「ユビキタス社会」だって?
これからしばらくの間、私にとって最悪の季節が続きます。それは私が低血圧だからです。午前中は45~68mmHg、午後になってようやく50~85mmHgなんて値が高校生の時から続いています。う~ん、夏場は辛い。これは間違いなく「何らかの疾患に由来する生活上の困難・不自由・不利益=障害」です。この時節に低血圧で苦しむ人は仕事から放免される制度的保障があってしかるべしとさえ主張したいところですが、わが国の制度と仕事の現実は、そうは問屋が卸さない。山のように仕事が押し寄せてきて、青息吐息です。
そのような中で、研究の必要から小型のノートパソコンを持ち歩かなければならないことになりました。携帯電話と併せて、ついに自分も「ユビキタス社会」の一員かと思いきや…。
「ユビキタス」とはラテン語に由来する「神があまねく存在する」という意味の言葉だそうです。ICTに関するユビキタス・コンピューティングという概念は、1988年にゼロックスパロアルト研究所のマーク=ワイザーによって提唱されました。それは、「生活環境のあらゆる場所に情報通信環境が埋め込まれ、利用者がそれを意識せずに利用できる技術」という意味だそうです。
携帯電話を上手く活用している学生の話を聞くと、必要な情報が「いつでもどこでも自在に入手できる」様子ですから、「なるほどユビキタス社会になりつつあるのか」と思わされてしまいます。たとえば、就職活動で都内の企業回りを精力的にこなす際には、交通機関の利用に料金や時間を最適化した情報を、目的の企業にたどり着くまでの道案内も人の込み具合も含めて最短時間となるルートを、それぞれ携帯電話から即座に入手できるそうです。パケット代も惜しまないのであれば、PCのメールチェックから様々なサイトへのアクセスもできますから、ネット上の情報はすべて入手可能ということになります。
それでも、「神があまねく存在する」というのはちと大袈裟ではないでしょうか。確かに、ICTには私も仕事の上で大きな恩恵を授かってはいます。さまざまな統計や行政資料は家に居ながらにして入手できますし、必要な図書資料も洋書を含めてすぐに探して注文できます。それでも、私にとってはPCなんて「通信・計算機能つきの文房具」(文房具にしては高すぎる!!)という域を超えるものではないのです。ネット上の情報には、「噴飯モノ」や「誹謗中傷」の類も垂れ流されていますし、仕事の上では労働密度を上げられて多忙さだけが重くのしかかるようになったという現実が、何よりも大きな社会問題ではないかと思います。
「就活」では上記の情報の程度でいいとしても、今流行の「婚活」の場合、「この相手はやめといた方がいい」との的確な情報が瞬時に携帯電話から入手できるのであれば、なるほど「神は遍在する」と納得せざるを得ないでしょう。
さて、研究の必要から「ユビキタス・コンピューティング」を目指して購入したB5ノートブックPCのセットアップに取り掛かりました。夏場の低血圧人間がいささか朦朧とした意識で着手したのです。するとお決まりのコースで、OSに始まり、Office2007、PowerPoint、ウィルスソフトのインストゥールとライセンス認証、パスワードと指紋認証の設定、無線LANへの接続、各種ソフトのアップデート等々が長々と続きます。この最中に2回のトラブルに見舞われた5時間あまりのセットアップに、研究室は「フビキタス(不備来たす)時空間、ビル・ゲイツという神が偏在(・・)する、怒!!」。
おかげで、血圧は正常値に上がりました。
コメント
宗澤先生の低血圧の話、とても驚きました。
私の兄も低血圧で、いつも朝が辛い、と嘆いていました。しかし、正直私はその嘆きを、朝起きられないだけの言い訳でしかないんだろうとずっと思っていました。
しかし、今回の記事を読ませていただいたところ、低血圧というのは私が思っていたものとは全く異なり、ひとつの障害として保証制度を要求したくなるほどのものだとわかりました。
私は兄に対する今までの態度をすまなかったと思うと同時に、こんなに身近なところに不自由な思いをしている人がいたのか、とショックを受けました。
家族の不自由ささえ気づけないということは、友達や先生など日々の生活のなかで接している人のなかにも、知らないところで苦しんでいる人が大勢いるの違いありません。
助け合い、支えあって生活しているその人たちとの関係を強めあい、もっと理解を深めなければならないと感じました。
宗澤先生が低血圧というのを知ってびっくりしました。いつも授業ではハイテンションなので…。
私は、先生とは反対に高血圧者です。薬を飲んだり色々と苦労しています。私にとっても夏は最悪な時期です。低血圧は貧血など大変な症状に悩まされている友達が私にもいるので、本当に学校や職場から保障される制度があるといいですね。
私たち高血圧者にも、頭痛やめまいに対して、もっといたわりの心が欲しいと思います。私は高血圧になって周りから、自分の不注意だと責められることがほとんどです。気持ちは分からなくはないけれど、遺伝でなりやすいのは、私のせいじゃないのよ!と常に叫びたい気持ちでいっぱいです。
もっとこれから、いろんな患者に対しての理解が広まり、お互い助け合っていけたらいいのにと切に願っています。
こんにちは。正直僕は障害の方や福祉関係に関心がないわけではないんですけど…今現在色々悩んでいます。でもこれから一生懸命頑張っていきたいです!!
「ユビキタス社会」というのはよく耳にしますが、「ユビキタス」にそのような意味があることは初めて知りました。
いつでもどこでも情報を入手できるということは一見大変便利なことに思いますが、それに依存してはいけない気がします。ネット上の情報がすべて正しいとも限らず、利用者はそれを信じ込んでしまう、といったことも起きかねないと思います。
これからますます情報化社会になっていくと思いますが、そのうよな弊害も考えつつ、情報との接し方を考えていかねばならないと思います。
蒸し暑い日が続いているなか、ご多忙のようで、お見舞い申し上げます。
ブログのタイトルを見たとき、「ユビキタス社会」という言葉を知ってはいても、意味を理解していないことに気付きました。先生のブログから「ユビキタス」の語源を知って驚きました。私にとってもPCはツールの一種であり、「神があまねく存在する」というには、少し大袈裟であると感じました。猛暑が続く中、自宅で情報を手に入れられるのは非常に便利ですが、自分の足で稼ぐ情報も必要であると思います。
教育の現場でも情報教育の有用性について、注目が高まっていると思います。子どもたちがPCの特性(長所・短所)を理解し、活用できるようになるには、指導者が取り扱い方を工夫すべきだと感じました。
先生のブログを読んで、いろいろと考えさせられましたし、勉強になりました。
ユビキタスという言葉は最近よく聞きますが、内容についてあまり知らないことに気付きました。
高校の携帯電話、現在はパソコンという伝達手段を使うようになり、現代の社会にはこういうツールが不可欠だと思いました。だが、こういうツールばかりに頼るのではなく、自分の目でみた情報を信じることも大切であり、そういうことを教えられる教師になりたいです。
確かに携帯電話やパソコンなどの情報機器を用いることで、たくさんの情報をすぐに手に入れることができ、とても便利ではありますが、自分も全くと言っていいほど使いこなせることができていないので、パソコンがあまり役に立っていないように感じます。
しかし現在、学校などではパソコンといったツールが使われていて、情報化しているように感じます。そこで教師を目指す者として今後パソコンの使い方を学び、「ユビキタス社会」の一員となるこで、授業等に活用し、効率的な教育ができたらいいと思います。
「ユキビタス社会」という言葉をこのブログを読んで、初めて意味を知りました。確かに今の時代は、携帯さえあれば大抵の情報がすぐに手に入り便利な時代だと思います。何か調べたい時もネット上で検索すれば知りたい情報がすぐに出てくるので、私もよく活用しますが、やはり本などに比べて信憑性の低いものも多いのでその情報は信じられるのかをよく考えてから利用するようにしています。
また便利になった半面、ブログにも書いてあったように仕事量が昔よりも増えるため、ますます多忙な人たちが増えているというのは私も社会問題だと思います。
自分はPC、ネットが生活のツールとしても無くてはならないものになっており、情報化社会の中にいると常々感じています。
「ユビキタス」の意味を知り、確かにPCは便利で重宝しますが「神があまねく存在する」というのは、言い過ぎな気がします。
自分は、ネットをよく利用する者としてネットの問題などはそれなりに知っています。これからもっと情報化社会は広がっていくことと思います。それは、便利になるだけではなく、問題が増えることも示しています。そのことについてもっと考えていくべきだと思いました。
「ユビキタス社会」という言葉は何度か聞いたことがあったのですが、その言葉の意味などを考えたことがなかったので今回初めて「ユビキタス社会」について考えることができたように思います。
携帯電話やパソコンでさまざまな情報をチェックする私もある意味では「ユビキタス社会」の一員なのかと考えさせられました。しかし先生のブログに書いてあるようにネット上にある情報というのはすべてが正しい情報ではないので、まずはその情報が正しいかを疑ってみることも「ユビキタス社会」の一員として必要なスキルなのかと考えさせられました。
またパソコンや携帯電話などを使いこなすことが社会人として必要になってしまった現代社会では「社会」が「人」に「ユビキタス社会」の一員になるように強制してくる側面があると思うので、その波にのまれないように、きちんと情報を判断する力、パソコンや携帯電話を使いこなす力が必要なのかと思いました。
ブログのタイトルをみて「ユビキタス社会」という言葉は高校でならったから意味はだいたい知っていたけど、このブログで「ユビキタス社会」について深く考えることができました。
先生が言っているように、僕も携帯でよく電車などのルート案内を使ったりします。それに今携帯のCMで「パソコンっぽい携帯」というようなキャッチフレーズの携帯も発売されています。僕はうまく利用していけば「ユビキタス社会」になることはいいと思っています。
ただ、気を付けなければいけないのが、情報社会が進歩すればするほど、その情報が悪用されたり間違った情報を信用してしまったりすることです。これからどんどん進んでいく「ユビキタス社会」とうまく付き合うために自分で必要な情報を取捨選択し自分の視野を広げていければと思います。
私は低血圧ではないので、先生のつらい気持ちは理解できないのですが、暑さに弱いので先生と同じくこの季節は私にとってもつらい季節です。
ユビキタス社会についてですが、携帯電話はかなり便利です。しかし、機械音痴の私には多少つらい社会のような気がします。ユビキタスの語源にビックリです! 先生のブログはいろいろな豆知識がのっていておもしろいです!!
私も、ニュースや天気予報、いろいろな調べものまで、インターネットを利用することが多くなりました。
最近はテレビのCMを見ていても、「詳しくはwebで」というものも多く、便利になったのだなあと思います。
でも、私の携帯電話はパケット定額料金ではないので、パケット代がかかるからと、ほとんど活用していません。
最近は、「詳しくは携帯サイトまで」というものも増えていて、持っているかいないか、使えるか使えないかで、自分の持ちたい情報が手に入るかどうかが決まるという状況を実感することもあります。やっぱり、「ユビキタス社会」とはいうけれど、「神があまねく存在する」とは言えないなと思いました。
低血圧はとても辛そうですね。長年それと付き合っていることにも驚きました。無理しないようにしてください。
パソコンは、確かに日常生活において必要なものになってきていると思います。ですが、神があまねく存在するというのは言いすぎであると自分自身思いました。
パソコンの普及・インターネットの普及によって、情報を手に入れやすくなったというメリットはありますが、情報が多すぎて正しいものがどれかわからなくなってしまうというデメリットもあるからです。
我々は、パソコンから得られる情報などを取捨選択するための知識を常日頃から得る努力をする必要があると改めて思いました。
「ユビキタス社会」は一見便利ではあるが、それにばかり頼るととても危険だと思います。今後の教育ではコンピュータの使い方や、危険性などを、しっかりと子供たちに伝えることが大切だと思います。
また好奇心旺盛な子供たちに「神があまねく存在」と説明するのも危険なことだと思います。子供たちが正しくコンピュータを認識する必要があり、求められていくと思います。
私も低血圧です。(先生ほどではありませんが...)これからの時期は本当に辛いです。バスや電車を待って立っている間でも貧血を起こしてしゃがみ込んでしまうこともあります。
世の中には生理休暇があるのだから、低血圧休暇も認めるべきだと思います!
近年よく耳にする、ユビキタス社会。あらゆる場所に情報通信環境が存在し、利用者が無意識に利用できるという。普遍的に情報にアクセスでき、瞬時に情報収集できるという点で一見優れた社会のように思える。しかし、本当にそう言いきれるだろうか。実際は遍く情報に翻弄されているだけなのではないか。
たとえば、携帯電話を例に考えてみたい。本文でも触れられてたように、ネット上すべての情報を手に入れられるという点で、使い方によっては確かに便利なツールだと思う。げんに私自身もよく利用するので、その有用性はよく分かる。
しかし、あまりの情報の多さから逆に選択の幅が狭まっているのも現実ではないか、と思う。つまりそれらしい上っ面の情報を手に入れたら、それでおしまい…。しかもその情報の信憑性すら確認しない、ということが実に多いように感じる。
ゆえに情報収集の意義をしっかり考えたうえで、情報に踊らされることなく、むしろ自己コントロールしていくことが重要だと考える。
情報化社会といわれてからしばらく経ちますが、今度はユビキタス社会。情報技術の発展のすごさを感じます。
身の周りがコンピューターに囲まれ情報が手に入れられる社会、人と人、人とモノがすべてつながっている社会。そのような社会が実現したら生活はとても便利になると思います。しかし、ネットワークが発達した現在においても、コンピューターを通してしか他者とコミュニケーションがとれない人がいると聞きます。ユビキタス社会が実現したらそういった人が増加してしまうのではないでしょうか。「便利さ」と「人間らしさ」をどう両立させていくかがこれからの課題になるのではと思います。
ユビキタス社会の意味は知っていましたが、語源はこのブログを読んで初めて知りました。
さまざまな情報が飛び交っているユビキタス社会。
その中から正しい情報だけをををいかに選択するかが、ユビキタス社会を生き抜いていくための方法なのではないでしょうか。
このブログを読んで、初めてユビキタスという言葉の意味を知りました。
現代の社会ではネットを用いればどんな情報でも手に入れることができて便利だと思います。
しかし、誤った内容の情報もあふれているなかで自分に必要な情報をうまく手に入れて、この「ユビキタス社会」を自分にとって有益になるようにうまく利用していくことがこれから必要だと思いました。
「神があまねく存在する」そのような意味が「ユビキタス」という言葉にあったということは今回初めて知りました。
僕は高校の時は特に携帯電話を使って、大学に入ってからはさらにパソコンもプラスしてよく情報収集などを行っています。
正直いってかなり便利な時代になったと感じます。確かに誹謗中傷などの問題点もありますが、それは心ない人たちによるほんの一部のことであると思います。ですから、せっかく便利な世の中になったのですから、遠慮なくその恩恵を多くの人が大いに受けていけばいいと思います。
僕もこれからも大いに利用していきたいと思います。
ユビキタスの語源や意味について知らなかったので驚きました。
携帯電話の普及率の高さからユビキタス社会という言葉がでてきたのかと思っていたらコンピュータも持ち運ぶことが当たり前の世界へと進んでいるのですね。携帯だけかと思ったらコンピュータもユビキタス化が進んでいることにまたまた驚きました。
携帯電話についている通信機能も日に日にその精度を急速に上げているように感じます。
携帯電話でインターネットだけでなくテレビまで見られるようになり、通信速度もあがりました。
道に迷ったり、何か知りたいことがあったりすると瞬時に携帯で検索し情報を引き出す友達にいつも驚きます。
情報化社会が進むと確かに便利で効率は上がるけれども、そのおかげで仕事が増え、自分の時間に余裕がなくなるのは問題だと思います。
情報に埋もれないように現実感覚を重視しユビキタスを便利な道具としてつきあっていきたいと思います。
「ユビキタス」という言葉と同時にインターネットが急速に普及して私が物心ついたときにはすでに当たり前のようなものになっていたと思います。現在では携帯電話でも通信できることから多くの人に親しまれていることと思います。
しかしその一方で、大きな危険も含まれていることを自覚しなければならない。個人情報の流出や出会い系サイトの危険性など、それこそ誰にでも起こりうることが身近なところにあります。
これらのことから身を守ることが我々消費者の責任でもあり、これからのユビキタス社会の課題でもあると思います。
先生の授業はパワフルなイメージがあったので、先生が低血圧と聞いて驚きました。
私も、中学生のころから異常な低血圧で、中学の健康診断では、毎回2~3度再検査にひっかかっていました。
朝がすごく苦手で起きられず、結果遅刻で呼び出されたり、推薦がだめになったり…。
親や担任になぜ遅刻をするんだ、と怒られても、低血圧のせいだなんて、絶対言えませんでした。言い訳をしていると思われるのがいやだったからです。
朝食も食べているし、適度な運動もしている。なのに低血圧が治らない。なんとかしたいという一心で、母親に相談しました。
そうしたら、とても活発な母親も実は、私に負けないほどの低血圧だったことがわかりました。
しかし、母親は自分なりに、低血圧対策を考え、実行していました。先生にもおすすめするのですが、低血圧に効くらしいプルーンを毎日とると、調子が良くなるようです。
それと、私は薄味好みで野菜大好きなのですが、低血圧の人にはそれはあまり向かず、適度な塩分も必要だそうです。
どんな人にも、悩みは必ずあると思います。
なんで私だけ、と嘆くのは当たり前ですが、やはりどんな状況でも、必ず対策法は見つけられるはずです。
障害者の方には、自分の障害をプラスに考え、明るく前向きに生きられている方が、たくさんいる気がします。
宗澤先生は低血圧なんですね!びっくりしました。
ユビキタスという言葉を普段よく聞きますが、意味をよくわかっていませんでした。しかし、この記事を読んでよくわかりました。神があまねく存在するというのは意味が深そうだなあと思いました。
『ユビキタス』という言葉はCM等で耳にしたことがあったのですが、その意味までは知りませんでした。
もし、「ユビキタス社会」=「生活環境のあらゆる場所に情報通信環境が埋め込まれ、利用者がそれを意識せずに利用できる技術があふれた社会」になったとしたら、より住みやすい社会になると思いました。
しかし、その一方でユビキタス社会の到来によってデジタル・デバイド(情報格差)や情報リテラシー(情報を効果的に処理する能力)の悪用の増加を促進するのではないかと思いました。
自分は、あまり機械が強い方ではないので情報格差が少しでも緩和されるように少しずつ慣れていこうと思いました。
実際に計ったことはありませんが私も先生と同じく低血圧だと思います。
毎朝起きるのが苦痛でしかたないです。
低血圧で苦しむ人は仕事から放免される制度的保障にはおおいに賛成です。
さすがに無理ですけど。
ユビキタス社会ですが、確かに今は携帯電話やパソコンがあればほとんどの情報は手に入りますね。
しかし私は携帯は電話とメールだけ、パソコンはほとんど使いこなせないのでユビキタス社会に乗り遅れてます。
ユビキタス社会(大げさなのかもしれませんが)をまねくものとして、ブログには「携帯電話}が一部取り上げられていましたが、この携帯電話は障害者や高齢者の生活にとっても大きく貢献したのではないかと考えます。
一般的に、携帯電話には電話機能とメール機能がありますが、メール機能は聴覚障害のある人に大きな影響を与えたと聞いたことがあります。
今までは遠くの人と情報を交換したり、交流する際には「電話」が主流でした。
当然、聴覚障害のある人にとっては電話機能は特に意味をなすものではありません。
しかし、携帯電話のメール機能の登場によって、聴覚に障害がある人でも、視覚を頼りにして遠くの人と情報の交換ができるようになりました。
また、自分の携帯電話では(他の携帯電話がどうなっているかはよく知りませんが)、数字の「5」、「通話ボタン」、「電源ボタン」に点字のようなものがあるため、視覚障害者であってもボタンの位置関係さえ覚えてしまえば、携帯電話を利用して簡単に遠くの人と情報の交換ができるのではないかと思います。
最近では、高齢者向けに「かんたんケータイ」というものも出てきましたし、携帯電話の普及は障害者や高齢者の生活に大きな影響を与えていると思います。
記事を読む前の低血圧というものについての理解は「朝起きるのがつらい」程度にしか理解していませんでした。
しかし、この記事を最後まで読んでみると、私が思っていた以上に低血圧というものは日常の生活に支障をきたすようなものだということが分かりました。
私自身は低血圧どころかむしろ高血圧気味なので朝起きるのがつらいだとか、まして日中にまでだるさが残るなんてことは考えられません。
さて、近年急速にユビキタスな世の中になってきているとは言いますが、それに伴って、私たち自身も知識をつけなければならないと思います。
インターネットを介しての情報収集は確かに便利ですが、信頼性に欠けるという理由から、今も昔もあまり利用しないようにしています。できれば書物やその方面の知識のある人の言葉から見つけるようにしています。
インターネットを利用する場合は、必ずいくつかのサイトから確認をして、本当に正しい内容なのかを吟味するようにします。
それとは別に情報収集でも、交通ルート検索に関してはとても便利になったと感じています。
数秒で電車の最短ルートを検索したり、値段が安いルートを探したりととても便利だと思います。ユビキタス社会に生きるならば、手に入れた情報の信頼性を考えていかなければいけないなと、記事を読んで再認識させていただきました。
初のコメントです。よろしくお願いします。
「ユビキタス社会」の功と罪について考える時、今回のブログ内容のように、良い面では必要な情報がいつでもどこでも手に入れることが可能となり、個人の生活がより便利になることや情報伝達の効率化することがあげられ、悪い面ではプライバシーの侵害、情報発信者の倫理問題や情報漏洩が起こることがあげられます。またこのような課題は十分予想できる範疇でありながらも、解決を見出すのが困難な現状があることは、専門者でない私にもわかります。
私はこの「ユビキタス社会」に大いに期待することは、医療の発展です。実際、遠隔操作による外科手術の実用化は既に始まっていますが、医師不足が問題となる社会で、優秀な医師による手術は、患者となりうる私たちにとっては神の救いの手のようなものだと考えます。
実際には必要な資材や薬品不足、国、病院、銀行の資金繰りや個人の負担する金額など、問題となることは多く、法の規制から、実際には海外に渡らないと手術が行うことができない等、実現を妨げる問題は幾つもありますが、重要性は極めて高いと思います。
逆に私が最も危惧することは、情報化社会で必然的に起こりうる、権力の階層化です。情報化社会はすなわち管理社会であるといえること、利用者は知らずのうちに管理下に置かれプライバシーの権利の喪失のみならず、すでに管理下に置かれること。またこのような情報の管理は一部の限られた組織に管理されていること。情報戦において、どれだけ量を多く、迅速に情報を得るかで優劣の決まる社会において、圧倒的な権力の差が生じることが予想されます。
少し誇大化が行き過ぎましたが、私は警察国家となりつつある現状で、今一度国民の意思の反映される社会となることを願います
こんにちは。
低血圧の方は大丈夫ですか? 私の父親も低血圧なのですが、毎朝チョコレートを少し食べています。先生も体調には気をつけて頑張ってください。
さて、ユビキタス社会についてですが、私もニュースで今、ユビキタス社会になりつつあると聞いたことがあります。
ここ何年間かで、ネットが急速に発展し、誰でもネットさえあれば簡単にすぐ知りたい情報が得られるようになりました。
確かに、ネットの最近の機能はとても便利で、私たちの生活をより快適にしてくれていると思いますが、中には必要のない情報であったり、間違った情報があったりします。
そこで大事なのは情報の取捨選択であり、これができればさらに有効にネットが使えると思います。
私もネットの情報には注意しながら、有効活用していこうと思います。
この記事を読み、「ユビキタス」の本来の意味を初めて知りましたが、大げさという感覚は否めないと思いました。
常に情報を得られるという利点は素晴らしいものであるとは思いますが、結局その情報を得たところで処理(理解)し、利用するのは人間であり、全てを行ってくれるわけではないのですから、神とは言い難いのでは?と感じます。
これだけ情報機器が発達し、中には操作方法が難解で利用することが難しいものが存在しているという現状ではそれを利用できる人間とできない人間の格差(デジタル・デバイド)が生じるのは当然で、これはもはや障害といってもかごんではないとすら思います。
お話のキーワードはフビキタス。小生も造語して使っていましたので、嬉しかったです!
技術に依存する人の煩悩がフビキタス社会の発展を同時に創造するこでしょう。技術(指)が来たす(もたらす)功罪即ちこの世の光と影。使う側の知恵のバランスを正しく会得した人間創りが最優先。下手をすると・・・多くの事象でヌケキタスや社会的なツミキタス、更には全人類ホロビキタス・・・を大変危惧しております。
「ユビキタス」という言葉が「神があまねく存在する」という意味であるとの記述、非常に面白いと感じました。
駅のホームや交通機関において、ユビキタス社会を形成する一員である携帯電話をぐりぐりといじっていない人間のほうが珍しい社会になりましたね。
常に誰かや何かととつながっている社会。
私には非常に気味悪く感じます。
記事にはいくつかそうした社会の一員となることで得られる有用な情報の例がいくつか挙げられていますが、私にはユビキタス社会に属する人間全てが「本当にそれらの情報が必要だから」携帯などを利用しているようには見えません。
なんとなくの暇つぶしに、何かからの逃避に、孤独ではないという意識の充足に、ただネットで自己を主張したいが為に……。
あまねく存在する神が私たちに与えたのは利便性の加速だけではなく、手軽に自己を拡大してしまえる環境と自己を過剰なほど慈しむ無気味な聖域であるように思えます。
これが、神が偏在する社会なのでしょうか……
インターネット環境の発展に伴い、ユビキタス社会の実現が出来て便利な世の中になることが大半かもしれません。今、日本でもこれだけインターネットが普及している時代ですから、インターネット環境のさらなる発展に違和感を覚えないこともあるかもしれなせん。ただ、私がここで述べたいことは、「何らかの事情でインターネットなど通信機器が使用出来なくなった場合、その人はユビキタス社会からの断絶を余儀なくされるのではないか」ということです。
実際、私は大学生になるまでインターネットを使用する環境が無く、何か調べたいときやサービスを受けたいときにインターネットを使えないことによるある種の「疎外感」を覚えたことがあります。私の場合はインターネット環境を整えればよかっただけなのですが、場合によって整えたくとも整えられない事情を抱える人もいるはずです。
そのような人たちのことを今の情報化社会は考慮しているのでしょうか?そのような人たちにとっては今後の社会はそれこそ「フビキタス社会」になってしまうのではないでしょうか?
インターネット環境の発展に伴い、ユビキタス社会の実現が出来て便利な世の中になることが大半かもしれません。今、日本でもこれだけインターネットが普及している時代ですから、インターネット環境のさらなる発展に違和感を覚えないこともあるかもしれなせん。ただ、私がここで述べたいことは、「何らかの事情でインターネットなど通信機器が使用出来なくなった場合、その人はユビキタス社会からの断絶を余儀なくされるのではないか」ということです。
実際、私は大学生になるまでインターネットを使用する環境が無く、何か調べたいときやサービスを受けたいときにインターネットを使えないことによるある種の「疎外感」を覚えたことがあります。私の場合はインターネット環境を整えればよかっただけなのですが、場合によって整えたくとも整えられない事情を抱える人もいるはずです。
そのような人たちのことを今の情報化社会は考慮しているのでしょうか?そのような人たちにとっては今後の社会はそれこそ「フビキタス社会」になってしまうのではないでしょうか?
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