都市部は巨大な「限界集落」?―佐賀県地域共生ステーション 最終回
佐賀県地域共生ステーションの取り組みから、「地域に暮らす」ことの支援に求められるさまざまな課題について考えてきました。それを受けて、首都圏の都市部における今後の地域支援策に考えをめぐらすとき、施策の条件には佐賀とあまりにも大きな相違があることに私は戸惑いを憶えます。率直に言って、地域住民のつながりや土地・建物の確保の問題を中心に、都市部は佐賀県よりも相当高いハードルが立ちはだかっているように思えてなりません。
写真1 ぬくもいホーム太陽の1本木の梁-裏山の間伐材
写真2 同、一枚板の机-同
佐賀県地域共生ステーションの取り組みの特徴は、「赤の他人」同士が「意味のある他者」として支援する営みから、地域生活のゆたかさをみんなで展望しようとするものです。この事業のさきがけをつくってこられた西田京子さんが神奈川からの転入者であったように、地縁・血縁に依拠した取り組みに還元できるものではなく、「顔見知りの関係」から「個人の尊厳」を紡ぐ営みであるということができるでしょう。
ぬくもいホーム太陽では、次のような話を伺いました。地域の人たちが採れたての野菜を玄関先に置いていくのですが、「野菜の置き方で誰が置いていったのかがわかる」というのです。このエピソードは、地域共生ステーションがいかに地域に根を張っているのかを表しています。
それに対して、首都圏の都市部の現状はどうなのでしょうか。埼玉県南部は高度経済成長期以降ずっと人口流入が著しく、田畑や平地林がどんどん宅地に変化していった地域です。東京23区に残るような下町風情や商店街の賑わいはほとんどなく、投資目的のワンルーム・マンションやウィークリー・マンションも乱立しています。
人の移動の激しさと各人の生活・就労時間の拡散によって、家族内部でさえすれ違いが拡大し、近隣住民の顔さえ知らない関係性の希薄さは極限にまで達しています。そこでは、各戸の警備システムの導入は検討されることはあっても、地域社会を共に生きる者同士が「意味のある他者」として支え合う営みをつくることには相当の困難があります。「街そのものを創りなおす」施策と一体となってサービスの工夫を進めなければ、実効性のある地域支援にはならないでしょう。
次に、佐賀の宅老所やぬくもいホームは「地域の見慣れた民家」を改修した建物を舞台にサービスを展開していることです。この点も都市部では、このことそのものに相当の困難がつきまといます。不動産業界では自明のことでしょうが、改めてさいたま市と佐賀県の土地・建物をめぐる実態を調べてみると、その相違は歴然です(表参照のこと)。
住宅地の平均価格は、さいたま市が佐賀県の約7.4倍であることをはじめ、社会資源開発のための民家を求めるにしても、さいたま市における民家の居室数・延べ面積の狭隘さは明白です。
前回までにご紹介した「ぬくもいホームほのぼの長屋」(NPO法人のんびらあと)の敷地面積は300坪もあって、これをさいたま市の平均住宅地価格で見積もると約1億8千万円になるのですから、事業主体が購入するのはおろか、借りるにしても相当な家賃負担となるでしょう。
また、「ぬくもいホーム太陽」(NPO法人あさひ)の図面によれば、平屋の広大な床面積をもつ物件であることが分かります。このような物件をさいたま市内で構想することは、まったく不可能なことです。しかも、ぬくもいホーム太陽は、裏山に植林していた自前の間伐材を机や建物の梁に使っており、都市部ではありえない羨ましい限りの「民家改修」をしています(冒頭の写真)。
図 ぬくもいホーム太陽の図面
グループホーム・ケアホームの拡充を展望する場合にも、都市部ではこのような土地・建物をめぐる困難が最初に立ちはだかります。いい条件の物件がない、だからといって新築するには膨大な経費がかかります。現在、グループホーム等の新設に伴う国の補助金は1ヶ所当たり2000万円という全国一律の金額となっていますが、これは一体何を根拠にしているのでしょうか。さいたま市内で2000万円の新築ホームをつくるなんてことは逆立ちしてもできっこないのですから。
このような深刻な問題は、1970年代に提起された摂津訴訟の問題構造をさらに悪化させた事態にあるといえます。都市部を中心に膨大な待機者があふれている保育所・特別養護老人ホームなどをはじめ、あらゆる社会資源の拡充に共通して立ちはだかる大問題です。現在検討課題に浮上している保育所の最低基準の規制緩和が、もしこのような問題を糊塗する傾きをいささかたりとももつとすれば、それは問題のすり替えであり、「焼け石に水」程度の政策効果しかないでしょう。そもそも施設の最低基準とは、これを土台にゆたかな多様性を構想するものであった筈です。
土地・建物所有者に対しては、土地・建物の取り引きに関する新たなルールづくりをベースに据えなおして、地域共生型の社会資源に対して不動産を提供する場合に適用される固定資産税・相続税等の減免措置の新設等が早急に検討されるべきでしょう。また、事業者と利用者に対しては、恒常的な家賃補助、防火防災・バリアフリー対策を含む改修費の全額補助等を国家的保障にするべきです。
わが国は、2050年に65歳以上人口の15~64歳人口に占める割合が72.4%に達すると予測されています。これは、OECD主要30ヶ国の中でも断トツ1位の高齢化です。
これまで、「限界集落」とは地方の問題という受けため方が一般的でした。限界集落とは「高齢化が進み、共同体の機能維持が限界に達している状態」を言いますが、地域社会のつながりを喪失し、地域の暮らしを支える社会資源開発もままならない現在の都市部もまた「限界集落」と言えるのではないのでしょうか。日本の都市と地方は、それぞれに異なる文脈を持ちながらも実は一対のものとして、ともに限界集落化してきたようにみえます。
戦後日本の社会福祉施策の拡充では、多くの場合、都市部が牽引車の役割を果たしてきました。1960年代後半からの保育所の拡充、70年代以降の高齢者・障害者施設の新設には、三大都市圏(首都圏・関西圏・中京圏)の自治体施策が全国の底上げを推進していったような感があります。しかし現在、地域生活ベースの支援策を考慮するとき、都市部にアドバンテージがあるのかどうかは疑問です。土地・建物の高騰に見合う社会資源開発のための財政力は乏しく、保育所・特養ホームの待機者を完全に克服し、障害のある人がグループホーム・ケアホームに住まうことのできるようなすべての条件を整えて維持するには、途方もない財政支出が必要となるでしょう。
日本の都市は、「引き裂かれた地域の暮らし」の下で生活困難をもつ人たちが孤立し、それらの存在を貨幣経済的な「ゆたかさ」によって隠蔽していくような残酷さが潜んでいます。ある巨大都市がオリンピック開催に執着して止まないのも、私にはこのような「引き裂かれた地域の暮らし」を隠蔽し続けるための仕掛けのように思えてくるのです。
都市部には貨幣経済的なゆたかさに恵まれている一方で、地域の暮らしは「限界集落」状態に限りなく接近しています。地方部は、地域経済の深刻な問題がある一方で、地域共生ステーションのような社会資源とサービスを工夫することによって地域生活のゆたかさを実現しようとしています。ここでもし、地域経済の建て直しに光が見出せるのであれば、今後の地域生活支援を中心とする福祉施策の拡充については、むしろ地方部にこそアドバンテージがあり、都市部がわが国のゆたかさを象徴する時代は、もはや終焉を迎えたのかも知れません。
経済と暮らしに関する「共生の大地」を創造する課題は、都市部か地方部かを問わず、わが国の全土を覆っていると考えます。
コメント
都市部でケアホームを始める初段階として、まず公共施設での自治体主導によるイベントの開催が必要ではないかと思います。それが町単位などでケアホームの代わりとなるものが出来上がるのを促すのではないかと思います。なので大規模施設がつくれない分小規模で多くつくられればよいと思います。しかしながら都市部で一番必要なのはまず隣人をしることだと思います。それを作り出すことが一番の解決策ではないかと思われます。
私は佐賀県出身で、まさにこの地域共生ステーションの特徴である「地域みんなが顔見知り」のような町で育ちました。
今は地元を離れ県外で暮らしていますが、当時はその地域の密着感が、逆に干渉されているようで嫌でした。
しかし、もし自分が障害を持ったり、高齢になったりして社会から孤立しがちな立場になったとき、きっとあの密着感が恋しくなると思います。都会では人間関係がとても希薄だと聞きます。
健常なときはそれで良いのかも知れませんが、そうでなくなったとき、この地域共生ステーションのような拠り所になるようなところがあれば、人生はもっと素晴らしいものになると思います。
私が感じたのは、「引き裂かれた地域の暮らし」の中では人間的生活すら正常に機能していかないということである。福祉の場面だけに限らず、所謂人々の助け合いやふれあいが減ることにより本来日本人が実践してきた生き方(例えばおすそわけなど)が変わり、貨幣経済へとシフトしていった。当然人により格差が広がり、それによりまた暮らしが引き裂かれている状態ではないだろうか。
福祉の場面でも、互いに住民に対する情報があれば、「あのうちのおばあちゃんは足が悪いから迎えに行こうか」という発想も生まれる。これが地域での福祉というものではないだろうかと感じた。
しかし、現状で地域ごととはいえいきなりシフトチェンジすることは困難だと思う。だが、高齢化が進み需要と供給が合致しない場合はどうしていくのか。自分ひとりで解決するのは酷である。今こそもう一度しっかり地域のあり方について検討すべきではないだろうか。
私は北九州の大学で「高齢社会における都市部のまちづくり」について学んできました。
北九州市は政令指定都市の中で一番高齢化率が高く、すでに限界集落化が進んでおり、民生委員や町内会長などの担い手も高齢化によりいないという現状があることを知りました。
やはり、高齢社会にある日本では、高齢者、若者、子どもが関わり合いを持ち、支えあっていける世の中にしなければ、「孤独死」や「老老介護」といった問題は無くならないと思います。
佐賀県の共生ステーションは人とのつながりを形成でき、支え合いを確立できる最高の場所だと感じました。
それを都市部で作るには莫大な費用がかかりますが、北九州市では設立のためのバックアップを行政は行っていないという話を聞きました。
今後さらに高齢化が加速していくこの都市で、私は共生ステーションのような地域の拠点作りの必要性を議論していかなければならないと考えています。
北九州市立大学で講義を受けた者です。
私は法学部の政策科学科に所属しています。そこでは地方の高齢化に伴った限界集落について学びました。大変深刻で早急に解決すべき問題であると思います。
しかし、このブログを拝見し、本当に恐ろしいのは、都市部の限界集落化ではないだろうか、と思います。田舎や地方に共生ステーションがなじむのはなんとなく想像ができます。しかし、都市部で共生ステーションのような仕組みが受け入れられるかというと不可能に近いと感じています。
私は、政策科の授業で都市部に住む高齢者の孤独死について学んできました。近所や、隣に住人がいながらまったく死に気づかないような世界で、共生ステーションのような助け合いが根付く気がしません。
今後、地方だけでなく、都市部にもしっかりと目を向けた政策が実行されることを願いたいです。
こんにちは。先日は北九州市立大学で講義をしていただき、ありがとうございました。
この5回にわたる佐賀県地域共生ステーションの記事を読ませていただき、一番に感じた事は福祉における一種の理想がここにはあるということです。柔軟な支援、事業者の熱意、地域の理解、先日の講義で取り上げた障害者虐待など起こるべくもないように思われます。仮に虐待が起こる可能性があったとしても支援者、地域等の親密な関係のなかで早期の解決が見込めるでしょう。このような「本当に役立つ」福祉施設を紹介していただき大変参考になりました。
最後に都市部における福祉政策の困難さについて言及しておりましたが、人口が多く、その分要支援者の人数も多い都市部だからこそより質の高い福祉事業が早急に供給できるように祈るばかりです。
こんにちは。北九州市立大学では貴重な講義をしていただき、ありがとうございました。
今回のブログを拝見し、なるほど、と感じるところがありました。都市部での限界集落の問題は佐賀県のみならず、様々な都市で起こっており、北九州市でも起こっていることでもあります。一部の市ではこの問題の解決方法の一種として、「コンパクトシティ」というものの導入を検討していたり、実際に導入していると聞きますが、その効果が目に見えて現れている都市はそう多くないようです。
また、高齢者の孤独死の予防のため、ポットの使用頻度や定期的に連絡を入れることで、今高齢者が無事でいるかを確認するシステムがあるようです。
私はこのシステムに対し画期的だと感じましたが、「地域コミュニティの消滅」という問題の根本的な解決に至ってはいないとも感じました。多少荒治療であろうとも、こういった共生ステーションのような、ハード面だけでなくソフト面をフォローできるシステムこそ必要なのだろうと思います。
こんにちは。北九州市立大学で学んでおります。先日は興味深い講義をありがとうございました。
都会の「限界集落」についてとても興味を持ちました。確かに私は近所の方とほとんど面識がありません。もし隣人が倒れていたとしても気がつかず、逆に私が急病にかかっても気づかれることは無いでしょう。干渉されることを嫌う傾向は、そのまま助けを求めることが難しくなるということを意味するのだと思いました。
もちろん地方の「限界集落」問題も深刻なものだと思います。しかし佐賀県地域共生ステーションのようなサービスは都市部にはほぼ実現不可能なことなので「むしろ地方部にこそアドバンテージがあり」とおっしゃることにとても共感しました。都市部でも人と人の繋がりができるといいですし、地方部でもこの繋がりを途切れさせてはいけないと思います。
これまでの記事を読み、佐賀県の地域共生ステーションの事業は素晴らしいと感じました。まず、利用対象者を限定しない点がとても良いと思います。障害のない人も気軽に利用できることが、障害のある人とない人との距離を縮め、障害のある人の地域での暮らしを豊かにしているのではないでしょうか。
また、「わがまま」に対する考え方も、支援の上でとても大切な視点だと感じました。「わがまま」が言えない、言っても全く通らない環境では、どんな人でも生き生きと暮らすことはできないと思います。「わがままを言い合える喜び」を尊重することは難しそうですが、とても重要な課題だと思います。
このほか、地域に根を張る取り組みについても、社会福祉施設が見習うべきものだと感じました。土地・建物の確保の問題や費用の問題、地域住民のつながりの問題等、難しい問題はあるようですが、このような場所が全国に広がっていってほしいと思います。
こんにちは。先日、北九州市立大学で講義を受けさせていただきました。
貴重なお話をしていただき、ありがとうございます。
佐賀県の地域強制ステーションのお話を伺って、思い出した話があります。それがアニメータの宮崎駿さんが『虫眼とアニ眼』の中で語られている「幼稚園(保育園)の隣に建てられたホスピス」です。二つの建物は柵などで隔てられることなく、園児は自由に行き来することができるというもので、宮崎駿さんの理想の町作りの一つなのだそうです。
顔見知りの関係性が土台であること、利用対象を限定しないことや、他の社会資源と相まって位置づいていることなど、非常に共通点が多いなと感じました。これほど多くの共通点が見られるということは、これらが福祉において重要なポイントであるからだろうと思います。なかでも私は「顔見知りの関係性」がとりわけ重要ではないかと考えます。
今でこそ交通手段が広がり、遠くまでわずかな時間で行くことができるようになりましたが、昔は、自分が歩いていける距離だけの助け合い、協力し合いながら暮らしていたコミュニティーがあったのではないかと思います。
現代の社会にも決して排他的ではない、しかし規模の小さなコミュニティーを作っていくことにより、都市部の「限界集落」化を防ぐことが出来るのではないでしょうか。
この度は、北九州市立大学で講義をしてくださりありがとうございました。
先生の講義を聞いて、「介護殺人」事件の背景に経済的困窮世帯の増加、家族と地域社会における親密さの解体などがあることを知りました。そして、福祉・介護サービスの歪みを考え理想とは程遠いと感じました。
ブログに掲載されている佐賀の「地域共生ステーション」の話はただ単にすごいと思いました。最近では一人暮らしの高齢者が、ちゃんと食べていないことが多く、ステーションでは、暮らしの基礎を重要視していることや、利用対象を限定していないなど、支援者は地域社会の一員として、制度サービスから排除されたニーズのすべてに対応する原則を講義から学ぶことができました。
今後、自分自身で考えていかないといけない課題がたくさんあり、良いきっかけになりました。
以前佐賀県地域共生ステーションについてコメントさせていただいた者です。
私はこの取り組みは地方でも必要とされているとは思いますが、それ以上にあいさつはおろか隣に誰が住んでいるかもわからないような都市部で必要なのではないかと考えました。都市部ではビルが立ち並んでいたり街がにぎわっていたりと経済的なゆたかさは見られますが、一方で周りに知り合いがいない等の理由で自分が孤立しているように感じたりする人が多く、地方でみられる近所付き合いなどの心のゆたかさというものがほとんど見られないような気がします。
しかし、佐賀で行われているこの取り組みを同様に都市部で行うことはさまざまな問題や困難があるため今のままでは不可能に近く、住民だけでなく国や自治体の理解や支援が不可欠です。そのために経済が発展していく反面、失われていったゆたかさがあるということをもっと人々に認知してもらう必要があると思います。
こんにちは、北九州市立大学で講義を受けた者です。今回は貴重な講義ありがとうございました。
今回のブログや年末の講義の内容からもわかる通り、やはりよい福祉環境が整っているのは都市付近よりもそれ以外の地域なんだなあというのを実感できました。今回のブログの内容にもある通り都市部と田舎の土地の値段の差は歴然です。
佐賀県のぬくもいホーム太陽のような施設を全国一律の2000万円という補助金で作ることができるかというとそれは到底無理なことのように思います。その結果が、都市部の施設では非常口の数がぬくもいホームのように多くなく福祉施設にも関わらず金額の問題などで福祉が充実しているとは言い難い現状の原因になっていると感じます。
それらの点についても国や行政はもっと対応して行くべきだと感じるし、私たちももっと真剣に考える必要があるんだなと思いました。
こんにちは。北九州市立大学で学んでいる者です。先日の先生の講義は大変興味深いものでした。ありがとうございました。
以前、私は地元の老人福祉施設で二日間ほど職業体験をさせていただいたことがあります。地元は田舎のため土地も安く、広い土地もあるのですが、その施設は高台にあり、急な坂を上らなければならず、建物もそれほど余裕があるような広さではありませんでした。立地条件的に、地域との交流も盛んとは言えず、誰もが利用できるわけでもなく、「これでは地域社会の中で共に生きるということは実現されていないのではないだろうか」と先生の講義を受けて考えさせられました。地域とのつながりを強くすれば、変わってくることもきっとあると思います。
また、そこは小さな施設ですが入所者数が多く、入所者数に対する介護従事者数が十分とはいえなかったように思われます。改善するべき点は多々あるのですが、財政面に余裕がないのは地元だけでなく、多くの自治体が頭を悩ませていることだと思います。地域社会との連携をとり、福祉の重要性を多くの人が見直すことができたらいいと思いました。
北九州市立大学の者です。先日は、とても勉強になる講義をしていただき、誠にありがとうございました。
先日の講義では、この記事に載っていない写真なども見させていただいたので、より分かりやすかったです。グループホーム・ケアホームの新設に伴う国の補助金は1ヶ所当たり2000万円という全国一律の金額ならば、都心部以外に造ればよいという発想の転換は素晴らしいと思いました。写真からも分かり、講義でもおっしゃっていた通り、購入するとすごく高い値段がつくようなテーブルや1本木の梁などを、裏山に植林していた自前の間伐材を使って作る、という発想も驚かされました。
私の祖母は、民家の中に創られたデイケアサービスに通っているのですが、地域の方との交流は全くと言っていい程無いと言っていました。祖母の話を聞いていても、都心部にグループホーム・ケアセンターを建てる利点は、郊外に建てる利点よりも少ないのではないかと思いました。
こんにちは。
ブログの記事を読んで佐賀県地域共生ステーションでの取り組み、とても良いものだと感じました。
特徴として、赤の他人同士が意味のある他者として支援する営みから地域生活のゆたかさをみんなで作っていくということ、そのような取り組みを聞いたことはありませんでした。
隣に誰が住んでいるかも分からない、地域の人々との関係が希薄になっている時代に、佐賀県地域共生ステーションのように障害の有無に拘らず、子どもからお年寄りまでを対象であり、通う、泊まる、場合によっては住まう、サービスを切れ目なく提供するというものは、健常であるから関係ないと自身で区切るのではなく、自身を含めた地域との関係性を作っていく上で必要となるものであると感じました。
これから佐賀県地域共生ステーションのようなところが全国に出来て欲しいです。
私たち一人ひとりが地域と共に暮らしていくことのできる環境をつくることの重要性に気付いていかなければならないと考えました。
こんにちは。先日、北九州市立大学で講演を受けた学生です。
授業の一環でブログを拝見させていただきました。特に今回の記事は、私の地元佐賀県ということで、北九州市、さいたま市の例と比較した上でとても興味深かったです。
私の友人にも、地元佐賀の福祉現場で働いているものが数人います。確かに田舎の方では、施設の面積も広く、人口が少ないことから、人と人との新密度も都心と比べると高いと思います。
しかし、環境に合わない人がいるのも事実です。新密度が高いゆえ、そこになじまない場合は、より孤独感を感じ、施設の絶対数が少ないだけに、他に移ることができない場合があると友人は言います。
ブログを拝見させていただいて、新たな発見が大きかったのですが、その問題点も見つめていかなければと勉強になりました。ありがとうございます。
こんにちは。私は四回にわたって先生の特別講義を受講させていただいた、北九州市立大学のものです。
佐賀県地域共生ステーションの記事を最初から追って読ませていただきました。先生の講義でステーションの非常口の作りを聞いた日から、素晴らしい考え方のところだと思っていました。
ですが、他にも利用者の方々が「ぬくもり」を感じられる作りをしていることを知り、今度伺ってみたいとも思うようにもなりました。
ぜひ、このレベルの共生ステーションの類が全国に出来ればよいと思います。しかし、実際のところは都市部等では今回の記事にもあるように、いろいろなことがあり難しいでしょう。
そのために国や自治体が、少しでも力を貸してくれる動きをしてくれるとありがたいと思います。
そのためにも、いずれ利用するかもしれない我々世代からも力を合わせていかないと感じました。
私は北九州で行われた講義や過去の佐賀県の共生ステーションの記事を読んで、都市部の社会資源の拡充の難しさというものを数字として見て非常に問題であると改めて感じました。
今、小泉政権以来地方と都市部との経済的な格差というものが連日メディアなどでも取り上げられ、問題視されていますが、その反面、社会福祉的な側面では都市部と地方との格差もまた広がっています。先生がブログ上で都市部を「限界集落」に近い状態ではないかと表現したように、地方への経済対策と同様に都市部への福祉政策も重点を置き、日本人が本当に豊かであると、幸せであると感じられるよう国は努めるべきであると感じました。
先日は貴重な講義ありがとう ございました。
先日の北九大での講義を受けた者です。
授業でも取り上げられ、今回のブログのテーマともなっているぬくもいホーム太陽。
お年寄りが集まるデイサービスや、グループホームなら私の地元にも存在するのですが、ぬくもいホーム太陽がもつ大きな特徴は、お年寄りだけでなく、子どもたちをはじめとした、地域住民も参加・利用できる点です。
ぬくもいホームのエピソードとして、野菜の置き方で誰だかわかるというものがありました。実際私の地元も田舎なので、近所のおばあさんたちが玄関先に野菜を置いていく、ということがたまにあるのですが、置いていった場所や、種類から誰が持ってきてくれたのかを判断することができます。
直接会って手渡されなくとも、野菜の種類で誰だかわかる、そして相手の気持ちが伝わるということは、地域の人同士のつながりを感じることができます。
地域とのつながりのない状態で、ある朝玄関先に野菜が置かれていたら、地元での生活のように、親切な人だ。ありがとう。とすぐには思い浮かばないのではないでしょうか。置き間違いなのか、何かの理由で置かれているのかなど、いろいろ考えそうです。そう考えると、地域とのつながりのない生活に、寂しさを感じました。
「都市部は巨大な『限界集落』?」という見出しに、同じようなことを去年の秋に聞いたので紹介したいと思う。
ムラアカリをゆく~限界集落・過疎地 日本一周プロジェクト~
http://murakari.com/
大阪で「限界集落」をテーマに小さな講演会があった。ブログ作者の友廣裕一さんは半年間、70の町や村を訪ね歩き、そのなかには「限界集落」と括られる場所もあったということだが、そこで見たいきいきとしているお年寄りたちや、「東京こそ限界集落だと思うんだ」と言われたことで、今まで自分が問題にしていた「限界集落」観が変わったということを力強く話していた。
「限界」と名づけてしまうのは、ほとんどが数字上の観点からとやかく言っている都市の側であるが、ブログで指摘されている都市の対人関係の希薄さや、ほとんどの食糧を市外に依存している状況からすると、地方を「限界」呼ばわりしているひまは都市にはないと、私も思う。
「土地・建物所有者に対しては、土地・建物の取り引きに関する新たなルールづくりをベースに据えなおして、地域共生型の社会資源に対して不動産を提供する場合に適用される固定資産税・相続税等の減免措置の新設等が早急に検討されるべき」については、都市における農地問題もまったく同じ状況であり、まさに地域共生をめざした「食」づくり=都市農業も、合わせて構想をつくる必要があると私は思う。
現代社会と福祉2で先生の講義を受けさせて頂いた北九州市立大学の学生です。
私の祖母が老人ホームへ入所していたので、老人ホームと佐賀共生ステーションを比較しながら先生の講義を受けさせて頂きました。施設の方針が違うので当たり前かもしれませんが、その老人ホームと佐賀共生ステーションの雰囲気がまったく違い、驚きました。
「助け合う」「支え合う」「慈しみ合う」というのは、家族や友人などの間柄でお互い意識せずにしていることだと思い、佐賀共生ステーションは、地域に住んでいる住民の「信頼感」を軸にした大きな家族みたいなものだと感じました。
人の出入りが激しい都心部で「信頼感」のある地域を作っていくことは難しいことだと思いますが、その分、作り上げることができたら強いものになるのではないかと思いました。
佐賀県地域共生ステーションに関するブログを読ませていただきました。
現在私の祖父も一般的なデイサービスセンターを利用しているため、共生ステーションのような施設が身近にあればどんなにいいだろうかと思い、とても羨ましい気持ちになりました。
それだけに、都会で共生ステーションのような施設を広めることが難しいということを、とても残念に感じます。
私はまだ学生の身ですが、都会は貨幣価値だけを求めるのに適した形に特化し、逆に地域は他者とのつながりがなければ生活できないような形に、時代の流れとともにどんどんと変化していくのを、ひしひしと感じます。
このまま二極化が進むのでしょうか?私にはどうも、良くない流れのように思えますが・・・
経済の流れや人間心理に抵抗し、問題の解決をするのは非常に大変だと思いますが、貨幣価値も他者との繋がりも充分満足できるようないきいきとした社会を、全員でつくっていきたいですね。
私は埼玉大学で先生の講義を受けている学生です。
今回までのブログを見て、佐賀県の地域共生ステーションにたいへん興味を抱きました。その中でも私は特に「赤の他人」同士が「意味のある他者」として支援する営みに素晴らしさを感じました。私は現在の下宿に住み始めてほぼ一年になりますが、私自身も同じ下宿に住んでいる人でさえ話したことがない、知らない人がほとんどです。それに虚しさや物足りなさを感じるのは私だけでしょうか。
私はこの大学へ来る以前は北海道に住んでいました。子供のころではありますが、公園で数人で遊んでいるとどこからともなく知らない子が自分たちの輪に入ってくるが、日も暮れ帰る頃にはもう話し合えるような仲になっているということがしばしばありました。赤の他人がつながりのあるものになるという点でこれらと地域共生ステーションが似たような場であるように感じました。そのような機会がない今、やはり他人とつながりを持てることはいいことだと実感しました。
現在ではこのような施設を簡単に都市部に建てることは難しいとこのブログを読んで分かりましたが、それを建てることができる、またはそれに代わる機会をつくることができる社会を作っていくことが大事であると思いました。
佐賀県地域共生ステーションについての連載を全て読んで驚きをたくさん感じました。まずこのように「共生」という言葉がぴったりな場があるということを知りませんでした。今までの自分の中にあった福祉施設に対するイメージをいい意味で壊してもらいました。私自身サークルの関係で老人ホームやデイケアセンターに月に2,3度行くことがあります。そのどこであっても地域に密着したというよりも孤立したようなイメージが私の中にあります。中学時代に職場体験で行った老人ホームもどこか病院のような印象が残っています。
ブログの記事の中にもあったように、隣に住む人とあまり顔を合わせることの少なくなった現代の都市で「地域に根を張った」取り組みを行うことはとても困難であろうということはわかります。昨年私の家の向かいに越してきた方と話すことも全くと言っていいほどありません。幼いころよりも近所の人と顔を合わせる機会も減り、あいさつ程度の付き合いになってしまったなと改めて思います。
人とのつながりが希薄になってしまった都市に対して逆に福祉的に発展を見込めるのは逆に地方の方であると強く思いました。
物騒な時代だからと言ってすぐに監視カメラをつけてしまうような現代都市で、少しでも他者とのつながりを感じられるきっかけづくりが新しい福祉への簡単な一歩なのかなと思いました。
ただの「赤の他人」である関係から、「意味のある他者」の存在になる、それは言うのは簡単でも実行するのは難しいことでは無いかと思っていました。
自分の下宿先の、自分の両隣にいる人の名前はおろか、いったいどんな人なのか、それどころか男性なのか女性なのか、それすらも分からない状態がもうすぐ一年経とうとしているからです。
しかしこの共生ステーションでは、それをまるで当たり前であるかのように、こんなにも簡単にやってのけてしまっている、これはすごいことだと思いました。
「赤の他人」だった人々が、この共生センターで一緒に過ごすことによって「意味ある他者」となる。職員の方も、ただの仕事としてではなく、一人の人間として世話をする、そんな職員に対して利用者の方もまた、一人の人間として頼り、時にわがままも言う。これは現代ではあまり見られない、しかしある意味当然のことではないのかと思いつつ、その当然のことができない私たちはなんなんだろうと考えさせられました。
私の祖母も老人ホームに入所しているので、たまに会いに行くのですが、やはりどこか冷たい雰囲気の、制服を着た職員の方が仕事としてお世話をしているという印象をよく受けました、やはり共生センターのようなあたたかい雰囲気をつくるのは難しいとは思いますが、どうにか祖母をそのような雰囲気のところで、わがままを言える職員の方達と過ごしてもらいたい、そう思いました。
都市部やその周辺地域におけるこのような施設の設立への問題はやはり深刻だと思いました。社会が高齢化していく中で、このような施設は必須となってくると思う。しかし、都市部やその周辺では地価などの関係でつくることが難しいが、それに対する国からの補助金制度にもやはり問題点があると思う。都市部などでは補助金だけでは作ることができず、利用者に負担がいくことがあるのではないかとも思う。利用者への負担が大きくなればなるほど利用することが難しくなり、本来つくられていくべきつながりを作ることが難しくなるのではないかと思えた。誰でもどんな人でも利用できる施設であるためにはさらに法的にも活動的にも工夫などが必要ではないかと思えた。そして誰もが利用する場所となれば、その場所はその地域にとってなくてはならないものへとなるのではないかと思えた。
「赤の他人」同士が協力しあい「意味のある他人」として、子供から高齢者まで地域の仲間で支えあう社会こそ私たちの理想であるだろう。むしろ地域のつながりや協力なくして、福祉を充実させることは不可能に近いのではないのだろうか。
このぬくもいホームは成功例の一つと言えるが、首都圏、都市部では同様のサービスをおこなうには無理がある。敷地はせまいが利用者は圧倒的に多い都市部の現状を解決する方法はわからないが、ただ施設をつくるだけではなく、いかにして地域のつながり、協力を得るかも検討しなければならないと思う。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。