健常者である我々だろうか?
つまるところ障害というものに対して人々がいだいてしまう感情は仕方のないものあると私は思う。そして、文字を変えてごちゃごちゃしてもそれはあくまで社会的な責任として人権を守るという名目で行われるあくまでうわべの改善策にすぎないと思うのだ。
やはり、そのような事実を真正面から受け止める姿勢がたいせつで、私たちは彼らとともに解決のベクトルを進むべきであると思う。彼らが本当に認められ第一線で活躍できる機会を増やし、多少のリスクは目をつぶり共に生きていこうと決断する健常者の覚悟こそ使命を持って堂々と人生を歩んでいる彼らが求めていることなのでわないだろうか。


投稿者: dapo | 2011年07月12日 16:43

障害者が障碍者になることで変わることはなんだろうか?家族や身内、新たな呼称を手に入れた障害を持った人々だろうか?または、健常者である我々だろうか?
つまるところ障害というものに対して人々がいだいてしまう感情は仕方のないものあると私は思う。そして、文字を変えてごちゃごちゃしてもそれはあくまで社会的な責任として人権を守るという名目で行われるあくまでうわべの改善策にすぎないと思うのだ。
やはり、そのような事実を真正面から受け止める姿勢がたいせつで、私たちは彼らとともに解決のベクトルを進むべきであると思う。彼らが本当に認められ第一線で活躍できる機会を増やし、多少のリスクは目をつぶり共に生きていこうと決断する健常者の覚悟こそ使命を持って堂々と人生を歩んでいる彼らが求めていることなのでわないだろうか。



投稿者: dapo | 2011年07月12日 16:45

 特別支援についてとても興味があり、この呼称の問題にもとても興味があった。たしかに“害”の字だけを変えたとしても“障”の字にもそのような意味があるのでそちらはどうなのかと思った。しかし生活を送るうえでそのハンディキャップは差し障るわけであるから、、、、難しい問題です。個人のとりようといってしまえばそれまでですが。
 しかし表記の問題よりも、人々の認識を変えることが必要だと思いますね。障害理解教育難しいテーマですが、卒業までにそれを考え詰めていきたいと思っています。


投稿者: ★33★ | 2011年07月12日 23:00

>「障害」とは個人の属性ではなく、社会的に解決されなければならない人権侵害や不利益を指し示すものだという理解です。

この理解の仕方に感動した。このような理解が社会の常識になる時、社会はどうなっているんだろうか。きっとあらゆる面で豊かになっていると思う。どうすれば、こういった考えを浸透していくことができるだろうか。やはり、発信していくしかない。地道に、「健常者」も「障害者」もなく、地道に発信していくしかないと思う。
 いつかの講義の中で語られた、周りがすべて手話話者のなかに、手話のできないあなたが放り込まれたら、あなたは「障害者」になる。という言葉が心に残っている。一体、障害者と健常者を分けているものは何なのか。その社会で、生活しやすい方が健常者で、しにくいものが障害者なのか。
 それならば、「障害者」を作り出しているのは、他ならぬ「健常者」だ。


投稿者: はっちゃん | 2011年07月13日 02:35

「障害」を「障がい」と表記を改めるべきとする運動は数年前に何かの記事で目にした。
そのとき、私が思ったことは、不要なことであると思った。
確かに害という言葉はイメージが悪いし、彼らのもつハンディキャップは害ではない。
しかし、めくじらをたて「障害は障がいと表記してください!」などと怒る人を想像すると、なんとも不快な気分になる。
障害と書く私たちより、その人たちのほうが、ハンディキャップに対して差別的な風に感じられる。
五体不満足で有名な乙武さんは、twitterで自分の容姿をネタにした発言であったり、差別的な発言を受け入れている。
NHKの番組で、「脳性マヒブラザーズ」という脳性麻痺のお笑いコンビを取り上げたりする。
感動するな 笑ってくれ!という番組サイトのキャッチフレーズに私は複雑に思う。
差別を作り上げているのは、私たち健常者だと、思うのだ。


投稿者: いかサンダー | 2012年01月17日 12:18

「障害」という言葉がネガティブな印象をもつことは確かですが、この表記を変更する必要はないと私は考えます。「障害のある人」の「障害」という言葉には、その人によって社会に差しさわりが生じるという意味も、その人が社会に対して害を及ぼすという意味もありません。現在の環境では、社会参加、社会生活をする際にその人にとって何らかの障害が生じてしまう、ということだと思います。障害者と呼ばれる人が現在の日本社会の中で生活する上で身体的あるいは意識的な障壁を負っていることは事実です。だから、「障害」という言葉の意味を正しく理解し、どうしたら身体の不自由さ等によって社会活動を制限されないような環境をつくっていけるのかを考え、社会の在り方や意識を変えていくことが必要なのではないかと思います。


投稿者: pons | 2012年01月24日 16:44

『「害」だけを表音文字によってニュートラルに記号化することには疑問が残ります』という内容があったが、私もそうだと思う。漢字は意味を表しているが、アルファベットのようにただの形あるという側面もあるのではないのだろうか。例えば、「教鞭をとる」といって、鞭を使って教える教師は今はまずいないだろう。そのように、障害の「害」には特に悪い意味は無く、「障害」というものを表す一つの文字なのではないであろうかと思う。


投稿者: m.chan | 2012年07月06日 14:20

「障害」という表記には、元々私たちが対象となる人を、社会的な逸脱者と見てきた経緯が存在する。かのヴォルフェンスベルガーが論じた「障害者が社会の中で健常者から見るに逸脱しないこと」と定義されるノーマライゼーションではなく、この表記になった背景には、障害者への支援が「福祉」と見られていたことがある。したがって、この「障害」という表記の仕方についての議論というのは、結局のところ観方の違いであると思う。したがって、この場合条例の中での「障害の表記」というのは、「いったいこの条例が、何に注目した条例であるか」が論点となるべきである。例えば、社会の中で健常者と障害者両方に告知するような条例であれば「障がい」となるであろう。
 しかし、このことは逆に言えば、表記に対する考え方が二通り存在することを表している。一般の人々にも、ノーマライゼーションの原理が二通り存在することが普及すれば、もっとノーマライゼーションに対する議論が深められると思います。


投稿者: せんぷうき | 2013年06月19日 12:33

私は「障害」から「障がい」への表記変更は、その先にあるハンディキャップを持つ人と健常者が同じように生活できる環境づくりへの第一歩と考えています。
「障がい」の表記を考えるよりも、実際にハンディキャップを抱えている人が生活できる環境整備の方を先決すべきという声も上がってきそうである。しかし、生活できる環境の中には当然ながら不自由なく生活している人も居て、同時にその人たちの「不自由ない生活を維持したいという」権利を無視してはならない。そうなった時、環境整備を優先させるとどっちつかずになり双方が納得いかない結果になると思う。
表記変更は、不自由なく生きてきた人たちの意識に働きかけ自分たちにとって遠い存在ではないとわかってもらうことが期待できる。
共に生きる環境整備の環境整備のように感じた。


投稿者: ituki1989 | 2014年01月21日 11:27

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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