笑いあり、涙あり-佐賀県地域共生ステーション その2
佐賀の地域共生ステーションの視察を進めるうちに、どのステーションにも共通して、落ち着きと安らぎのあることに気づかされました。何よりも「ホッとする」場所なのです。
もちろん、活きいきとした暮らしに必要不可欠な笑いのあふれる会話があり、一週間も実習させてもらえば、涙あふれる場面にも間違いなく出くわすことでしょう。
まさにここは、民衆が集い、支え合う親密圏を地域社会の中の一つの拠点として構成しつつあるように思えます。それは、1980年代後半に始まった「住民参加型在宅福祉サービス供給組織」による「有償ボランティアサービス」ではなく、介護保険法や障害者自立支援法等の制度サービスを組み入れた社会的な事業による「地域相互支援サービス」という特質を持つものです。
写真1 宅老所「柳町」〈NPO法人たすけあい佐賀〉にある掲示
写真2 ぬくもいホーム「ほのぼの長屋」〈NPO法人のんびらあと〉の玄関掲示
地域共生ステーションをめぐる「笑いあり、涙あり」の数々の物語(事例)は、『佐賀の宅老所2008』(佐賀県宅老所連絡会発行・編集)に詳しく紹介されています。ここには、障害のある人や子どもからお年寄りの暮らしと支援が活写されており、私にとっても、地域に暮らすことの意味を多様な視点から問い直すことにつながりました。ホームページに紹介されており、購入も可能ですので、皆さんには一読を強くお薦めします。
「笑いあり、涙あり」の詳細は『佐賀の宅老所2008』に譲るとしても、次の一文だけはご紹介しておきたいと思います(同書、7ページ)。断片的なニーズに対するモザイク状のサービスをプランするだけの発想からは、決して生まれてこない支援の要点です。
「利用者やご家族の方が、サービスに対して細かい希望を出されると、『わがまま』というレッテルを貼る人がいますが、宅老所は、ある程度のわがままが通るようでなければ、存在意義が希薄になると、常々感じてやみません。積極的に希望が出るのは、信頼があればこそですし、同時に『わがまま』が通るところに、第二の家としての宅老所の存在意義があるはずです」
「『生きてわがままを言える喜び』『生きてわがままを言ってもらえる喜び』を失くさないように、同時に適切な距離感を保ちつつ、互いが互いを尊重できるような心配りを忘れない―その人らしさを奪わないために、その人なりの要望や、言外の願望を踏みにじることなく、支援していきたいです」
写真3 「ほのぼの長屋」のデイ-ここで「わがまま」を言ってもいい
地域の見慣れた民家で、顔見知りの間柄をベースに「助け合う」「支え合う」「慈しみ合う」というと、どことなく「美しい物語」の展開を想像してしまいがちです。下手をすると、前近代的で田舎くさい「淳風美俗」と誤解されるかもしれません。
しかし、上記の一文は暮らしの中の支え合いが展開される「親密圏」について、もっとも本質的で難しい課題を指摘しています。
すなわち、(1)基礎的な信頼関係があるからこそ、それぞれの人の本音の「欲求」をいうことができる、(2)しかし、人間の「欲求」は際限のない性格をもつため他者には「わがまま」にしか映らないこともしばしばである、(3)そこで、常に寄りそうだけではなく「適切な距離感」を保ちつつ、「わがままを言い合える喜び」を共にする人間として尊重しあう、ということです。
割り切れない生活世界の中で、共依存やベタベタした関係に埋没するのではなく、どこまでも「個人の尊厳」を尊重しあうとは、このようなことではないでしょうか。
写真4 ぬくもいホーム「太陽」〈NPO法人あさひ〉の居室
このようにみてくると、地域共生ステーションのような地域社会の支え合いを「淳風美俗」と捉えるのは、全くの時代錯誤です。
この言葉は、「人情に厚く美しい風俗・慣習」を意味し、戦前から比較的最近まで、社会福祉サービスの拡充をはばむ際に使われることがありました。要するに、社会的なサービス(公助)を拡充すると、家族・地域社会内部の支え合い(自助・共助)が弱くなってしまうという単純極まりない議論です。このような議論の誤りは、社会的なサービスを「支え合い」を弱める方向でしか捉えない点にあります。これまで、ともするとパターナリスティックな傾きをもつ社会サービスが「サービスへの依存」を招くようなことがみられたとしても、それは「サービスの質」に問題があったからで、社会的なサービスの拡充そのものに問題があったわけではありません。
佐賀県地域共生ステーションは、社会的なサービスによって、各人が「その人らしさ」を活きいきとさせ、人生と暮らしの主人公としてより自立的な問題解決に接近し、他者の幸福の実現に対してさえも、誰もが「その人らしく」寄与しうることを指し示しています。
写真5 ぬくもいホーム「太陽」の千切り画「バルーン」-佐賀ならではの作品
コメント
『わがままを言い合える喜び』ってとても素敵な言葉だと思いました。
お互いが信頼し合い、それぞれを尊重し合える、そんな間柄であるからこそ、わがままが言える。わがままを聞いてもらえる。しかし、それがすべて通るわけではない。それをわかっていながらも、わがままを言うことができる。
そんな微妙なバランスが、自分は「生きている」と強く感じることができることに繋がるのでは、と思いました。
だからこそ、そこが『ホッとする場所』になっているのですね。
重要なことは利用者が「ホッとする」ことであるということが分かりました。わがままを言える、言ってもらえるという私たちの生活で当たり前にあることが、その人らしさを尊重し、安心できる生活をするのに必要であることに気付きました。
障害を持った方や子供から高齢者まで、必要とするサービスは多種多様です。幅広くサービスを提供する柔軟性が大切なのですね。
佐賀県地域共生ステーションの『わがまま』に対する考え方に、なるほどと考えさせられました。
人が他人との共同生活の中で生きていくためには、どうしてもわがままという壁にぶつからなければいけません。そこで壁に対して無理やり壊そうと抵抗をするのではなく、受け入れるという行動を取ることで互いの信頼感をより強固なものとする。文章で書くだけなら簡単ですが、実際にこの行動を取ることは非常に難しいものです。ですが、この壁を乗り越えて初めて、人はより活きいきと生きていくことができることもきっと事実でしょう。
地域共生ステーションだけでなく、私たちの身近な生活にもこの『わがまま』に対する考え方を取り入れていきたいと思いました。
家ではない場所で利用者が活きいきとした暮らしをすることができる「ホッとする」場所を提供するというのは、とても難しいものだと思います。自分一人ではなくたくさんの人との共同生活を送る中で、一人ひとりが自己主張することはなかなかできないでしょう。
この佐賀県地域共生ステーションの記事を読んで、新たに気付かされた部分があります。それは、『わがまま』についてです。大抵、良いように思われないものですが、『生きてわがままを言える喜び』という言葉を見て、考えが改まりました。
利用者は自分の希望が通ることで存在意義を感じることができる。簡単なようで『わがままを言える』場所をつくることは実は大変なことなので、とても感心させられました。
「ホッとする」「わがままを言える」ということがステーションに共通しているということに、なるほどと納得しました。
それと同時に、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が浮かびました。
異なる人同士が、1か所にいる。これを前提とすると、礼儀・節度はわきまえていなければならないと思います。それは最初はもちろん、たとえ馴染んだとしても忘れてはいけないことでしょう。なぜなら、自分だけで解決したいというときもあるからです。そして、そんなとき、そっとしておいてもらえれば、人は「ホッと」できると思うのです。また、礼のある態度は、自分が尊重されているということで、自分に自信をつけることにもなると考えます。
そのように考えると、この言葉は、暮らしの中の親密圏や距離につながるところがあるのでしょうね。
「ホッとする」「わがままの言える」人と人、人とサービスの適度な距離とは、難しく、しかしとても大切なものだと感じました。
こんにちは。現代社会と福祉2で宗澤先生の講義を受講した北九州市立大学の学生です。
宗澤先生の講義を受けて佐賀の地域共生ステーションは利用対象者を限定しておらず障害者などといった枠にとらわれていないという点でとても良い施設だと感じました。「ホッとできる」「人間として尊重できる」施設は非常に大切であると思います。
今では、障害者や高齢者に対して非常に大きな偏見があると思われます。佐賀の地域共生ステーションは顔見知りの関係性を形成しながら柔軟なサービスを行っているということを知りました。このことが社会の非常に大きな偏見といったような問題から利用者を守っているのということに気がつきました。
地域社会のつながりのある施設づくりが今後重要な課題であると考えました。地域社会のつながりが薄い都市で佐賀の地域共生ステーションのような施設ができればと思いました。
地域の仲間が一体になれる、かつ利用者が本当の自分を出せるような佐賀の地域共生ステーションは本当に素晴らしいなと思いました。(老若男女を問わず)一人暮らしをしている人が増加し同じ地域内でのふれあい・つながりが薄れつつある現代において、このような施設は重要だと改めて思いました。
佐賀の地域共生ステーションの活き活きとした様子はこのブログを見ているだけでもよく伝わり、私も心がホッとしたような気持ちになりました。
また、高齢者や障害者に関する法律や制度が増えてきていますが、身体や生活の保護だけでなく、その人たちの心も活き活きできかつつながりを持てる、まさに佐賀の地域共生ステーションのような施設・サービスの充実をすべきであるとも思いました。
北九州大学での講義を受講した者です。
「地域共生ステーションって何だ?」と興味をもったため、この記事にコメントさせていただきます。
そもそも、私たちの住む地域には共生ステーションなるものがありません。似たようなものなら、公民館や学習センターなどでしょうか。ただし、これらは使う人が限られています。また、開館時間が短いのも難点です。もっと、高齢者や障害者が気楽に、自宅のように利用できる施設があれば…それが地域共生ステーションだと知りました。ブログの画像(作品)を見て、おもわず笑顔になってしまいました。このような場所にいると、温かい気持ちで交流できるのだと思います。
こんにちは。先日、宗澤先生の講義を受講した北九州市立大学の者です。
私も落ち着きと安らぎがあって「ホッとできる」場所の存在というのはとても大切だと思います。わがままを言い合えるのはお互いを信頼し合っているから。その言葉を聞いてすごく素敵だと思ったし、その考え方にとても共感しました。物事の考え方ってとても重要なのだと感じました。
考え方って人それぞれだし、それでいいと思うけど、お互いに理解し、尊重しあえたらすごくいい関係が築けるのではないかと思いました。笑ったり泣いたり怒ったり、感情を表現できるのは人間がもって生まれたものであり、それを奪ってしまうことはその人の存在意義を奪ってしまうようなものであると思います。適切な距離を保ちつつ、その人らしさを尊重し、お互いを認め合うことがとても大切なのだと感じました。
一般に広がっている障害者やお年寄りの方が生活している施設で、利用者が遠慮して自分たちの意見を言いづらい状況というのは、問題だと思いました。実際に、私の祖父もそのような施設に入所したことがあるのですが、祖父は自宅に帰るたびに、施設に対しての不満を言い、私たち家族にはよくわがままを言っていました。その祖父の姿を見て、従来の施設では精神的なケアがもっと必要なことと、わがままを言えるということは、相手に対して信頼をしているという証なのだと実感しました。
その点、佐賀県の地域共生ステーションは、利用者の方がサービスについて希望を言いやすい理想的な環境です。また、利用者を限定しないので、誰にとっても快適な空間が作られています。
まずは、福祉が障害者やお年寄りのためだけのものであるという考え方を捨てることが大事なのだと、地域共生ステーションから学ばせていただきました。
佐賀県共生社会センター2の記事と合わせて、利用者さん・支援者さんの活き活きとした様子がとても伝わってきました。やはり第二の家としての宅老所は、利用者さんの心の拠り所として大変貴重な場所だと思います。
私の実家は大分県の田舎にありますが、実家の辺りでは老人ホームと名のつく場所しか利用者さんたちの憩いの場(施設)はない気がします。これはあまりに寂しいことです。人との交流をすれば生きがいや楽しみを見つけることができ、それが生活の質に大きく関わってくると思うからです。
宅老所は、老人ホームや他の入所型施設に比べて、障害者や高齢者が「自分は家族の中にいていいんだ。」という気持ちになれると思います。ずっと施設で暮らすよりも、日中は宅老所で友達と交流し、夜は家族と一緒にいる方が幸せだと思うからです。資金面で困難なのかもしれませんが、国や自治体は憩いの場としての施設をもっとつくるべきだとこの記事を読んで強く感じました。
先日は北九州市立大学での講義、お疲れ様でした。先生の講義を聞かせていただいた者です。
講義のなかで、出てきた「地域共生ステーション」に、とても興味を持ちました。私は、地域創生学群という学群に通っています。地域の活性化に貢献できる人材になるために、必要なことを座学や実習で学んでいます。分野は、福祉であったり、地域スポーツであったり、様々です。
そのような学群に通っていながら「地域共生ステーション」についてまったく知りませんでした。
NPOの活動が基となり、社会的な資源になっている。その活動内容が、市民に浸透している・愛されている。とてもすごいことだと思いました。
自分も「地域共生ステーション」に、足を運びたい。そう強く思っています。
私は講義を聞き、利用者が安心して利用できる施設が一番の理想だと感じました。先生の話の中にあった「ほっとできる」施設というのが、これからの社会の中で重要視されるのではないかと考えるからです。
そもそも、自分は共生ステーションという言葉自体を聞いたことがありませんでした。話を聞くうちに、公民館のようなものか…と考えていましたが詳しく聞くことにより、それは、誰でも、いつでも気軽に利用できる施設ということが分かったのと同時に、そのような施設は自分の周りにはあまりない事に気づきました。もしそのような施設が多く普及すれば、決まった年齢ではなく、幅広い年齢層の人との交流が可能になります。
今回の講義で、多くを学ぶことができました。ありがとうございました。
こんにちは。先日は講義を受けさせて頂きました。とてもためになる講義でした。ありがとうございます。
佐賀県地域共生ステーションの記事を前回、今回を通して読ましていただきました。
地域に根差した施設とはこういうものなのだと伝わってきました。また、ここが施設とは思わせないような、普段の生活と何一つ変わらない様子に親近感を覚えました。そこに一つの家族があるかのように感じました。また、一日の流れがそこでは出来ていると思いました。
その中で一番の驚きが、利用者を限定しないというところです。確かに、地域の中ではお年寄りも子供も同じ空間で生活していますよね。そこに私は気付きませんでした。当たり前のことを当たり前にとらえてはいませんでした。
また、私は将来福祉施設で働きたいと考えていますが、『わがまま』を言い合えるようなそんな場所にしていきたいです。佐賀県地域共生ステーションのようなところがたくさんあると安心ですね。
ぬくもいホームは民家改修型の「施設」ではなく「家」であるということが今までの概念をきれいに壊してくれました。
今まで僕は福祉サービスを行う「施設」とは、「家族だけでその高齢者を介護することができなくなったから専門の人に頼む」という理解しかありませんでしたが、講義でこのぬくもいホームの話を聞いて、必ずしも高齢者や障がいを持つ人たちだけのものではなく地域に根差している公共的な財産だという理解に変わりました。そして今の時代にはあまりない暖かなものを感じます。
ギスギスした人間関係が渦巻いている大都市にこそ「地域共生ステーション」が必要だと考えます。ですがまだ都心部もしく大都市近郊のまちでは「地域共生ステーション」が作られたという話はあまり聞きません。これは地方の人と人とのつながりを大切にし、みんなで生きていくという考え方が都市部ではないということなのだろうかと考えてしまいます。
もしそうであるならば、どうにかしてその考え方を広め「地域共生ステーション」を軸として細かな単位としての地域社会の活動を活発にできたらならいいと思います。
佐賀県地域共生ステーションに関するこの記事を見て、かつて佐賀県にある嬉野温泉病院へ訪れたことを思い出しました。そこでは、一人だけでは作れない、皆で共同生活をしているからこその空間と、一人一人の空間がよく共存しているように感じました。まさに、佐賀県地域共生ステーションと同じ環境が作られていたのではないかと思うのです。けれど、「わがまま」の捉え方は新鮮に感じました。
私は将来、病院・介護施設において皆が一緒に誰もが安らげる空間を作ることを目指しているのですが、人同士である程度の距離感が必要であることを頭にいれて、模索していくべきだと思いました。
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