秋の出来事から
一昨日のこと、近所の川堤に咲きそろう彼岸花の花びらを誰かに切り落とされるという事件が起きました。その彼岸花の周辺ではお年寄りの皆さんが集まっていました。「花の命は短いのによくもこんな酷いことができるわね」「お釈迦さんのバチが当るわよ」などと口々に話す声が聞こえてきます。
写真1 秋の訪れを告げる彼岸花
写真2 花びらを切り取られた彼岸花
この辺りの川堤は春には桜が咲き乱れ(2009年4月9日ブログ参照)、普段から地域住民の散策コースになっているところです。早朝や夕方には地域住民の人たちが犬の散歩やウォーキングに訪れ、日中は特別支援学校の児童生徒たちやグループホームのお年寄り・支援者の散歩する光景がよく見受けられます。
近くには市役所のある街中でとても清流とはいえませんが、意外なことに様々な生物が棲息しています。ウシガエルにカメ、小魚の類をはじめ、カモ類、コサギ・チュウサギ・アオサギなどのサギ類、カワウ、そしてカワセミまでがこの小さな水の流れを棲家としていますし、その他10種以上の鳥たちの水場にもなっているようです。
写真3、4 川の宝石-カワセミ
このように身近な自然環境は、季節の移ろいに応じて街中に住まう人たちの心を和ませる貴重な共有財産です。その中の一つである彼岸花の花弁を切り落とすという所業は、とても「心無いいたずら」程度の受け止め方で済まされるものではありません。
しばらくして、花を切られた彼岸花の周辺に集まっていたお年寄りたちのところに一人のお爺さんが自転車に乗ってさっそうと現れ、ちょっとした歓声が上がりました。かなりのご高齢とお見受けしますが、何やら格好いい。かくしゃくとした身のこなしで荷台に積んできた草々の道具を取り出すと、川堤に杭を打ち彼岸花を保護する紐をあっという間に張っていきました。このお爺さん、やはり格好いい!
写真5 保護された彼岸花
さて、「割れ窓理論」(Broken Windows Theory、刑事司法学者James Q.Wilsonらが提唱)というものがあります。たとえば、自動車の運転手席右側のガラスだけを割った車を路上に一週間放置しておくとするのです。すると、「この車は誰も管理していないな」「もうじき廃車するつもりなのだろう」と受け止められてしまい、一週間後にはすべてのガラスが割られてしまうという結末を迎えます。
空家のガラスについても同様の事が起きるように、些細に思える問題を街中で放置しておくと被害は拡大し、犯罪発生の温床となっていくことが実験によって確かめられてきました。そこで、この理論にもとづいて些細な犯罪を放置せず、警官もできるだけ徒歩で街をパトロールすることによって、ニューヨークの重大犯罪の発生率を下げることに成功した取り組みは有名です。
「喫茶JAZZのマスター」さんには、泥棒に入られたこと本当にお気の毒です(前回ブログの書き込み)。被害がさほど大きくなかった点は不幸中の幸いでしょうが、この段階でどのような対策をとるかが「割れ窓理論」上はとても大切なことでしょう。
しかしながら、この理論やニューヨークの犯罪取締りの教訓を「些細な事から管理し、取り締まることが大切だ」と杓子定規に捉えることによって、学校や地域社会では「ゼロ・トレランス」(Zero Tolerance)という動きがアメリカで強まりました。つまり、学校や地域社会で凶器を用いた重大犯罪を防止するために、服装などの些細な風紀の乱れから有無を言わさず正すような「非寛容のスピリット」で臨むことです。
これは結局、学校・社会からの「落ちこぼれ」を増やす事態に帰結したため、「ゼロ・トレランス」に対する厳しい批判が起こりました。
アメリカの「ゼロ・トレランス」に欠けている視点は、子どもたちや地域住民の安心・安全をつくるためには、自主的で自発的な取り組みにもとづいてこそ実効的になるのだという点です。わたしが、川越の街角で出くわした彼岸花を保護する光景は、まさにこの点の大切さを物語っているのではないでしょうか。
福祉の世界も同様です。些細なことから関心を持ち合い、少数者の困難に対しても気持ちを寄せ合う地域社会があるからこそ、民生委員をはじめ、ヘルパーやワーカーの仕事も活きいきと展開できるようになるのです。つまり、共に生きる街づくりの中に福祉・介護サービスが位置づけられることが今ほど大切な時代はありません。
それに対して、学校教育や福祉・介護サービスの側の努力のみに注目して、地域住民と子どもたちの安心・安全を実現しようとする営みは、自ずと限界に直面せざるを得ません。自治に立脚した協働の精神が培われないままに生活習慣病対策や介護予防の取り組みを強めれば、結局、そこからの「落ちこぼれ」を増やすことにつながる惧れさえあるとはいえないのでしょうか。
犯罪発生率の高い「警察・軍事国家」に高度に発達した福祉国家は存在しないという歴史的事実は、以上すべてのことを証していると私は考えています。
コメント
中部地方の大学で「社会福祉」を学ぶ一学生です。
先日「社会保障論」の講義の折に講師の方から「今の福祉は住宅問題を軽視している」との話があり、一方で「地域福祉にだまされるな」との話もとびだしてきて、いささか抽象的で整理がつかずにいたのですが、宗澤先生の一連のブログを拝読して具体的なイメージを持ちながら考える事ができ嬉しく思っています。
ありがとうございました。自分なりに「地域福祉」についてこれからも考えていこうと思います。
教育学部の2年生です。
彼岸花の花弁を切り落としてしまった人は何かむしゃくしゃすることがあって、でも人には迷惑をかけていないから、花は何も話さないからしてしまったのかもしれません。しかし、彼岸花も人も命は1つであることには変わりはないということを頭に入れておかなければなりません。親が子を子が親を殺してしまう世の中で、花弁を切り落としてしまうことを確かに「心無いいたずら」というだけで済ましてはいけないと思います。「命」について改めて考え直したり、もっとよく考えたりする必要性がでてきているということなのでしょう。私は、そこで重要になってくるのは学校や地域で行う「命」についての働きかけや取り組みであると考えます。皆で身近なことから考えていけば、自主的、自発的に「命」について考えたり、行動したりできるのだと思います。
割れ窓理論になるほど、と納得いたしました。
そこから派生したアメリカの実例。
こちらは、今の日本の高校生、特に私立の高校生にも当てはまりうると考えます。
実際に私の出身校は私立なのですが、頭髪服装検査が厳しく、しかし生徒たちは頭髪服装をルールに則して直そうとはしない。
それを今まで、私は生徒自身が「大人になっていない」からだと考えていました。
しかし、今回のブログを読んで「単に落ちこぼれが増えているのではないか」とも考えられると思いました。
そ うは言ってもやはり、服装の乱れは私立学校と言う独自空間内の「ルール」が守れない、ということには変わりはないので、そのまま放置するわけにもいかないと私は思う次第にございます。
初めてコメントします。
割れ窓の話から、アメリカの地下鉄の落書きの話を思い出しました。その話でも、落書きがしてある所には何も書いていない所よりも落書きをしやすいという人の心理から鑑みて、落書きを消すことで落書きはされなくなり、それに伴って街から犯罪が消えていくということでした。
しかし確かに、それと学校の規則を厳しくするというのは違うことだというのは感じます。幸いというべきか、私が在籍していた学校は規則もそれほど厳しくない学校でしたが、規則の厳しい学校というものは「そこまで」と思うほどに厳しいのだと聞きます。
集団の中での規則破りはとても目立つ。そしてそこの乱れは全体につながってしまう。だから小さな乱れから直していくべきである。
その考え自体は理解できるのですが、行動が行き過ぎるとそれは「監督」ではなく「管理」になってしまいます。規則破りの生徒も規則とは守るものという考えに至る前に、その強制に反発してしまうのではないかと思います。
何事もある程度の指針や指導は必要だと思いますが、それが強制になると活動する側には倦怠感が漂い、もし活動を受ける側がいればしこりが残ることでしょう。自発的な行動というのは大切なことだとつくづく思います。
やる気のある人が空回りしないよう、物事に関心を持てるようにしたいです。
彼岸花の花弁が切り落とされるという事件はとても悪意に満ちた行為だと感じました。人によってそのことに対する感じ方、受け取り方は違うと思いますが、地域のみんなの共有物だという観点から考えても私自身、許しがたい行為だと感じました。
人は、してはいけないということがしたくなったりします。禁止されていることをしてやってやったぞという欲求を満たしたいと感じるのでしょう。また、みんなやっているから私もしていいかなと思うのも人間の心理です。
しかし、それをどれだけの人が周りに流されずに注意することができるか、問題視することができるかが重要だと感じます。福祉の面でも、どれだけの人が自分本位ではなく他人の事を考え、それを訴えることができるのかという事が重要だと考えました。
割れ窓理論と「ゼロ・トレランス」の事例が福祉の世界でも同じということに納得しました。
しかし少数派の困難は周りの人の関心が集まらないためにおざなりになってしまうことがあると思います。そんな些細な困難にも多数の人々が関心を持ち、気づいていくことができればよりすべての人が暮らしやすい地域づくりができるのではないかと考えました。
私自身も、福祉関係の授業を受講する中で、今まで全く考えもつかなかった福祉・介護現場の問題に気づかされることが本当に多くあります。
この彼岸花を保護したおじいさんはどこかの組織から送られてきた派遣人員というわけではないでしょう。つまり、街に住まう人々にとって大切な川辺の景観を守りたいという心から自主的に動いた行動だったのだと思います。
このように、気がつくだけでなく、気がついた時に自分に何ができるかを考えて実行することが大切なのだとこの記事を読んで感じました。
「言うは易し行うは難し」ですが、私もこれからもっと回りに気を配っていきたいと思います。
彼岸花を保護された方の行動にとても感心しました。現代において私たちは自分のことばかりで周りのことまで考えられていない気がします。
自分には直接関係がないし、些細なことだからいいという考えで見落としていることがいっぱいあるのではないでしょうか。しかしその些細なことが積み重なって大きなことになるのだと思いました。
そのおじいさんがどのような考えでそのような行動をしたのかわかりませんし、花がかわいそうだったからと思っただけかもしれませんが、些細なことを見逃さず、自発的に行動する姿は私たちも見習っていかなければならないと思いました。
そしてがよりよい福祉を作るためにそのような周りへ関心をもつことを大切にしていかなければならないと思いました。
こんにちは。北九州市立大学で学んでおります。先日は興味深い講義をありがとうございました。
「割れ窓理論」に関して興味深く読ませていただきました。私は塾の講師をしていますが、授業中に話をしている一部の生徒を放置していると徐々に全体がざわつきだし、対応が追い付かなくなります。しかし一律に言葉を発することを禁じては質問さえしづらい空気となり成績は伸びません。理由もなく押さえつけることによって一部からは反発され、また一部は出席しなくなってしまいます。それは適応できた人以外を「落ちこぼれ」と定義することにつながるのかもしれません。
難しいことではありますが、生徒の視線で考えるということは必要だと思います。
このことは社会全体に当てはめることができることであり、ただ一方からの視点では見えないことが多々あるのでしょう。互いに思いやれる社会へ向かえるよう私自身行動を見直そうと思いました。
こんにちは。先日あった北九州市立大学での講義を受けさせていただいた者です。「割れ窓理論」というのは、このブログで初めて聞いた言葉だったのですが、「なるほどなぁ、」と思わず頷いてしまいました。ちょっとした気配りや配慮が大事だというのはどんな時でもどんな場所でも同じなんだなぁ、と思いました。
普段の生活のなかで道にゴミが落ちていたり、あの人困っているのかな、と思うような場面に遭遇することがあります。しかし私は道端のゴミを拾ったり、困っている人に声をかけるという勇気はありません。それが「義務」ではなかったからです。
自転車に乗ったお爺さんのことを私はすごいとも思ったしかっこいいとも思いました。きっとそれは彼が「義務」として動いたのではなく、自発的なものとして動いたからだと思います。よい町をつくっていくのは「義務」としての行動ではなく、1人1人の自発的な行動ではないかな、と思いました。気付いたことを少しづつでも良くしようという行動がそこに住んでいる人たちの「義務」ではなく「責務」なのかな、と考えました。
こんにちは。先日、先生の講義を受けさせていただいた北九州市立大学の学生です。
「割れ窓理論」は授業の中で聞いたことのある言葉でした。そのときは、落書きを消していくことで周囲の治安も良くなるという事例でしたが、社会福祉にしても、上の彼岸花のことについても同じなのだと思いました。
お爺さんが割れ窓理論のような意図を持って行動したかはわかりませんが、彼が「義務だから」したのではなく、「自発的に」行動したことが重要だし、だからこそ格好いいのだと思います。
同様に、福祉社会においても、「義務だから、法律で定まっているから」ではなく、私たちがもっと周囲に目を向け、自主的に行動するということが肝心なのだということを痛感しました。
北九州私立大学の学生です。
地域社会で生きていく際に大切なことは、「守られる」ことばかりに注目するのではなく、同じ地域社会に住む人々と、どう支えあえるかなのだと、この記事を読んで感じました。学校教育や福祉・介護サービスの充実は、勿論望ましいことだと私は思います。しかし「落ちこぼれ」とは、学校教育や福祉・介護サービスによる「取りこぼし」です。人間は誰一人として、社会から取りこぼされてはいけません。頭で考えて計画されたただけの施策や取り組みでは、このようなことが起こります。生身の人間が、同じく生身の人間と寄り添って生きることが重要なのです。
「福祉国家」とは、福祉サービスが充実している国家のことではなく、地域住民が自分の尊厳をもって、他者の尊厳を守ろうとする自治の国家のことなのだなと、考えさせられました。
花が切り落とされた彼岸花の写真を見て、確かにこれはちょっとしたイタズラには思えないなと感じました。しかし私は、今回このようなことをしてしまった人が地域の人々の気分を害してしまったことを理解し、後悔し、以後そんなことをしない優しい人になってくれるならもう過去のことを責めようとは思いません。
そして、自転車に乗ってさっそうと現れたおじいさん…カッコいい。
ただそんなおじいさんにもこうであってほしいなという願望がありまして…それは紐を張る理由が単純に彼岸花を守るためであって、花を切った人に対する怒りと言いますか、もう切らせない!!!とか、なんかそういう気持ちの現れでなければいいなというものです。(実際、彼岸花を思いやってのことと思いますが)
こういう考えが浮かんでしまう時点で私自身嫌な性格をしているのかもしれません…ただ、他人が他人を否定ばかりする世の中にはしたくない、そう思う今日この頃であります。
まぁ、結局は誰もが小さい頃からいわれてきたことで、思いやる事が大事だってことだと思います。
彼岸花を無情にも切り落とすのは、許せない!と思いました。一方で、あのおじいさんの様な、自発的に地域に貢献している様子を見て、自分も見習わないといけないな とも思いました。
ブログで取り上げられている「割れ窓理論」についてですが、なるほど と思いました。みんなやっているから、大丈夫。とちょっと似ているなと感じました。この理論は負の連鎖ですが、もし、あのおじいさんの様な自発的な行動を見習う人が増えて、社会全体が徐々に良くなっていくような正の連鎖が広まれば、高齢者、障害者が住みよい社会になるのにな と思いました。
社会のおちこぼれを増やさないためには、関心を持って、自主的に行動することが大事だと実感しました。
私は、彼岸花の花びらを切り落とした人が許せません。「人間じゃないからいいだろう」と、見下しているように思えてならないからです。人間の単なるストレス解消の為に殺されてしまった花の運命を思うと怒りがこみ上げてきます。
人間という生き物は恐らく、自分は他の生物より高等だ、偉いのだと思っており、自分よりも下等な花の命など取るに足らないものだと考えているのだと思います。そうでなかったら、あんな非道なことが出来る筈がありません。しかし「命」というものに価値の違いがあるのだろうか、と私は考えます。人間も、花も、虫も、みんな同等の重みを持っているのではないのか。正当な理由(捕食など)なく他の生物の命を奪う権利など、誰にも与えられてはならないと思います。
現在も、命の重みを考えない不届き者たちによる非道な出来事は無くなりません。命を何だと思っているのか。「命」についての考えを見直していかねばならないと、私は強く思いました。
埼玉大学教育学部の1年生です。
彼岸花が切り落とされたという事件は、テレビのニュースで目にして大変心を痛めたのを覚えています。「割れ窓理論」の話を聞いて、河堤に杭を打ち、彼岸花を保護する紐を張ったお爺さんの行動が良かったと納得できたけれど、保護された写真を見ると、自然の中に咲いているという感じではなくなってしまったし、保護されなければ見ることができなくなってしまうのかもしれないと思うと何だか悲しい気持ちになりました。
さて、地域住民の安心、安全を作ることや、福祉の世界には自主的で自発的な取り組みに基づいてこそ効果的になるという話ですが、確かにそうであると思いました。
私は今インターンシップで、学生に自己啓発を促進するサイト作りをしていますが、この取り組みはまさにこの話に当てはまることだと思ったし、これから何をするにしても常に意識していかなければならないと思いました。
埼玉大学教育学部の一年生です。
「割れ窓理論」の話ですが納得致しました。
確かに、人はひとつの面だけで物事を考えがちな気がします。「この窓は割れてるから・・・」「ずっと放置されているから・・・」だから割ってしまってもいいだろう。というのは些か乱暴な考えだと思います。
それと同様に、彼岸花の話につきましても、大げさな例えになりますが、これが花ではなく動物であったなら?生き物ではないにしても、立派な木であったなら?その人は同じように毛や枝を切り落とすことをしたでしょうか。
そこには、自分よりもその花は矮小な存在であるとの無意識の優越感が込められているように思えます。
人が、自分自身もまた、自然の中のちっぽけな存在であるとの認識をすれば、もう少し世の中にやさしくなれるのではないかと感じました。
私の家の近くにも、白や赤の彼岸花が毎年たくさん咲きます。小学生のころ、かわいい花だと思って家に持って帰ると、母にひどく叱られました。その当時は、どうして叱られたのか理解できずませんでした。それ以来彼岸花をみると、切ってはいけない、厳かな花なんだと自分の中で意識するようになりました。少し彼岸花に対して恐怖心があったのかもしれません。大学生になった今、彼岸花をみると、昔のことを思い出し懐かしく感じます。そんな彼岸花が切り落とされる事件を知って、なんだかさみしく感じました。しかし、おじいさんの彼岸花の保護運動に感動し、たぶん切り落とした本人も深く反省したのではないでしょうか。また、割れ窓理論には、納得するとともに、人間の怖さを感じました。そんな中、おじいさんの行動が野に咲く彼岸花の命を救っただけでなく、彼岸花の保護運動をするおじいさんを見る周りの人にとてもあったかい気持ちを持たせてくれたのだと感動しました。このおじいさんみたいな人が増えるといいなと思いました。
彼岸花を切った人は何かしらの理由があって、花を切るという行動をしたのだと思いますが、その花を切った人は花を傷つけると同時に自分のことも傷つけていたのではないかと思います。
これは私の経験から考えたことなので、すべての人に当てはまるとは思いません。しかし私は、対象が人であろうと何であろうと、相手を傷つけることは同時に自分自身も傷つけていると思っています。
自分で自分を傷つけないためにも、地域の防犯、地域の人々のためにも、行動する前にまず自分で考えないといけないと思いました。
彼岸花を切り取った人の心情を考えても、良い理由は思いつきません。でも、こんなことを言ってはなんですが、これが本当に人でなくてよかったと思います。相手の心情からすれば、八つ当たりのような些細な理由かもしれませんが、違う人から見ればそれがおおごとである可能性もあると思う。「割れ窓理論」ではないが些細なことがおおごとにつながることが大いにあり得るのだと思います。そのつながる可能性を遮断したおじいちゃんはやっぱかっこいい!!
教育学部の1年生です。
割れ窓理論に関心を持ちました。
ちりも積もれば山となると少し似たような内容だと感じました。
何をするにしても、まずは小さなことから始めることが大切なんだろうと思います。
逆に、小さなことができなければ大きなことは出来ないのだと改めて考えさせられました。
先日、バイト先の人にも言われたことです。研修生はメールでその日の業務報告をしなければならないのですが、それを怠慢していた私に社員さんがおっしゃったのです。
彼岸花の話もそうですが、まずは個々人が気づき、気づいてなければ周りがフォローをしていくということで大きな何かが達成されるんだと思いました。
割れ窓理論…改めて言われると、確かに整備の行き届いてない路地裏などに放置された落書きの数をみると納得です。その話でふと思い出したのですが、逆にトイレをキレイにした学校での問題行為が減ったというお話をどこかで小耳にはさんだことがあるのですが、それもまた割れ窓理論と関係があるのでしょうか。
一番住みやすい国というのは、福祉制度がきちんと整備し発達している国だと聞きます。
彼岸花のおじいさんのように思いやりをもち、その思いやりを行動という形をもって表現できる人へと成長できるような、また、そういった心を育てていけるような地域や環境を今の子供たちに用意してあげることも大事ですが、そういった環境を作るためにも、国のほうでも福祉の面での制度を整えていってもらいたいです。
「割れ窓理論」に関しまして、公園内にちらばるゴミを公園内に設置してある、本来ゴミを集めるべき場所であるゴミ箱を撤去することにより解消されたというものを聞いたことがあります。本文では問題に対し、些細なことから解決をはじめ、いつしか全体が解決されることの良点問題点などが挙げられましたが、ゴミ箱を撤去することは「問題の根本そのものをなかったことにする」ということだと考えられます。ゴミ箱があることによって生じていた問題は表面上解決されましたが、何のために設置されたゴミ箱なのかを考えると疑問の残る解決方法です。問題に対してどのようなアプローチをとるのか。非常に大事なテーマだと思います。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。