キツツキのように甦る-ボーッと佇んでみること
この2~3日どうも体調がすぐれないと思っていたら、夕方から発熱しました。医療機関の検査ではインフルエンザ(A型、B型ともに陰性)ではありませんでしたから、この間小生と関わりのあった人たちにおかれましては、その点についてどうかご安心くださいますように。
それでもブログを書いている? そこまで熱意をもっているのか? いえ、こんな時だからこそ、短く書いておきたいことがあったのです。それは、ときとして「ボーッと佇んでみる」ことに意味があるということです。そう、寒いさなかにギジバトが羽根を膨らませて、空気を溜め込み、じっと温まろうとするように。
写真1 空気を溜め込んで佇むキジバト-埼玉大学キャンパスで
世代間継承における「希望」と「絶望」
秋から冬にかけて毎年、埼玉大学キャンパスを訪れる鳥たちがいます。彼らは、悠久の時を超えて、北部アジアと日本の間を渡り続けてきました。
しかし、現代の人間は悲しいことにそのように生きることができません。私は今埼玉県に居住して大学に勤めていますが、父は大阪に生まれ育った商社マンで、祖父はといえば、大阪の谷町(相撲界にいう「タニマチ」の語源です)に居を構える生粋の大阪商人でした。「宗澤家の人々」はわが国の近代化において、共通項のほとんどない生き方をしているといえそうです。すると社会変容のスピードがはやくなればなるほど、親や先行世代から何を継承しているのか、戸惑いや「絶望」のようなものが先に立つような気がしてならないのです。
(画像はすべて、埼玉大学キャンパスにて1月17日撮影)
写真1 ジョウビタキ♂
写真2 ジョウビタキ♀
写真3 ツグミ
希望の回廊――湯本香樹実著『西日の町』(文春文庫)から
写真は川越氷川神社の境内の一角です。さながら庶民の「願いの回廊」ともいうべき光景でしょう。この神社は「縁結びの神様」ともいわれてきましたから、吊られた絵馬に書き込まれたさまざまな願いには、受験合格や家内安全などに混じって、良縁への祈願がいささか多く見られるようです。
写真1 「願いの回廊」-川越氷川神社境内
写真2 縁結びの神社にふさわしく
ともにみんなの「夜明け」を-社会開発とノーマライゼーション その2
新年を迎えました。明けましておめでとうございます。
今年は、さいたま市の条例づくりの真価が問われる一年となりそうです。この条例づくりによって、「障害のあるすべての人によるすべての人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し及び確保すること」と「障害のある人の固有の尊厳の尊重を促進すること」(「障害者の権利条約」第1条-川島聡・長瀬修仮訳による、以下同様)の実質的な前進をはかることができればと願っています。それは、みなさんの知恵と力を合わせて、新しい時代の「夜明け」をともに迎えることを意味します。
写真1 2010年元旦の御来光。左の高層ビル群はさいたま新都心
写真2 元旦の御来光に映える富士山