希望の回廊――湯本香樹実著『西日の町』(文春文庫)から
写真は川越氷川神社の境内の一角です。さながら庶民の「願いの回廊」ともいうべき光景でしょう。この神社は「縁結びの神様」ともいわれてきましたから、吊られた絵馬に書き込まれたさまざまな願いには、受験合格や家内安全などに混じって、良縁への祈願がいささか多く見られるようです。
写真1 「願いの回廊」-川越氷川神社境内
写真2 縁結びの神社にふさわしく
お正月の三が日が過ぎ、この11日には各地で成人式が催されました。暦の上ではまだ小寒だというのに、はや梅が咲きはじめています。さまざまな神社仏閣では初大師、初えびす、初稲荷等と行事が続き、あらゆる縁起物が境内で売られています。ダルマさん、破魔矢、招き猫、お守り、絵馬、おみくじ… 新年を迎えたそれぞれの人の節目に浮き上がる願いがそれらに託されていくようです。
写真3 小寒に咲く梅の花
写真4 ダルマ-喜多院境内
写真5 招き猫-同境内
これらの縁起物にどのような脈絡があるのかは、とても私には理解できません。たとえば、禅宗の始祖である達磨大師の生き様は「煩悩からの解脱」にあったでしょうから、商人の「商売繁盛」や政治家の「当選祈願」という「煩悩の塊」のようなものの「祈願」をダルマ人形に託すことと達磨大師とは決して結びつかないのです。江戸時代に起き上がり玩具の代表としてダルマ人形が定着したことによって、「七転八起」の一括りから縁起物となったのでしょう。
さて、先日の北九州への出張の道行きに、小倉を舞台に描かれた湯本香樹実さんの『西日の町』(文春文庫、2005年)を読みふけりました。
「西日を追うようにして辿り着いた北九州の町、若い母と十歳の『僕』が身を寄せ合うところへ、ふらりと『てこじい』が現れた。無頼の限りを尽くした祖父。六畳の端にうずくまって動かない。どっさり秘密を抱えて。秘密? てこじいばかりではない、母もまた…。よじれた心模様は、やがて美しいラストを迎える。解説・なだいなだ」(同書裏表紙より)
「訳あり」の母子家庭にひょっこり現れた祖父。「僕」と母親と祖父が織りなす間柄には、それぞれに違える願いと欲が織りなす三項関係が展開されていきます。無頼の限りを尽くした祖父とわがままな夫に苦労した母は、一人の女性としてこれからの幸せを追い求めつつ、わが子や祖父との絆もまた大切にしようともがいています。祖父の出現を機に「僕」は自分と母の背負っているものを祖父から紐解き、祖父が断念せざるを得なかった「願い」をいとおしもうとします。タバコを吸う以外にもはや何もできなくなった病身の祖父は、職場の上司の身勝手な愛情から見捨てられた娘(「僕」の母親)の悲しみを前に、体を奮い立たせて大量の赤貝を海辺に採りに行きご馳走するのです。
その後に体調を壊した祖父は、入院先の病院で臨終を迎えます。10歳の「僕」を回想する主人公は、今や公衆衛生学で教鞭をとる大学の先生であり、その研究室には思い出の赤貝の殻が飾られている…。
世代の異なるこの3人にはそれぞれの願いやわがままがあり、それらをお互いに慈しもうと模索し続けています。この3人が一つ屋根の下で接点を持つようになって以来、それまでに叶えられたそれぞれの願いのささやかな喜びだけでなく、先行する世代の果たしえなかった願いへの悔しさをも慈しみ合うのです。その姿は、庶民の暮らしの営みを通じて希望への世代間連鎖が絶え間なく脈打ってきたことを示しているといえるでしょう。
このように、民衆は「今ここで自分を大切にする」という次元だけに生きてきたわけではありません。それぞれの人の、かけがえのない親密な間柄を根拠地としながら、広く歴史と社会に開かれた「希望の回廊」を歩み続けてきたのです。
この『西日の町』は、物語の内容もさることながら文章がとてもすばらしい。作家であり精神科医でもあるなだいなだ氏も解説に記しているように、無駄のない素敵な文章によって読み手がストーリーに引き込まれていくこと請け合いです。ぜひご一読ください。
コメント
こんにちは。先日、北九州市立大学で講演を受けさせて頂いた学生です。
今回の記事で書かれていた、『西日の町』面白そうですね。
小説の中でも、三世代に渡ってのストーリーが展開されるとのことですが、福祉の分野でも「家族」というものは最重要の命題かと考えています。(金銭も重要だとは思いますが)
私の親類の中にも精神的な障害を持っているものがおりますが、その家庭では本人、両親、そのまた祖父母達のまさに三世代で、障害に対して前向きに取り組んでいます。
今年も正月に会ってきたのですが、年をとるにつれて、生涯のある人にとって環境が重要だということにより気づかされています。
私も決して他人事ではない問題であるため、これからも福祉に対して真摯に向き合って生きたいと思います。
埼玉大学にて、講義を受けさせて頂いているものです。知っている神社の写真が載っていて、驚きました。私も部活動での勝利を祈ったことがあります。「希望の回廊」、素敵な名前です。
「西日の町」、今度拝見しようと思いました。家族が舞台となっているようですね。
私は四月に母を亡くしました。父や姉妹と母のいない分、協力して生活していますが、なかなか難しいです。その人のかけがえのなさを、また今私を支えてくれている家族のかけがえのなさを強く感じるようになりました。
介護に心を砕く方々はその人のかけがえのなさを、わかっていて、大切にしているのだろうと思います。どの人の命もかけがえのないもの、差別があってはならないと強く思います。私の力は些細なものですが、まず自分が差別のない心、行動をとっていきたいと思います。
どうも、埼玉大学で講義を受けさせて頂いているものです。
氷川神社に喜多院、共に馴染み深い場所です。今年の初詣も喜多院にお参りに行きました。達磨のお話は興味深いですね。「煩悩からの解脱」を生き様とするのに、「煩悩の塊」を祈願する。確かにおかしな話です。
『西日の町』は、機会があれば読んでみたいと思います。「てこじい」から、「梃子でも動かないじいさん」と勝手に連想してしまいました。
私の家も、人数は違えど三世代の人がいますが、祖父や祖母が病気になるところなど想像もできません。正直にいえば、介護など私にはあまり関係がないのではないか、などと思ってしまいますが、そういうような考えが多いから、介護や福祉に目が向いてないのではないかとも思うようになりました。
祖父母への介護はいらないくらい元気なままでいてほしいと思いますが、私自身の介護・福祉に対する姿勢は変えていきたいと思っております。
埼玉大学で講義を受けているものです。
今回の記事で紹介している「西日の町」はとても面白そうですね。ぜひ一度は読んでみたいです。
今年はまだ初詣に行ってないので、川越氷川神社に行ってみようかなと思いました。
埼玉大学で受講しているものです。何回かブログを拝見していましたが、留学生である私がコメントを書くなんてとても勇気が必要でした。
実は、今回も内容が難しく理解度は100%ではありませんが。。。これからも先生のブログを見させて、勉強していこうと思います。
私は毎年、初詣に行きましたが、今年はまだ行っていませんので、早速行って今年の願いや母国にいる親の健康など祈りたいです。去年のように明治神社に行きたいです。
こんにちは。
埼玉大学にて、講義を受けさせていただいているものです。
氷川神社の回廊に、たくさんの絵馬が並んでいますね。私は以前、川越の近くのふじみ野市(旧上福岡市)に住んでいて、一度初詣の時に川越の氷川神社にうかがい、その回廊を見たのですが、あまりに絵馬の数が多すぎて、自分のがどこにあるのかわからなくなるくらいでした。
「西日の町」機会がありましたら今度読んでみようと思います。
家族の絆を、改めて考える機会になると思うので…
私の祖父が去年一度入院をし、介護が必要になるのではという状況になり、自分ができることはないかと考えたときに、行動を何も起こせない自分がいたとき、自分にすごくショックを受けました。
幸い介護の必要がなく、今は平穏な状況にあるのですが、万が一また同じ状況になった場合、自分が行動を起こせるように、今から準備を始めていきたいと思います。
そしてこれからも、親族との絆を大切にして、生活をしていきたいと思います。
こんにちは。埼玉大学で受講しているものです
3人がたがいに慈しみ会うのはすばらしいことなのですが、それをするには多くの困難があると思います。
自分のことをしつつ相手のことを考えるのはなかなか簡単なことじゃないと思うからです。
西日の街では慈しみあうにあたって、どのような困難がありそれをどうやって克服したか興味があります。そういうわけで本屋で見つけたら買って読んでみようと思います。
埼玉大学で受講しているものです。
何度もこのブログを拝見させていただいていますが、数多くの貴重な写真を見ることができ大変感謝しております。
今回の川越氷川神社の写真「願いの回廊」は特に素晴らしかったです。ありがとうございました。
こんにちは。
願いをかなえる場の「神社」と、3人のそれぞれの願いが絡み合った『西日の町』、どちらも相手の望みを含めた相手の全てを慈しむ、世代を越えて続いてきた人間の関係性を大切にする気持ちが根付いているように思われました。
現在の社会では果たしてそこまで他者について深く考え、慈しみあうようなことがあるのでしょうか。家族内でさえ関係性が希薄化し、「個」が善となっている今、「親密な間柄」をもう一度見つめなおす必要があると思いました。
埼玉大学で講義を受けているものです。
私は埼玉に住んでいないので、埼玉にこんな神社があるなんて初めて知りました。「願いの回廊」なんてとても素敵だと思いました。今年は他の所に初詣に行ってしまったので、来年の初詣は川越氷川神社に行きたいです。
最近、本や小説を読んでいないので、次は『西日の町』を読んでみようと思います。
私は小倉出身であるにもかかわらず、『西日の町』の存在を知りませんでした。ご紹介いただいた文章がとても温かく心にしみ、無性に読んでみたくなりました。
いつも楽しみに拝見していますが、写真も素敵ですね~
埼玉大学で講義を受けています。
願には自分への願いと他人への願いがあると思いますが、自分以外の人への願いというものはどこか特異なものあるように感じます。自分ではない他者というものに目を向けているから他者へ何か願うという行為があるんだと思います。「願いの回廊」も過去から現在まで自分以外の他人に目を向けて願ったものが連なったものなのかなと感じました。
自分だけでなく周りの人のことを願うというのは素敵なんだろうと強く思います。
埼玉大学で講義を受けているものです。
私は初詣で大宮の氷川神社にいったのですが、川越の氷川神社も同じくきれいで特に願いの回廊はぜひ来年いってみたいなと思いました。
私はあまり本を読まない人なのですが、卒論も終わり時間を持て余しているので、西日の町を読んだりしながら有意義に最後の大学生活を終えたいと思いました。
埼玉大学で講義を受けているものです。
川越の願いの回廊私もぜひ来年いってみたいと思います。西日の町もとても興味のわく内容で、ぜひ書店へいって探してみたいと思います。
こんにちは。北九州市立大学の学生です。
私も先日、人生初の初詣で京都の清水寺に行ってきました。新年という節目にいろんな願いを込め、おみくじを引きましたが、出たのは『凶』でした。今年一年が不安になった人生初の初詣でした。今になって考えると、初詣というものは寺ではなく神社に行くべきだったのではないかと思ってます。
私はあまり本を読まないのですが、『西日の町』は第二の故郷とも言える北九州の小倉が舞台になっているということで読みたいと思います。
『希望の回廊』という言葉素敵だと思います。過去から現代に連なる自分以外の人への願い。他人との繋がりが希薄化している現代においても、他人への願いは存在しており、『希望の回廊』は永遠に連なっていくと思いました。
気づかぬうちに自分以外の人のことを願っていることに気づかされました。そして、逆に自分以外の人から願われていることに気づきました。他人から願われていることは幸せなことだと思いました。
こんにちは、埼玉大学で先生の講義を受けているものです。
先生の掲載されたこの写真、まさに「願いの回廊」と呼ぶのにふさわしい場所だと思います。
この神社に訪れた人々の様々な願いによって初めてこの回廊がそこにあると思うからです。
実は、今年は私の妹が受験でした。今現在は結果を待つ身ですが、私も去年の自分を思い出し、両親共々必死に妹を応援してきました。そして、応援する立場になって初めて当時の家族の思い、そこに存在する願いを慮るに至りました。
「西日の町」は残念ながらまだ読んでいませんが、この作品の登場人物たちの家族への思いの尊さが伝わってきます。人は一人では生きていけず、周囲にいる友人や家族といった自分と親しい間柄にある人たちを初めとしてたくさんの人から思いを受け取って生きていけるのだと思いました。さらに、そうして初めてそこに自分の願いを重ねていけるのだと思いました。
私も家族を初めとしてそこに連なる「希望の回廊」を大切にしたいと思います。
写真の川越氷川神社のように絵馬などを奉納し、願いを祈願することは不安を解消するための一つの方法であり心の拠り所として、大切なことだと思います。おみくじをしたり初詣をしたりすることは新年の行事としてその一年をよくしようという気持ちの表れだと思います。
このような科学的には実証されてない縁起物に頼るのは人全体で考えられる世代のつながりだと思います。昔の人が続けてきたことが、祖父の世代にも親の世代にも変わらずあり続け、これからの時代にも変わらずあり続けることが人をつないでいくのだと思います。
友人や家族に知らない所で想われることは素敵なことであり、そういったことを通じて人は人をは想うことができるのだと思いました。
こんにちは。埼玉大学で講義を受けさせてもらっています。
自分の住んでいる付近の様子が取り上げられていて目につきました。たくさんの人々の願いによって構成されていて、本当に希望の回廊といった感じでとても素敵な場所だと思います。
自分はいままでに家族を失った経験はありません。祖父母もいまだ元気に働いています。家族のかけがえなさなんて、それがあるうちはなかなか実感できるものではないでしょう。だからこそそれがある今を大切にしていきたいと感じました。
「西日の町」はいつかきっと読みたいと思います。
こんにちは
私は埼玉大学で講義を受けさせて頂いているものです。
この記事にあるように本来、希望、願望、欲望、祈願、わがままなど、自分の欲するものとは他人、周囲の環境ありきのものであるように私も思います。少なくとも日本では。
そもそも他人とは自分の持つ人格とは人格を異にするものというイメージを私は持っています。何が言いたいかといえば、人格を異にするだけであって、他人も自分の一部であると思うのです。互いに影響しあううちに他人が自分の一部になるのです。
そうしたことが忘れられているように思うのです。特に現代では。ですから言動挙動が自分の人格の欲するところにのみ純粋になってしまう。
その結果さまざまな格差は広がってしまったのだと思います。
また差別とは自分の人格と混ざることがコワイと感じた対象に対してとる人間の防衛本能であるともうのです。ですから差別が悪いなどと一辺倒に決めつけるのでなく、その未知のコワサを取り除く作業こそ差別をなくす道と私は思います。その具体策がなかなか見つからないのが難しいところですが。
話がそれてしまいましたが、人が今一度他人という自分を気にかけるような社会になってほしいと思います。
こんばんは。埼玉大学で宗澤先生の講義を受けさせていただいている者です。
先生のブログにはどの記事にも綺麗な景色や動物など素敵な写真がたくさん載せられていて、いつも楽しみに見させていただいています。
今回この記事を見て、最初に目に入ってきた川越氷川神社境内の写真からちょっとした思い出を振り返ることがました。去年はまだ高校生だった私は埼玉大学受験に向けて、東京の方の神社を訪れ合格祈願をしてきました。毎年毎年、こんなにもたくさんの人々がさまざまな願いを胸に神社を訪れているのだなあと、懐かしくもまた時の流れる早さに寂しいようにも感じました。
話は変わりますが、記事の中の『西日の町』、このブログを読んで是非読んでみたいと思いました。大学進学において、地元から遠く離れた埼玉で祖父母と暮らすようになった私にとって、この1年というのは、大好きな両親や家族の大切さを改めて実感することができたり、今までは離れていた祖父母と暮らすようになり日々感謝をしていたり、家族の絆というテーマに何か共感できるものがあるのではないかと感じました。家族や周りにいる大切な人を大切にできる人間になりたいと改めて思いました。
『西日の町』、是非読んでみます。
こんにちは、埼玉大学で講義を受けています。
なぜか分かりませんが最近、家族について考えさせられることが多く、このブログもその一つとなりました。
自分にも両親にもそれぞれ願いがあると思います。それはもしかしたら、自分にしか叶えてあげられない、そんな願いかもしれません。
私が大学に入った、入って今勉強している状況と、いうのは父親の願いだったと思います。
それが叶えられるのは私自身しかおらず、そこにある種親子の絆のようなものを感じます。
友達同士での仲、そこにある絆とはまるで違う親子の絆は信頼などを超越しているものだと思います。
ですので、簡単な言葉ではあるんですが家族というものを本当に大切にしようと改めて考えさせられました。
あと、自分も彼女を連れて希望の回廊に行きたいと思います。
こんばんは。
私はあまり御参りなど行かないので、絵馬の数の多さに圧倒されました。
比較的恵まれている環境である日本においても、願いが尽きることはないんだと思うと、人間の欲深さは底知れないなあと思います。
しかし、願いがあるからこそ人はそれを成就させようと努力し、成長していくのでしょう。
私は、大学生活の四年間という短い期間で、一体何を願い、叶えようと足掻くのだろうかと考えさせられました。
社会として、世界としての願いと自分個人の願いがかみ合わないことは多々ありますが、うまく折り合いをつけられるよう、出来るだけたくさんのことを吸収したいです。
今度『西日の町』も読んでみます。
まとまらないコメントでしたがこれで失礼いたします。
こんにちは。埼玉大学で講義を受けさせていただいています。
私は地方出身なので、氷川神社の存在も知らず、写真を見てその絵馬の数に驚きました。私も埼玉にいるうちに一度行ってみたいと思います。
自分個人の願いというものは比較的浮かびやすいように感じますが、他人に対する願いというものは、それが本人の願いと必ずしも一致する訳ではないし、捉え方によってはただの押しつけに感じることもあると思います。なんだか難しいな、と感じました。私は、周りの人からの私への願いに答えるどころか、気づいてさえもいない気がします。
夏休みは時間があると思うので、「西日の町」も読んで自分の考えをもっと深めたいと思います。
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