「恵方巻き」にみる商業主義
昨今、節分の「恵方巻き」は全国的なブームとなっています。「元祖恵方巻き」の地域=大阪の出身の私としては、首都圏のコンビニ・スーパーはおろか「デパ地下」までが「恵方巻き商戦」に参入し始めた事態に、思わず眉をひそめてしまいます。
限られた地域の慣わしが、商機に乏しい2月の売り上げ拡大戦略にのって「全国区」にされてしまうというのはどうもいただけない。それは生活文化の継承や広まりではなく、「巻き寿司」の市場拡大に過ぎません。
写真1 街に溢れる「恵方巻き」の宣伝
大阪では「恵方巻き」と呼ぶことは少なく、一般に「丸かじり」または「丸かじり寿司」と呼称していました。恵方巻きの由来は定かではないようですが、少なくとも江戸末期から昭和初期には大阪の船場商人の間で、節分の祈願事として定着していたと言われています。つまり、この恵方巻きは大阪といっても船場周辺の地域に限られた商人の慣わしです。
実際、大阪商人の家に生まれ育った私の父は、大正末期の子どもの頃からずっと節分の「丸かじり」を食べていたと言い、市内中心部の医師の家に生まれ育った母は「そんなもん食べたことなかった」と証言します。私の記憶では、少なくとも私が20歳の頃まではせいぜい大阪市内中心部の限定行事だったように思います。
インターネット上の情報では、一度さびれた節分の「丸かじり」を復活させようと、1970年代に大阪海苔問屋協同組合が寿司屋の組合と手を組んでキャンペーンを展開し、寿司屋の店先に恵方(今年の方角)を貼り出すなどの努力を重ねて「関西全体に普及した」という記載が目立ちます。
しかし、このような情報には疑問点が多い。私は1960年代を通じて毎年の節分には「丸かじり」をしていましたし、当時小学生だった私が翌日学校に行くと、学級担任は「昨日、“丸かじり”した人、手を上げて」と朝一番に切り出し、それから暫くは子どもたちの間で「丸かじりの最中にしゃべってしもたんや~」などの話題でもちきりといった塩梅でした。
また、1980年当時の私の記憶によれば、京都や神戸の寿司屋さんで節分の「丸かじり」について話題にすると、「大阪のほうでは何かそのようなものがあるらしいですな」程度の返答でしたから、ネット上の記載情報は相当怪しいと考えます。
私の子ども時代の「元祖丸かじり」の様子は次のようです。
各家庭では、家族それぞれが巻き寿司一本を丸ごと手に握りしめ、恵方を向いて「黙々」と食べます。食べている最中に話したり笑ったりすると福が逃げてしまうといわれるため、小学生でさえ恵方巻きを食べる間はテレビを消し、真剣な表情で食べるのです。縁起を担ぎたい向きには、電気まで消して「黙々と食べる」奴までいました。
ところが、この日は節分ですから「丸かじり」を食べ終わると豆撒きが控えています。子どもたちはちょっとした「お祭り気分」ですから、先に食べ終わった子どもはまだ食べ終わっていないきょうだいを見とめると、「何とか話させてやろう、笑わせてやろう」とちょっかいを出し始めます。
写真2 「丸かじり寿司」は質素な具材でいただくもの
このような時、とりたてて可笑しいことを言う必要はありません。「お隣さんが垣根に塀をつくったね」「へ~」とか、上方落語の頭の定番である「ちわ~」「何や“きーやん”かいな、まっ、お入り」だけでもいい。普段と違って「笑ってはいけない」との縛りがかけられていると、笑いを連想させる刺激がちょっと加わるだけで思わず笑ってしまうからです(注:上方落語の“きーやん”“せーやん”は、江戸落語の“くまさん”“はっつぁん”に該当します)。
そうして、笑わされたほうはしまったとばかりに「笑うてしもたやないか、このアホッ、あっち行け!」と相手に抗い、そこからきょうだい喧嘩に発展していく…。こんな他愛もない夕刻の光景が、子どもたちにとっての「元祖丸かじり」でした。
節分とは文字どおり季節の節目・変わり目のこと。立春の前日を指します。農耕を中心とするわが国にあっては、季節の循環が穏やかに進み、気候変動や自然災害が起こらないよう祈願するための大切な「節目」です。ところが、季節の変わり目は「隙間」が生じやすく「邪気悪霊」が忍び込みやすいことから、豆撒きに代表される「除災祈願」の慣わしが定着していったそうです(神崎宣武『「まつり」の食文化』96-106頁、角川書店、2005年)。
船場商人の「丸かじり」もこのような節分文化を継承し、季節の変わり目である節分に「商運」を逃さないことを祈願して、七福を象徴する具材を酢飯と海苔で巻き込んだ寿司を「切らずに、丸ごと、黙って」食べることを慣わしとしたものではないでしょうか。
もちろん、昔の船場商人は農産物や海産物を手広く扱っていましたから、農民や漁民と同じように、四季の巡りが滞りなく進むことを願っていたに違いありません。
これが今や全国のビジネス・チャンスとなっているのです。ここで「(船場周辺地域出身の)大阪人」として苛立ちを覚えるのは、作家の藤本義一氏が「私は大阪国籍で生きているのです。日本国籍とはどうしてもいえません」(藤本義一・丹波元『大阪人と日本人』3頁、PHP文庫、2001年)というように、「大阪人」が地域的・文化的アイデンティティを良くも悪くも強く自覚し過ぎるせいであるかもしれません。
しかし、佐賀出身の人が福岡や長崎などと境目のない「九州人」として、山形出身の人が秋田や岩手との相違を全くわきまえずに「東北人」として、それぞれ十把一絡げ扱いされると憤りにも近い心外な気持ちに襲われるのと同様に、大阪の船場周辺だけの慣わしであった行事が「全国のスーパー・コンビニ・百貨店」で一括りにされて商売ネタになっている事態に、私は違和感を禁じ得ないのです。何よりも、地域生活文化の多様性を尊重することのできないメンタリティーは、それぞれの地域の実情に即した新たな地域支援と暮らしを創造することなどとてもかなわないと考えるからです。
全国で大勢の人が「節分」の意味も考えずに、巻き寿司を「同じ日に、同じ方角を向いて、黙々と食べている」様を、雲に乗った神様のように皆さんが空から鳥瞰できるとしましょう。すると、その光景のバカバカしさを目の当たりにして思わず吹き出してしまうか、あるいは、そのおぞましさにげんなりするのが落ちではないでしょうか? それに、節分の日には「巻き寿司」の値段が突然跳ね上がりますから、財布に災いが忍び込むことだけは間違いありません。
コメント
埼玉大学で講義を受けている者です。
僕も、恵方巻について疑問を抱いていました。
商業的に作られたブームだと知った時は、少しげんなりしてしましました。
もともと地方に強く根付いている文化が、そのように商業目的で利用されているなら、僕もきっと違和感や憤りを感じると思います。
埼玉大学で講義を受けているものです。
私は本当に最近恵方巻のことを知りました。商業目的かもしれませんが、地方の文化を知る機会でもある気がします。間違った風習を信じてしまう危険性もありますが…
私の地元ではB級グルメと称されるものが有名となっています。昔から慣れ親しんだ味がB級と呼ばれるのはなんとも言えませんが、テレビで取り上げられると嬉しい気持ちもあります。
埼玉大学で講義を受けているものです。
自分はこの記事で初めて詳しく恵方巻について知りました。
自分の家では小さい頃から、節分の日は家族みんなで鬼役を回しながら豆まきをして、その後は歳の数だけ豆を食べるという習慣がありました。恵方巻を食べだしたのはだいたい10年位前だから自分の地元(北海道)にそのような商業上の理由で恵方巻が持ち込まれたというのは間違っていないのだなと思います。
自分の考え的には、理由はどうであれ、豆まきや恵方巻で家族間の交流が増えて家族が仲良くなればそれはそれでいいと思います。
それで親が恵方巻などのの歴史や経緯をこどもや孫などに伝えていけばいいと思います。
埼玉大学で講義を受けているものです。
恵方巻が大阪発祥だとは知りませんでした。
大阪の人びとはみんな、節分を大切な行事として行っていました。
季節の行事は、本来意味や由来を考えながら行うものなので、これからは全国の人びとに考えながらやってもらいたいです。
埼玉大学で先生の講義を受けている者です。
私の地元(福島)に恵方巻が広まったのは数年前だったと思います。それまでは豆を撒いたり、年の数だけ豆を食べたりする習慣しかありませんでした。未だに「節分=恵方巻」には違和感があります。
他の地方の習慣を知るのはいいことかもしれませんが、もし自分の地元の文化が商業目的に利用されたら私もやはりいい気はしないと思います。
埼玉大学で講義を受けているものです。
実家でもいつからかは覚えていませんが、縁起がいいという理由で恵方巻を食べる習慣がありました。
地域の習慣や文化が全国に広まることは悪いことではないかもしれませんが、それが商業目的のみであるならばやはりあまり意味があるように思えません。そのような習慣は意味や由来を知ってこそだと思います。
私は地元愛が強いので、地元にしかない習慣や文化というのを地域性として大切にしていきたいです。
埼玉大学で講義を受けている者です。初めてコメントさせていただきます。
私も恵方巻きを食べました。大阪発祥らしいということを知ってはいたのですが、「縁起もの」ということに流されてしまったこともあって食べてしまいました。
最近は地域特有のものが全国で知られるようになったり親しまれたりすることが本当に多くなっていると思います。
商業目的で広めることも悪いことではないと思いますが、その行事が元々どの地域でどんな意味をもって始まったのか、ということもきちんと説明することが大事だと思いますし、私たちもきちんと知った上で親しんでいくべきだと思います。
埼玉大学で講義を受けているものです
今年はじめて恵方巻きを食べ「丸かじり」しました。美味しく頂きました。
恵方巻きが大阪発だったとは知りませんでした。
しかし、伝統として残したいものがこのような形になるのは残念な気がします。なくなってしまうよりはいいかもしれませんが・・・
以前私が元セブンイレブンの店長だった社会の先生から聞いたのですが、恵方巻きはとても利益率もよく、かなり力を入れているそうです。売れるものは売ればいいとは思いますが、伝統っていう人の思いがこもっているものならば、ただ売るだけというのは寂しいですね。
この記事を読んで、恵方巻が広まった経緯はバレンタインデーが広まった経緯と似ていると思いました。バレンタインデーも、チョコレートを作っている業界の戦略で日本で広められたそうですね。
僕が恵方巻という風習を知ったのはここ数年のことだったと思います。自分たちの地域独自の文化が全国に広まることに関しては、身近な友達が芸能人になる気持ちと似ていて、個人的にはすごく誇らしくて嬉しいと思います。ただやはり、形だけが伝わるのではなく、それがもともとどこの風習であり、どのような意味が込められているのかも確実に伝えていかなければいけないと思います。恵方巻が大阪発の文化であることを知っている人が少ないという状況は、とてもおかしいことです。
埼玉大学で講義を受けている者です。
私は北関東出身ですが恵方巻を節分に食べるようになったのはここ5~10年前後のことのように思います。
その地方独特の風習や慣習が広まるのがいいことなのか悪いことなのかわかりませんが、そこにビジネスチャンスを見出すのはその地域の人の気持ちを考えると間違っていると思います。
埼玉大学で講義を受けているものです。
恵方巻が大阪発祥ということを初めて知りました。僕の家でも毎年、豆をまいて恵方巻を食べる習慣がありますが、そんな深い歴史があるのを知って少し驚きました。
僕たちは毎年の習慣として節分を楽しんでいますが、その裏には地元生活文化が商業目的で利用されているのを良くは思わない人たちがいるということを心に留めておかなければならないと思いました。
私は東北出身者なのですが、恵方巻きについてあまり良い印象はもっていませんでした。なぜなら、恵方巻きという単語すら知らなかったのに、お店でちょっと広告したくらいであっさりと流されてしまう日本人に腹立たしさを感じたからです。商社が広告すればあっさりと他文化を信仰する日本人の感覚が理解できません。
各地に文化があり、利益のためにそれを利用することも商業に生きる立場としてならわかるのですが、本来の意味を理解されずに広まっていっても無意味だと思います。しかし、意味をきちんと理解していなくても日本人は喜んでその文化を受け入れ信仰する。だからこそ、私は商社に問題がないとは思ってませんが、日本人自体にもっと自分たちの文化や他の文化を理解しようとする姿勢が必要ではないかと思います。
東北出身者の私は恵方巻きを数年前にテレビで見るまで知らなかったので、未だに大勢の人が節分に恵方巻きを食べることに違和感を持っています。
恵方巻きが大阪発祥のものだとは今初めて知ったのですが、地域の「伝統文化」が大衆の「商品」になってしまっていることは考え直さなければならないと思います。地域の伝統が消えてしまうことは以前から問題視されていましたが、この恵方巻きの例のように利益を上げるためのマーケットに伝統や風習が組み込まれていってしまっているということにも注意を向けなくてはならないと思いました。
埼玉大学で講義を受けているものです。
私は福島県出身なのですが、小さいころから恵方巻きを食べていました。しかし、恵方巻きが大阪出身なんてことは全く知りませんでした。また、名前の違いにも驚きました。
確かに先生のように商業戦略として、恵方巻きが広まるのに苦言を呈する人もいるかもしれません。でも、私はどんな広まり方にしろ、自分の地域発祥の物が全国区的なものになるのはすごく光栄なことだと思いますし、誇りにもなると思います。私も、自分の出身県から出た有名なものや芸能人などは誇りに思えます。商業戦略も何かが有名になり、全国的に広がる一つの形なのではないか。と私は思います。
埼玉大学で先生の講義を受講している者です。
恵方巻き然り、節分然り、おせち然り、日本の古来から続いている文化には何かしらの意味があるはずです。それが今やただの売り上げ競争の駒扱いされているのは如何なものかと思います。消費者は完全に踊らされています。
ところで、節分の日にみんなが恵方巻きを食べている様子を鳥瞰できたら滑稽だ、げんなりするというように述べられていました。確かにそう見えるかも知れませんが、自分は「この行為で福を呼び込んでいる」と思うことが大事なのではないかと思います。
日本人はげんを担ぐのが大好きな人種ですから、たとえアホっぽく見えても、その思い込みで多少なりとも幸せになれるのならそれでいいのではないでしょうか。
私は沖縄県の出身なのですが、進学のため本土へ来た際に初めて「恵方巻き」の存在を知りました。その存在を知ったきっかけとなったのが、コンビニの「恵方巻き」のポスターだったので、まさに商業主義のビジネス戦略にまんまと乗せられていたのだと気づきました。
この記事を見て、大阪発祥であり時代背景もきちんとある風物の食べ物だと知ることができ勉強になりました。このような商業主義に乗せられてしまった食べ物は、その伝統や地元の方の思いなどがどうしても薄れてしまう傾向があります。
私の故郷の食べ物も、観光地という特性上どんどんビジネス性が強くなってきており、その食の生まれた時代背景などは無視され全国へと発信されています。
その土地独自のアイデンティティーは地域文化の発展に必要不可欠な要素であると思うし、特に特定の地域の風習である場合にはきちんとその意味を伝える必要性があると思いました。
埼玉大学で先生の講義を受けている者です。
私もここ数年で恵方巻きの存在を知りました。
最近ではB級グルメが流行っていて、本来ならばその土地でしか食べられないもの、その土地の食文化であるものが、もはや全国で食べられる時代になっています。地域の文化が全国に広まることはいいことですが、それでは地域独特の良さや伝統が失われてしまい、面白味のない日本になってしまうと思います。
商業的効果もあり、そうした”商品”はあっというまに全国に広まりますが、自分の地域独特の文化を大切にすることも考えていかなければいけないのだと思いました。
私は関東の生まれで、恵方巻きの習慣を知らずに育ってきました。ここ数年で恵方巻きがブームとなったことでその習慣を知りました。
恵方巻きがおいしいということはもちろんのことで、太い巻きずしをみんなで同じ方向を向いて、ただ黙々と食べるという、何ともシュールな状況をおもしろいと思いました。広く広まったことにも納得できました。
商業的な背景があるので、伝統をおろそかにしたような間違った文化が広まってしまう部分もあるかと思いますが、独自の文化を大切にしつつ定着したらうれしいと思いました。
恵方巻きを食べるという習慣が気付いたら話題になっていて、自分が小さい頃にこんなことしてたかなあと最近疑問に思っていました。恵方巻きのことを丸かじりと呼び、大阪での習慣であったと今初めて知りました。全国的にその存在を広めるのであれば、ちゃんとどこの伝統であるかということも同時に伝えていかなければ、自分のようになにも知らないままでいる人が増えてしまうと思うので、そういうところをきちんとする必要があると思った。
面白く読ませていただきました.
確かに,自分たちの文化が,よこしまな目的のために利用され,間違った意味で広がりゆくことについては,憤りを感じるものだと思います.たとえば私も,理系という1つの枠の中で,自らの専攻としているものが語られることを心地よくは思いません.理系の中でも工学と理学は全然違うし,理学の中でも,数学,物理,化学,生物と全く内容が違います.更に,数学の中でも,解析,代数,幾何等,様々な分野があり,それぞれに尊厳があります.分かりもしないのに「数学は」という主語から始まる否定的で嫌悪感の溢れる発言が文科系の人間から発されることについて,私は不愉快に感じます.
恵方巻きについてそれほど思い入れがある者ではありませんが,先生が主張される気持ちについては理解しているつもりでおります.
しかし,世の中は変転し,どこまでもとどまることを知らないのが私たちが存在する空間です.時々刻々と生成され,あるいは破壊されつつある流れの中で,古いものにしがみついているのはあまりにも惨めであると思わざるを得ません.先生は「商業主義」という言葉を,否定的なニュアンスが宿命的に付随する言葉として用いているように感じられましたが,私は商業主義にそれほど悲観する者ではありません.オーストリアの経済学者,シュンペーターが述べたように,企業家は現代の英雄であると考えるからです.すなわち,古いものを体系的に破壊し,新しい価値を創造することによって,繁栄が実現され,豊かさが生まれるものだと,私は考えるからです.
その意味で,恵方巻きを日本中に広めた人は,偉いと思います.世間一般からすればただの「のりまき」に,新しく,楽しい付加価値を付属させて,ばばくさく何のとりえもない「のりまき」を「恵方巻き」という,子どもや若者がわくわくするような商品に変身させたのです.まさに人間の創造力の勝利だと思います.
地域の大切な文化を踏みにじったことについては大阪の方々に申し訳ないと思います.しかし私は,恵方巻き云々ももちろんあるのですが,商業主義そのものを否定するような考えには賛成できません.なぜならば,その考えの奥には,成長そのものを否定する考えが潜んでいるように思えるからです.それは社会の停滞を促し,結果的に,理想とする福祉社会の出現自体を否定することになると考えるのです.ロックフェラーが,巨万の富を慈善活動に当てたように,現代は創造性あふれる大企業を出現させ,国富を増大させることが,理想の福祉国家実現のための十分条件になると私は考えます.
私の両親は大阪のお隣、和歌山県の出身だ。私は埼玉で育ったのだが、やはり両親が関西出身だと家の文化も関西よりになる。
恵方巻きもそのうちのひとつである。和歌山出身の私の親がなぜ恵方巻きを食べていたのかはわからない。しかし私も幼い頃から恵方巻きを食べていたため節分にはどこの家庭も恵方巻きを食べるものだと思い込んでいて、数年前にはじめて恵方巻きが関西の文化だと知った。思わず友人たちに尋ねたが、恵方巻きの存在を知ったのは最近だと言われカルチャーショックを受けたのを覚えている。思い返してみれば、昔は母の手作りの恵方巻きを食べていたが最近はスーパーなどで買ってきているような気がする。
それに気づいたとき私は思った。なぜ、恵方巻きを食べるのだろうか。そして、何の意図があって恵方巻きは全国に広められたのだろうか、と。始めの疑問は先生のブログで納得したが、果たして何人の人が恵方巻きの意味を知っているのだろう。
意味を知らずに食べていた私も私だが(幼い頃に聞いたことはあるような気がするが忘れていた)、恵方巻きの文化を知らなかった人々は何を思って食べているのだろうかと考えてしまう。
食べるなと言っているのではない。代々受け継がれてきた大切な文化がただの商業のネタになってしまい、季節感を出すためのイベントになってしまっているような気がするのがむなしいのだ。地域の文化を世間に広めるのはとても良いことだと思う。
しかしただいたずらに広めるのではなく、きちんとその意義や歴史的背景とともに広めてほしいと思う。そうして初めて本当の意味での「文化」を広めることができるのではないだろうか。
恵方巻きが大阪発祥とは知りませんでした。
私の家は私が小さいころから節分の時は恵方巻きを食べるのが習慣でした。しかしそれは、巻き寿司一本を丸ごと、恵方を向いて「黙々」と食べるようなものではなく普通の食事として、一人一本恵方巻きが与えられるというものでした。普通にしゃべりながら恵方巻きを食べるというのが我が家の節分だったのです。その方法が本当の節分の恵方巻きではないということは知っていましたが、私はいつもと違う夕食のメニューが楽しみで、それで十分でした。
確かに自分の地域特有の文化が、きちんとした意味を持たずただ商業的に伝えられていたら腹が立つかもしれません。しかしそれで儲かる人も、幸せになる人もいるのならそれでいいと私は思います。
文化とは常に大切にされるべきものです。しかし、ときにそれが金儲けの道具になってしまうことを、この記事を読んで改めて認識しました。おそらく、身の回りで一部の地域で大切にされてきた文化が、当たり前のように粗雑に扱われていることは、もはや普通となり、私達自身もそのことを認識しきれていないのだと思います。
食文化やファッション、また行事など日本らしいなんでも受け入れ、広める性格が、そのものの本来の姿を見せなくしてしまっている例は多いと思います。クリスマスはいい例ではないでしょうか。パーティーをしてどんちゃん騒ぎをしても、何を祝っているのかを強く意識している日本人はそんなにいないのではないでしょうか(キリスト教信者は別ですが)。商業戦略に使われてしまっているあたりも、恵方巻きとよく似ているように思います。
恵方巻きは私の家では毎年食べています。うちは兄弟がいないので、みんなで笑わせあったりするような場面はありませんが、家族全員が願いごとをしながら、無言で恵方を向いて毎年食べています。私は、その一口一口、一回噛むごとに、願いがかなうように強く祈りながら食べています。おかげで食べるのは遅いので、いつも父母の会話に出遅れてしまうのがさみしいところです。
こうして我が家ではきちんと行事として恵方巻きを食していますから、ただ単に戦略に巻き込まれているわけではない、文化を理解しているぞと思ったのですが、この記事にあるような恵方巻きの由来や意味を全く理解していなかったことに気付き、恥ずかしくなりました。クリスマスの認識とさほど変わらないかもしれません。
先にも述べたように、文化が粗雑に扱われることは非常に失礼だと思いますが、一方で経済効果や人々を元気にしていることも確かです。恥ずかしながら私のように、知識の少ないまま楽しく過ごしているものが大勢います。この日本の状態を変えてゆくのは、難しいでしょう。ビジネスが求めるのは利益であり、そのものの意味の普及ではありません。それが続く限り、誰かが気付いて文化への理解を深めようとするのも難しいでしょう。
だから是非、先生のように自分達の文化に対しての愛情のある人にもっと主張をしていただきたいです。あるいはその地方の自治体に宣伝してもらうのも効果的だと思います。B級グルメやゆるキャラなど、地域の力はめまぐるしいです。その地域にもっと文化も伝えていってほしいのです。
そして、今回の記事を読んだ私のようにそれを伝えられた人が、その文化の良いところを理解し、さらに伝えていけるような流れが日本にできるといいと思います。利益ばかりに目がいって、文化を味わう余裕がひょっとしたら現代人にはないのかもしれません。文化に触れることで心が豊かになり、そこから心に余裕ができていくような社会が実現されるよう、私も動いていこうと思います。
私も地元(香川)では節分に、幼い頃から縁起の良い恵方巻や邪気を祓う為のイワシを食べていました。恵方巻のように地域発祥の風習が全国区に広がっていくことはいいことですが、その過程で風習における意味が蔑ろにされたり、単に商業目的のために利用されたりすることは間違っていると思いますし、昔から風習に馴染んできた自分としては多少憤りを感じてしまいます。
地域特有の風習を広げていく際には、それが独り歩きしてしまわないように、意味や歴史的背景も同時に伝えていかないといけないと私は思います。
私は東北地方の出身なのですが「恵方巻き」という習慣がはじまったのは、つい10年ほど前のことだと記憶しています。もともと地元には節分に丸かじりをする習慣はなく、大々的に地元のスーパーが売り出し始めた時にはとても新しい文化のように感じました。「恵方巻き」が広まったのには確かに商業的側面が強いと思いますが、バレンタインやクリスマス同様、みんなで楽しめるのならばそれはそれで文化として良いのではないか、と私は思います。
自分は北海道の出身です。たしかに、私が子供の頃は、節分の時に恵方巻きを食べるなんて習慣はなく、落花生を家の中、外(雪に埋もれてしまうが)にまくぐらいでした。
自分が初めて恵方巻きを食べたのは、確か高校生の時だったと記憶しています。母と姉が張り切って巻きずしを作っていました。翌年からは、自分もマグロと鶏肉の恵方巻きを、姉と妹と協力して作るようになりました。
先生は大阪人ということで、自分たちの地方の文化が商業的な背景を持って全国化したことに、あまりいい感情を持たれていないようですが、自分は、家族が協力して、楽しめる行事・機会が一つ増えて、良かったと感じています。
私は秋田の出身で、恵方巻きの文化を知り、初めて食べたのもつい数年前のことだと思う。両親も「私たちが幼いころにこのような文化はなかった」と話していて、そのとき商業主義に踊らされている、という感覚を覚えたことを記憶している。
地方の大事な文化が全国に広まり、大量に「消費」されることに対する賛否両論はあると思うが、大事なことはその文化の背景や意味も一緒に伝わることにあると思う。そこを理解しなければただのブームになってしまう。伝統のあるものだからこそ、一過性にせずに大切に扱うことが必要ではないだろうか。
私も恵方巻が商業的な目的のために意図的に作られたイベントだと知ったときは大変驚きました。また、どこかだまされたようなにも感じました。しかし私は、これは批判できるものではないと思います。利用できるものを利用して、上手に全国的なイベントに仕立て上げた力には目を見張るものがいり、工夫というものの大切さを痛感しました。ささいなきっかけからするバカバカしい行為ではありますが、そこに非日常の楽しさや安らぎを見出せるのならば、まるで海老で鯛を釣ったようにも感じられます。財布には災いが忍び込むのではなく、今まで入っていた幸福がまた誰かの元に遊びに行くのではないかなぁ、と思いました。
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