誰もがともに暮らしていけるノーマライゼーション条例(仮称)」に向けた講演とシンポジウムを開催しました(さいたま市)
昨日2月11日、さいたま新都心のラフレ埼玉櫻ホールにおいて、「誰もがともに暮らしていけるノーマライゼーション条例(仮称)」に向けた講演とシンポジウムの会が催され、350人を超える当事者・市民の方が集まりました。
この集まりの開催は、街の中で条例づくりを進めていく手始めに当たります。緊張感をもって私は当日を迎えましたが、多くの参加者にとってこれからの地域での取り組みに期待を拓く大きな一歩になったのではないかと受け止めることができました。
写真1 石井めぐみさんの講演-心打たれるお話でした
まず、女優・石井めぐみさんの講演がありました。石井めぐみさんは、「ひょうきん族」に出演されていたアイドルの時代から現在まで、数多くの映画・ドラマに活躍されている女優さんです。重い障害のあるお子さんの子育て体験を綴られた『笑ってよ、ゆっぴい』(フジテレビ出版、1996年)の著作があり、重度の障害のある子どもの親の会「てんしのわ」をつくられて、誰もが共に生きるまちづくりをめざした活動に取り組んでおられます。
出産時に直面した「障害の告知」と戸惑い、何とかしようと「訓練」に明け暮れた時代からわが子に笑顔を向けてともに暮らすようになるまでの「障害の受容」のプロセス、わが子から学んだことやもらった力のすばらしさ、地域で関心を向け合う心の運びをみんながつくっていく大切さと工夫、障害のある人をよく見かける地域社会は障害のある人が多く住む街なのではなく街に出かけやすい地域の間柄のあること、街角でちょっと立ち止まって困っている人に眼を向けるだけでも地域が変わることなど、石井さんの実体験にもとづくお話は具体的で、聴衆の心に滲みるすばらしい内容でした。
お話の最後に「ふるさと感のうすいさいたま市かもしれませんが、誰もが共に暮せるまちづくりを通して、みなさんの本当の“ふるさと”が育まれていくのでは」とさいたま市の条例づくりへのエールも頂戴したことも含め、心打たれるお話をいただいたことに深く感謝申し上げます。
引き続き、シンポジウムに移りました。私は司会を務め、条例づくりに関するこれまでの経緯と条例づくりの体制について簡単に報告を行なった後、4人のシンポジストから条例づくりに関する発言がありました。それぞれのシンポジストからは、豊かな具体例にもとづく課題提起がありました。以下は、あくまでも私の作成したごく簡略な発言要旨です。
写真2 シンポジウムの様子
写真3 350人以上の参加者で埋まるフロア
〈野辺明子さん〉
先天性四肢障害のあるお子さんを育てられた体験から、障害の受容をめぐる親の葛藤や心労の実際、障害の発生原因をめぐって生じる周囲の特別視(父方の遺伝か母方のそれか、妊娠中の母親に問題があったのではないか等)、小学校3年生のタテ笛(リコーダー、一般に商品名「スペリオパイプ」で呼ばれる楽器)の時間に声を上げていかなければ先生が気づかなかったこと等を話され、すべての人がそれぞれの多様な生き方を実現できることの大切を提起されました(野辺さん他の編著による良書をご紹介しておきます。『障害をもつ子どもが育つということ-10家族の体験』『障害をもつ子どもを産むということ-19人の体験』、いずれも中央法規出版で在庫僅少です!)。
〈嶋垣謹哉さん〉
人生半ばにして網膜色素変性症による失明に直面された経験から、たとえば周囲の人が街で出会った白杖の人に声をかけるかかけないかに気を揉むなどの場面にあるように、障害のある人の「生きづらさ」はまず周囲の人との間柄にあらわれやすいことを指摘し、(1)孤立を生むことなく、身近に声をかけ合い受けとめ合う関係性を地域全体につくる課題の大切さと、(2)障害のある人とそのの支援に携わる専門職の人たちとの関係性を人権の見地から改めて問い直す必要性を提起されました。
〈柴野和善さん〉
高齢者・障害者の人権問題に深くかかわってきた弁護士としての経験と現在さいたま市で集約している差別事例から、(1)暮らしの中の人権保障とは、その人らしい暮らしや生き方の実現が「当たり前」となっていることであり、(2)このような人権の保障を実現するためには、人々の意識・法制度・施策の現実・支援者やコミュニケーションのあり方など、多様なレベルと観点から必要な配慮を具体的に明らかにする必要を提起されました。
〈平野方紹さん〉
研究者の立場から、滋賀サングループ事件や水戸アカス紙器事件のような意図的な人権侵害(=直接的差別)の克服を徹底してはかると共に、知らずしらずのうちにマジョリティが差別や排除を生み出している構造や土壌を明らかにして乗りこえていくことの必要性を指摘されました。そのためには、現実に照らして必要で具体的な基準・仕組みを明文化して定めることが大切であり、ここに条例の一つ意義があることを指摘されました。
このシンポジウムは、条例づくりの“前座”に過ぎません。「真打登場」は条例づくり100人委員会にたくさんの当事者・市民に参画していただくことです。すべての人の人権保障に資する条例づくりには、条例づくりのプロセスそのものが、お互いに知り合い、受けとめ合い、認め合う間柄からなるまちづくりであることを希求するものです。100人委員会や条例づくりサポーターズクラブへの幅広い市民の参画をお待ちしています(詳しくは、さいたま市の条例制定ウェブ・ページをご覧ください)。
コメント
当日、入れるかどうかと思いながらうかがいましたが、お話が伺えて幸運でした。私の立場は、中学の特別支援学級の子どもを持つ母です。私も子どもを夫に預けての参加でしたが、やはり、子どもを抱えた母親や、子どもは、事例集のなかでしかなかなか声を上げられません。事例集のなかでも、教育と医療の事例が多かったのは、私のような立場の母親が、声をあげられない子どもたちに代わって寄せたものと、受け止めました。
母親たちの提案のなかには、「早く条例を!」というものがみられ、私も、そういう母親のひとりです。現場にあらわれなくても、事例の中の子ども・母親の声を多くの方に受け止めていただきたいと思います。
条例が作られる。事例にとりあげられるかもしれない。それだけのことでも、今、私が直面している問題の、学校の職員が、わずか(?)ですが、反応するのを、この目で確認しました。
来年とかではなく今、特別支援学級に人手が無い。だから、だれか子どもを減らさなければ。汚い手を使っても。そういうことのようです。教員一人に6人が限界だと、ある先生はおっしゃいました。現場の先生もまた、差別(?)されていると、つきはなされたような気持ちで途方に暮れているのかもしれません。
多くの障害児の家族が、この条例に期待していると思います。市長が変わらないうちに、少しでも形を残し、一刻も早く実現させて欲しいです。
改めて健常者と障害者ともに分け隔てなく暮らせる地域づくりの必要性があると感じました。そのために講演会やシンポジウムが開かれていることは素晴らしいと思います。私は今大学生ですが、現代の学生はこういった問題に無関心な学生が多いと感じています。無関心が今後の未来の担い手として一番恐ろしいことではないかと思います。人間形成の担い手としていかに今考え行動を起こしてみるかが自分としても成長できるカギになってくるのではないかと思います。この記事を見て講演会やシンポジウムだけでなくボランティア活動など学べる、またいまの社会について真剣に考えることができる機会に積極的に参加していきたいと思いました。
それぞれの人にはそれぞれの人生があるのだと、改めて感じました。
それぞれに苦しみがあって、喜びがあって、生きている・・・つい忘れがちな感覚だと思います。
多種多様な人々が生きる社会で、「健常」とはどういうことなんでしょうか。
私自身は恐らく健常者に分類される人間だと思いますが、本当に障がいを一切持たずに生まれてきたのかと、最近よく考えます。
さいたま市には、健常者と障がい者が生きる町ではなくて、みんなが生きる町になってほしいです。
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