社会開発の光と影―障害当事者の発言から
さいたま市では条例づくりに向けて当事者・市民の100人委員会が月2回のペースで開催されています。そこでの発言に耳を傾けていると、社会開発のあり方だけでなく、「バリアフリー」についてさえ、改めて考えさせられることがありました。
第3回100人委員会―5月8日岩槻で
障害者の権利条約が近代以降の社会開発のあり方を問題に据えている点は、すでに指摘されてきました(例えば、長瀬修他編『障害者の権利条約と日本』、生活書院、2008年)。障害のある人を十分に考慮しない社会開発のあり方が、障害のある人への権利侵害を拡大してきた問題点のあることは否めない事実です。
しかし、さまざまな技術革新のなかには、障害のある人の利便性を拡大してきたものもあります。
例えば、PC(パーソナルコンピューター)です。ワードプロセッサの時代からPCに至る過程で、手書きではなかなか文章を作成できず、したがって手紙をやりとりすることに困難の高かった人が、今日では以前よりも手軽に文章を作成し、クリック一発でメールのやりとりができるようになりました。
個人的な私の知人にも、脳性マヒのある方がPCの使用によって、とても文章を上手に作成されるようになったり、メールをやりとりさせていただいている方は決して珍しくありません。文章をつくる力の発展はまさに思考の深まりといえるでしょうし、人とのコミュニケーションが時空間を越えて活発化することは、障害当事者・市民にとっての新たなネットワーキングの時代に突入したことを意味します。
現在のPCには「読み上げ機能」もついていますから、視覚障害のある人の利便性や職域の拡大にもつながっています。
ここで職業上の愚痴を一つ言えば、学生の執筆するレポートや論文の文章には、このような思考と文章力の飛躍的な向上をさほどもたらしてこなかったように思える点です。私の卒業論文や修士論文は、400字詰原稿用紙に「手書き」の時代でしたから、文章の訂正で〈挿入〉や〈削除〉をしようものなら、訂正箇所以下の文章をすべて書き直しすることになります。とにかく下書きを丁寧に仕上げることに必死だった記憶があります。
それにオートフォーカスのカメラの登場です。ミノルタ(コニカミノルタを経て、現在のソニー)が1985年に世界に先駆けて開発したオートフォーカス一眼レフカメラ「α7000」は、弱視や視野狭窄のある人たちに写真撮影の世界を拓きました。ピントを自動で合わせる機能が開発されることによって、見たい光景を直接視認することができなくとも、後から記録した写真を確かめたり、風景を楽しめるようになったのです。現在、左眼の不自由な私が写真撮影できるのも、オートフォーカスの恩恵によるところが大です。
しかし、社会開発に話を転じるとこのようにプラスのことだけではありません。たとえば、駅の自動改札機やホームの映像監視機能の発達は、少人数の駅員で多数の乗客を輸送するために開発されてきました。この「利便性」は、ご年配の視覚障害のある方にとっては「何かに困った時に、駅員を探すことだけで大変な時代になりました」と、100人委員会でおっしゃっていました。
また、2000年交通バリアフリー法(2006年にハートビル法と統合され、現在はバリアフリー新法)によって、駅舎のエレベーター設置が進められています。では、これで障害のある人の移動が円滑になったのかというと必ずしもそうではありません。乗降客の多い首都圏では、大勢の人たちがエレベーターを使いますから、車椅子や白杖を使う人たちはやはり思うように移動できないとの指摘が多く出されました。
障害のある人が仕事を探す時に直面する第一の難関は「自力通勤」しなければならない点です。首都圏のラッシュアワーは時間帯と路線によっては殺人的な混雑で、万人にとっての「通勤地獄」というのが実情でしょう。私の知人で「ぎっくり腰」になった人は、ラッシュアワーの駅舎について「人間そのものがバリアだ!」と苦渋と怒りに満ちていたくらいですからね。それでも、モビリティに困難の高い人の優先利用を啓発する以外に手はないのでしょうか。
技術革新においてメール機能を一つとっても、発話機能や対人関係に困難のある人が気軽にコミュニケーションできるようになった点もあれば、直接的なコミュニケーションを希薄化させた面もあるでしょう。技術革新や社会開発には常に光と影を伴います。
しかし、それを自然現象のように回避できないものと決めつけるのは間違いでしょう。技術革新と社会開発の企画や改善の段階に、少数者の参画と意見表明を権利として認めてこなかった点に眼を向けなければなりません。このような権利を実質化しない限り、「誰もが、どこかで孤立する地域社会」を乗り越えていくことはできないでしょう。
コメント
技術革新や社会開発が進み、大多数の人にとって便利な社会になったと思います。しかし、一方では不便さを感じる人もいて、それが権利侵害ということになってしまうのは非常に残念なことです。
少子高齢である日本社会は、特にこの権利障害を無くすために少数の人の参画と意見表明を認め、これからの社会開発に取り組むべきでしょう。また、私自身がそれを実現できるよう努力したいです。
私も毎朝電車に乗りますが、たくさんの人が乗っててときどき転びそうになります。確かに人々がバリアになってて、これでは障害のある方は乗ることがとても大変ではないかと思います。
世の中には女性専用車両というものがありますが、障害者のために工夫された専用車両というものも作られても良いではないでしょうか?
現在の日本は、弱者に対して非常に厳しい社会であると思う。人々は、ひたすら利己的な行動を続け、障害者の問題からは目を背け続けている。このような社会を果たして健全な社会と呼ぶことができるのであろうか?
まず第一に人々が障害者を受け入れることが重要であると思う。
日本社会にはよい側面もいっぱいあるのだから、各人が協力して障害者の問題に取り組んでいくのがよいと思う。
PCの発達に比例して、多方面で便利さも加速しています。しかし勝手ながら、私の体験談を綴らせていただきます。
私のかつての同級生に、言葉を上手く発することができず、また、手足の麻痺により生活の大半を車椅子で生活していた女の子がいました。
その女の子が授業中にパソコンを使ってノートをとっていたことを思い出しましたが、同時に、不自由な手で鉛筆を握り締め、一生懸命ノートに書いていた姿も目に焼き付いています。
彼女は自分の言葉を機械で代弁させることもなく、いつもゆっくりと時間をかけて私たちと会話をしていました。その姿は、「自分の意思表示は自分の力で」という熱意そのものでした。
私は彼女との出会いから、何でもかんでも周りが機械に頼らせる傾向にあることを疑問に思います。
長文失礼いたしました。
都会のラッシュはひどく、しょうがいしゃの方が歩くのは大変で、危険だと思います。さらに出勤時には人助けをして遅刻しても、遅刻として扱われるので、周りの人も助けられないと思います。
だから、無理に都会にいようとせず、地方都市で働けばいいと思います。そのような場所では、人不足しているので、歓迎されると思うので、自分はそう思いました。
朝の通勤ラッシュの凄まじさは障害のない自分にとっても苦痛に感じられますが、障害をもつ人たちにとっても大変な苦痛だと思います。
しかし、それが原因で障害をもつ人たちが会社で働けないとか気軽に出掛けられないといった不利益を被るのは社会全体で克服していかなければならない問題だと思います。
設備的に改善を進めていくことはもちろんですが、設備が有効に機能する環境も含めて改善を進めていくことが必要ではないでしょうか。
そういう意味で私たちが障害を持つ人たちの立場を知り、考えることで双方の認識のギャップを埋めるような取り組みをすることで、もっと私たちの意識を変えていくことがとても重要だと思いました。
朝のラッシュ時の自力通勤は、確かに障害を持つ人にとって大変だろう。
しかし、障害を持つ人だけが特に大変なのではなく、例えば、子供やお年寄りにとっても大変さは一緒ではないだろうか。
また、『モビリティに困難の高い人の優先利用』を促すことは結構だとは思うが、やりすぎは逆差別にもつながると考えるのは私だけだろうか。
例えばエレベータ。白杖をつく人や車いすの人、視覚障害を持つ人だけが優先されるべきか。もしかしたら健常者(あまり使いたくない表現だが)に見えて、体調が悪かったり、足を痛めていたりで、エレベータを使用する人もいるかもしれない。その「見分け方」はどうするのか。
ひねくれていて申し訳ありませんが、障害を持つ人という一方に偏って逆差別になっていないかと感じた。しかし、同時に、障害を持つ人の事をこんなに真剣に考える人は滅多にいないと思った。
科学の進歩による光と影という問題はよく目にする問題で、答えのない問題なので難しい。障害を持つ方からの視点で言うと、進歩による恩恵は大きいものであると思う。今までできなかったことができるようになるという面からみると科学の進歩は大きな利益を生んでいる。
しかし実際問題、障害を持つ方に対する支援が十分でないといわれる。これは科学がいくら発達したとしても、今のように科学の進歩に甘えてはいけない証拠である。周囲の人の協力・建物や道具の設計の段階で障害を持つ方に対する等の、人と人との間での思いやりや理解がないといけないということだと思う。
私は朝電車で通学しています。
埼京線は満員で障害を持っていない私でも厳しく感じられます。そんななかに障害者が乗れるはずがありません。
私も障害者専用車両が必要だと思いました。
普段の生活でも障害者には住みにくいようなところがたくさんあります。日本は技術革新よりもそちらを優先させるべきなのではないかと思います。
最近はスロープや手すりなど、障害のある人に対する支援が着々と増えてきている。現に、私の自宅の最寄りの駅では今、エレベーターの工事が行われている。
技術の進歩により、マイナスの部分が出てきてしまうのはある程度しょうがないことだと目をつぶるべきだ。それよりも、社会にとってプラスになることを追い求めていき、社会のために尽くしていくべきだと私は思う。
利便性と合理性を求め続けている現在の社会は多くの人にとっては都合がいいと思います。さらに、あまりにも便利になることで逆に不都合に感じる人がいることを、つい忘れがちになってしまうと思います。
自分とは違う立場に立って物事を考えるように心がけていくことが第一歩になるのではないかなと感じました。
技術が発達しデジタル化することで、人と人とのつながりが希薄になってきていると思う。電波や文字だけのつながりに満足してしまい、本質的なつながりを忘れることが多い。直接会う、ぬくもりが感じられる手紙を書くなど、冷たい電子文字から一度脱却してみると、人間の温かさを感じられることができるのではないか。
まえまえからバリアフリーという言葉をよく聞くが、具体的に実行されていないように思える。ふと点字などを見かけたりはするがどこにでもあるわけではない。技術革新によってマイナスの面が出てくるとは思うがそれを障害のある人が快適に暮らせるようにするような社会にしていくために活用するべきだと思う。
技術革新、社会開発といった点で、私たち現代人が日常生活全般的なあらゆる箇所において、その恩恵をこうむっていることは決して否めない。 技術革新が進むにつれて、日頃私たちは日進月歩で合理的かつ効率良く生きていくことができている。しかし、普段このようなことを常に考えながら過ごしている人はそうは多くないと私は考える。
そもそも私も含め人間は、怠惰な故に、より楽な方へと流れるし、光と影があれば光しか見ず、影の部分には蓋をし、やり過ごしてしまう傾向があると思う。さらに、人間は本当に欲深いもので、決して現状では満足しない動物であるように思う。もっと便利にできるのではないか、もっと合理的なものを作れるのではないか、もっと良いものを、もっと新しいものをと、どこまでも続く欲望という、ある意味凶器を常に携帯し、生きているように私は思う。そこには「経済社会」という大きな流れが関連しているのではないかと考える。経済とは、根本的には人間が持つ欲望を、どれだけ刺激し、金を落としてもらえるか。これに尽きるように思う。例え、何らかの障害者のある方が今までよりも他者との意思疎通がずっと容易にできる為のPCの開発をしていると表面的に謳っていたとしても、その裏側には必ず、商品として購入してもらうという営利目的が付きまとってくる。体に優しいとか、誰にでも使いやすい等ということは、私からすると偽善の塊で、もっと言ってしまえば騙し文句のなにものでもない。
だが、矛盾するようではあるが、だからといって技術革新なんて不必要だなんてことを言うつもりは毛頭ない。技術革新の恩恵を被っている自分と、限りのない欲望を駆り立てられている自分という両方をきちんと自身の中で丁寧に点検をし、常に自分をコントロールしていく必要があるのではないかと私は考える。そのためにも、経済社会にいる自分、技術革新により、より新しく便利なものをほぼ無意識的に追い求めている自分、またそのことによって恩恵を被っている自分など、現状世界の中で自分や他者がどんな状況に晒されているのかということを私たち人間1人ひとりがもっと真剣に考えていくことが必要であると私は思う。
技術の発達が進む中でやはり障害者にも合わせた設計というのが重要になってくると思います。
操作方法が複雑になるほど障害を持つひとには大きなハンディになりますし、技術の発達と同時に、どれだけシンプルなつくりにできるかが大切なのだと思います。
障害者の意見を生かしてバリアフリーを、ユニバーサルなものを製作できるならよいが、我々の意見で彼らのために、という考えは差別化を深くするのではないだろうか?
意見で障害者専用車両という言葉がでていたが、この場合女性専用車と違いすべての車両、場所で行うべきだろう。
バリアフリーは障害者のためだけではなく、障害を持っていない人のためにも必要だと思います。そしてバリアフリーという「仕様」だけに頼るのではなく一人ひとりの思いやりも、当然ですが必要だと思います。
先日私はサークルの用事で板橋から100冊以上の冊子を手押し車に乗せて運びました。残念なことに板橋駅には、エレベーターもエスカレーターもなく、しかも上り用の階段は人一人通るのが精いっぱいの狭さ。障害者、ご老人だけではなく、健康な人でもバリアを感じることがあるのです。
また、私は一段一段両足を乗せてゆっくり上るのがやっとだったので、「もしかしたら誰か手伝ってくれるかな…」と淡い希望を抱いていましたが、すれ違う人はみなちらっとこちらを見てそのまま行ってしまい、それどころかあとから上ってくる人には舌打ちをされる始末。手伝わないだけならまだしも、舌打ちをされるのはさすがにショックを受けました。
後ろから見たのでは重い荷物を持っていたことがわからなかったかもしれませんが、もしお年寄りが同じように一段一段ゆっくり上っていても、きっと舌打ちをする人はいるのでしょう。困っている人がいれば助けるのが当たり前なのに、今はそれをできない人、困っている人に対して冷たい人が多いことが、とても悲しいです。
私は毎朝電車で通学しています。
朝のラッシュアワーはもちろんのこと、駅の中全体が込み合っていて、健常者であっても移動が困難なときもあります。
また、電車を降りると走ってエレベーターに詰め寄るサラリーマンの姿を見ることもしばしばあります。優先順位というものをよく考えて行動しなければならないと私は思います。
朝の通勤ラッシュというのは、障害者のみならず障害を持ってない人にとってもとても辛いものだと思う。やはり、万人が利用できる仕組みをつくっていくのがこれからの社会の課題だとおもわれる。
この話において、「障害のある人を十分に考慮しない社会開発のあり方が、障害のある人への権利侵害を拡大してきた」とありましたが、自分はどちらかというと障害のある人にも考慮した社会開発をしているのではないかと思います。
上記にあったものもそうですが、車であっても車椅子のひとが安全に乗り降りできるようになっていたり、障害者を支援する器具などの技術も上がっています。
もちろんこれらだけでは不十分なところもあると思いますが、自分的には十分考慮しているのではないかと思います。
私はこれまで、障害のある方にも生活しやすい環境となってきていると思っていました。でも、先生の文章を読み、改めて見てみると、実はまだまだ多くの課題が残っているということに気がつきました。
「エレベーターの数も足りていない。」「点字ブロックなどの整備もまだ十分ではない。」
行きたいところに行くことができる自由が、今現在、障害のある方に保証されていないように感じます。曖昧な環境整備は、障害のある方の手助けとはならないと思います。
もちろん、そのような整備がなくとも、思いやりをもって協力していくことで、自由は得られるかもしれません。でも、一人であっても、行きたいとこに行けるという選択肢ができることで、障害のある方自身も積極的に活動しやすくなると思います。
「本当に必要なものを提供する」という意識があれば、技術革新によってもたらされる影の部分は小さくすることができると思います。
最近、駅で車いすの方が電車とホームの間に板をかけてもらい電車に乗り込むところを見て、やはり駅員の手助けなしでは乗れないのだとその時実感しました。
なぜかといいますと、いつも電車とホームの間はとても空いていて、注意しなければすぐにはまってしまいそうだと考えていたからです。友達からは足がはまったとか、上半身まで落ちてしまったという人がいたなどという危険な話を聞きました。
白状をついた人は特にどのぐらい間が空いているかわからないので、乗ろうとした時白状を落とす危険や、自分が落ちてしまう危険があると思います。
また、駅でのエレベーターのくだりでホームが坂になっているため、線路に車いすが落ちてしまったという事件を思い出しました。少々の坂は雨水をとどまらせないためだとは思いますが、結果このような事件が起こるのはとても痛ましいものだと思いました。
地下鉄では線路に落ちないよう柵が見受けられますが、ほとんどのホームでは見られないため車いすの方自身が注意しなければということが悲しいです。
電車は便利な移動機関ですが、危険がたくさんあり、どんな人でも安心して利用できる日は来るのだろうかと思いました。
パソコンは技術革新の成果の代表ですね。この記事を読んで、パソコンの導入によってどれだけ障害のある人が助けられているかがわかりました。
スペースワールドで行なわれる北九州市の成人祭に参加した際に、ステージ上手に大きめのスクリーンが設置してありそこにアナウンスされているテキストや、アトラクション出演者の会話がリアルタイムで打ち出されているのをみて、障害のある人のことを意識したステージ作りがされていることに感心しました。それだけではなく手話をしてくださる方もきちんとおられました。私はこのような配慮をされているのをみてそこで初めて「この大勢の成人の中には障害のある人もいるんだ」ということを意識しました。
この日私は成人としてではなく式典にてステージで国家を唄う役割を担っていたのですが、聴覚に障害のある人は「音楽」をどういうふうに捉えているのでしょうか。少し気になりました。
宗澤先生の講義を受けた北九大の学生です。先日は有難うございました。
私には身体に障害のある友人がいます。彼は障害を抱えて生活しており、悩みも抱えていますが、いつも笑顔で何事にも挑戦していく姿が私には輝いて見えます。そんな彼を思い浮かべながらこの記事を読みました。
たしかに、バリアフリーやユニバーサルデザインといった言葉が広まってきてはいますし、新しい施設などでは以前に比べて様々な改善が為されていると思います。けれどもバスや電車の乗り降りなど、やっぱり誰かの手助けが必要な場合が多いと思います。また、いくらエレベーターなどが設置されたとしても、我先にとエレベーターを利用し、障害のある人を優先することを考えていない人もまだまだたくさんいます。
設備だけではなく、困っている人を見かけたら声をかけられる様な周囲の人の心・考え方も含めた住みやすい環境づくりと、人と人との繋がりの大切さを考えさせられました。
障害のある人も現代の技術を駆使することによって、日常生活を送ることがずいぶん楽になっているんですね。そんな技術がこれからも開発されて障害を感じなくなるような世界がくればいいですね。
私は以前車椅子の方が駅員の補助を受けて電車に乗っている光景を見たことがありました。電車の利用において様々な改善がされてきましたが、電車とホームには隙間があったり、車椅子優先スペースにも関わらず平然と使用している人がいることが事実です。整備するだけでなく人々の認識が非常に大切なのだと感じました。
私は先生の講義を聞くまで、日本は障害者が生活しやすいような環境が整えられているのだとばかり思っていました。しかし、どんなに技術が発達し、使いやすい整備が整えられたとしても、私たち一人一人がその設備をしっかり管理していかなければ意味がないのだということがわかりました。トイレットペーパーの積まれたトイレや、意味のない方向に向けられた点字ブロックを見てこのような状況があふれていることに気づかされました。
それから日本で開発された障害者にも利用できるパソコンなどが海外では利用されているにもかかわらず、日本では普及していないという事実、車いすの利用者にも使用しやすい自動販売機の逆輸入の話に驚きました。
せっかくこのような技術があるのだから私たちがいつでも障害を持った方が利用できるような状態を維持しなければならないと思います。
ラッシュアワーの通勤・通学の地獄は、障害のない私でさえストレスを感じます。彼らにとっては相当でしょう。混雑時の身動きの取れない車内では、優先席も意味を為していません。しかし、バリアフリーを謳った設備をただ増やすだけでは、「駅舎エレベーター設置」の例のように、障害を持つ人に利便性は伝わりませんし、現状は変わらないでしょう。100人委員会の視覚障害のある方のお話では、「困ったときは駅員さんを探さなくてはならない」という前提での発言に感じられました。つまり、駅員さんしか助けてくれない実情が存在しているのです。私たちが意識を変えれば、もう少し人が技術革新のみに頼らずともできるバリアフリーがあるはずです。「利便性」は機械に依存するのが当たり前、となっている私たちの無意識の考えをもう一度見つめなおす必要があります。
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