地域で語らう文化
さいたま市の条例づくりでは、当事者・市民の参画と意見表明をもっとも重視しています。そのための仕組みが「100人委員会」であり、このブログでもたびたび取り上げてきました。
この委員会の開催時間は、多くの人たちが参加しやすいように、平日の場合には夕方の6時から、土曜日の場合には午後2時からそれぞれ開催するようにしています。知的障害のある人に向けた「条例づくり学習会」についても、土曜日の午後に開催してきました。
第2回 知的障害のある人の条例づくり学習会でのミーティング(5月22日)
第4回 100人委員会(5月25日)
「100人委員会」という名称は、定員を「100人」としたものではありません。「100人」とは「多くの人(が参画できる)」くらいの意味で、「さいたま市内に在住・在勤・在学されている方」以外、参加のための要件はありません。現在、100人委員会に参加登録されている方は100人をはるかに超えています。
この委員会を立ち上げた最初の頃は、障害種別やライフステージの異なるさまざまな老若男女がグループに分かれて話し合うことに、参加者の皆さんはむろん、私自身にも緊張と不安がありました。しかし、回を重ねていくうちにこのような不安は鎮まり、自由闊達に意見を出し話し合う「語らい」になってきたのではないかと感じています。
もちろん、さまざまな課題は残っています。とくに「もっと多くの人たちの参加を」や「一般市民も含めた全市民的な盛り上がりを」という声はもっともなご意見と受け止めています。
この「当事者・市民の参画」というテーマは、あらゆる領域の福祉行政が「○○計画」を柱にして以来叫ばれてきたものです。障害領域の自治体における計画策定では、私も最大限の努力を参画の発展に傾けてきたつもりです。しかし、今回の条例づくりのプロセスを通じて、今回の「100人委員会」のような「話し合い、語らう場」が地域社会の日常に成立していない限り、真の参画の発展はあり得ないと考えるようになりました。
これまで参画についてイメージとされてきたのは、組織や団体を通じたもので、多くの場合は、組織や団体の幹部が「代表」として参画の場に登場するスタイルとされてきました。この場合は、それぞれの組織や団体が地域ごとの「話し合い、語らい」に根ざしている必要がありますし、組織や団体の公共性を担保するためには内部的な議論の議事録をつくり、それを公開することが「参画の代表性」をあらわす必要十分条件であると考えます。
さて、このような地域ごとの日常的な「話し合い、語らい」は、たとえば銭湯をつうじた地域の人たちの日々のコミュニケーションや、子育てをめぐる「軒先の関係」がかつてあったように、施策としてつくる必要のないものでした。子どもを連れて街に出れば、すぐに近所の人たちから「まぁ大きくなったね~」とか「おむつは取れたの?」というような声がかかり、子どもの存在を通じて地域のつながりが形成されていました。
しかし、そんなことは「今や昔」です。「公園デビュー」に神経をすり減らし、子どもを狙う「不審者」にまで親はヤキモキしなければなりません。私が参画の重要性に気づくこととなった一つには、私自身の子育て期における保育所や学童保育での父母会活動がありましたが、それさえ現在は「父母会のない」ところや「メールのやりとりだけの父母会(?)」が目立つようになっています。
かねてより私が指摘しているように、都市部では地域生活者の生活・就労の時間帯が拡散し、「職場と住まいの往復だけ」の生活スタイルとなっていますから、まったく地域生活をともにする実態がない(地域生活のイメージすらない)とすると、「自分たちの地域の課題」が浮上してくることは自然発生的にはありえないでしょう。これはすなわち、住民自治の解体を意味します。その行き着くところは、一方では、ごく仲間内だけの小集団におけるコミュニケーションにのみ安心感を求める方向であり、他方では、自治体・地域抜きで国政の方向にもっぱら先鋭化した課題を突き詰めていくという、いびつで両極化したポリティクスではないでしょうか。
この「100人委員会」を契機に、広範な当事者・市民が日常的に「話し合い、語らう」ことを文化として継続的に発展させることが大切だと思っています。今は「条例づくり」がテーマとなっていますが、さまざまな施策課題はむろん、地域でともに「楽しみをゆたかにする」話題に花が咲き実現していくこともいいでしょう。そのような協働を深化・発展させるためには、今や市としての施策が必要です。
コメント
私が小学生の頃は、よく学校帰りに公園や近くの山に行って友達と遊んだり、私の母と私の友達の母の世間話が長引いて夕食がいつもより少し遅れてしまう、ということがありました。しかし、最近はあまり小さな子供達が外で声をあげて遊んだり、というところをあまり見なくなり、確かに地域ごとでのコミュニケーションが少なくなってきていると思います。
コミュニケーションの場が少なくなってきた理由には、経済の発展によるゲーム機や携帯電話やパソコン等家の中で遊べるようになったことや、不景気による両親共働き等で親子のスキンシップが少なくなったこと、不審者の増加など、挙げればたくさん出てきますが、私もこの「100人委員会」を契機にまずは地域間交流を増やしていくことから始めていくことが大切だと思います。
最近、別の授業で子供達のための『田植え体験』や『サマーキャンプ』の手伝いを募集されました。
自分自身、父親の実家が米農家なので、田植えは毎年のことなのですが、今は友達に聞いても田植えを経験したことのない人が多いです。
田植えをすることでまず感じるのが、『地域の人々とのつながり』です。
田植え機の調子が悪いときはすぐに近所の農協の人がかけつけてくれたり、皆で協力して作業することもあります。
農業をすることで、自分は皆に助けられながら生活をしているのだという実感が自然と沸いて来ます。
現代のコミュニケーション不足には、『誰かと協力して作業すること』が一番効果があるのではないかと思いました。
私の子供のころは、誰かが声を掛ければ、たくさんの友達が集まり、みんなで楽しく遊んでいました。しかし、高校生になったころから、特定の人としか関わりを持たないような状況になってしまいました。このような生活を続けると人とのコミュニケーションが希薄になってしまいます。
このようなことをなくすためには、小さいころからのたくさんの人との関わり合いが大事だと思います。「100人委員会」のような語り合いをもっと小さいころから継続してやっていけば昔のように人とのコミュニケーションが隅々までいきわたった生活ができると思います。
両親が地域の行事を嫌っていたので、子供の頃ほとんど地域の行事に参加しませんでした。でも、そのことが自分の中で心残りになっています。朝の挨拶一つとっても、あまり反応してくれなっかたりなんてこともあったので、地域の繋がりって大事なんだなって思います。
私は来年度から公務員の立場になります。様々な層の人々の考えや意見をできるだけ集めるためにも市民の生の声を聞く機会を設け、地域の活性化にもつなげられたらと思います。
自分が小学生の年少だった頃は、放課後友達のみんなと森に虫取りに行ったり、みんなで探検隊を作ったりして自然と触れ合うことが多かったのですが、小学校の年長の頃になると、みんなテレビゲーム、カードゲームで自然との触れ合いや友達とのコミュニケーションも減りました。
また最近の御近所付き合いも減っているように思います。共働きが多くなっていること、地域の人々とのコミュニケーションが減っていること、親と子とのコミュニケーションが減っていることからも、昔ながらの地域ぐるみで子どもたちを守るネットワークの重要性を今こそ再認識するときだと私思いました。
現在では人とふれあう機会は減っていると感じます。それを反映させるかのように市などが人とふれあう機会をわざわざ設けています。
私はワールドカフェというものに以前参加したことがありますが、実際に自分との環境が違う人と接してみないと分からないことだらけで良い刺激を受けたこと覚えています。周りには学生は少なく、もっと世に知らせる必要があると感じました。少しでも多くの若い人に知ってもらえば、また何か変わるのかもしれないと思いました。
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