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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

わが子を愛することはたやすいことではない

 全盲のピアニストである辻井伸行さんが、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝されたとの報が飛び込んできました。もうすごいですね。これまで、辻井さんの演奏をテレビで視聴しただけでもぞくぞくしましたが、生演奏だとさぞや、と想像してしまいます。
 全盲の方がピアノを弾くことにはさほど困難はないと思います(2008年10月16日~11月6日付本ブログ参照)が、国際コンクールで優勝することは「たやすいことではない」。心からおめでとうございます。ぜひとも、生演奏を聴きに行きたいと考えています。

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 さて、今週の本題に移ります。
 大人どうしの男女の愛をめぐるはかなさや難しさについては、古今東西、さまざまな文学や映画等で語り継がれてきました。これに対して、親の「わが子を愛すること」の難しさはタブー視されてきたのではないか?―自らの子育てを機に、このような問題意識を抱いたのは、フランスの教育学者ジョルジュ・スニデルスです(ジョルジュ・スニデルス著『わが子を愛することはたやすいことではない』(湯浅慎一・細川たかみ訳)、法政大学出版局、1985年)。
 私には、ある発達心理学者の著した「自分の子育て体験記」を読んで、その「卑下慢」調にげんなりした経験があります。私がそのように受け止めざるを得なかった原因は、その体験記にある「子育て」が行われた時代性や客観条件(保育所の制度条件、住まい、労働、所得等)を全く相対化せずに体験話を進める点にあり、子育てをめぐる条件がより厳しくなった後の時代に生きる親の立場からは、「あんたが大将!」と叫ぶほかありませんでした。
 それに対して、スニデルス氏は、自己自身の親としての戸惑いと難しさの率直な表明から議論を始めます。簡単に言えば、多くの親は「わが子を愛している」と事もなげに言いがちですが、「それほんま? 結構難しいことと違いますか?」という疑問をテーマに据えたのです。

 スニデルスの考察は、広大かつ深淵です。19世紀において植民地の黒人・召使・民衆・女性等が子どもと同一視されてきたような近代社会における「子どもの位置づけ」の検討、キリスト教における原罪の吟味、ドンズロのいう「避難場所としての家族」やアリエスの「家族への郷愁」は家族が「支配・監督のための手段」となる問題点の指摘、フロイトからメラニー・クライン、ドナルド・ウィニコットにいたる精神分析の検討によって親子の愛情における両面価値性に見出される可能性の考察等々。
 この本の要点として私の理解するところは、次のとおりです。
 まず、親子関係に「支配―従属」や「搾取―被搾取」という今日の社会秩序にみる関係性を所与のものとして持ち込まず、「複製しない」ことが大切です。そのためには、慈しみあい育みあうという、人の人に対する「愛」を継承する基礎的単位としての親子の可能性が、矛盾の連続するプロセスの中にあって、所与の社会秩序に適応するだけではなく、新しい社会制作をともにするあり方にかかっている―「われわれの意図と夢との共通の場としての現在と未来が、わが子と私自身の前に開かれる」という実践的展望が重要となります。
 このようにして、本書の射程は、「わが子を愛することはたやすいことではない」というタイトルを越えた「大人の子ども・青年に対する責任」にまで及び、先行世代の次世代に対する責任のあり様と重みを明らかにしているように思えます。

 本書は、子育てのノウハウを提示するようなものではなく、あくまでも教育哲学を論ずる理論書です。また、原書が1980年に著されたことから、異性愛主義にもとづくロマンティック・ラヴとそれに基づく近代家父長制の問題等、近代社会とその家族に内在する問題の検討がなされていない点は、今日からすると時代の制約を免れないでしょう。

 しかし、日本の親子の現実は深刻です。
 たとえば、精神医学の領域からは、家族や親子の問題指摘が数多くなされています。香山リカ『親子という病』(講談社、2008年)、斉藤環『母は娘の人生を支配する』(日本放送協会出版、2008年)、町沢静夫『「子供がいちばん」はやめなさい』(海竜社、2000年)、斉藤学『子供の愛し方がわからない親たち』(講談社、1992年)等々、どの本のタイトルも一瞥するだけで、「親になる」ことを尻込みしたくなってしまいます。臨床の一線で活躍される精神科医の先生方は、日本の親子の抱える息苦しさや矛盾の病理的に煮詰まった問題状況を整理して指摘されています。
 私を含めて「学校の教師」という立場にある人たちは、児童・生徒・学生の中に困難を見出すと、ときとして「親の顔がみたい」「責任者出てこい」と言いたくなるような心の運びから必ずしも脱却できていない弱さをもっているのではないでしょうか。
 また、このような親子の息苦しさの広がる現実は、わが国が里親制度の土台を欠くか不十分であることを意味するため、里親による社会的養護の発展にも暗雲たちこめているということができるでしょう。
 何よりも大切なことは、「親を責める」(したがってまた「教師を責める」)だけでは私たちが次世代に責任をもつことには決してつながらない点です。今日の親子と教育に存在する息苦しさを解放するための社会的な手立てとアソシエーションの広がりをゆたかにすることによってしか、未来は拓けないと考えます。
 ここではまず、親子を閉じられた単位とするのではなく、地域の多彩な関係の中に位置づけなおすことが構想されなければなりません。そうして次に、子どもたちを一元的な価値尺度からの評価に追い込んだり、それと対をなすアイデンティティ競争に駆り立てるのではなく、子どもたちそれぞれの固有の価値が尊重され、差異に応じた潜在能力が実現できるような人の慈しみ方と諸条件をみんなでつくり上げることが問われているのだと思います。


コメント


「わが子を愛することはたやすいことではない」という題名でしたが、自分もまさにその通りだと思います。最近増えている虐待の問題などがそう考える理由です。
しかし、親子関係に「支配-被支配」の関係はないほうが良いとありますが、多少の支配ならあってもいいと思います。なぜなら支配されているということは守られているという見方もできると思うからです。


投稿者: 部長 | 2009年06月15日 00:52

最近わたしは母親と今までの母親の苦労について2時間くらい話をしました。小さな頃からうちには様々な問題がありました。そして、母親の苦労話には驚かされることがとても多くありました。結論は子供に対する愛のためにここまで頑張れたということでした。苦労に苦労を重ね、苦労の子育てをしたのでしょうか。今、本当に愛を感じました。この話を聞いただけで人間形成したような気がしました。


投稿者: We want goal | 2009年06月15日 23:32

私は今まで「虐待」と聞くと、100%親が悪いという考えを持っていました。私は子供が好きでまた、まだ自分の子供もいないので現代の子育ての大変さもわからないからかもしれません。ですが、今「わが子を愛することはたやすいことではない」時代が来ている事実と、親を責めるだけでは解決にならない事実があるのだと知り、私の考えが浅はかであることがわかりました。問題を解決するには、その根っこにある社会ごと変えていかなければならない、大変な作業ですが絶対に無視できないことですし、やらなければならないことだと思いました。


投稿者: トト | 2009年06月16日 14:35

 私も地域関係の多彩な関係が現代の虐待を解決する一つの方法だと思いました。また、逆に地域関係の軽薄さが虐待を起こす一つの要因になっているのかともおもいました。
 自分はアパート住まいですが、同じアパートに住んでいるひとのことについてほとんど知っていることがないし、お話しするような機会もほとんどありません。こういった事態が虐待だけでなく、その他の諸問題を引き起こしているのかもしれません。このような身近な関係から改善するのが一つの解決策なのだと思います。


投稿者: 志士 | 2009年06月18日 02:43

 親子を地域の多彩な関係の中に位置づけなおすことは、私も重要だと考える。
 というのも閉じた空間内では、有限的な成長しか望めないからだ。たとえば、学校を例に考えてみたい。そこにはたくさんの友達や先生から、様々な体験をすることができる。
 一方、家などの閉鎖的空間にこもってるとするとどうか。言うまでもなく、得られる情報量には限りがあり、たいした成長も望めない。
 したがってコミュニケーションを通じた相互理解をはかると同時に個々が人間的に大きく成長するためにも、みんながひとつとなって地域を作り上げていく姿勢に私も賛成だ。


投稿者: JunJun | 2009年06月24日 22:47

 「わが子を愛することはたやすいことではない」
 心のどこかで「そんなわけないだろ、自分の子どもはかわいいに決まっている」と思っていた自分がいました。
 しかし、このブログの内容を拝見させていただいて、今までとは違った考えを抱くようになりました。親子関係に「支配―服従」といった関係が生じてしまうことは仕方ないことだと思っていました。そういった考えは日本では特に根強く残っている(というよりも主流)ように感じます。
 そのような中で、大人は子どもに対して十分に、また積極的に「責任」を持とうとしてこなかったようにも思えます。さらにそれに対する周囲の大人、あるいは行政などの支援が十分でないようにも思えます。
 まとまりませんが、「親子」という関係にもっと目を向けていかなければならないのだと感じました。


投稿者: くまさん | 2009年07月01日 14:48

 たしかに親が子供を愛することは加減や場面などたくさんの難しい点があると思います。そうして親が子どもの愛し方がわからなくなったとき、紹介されていたようなアドバイス本を読んだり、自分ではない誰かに責任を押しつけたりするのだと思います。
 しかし、アドバイスを与えてくれる本を読もうとしている親はいい方で、本当に危険なのは自分の子育ては間違っていないと思って突き進んでいる親なのでは?
 自分の子育ては合っていると考えている親は、もし子供との仲が不和になったとき、学校や社会福祉に対しての不満をもらしはじめるのではないかと思うのです。
 人はなるべくマイナスなことに出会わないようにするのが性です。
 親になった時には、スニデルス氏のように自分の持つ不安さと真っ向から向き合えるようにありたいです。


投稿者: ぽれぽれ | 2009年07月07日 23:55

 「わが子を愛することはたやすいことではない」というブログの題を拝見させていただいたとき、私も「そんなはずはない。」という考えをもっていました。しかし、改めて親子関係を振り返ってみると、親の言うことは絶対であるという考えが家庭に存在することは事実です。最近の傾向として親たちは、わが子が思うようにならないと、学校や社会のせいにしていると思うのです。私は、子どもたちの成長過程において親・学校もですが、それを支える社会が大きく関わってくるのではないかと考えています。従って、宗澤さんもおっしゃっていたように、子どもたちの個性や内に秘められた能力を引き出すことを可能にするためにも、社会的な手立てとアソシエーションの広がりをゆたかにするとともに、みんながひとつとなってそのような環境を作りあげていくことはとても大切だと思います。


投稿者: すごもりたまご | 2009年07月08日 14:08

 「我が子を愛すること」は簡単なことだと思っていました。実際、子どもとべったりの親は増えてきているように思います。子どもに投資する親も多くいます。
 でも、この記事を読んで、その「子どもを愛する」ことの本当の意味は何だろうと思いました。子どもにいろいろと投資することは、親にとって、本当に子どものためを思って、行われているのかもしれません。しかし、親の地位や名誉のため、あるいは親の自己満足というふうにも捉えることも可能だと思います。
 「我が子を愛すること」の姿は、他者が一瞥しただけでわかることではないように思います。いろんな事情があって我が子を愛せない人がいます。一方で我が子を愛しているように見せている人もいます。
 愛されない子どもをどうするか。愛されない子どもを支えていくのは地域社会が果たすべき役割だと感じます。地域で深いつながりを持つことが必要で、近年、それは不足しているように思います。


投稿者: ずずっこ | 2009年07月13日 16:28

 私は「子供を愛すること」は、当然のことだし、自然のことだと思っていました。
 しかしこのブログを拝見させて頂き、必ずしもそうではないことが分かりました。
 自然に子供を愛することができれば、虐待なんて起きるはずないですもんね。親も一人の人間、子も一人の人間である限り、どちらも尊厳されるべき人権があります。このことを考えると、どちらの方が偉いなんてことはないのですね。
 日本の社会において、親子が抱える問題をいつでもキャッチし、解決できるような救済的ネットワークづくりの確立が重要だと思いました。


投稿者: cassy | 2009年07月13日 23:35

 今までは「当たり前のことが当たり前でなくなっている」と漠然と感じていました。しかしこの記事を読み、「はじめから当たり前ではなかったのかな」と思いました。
 自分の子供とはいえ、一人の人間には違いありません。まだ結婚すらしてない自分が知ったようなことを言うのも気が引けるのですが、24時間365日自分のことを好きではいられないのだから、常に「わが子を愛することはたやすいことではない」ことはなんとなく想像がつきます。親自身も一人の人間です。間違えることもあると思います。
 親が悪いとか、制度が悪いとか、地域のつながりの薄さが原因とか、専門家ではない私にはよくわからないけど、きっといろんなことが絡みあって今の現状があるのだと思います。
 踏み込みにくいテーマではあるけれど、だからこそ目をそらしてはいけないテーマだとも感じました。


投稿者: miyou | 2009年07月15日 12:49

 初めまして、こんばんわ、宗澤さん。
 「わが子を愛することはたやすいことではない」というタイトルが気になって読ませていただきました。
 このタイトルを見たときは、自分の子どもだし、本当に愛することは難しいことなのだろうかと疑問を持ったのですが、よくよく考えてみれば、親が子どもを殺すといった胸が痛むようなニュースを目にすることがあります。
 それを考えると、宗澤さんの言われていることは決して間違いないのではと考えさせられました。
 これには何かしらの問題が根付いているのだと考えます。
 それも簡単なものではなく、いくつもの難しい要因が絡み合っているのでしょう。
 これを解決するためには、その家族だけで解決するのではなく、社会一体となって問題に目を向け、解決させなければならないと感じました。


投稿者: Eternal | 2009年07月19日 21:38

 家族というものについて多く考えさせられました。
 家族というものは、一個の独立した集団であると考えてしまいがちで、その中でおこることは外にはうまく伝わらないことが多くあると思います。親も、”我が”子を愛していてもそれをうまく伝えられなかったり、”我が”と思うばかりに自分の思いを託しすぎることも多くあると思います。
 親も1人の人間であり、子も一人の人間であるということを認識しないといけないのだと思いました。母性愛という言葉とか、こどもへの愛は当然生まれるものであるという考え方を、今一度考え直していかなければならないと感じました。


投稿者: 四ツ木 | 2009年07月21日 16:46

 「わが子を愛することはたやすいことではない」というタイトルを読んだときは、その言葉に反対しました。
 でも内容を読んでいくにつれて、自分の考えに自信がなくなっていきました。「愛し方がわからない」という言葉は、確かにそうだと思うし、自分自身が考えることが多々あります。そして、親の子に対する愛情表現はさまざまであり、自分の目から客観的に見て「親が子を愛しているかいないか」を考えてはいけないと思いました。
 また、「親の顔が見てみたい」という言葉は、日常使いがちでしたが、このブログを読んで、親を一方的に責めてはいけないのだと思いました。客観的な見方は他者の親子関係においてタブーなのかもしれないと考えさせられました。


投稿者: 梨 | 2009年07月29日 06:51

 私はこのブログを読んで、親が「子供を愛すること」の難しさを感じました。
 いくら口頭で子供を愛しているといってもそれが形となって表れるのはやはり時間のかかることだと思いますし、なにより親がたとえ行動に移したとしても、それを子供がどうとらえるかで親の愛情表現も良し悪しが分かれるところだと思います。
 私の母親は、私が小さいころにある程度私を殴打したりしましたが、それはビンタ程度であり、今になればそれは母の私に対する愛情表現なのだと思います。子供に評価されてこそ伝わる愛情表現ですが、私が親となったとき、子供に伝わる形で愛情を表現したいと思います。


投稿者: velum | 2009年07月29日 12:39

 「わが子を愛することはたやすいことではない」この一文は、現在子育て中の私にとても複雑な思いをもたらしました。
 確かにわが子はとてもかわいくていとおしくてかけがえのない存在です。しかし、育児をするということは、これまで自分の人生にだけ責任を持てばよかったことが、社会を構成する人間を新たに作り出すという点において、その責任を負わなければならないのです。この「わが子を愛する」という言葉は、ただ可愛がる、慈しむということだけではなく、親としての責任も内包しているからこそ、「たやすいことではない」と言っているのだろうと思いました。
 いつか、すべての親が本当の意味で「わが子を愛することはたやすいことだ」と言えるような社会になり、虐待や育児放棄などの問題がなくなることを願って止みません。


投稿者: 愛 | 2009年12月25日 01:21

 初めてコメントさせていただきます。
 私も「愛する」ということは、とても難しいことだと思います。
それは、「親子」という関係性が薄弱だからということももちろんあると思います。
 今は、色んなものに溢れていて、「自分」のために生きている人も多くいます。
 「まずは自分、子どもは二の次」なんて親も日本中を探せばいるのではないでしょうか。

 優しくし過ぎるとそこに甘えが生まれ、厳しくし過ぎるとそこに寂しさが生まれる。
 人間関係は、その中でちょうど良い距離感をつかむのが難しいのだと私は考えています。
 だから、今も愛すべき我が子を虐待してしまう親がいるのだとも考えます。
 私は、両親のもとで育ったひとりの「こども」として、「わが子を愛することはたやすいことではない」ことについて考えていきたいと思います。


投稿者: 航 | 2010年01月04日 12:29

 先日、北九州市立大学で宗澤先生の講義を拝聴させていただいた者です。
 私は、虐待は親として、人間として、最低な行為だと認識しています。ですが、虐待の背景には多くの問題があり、一慨に親を責め立てることが問題解決にならないのだと学びました。子どもが被害者であるように、親もまた被害者なのかもしれないと考えました。
 しかし、社会が悪い、環境のせいだとばかり、形のないものに責任を押し付けるだけというのもなんだか違うような気がしました。
 子どもを産む際には、親はどんな荒波にも負けないという強い意志を持たなければどんなに良い環境がそろっていようと、結局同じ結果が待っているのではないかと考えます。虐待で苦しむ子どもがいなくなる日を心待ちにしています。


投稿者: ココチ | 2010年01月04日 18:42

 こんにちは。北九州市立大学の学生です。
 私は今までテレビ等で虐待のニュースを聞く度に「なぜ自分の子にこんなことが出来るのだろう」とその親を非難していました。しかし、今回の先生の講義を聴いて、どのような虐待が行われたか、という結果だけでなく、誰がどのような状況で虐待に至ったかに目を向けることができました。
 確かに日本ではまだまだ「子育ては母親の仕事」といった認識がありますし、母親の死後は他の男性が財産を継ぎに戻ってきます。また、社会福祉のサービスも十分ではないし、私たち一人ひとりの意識も低い。
 このように様々な要因から虐待は起こっており、虐待者が悪いというよりも、むしろ虐待者をそのような状況に追い込んでしまうような日本の社会システムはまだまだ不十分だと考えました。
 障害者に関する虐待防止法と共に、これからこのような事件を少しでも減らせるような整備がされていってほしいと思いました。


投稿者: ぶっち | 2010年01月05日 15:37

 私はこのタイトルを読んで心がズキッとしました。私は将来子どもがほしいです。思いっきり子どもを愛して幸せな家庭を作りたいと考えていました。
 でも、子どもを愛するといってもそんなに簡単なことではないですよね。子どもを愛していると親が言ってもそれが本当の愛ではなくただ自分のものとしてかわいがっているだけということも現実にあっている。支配的な愛。最近はブランド物の高級な服を着ている子どもをよく見る。そういう子を見るとなにかむなしい気持ちになる。
 子どもが幸せになることを考えているのではなく、遠まわしに子どもがこうしてくれれば自分の評価につながり親が幸せになる。本人が意識はしていなくてもそういうことは起こっていると思う。なにが本当に子どもにとって幸せなことかを考えなくてはならないと思う。


投稿者: 豚たん | 2010年01月08日 12:43

 宗澤先生のおっしゃるように、親子を地域の多彩な関係の中に位置づけなおすということは、虐待を防止するうえでも、とても重要だと思います。
 去年、知的障害児自立支援施設が主催するレスパイトに参加しました。私があずかった子のお母さんはとても明るい方で、事前に私に、口頭でその子の好きな遊びや絵本を教えてくれていたのですが、パニックを起こした時の対処法などを書いたメモも渡してくれました。それがすごく詳しく、また分かりやすく書いてあって、大変驚きました。それを見たときに、お母さんがその子をどれほど想っているか、そして、どれだけ努力をしてこられたのかと思ったのです。
 私にとってはこのレスパイトがきっかけでしたが、親子を地域の多彩な関係の中に位置づけなおす過程では、コミュニケーションの場がもっと必要なのではないかと思います。


投稿者: なな | 2010年01月12日 00:42

 私もこのタイトルが気になり拝見しました。私もわが子を愛することは当然だと思っていました。
 しかし、よく考えると子育ては親の考えに基づいてなされています。このことによって、親が自分の子だから支配してもいい、意見を押し付けてもいい、躾の為だといって子に体罰を加えていいと考えることに関連している気がします。 
 親の考えにのみ頼る子育てではなく、学校や地域の中で様々な年代の人々と関わり、親と子が共に育っていくことの出来る環境が子育てを様々な角度からみることができ、親も子もより深みの増す人間になれるのかもしれないと思いました。
 わが子を愛することは、親としての自然な感情だけで支えられているのではなく、子育ての中で発生する問題に真摯に向き合い乗り越える努力と様々な人間に支えられていることに気付くことも必要なのかもしれないと思いました。


投稿者: 福 | 2010年01月13日 17:53

  わが子を愛することはたやすいことではないからこそ、親と子の問題がここまで表面化しているのでしょう。「子どもを愛することは普遍の事象」といった一般的な考えがある一方で子どもを愛することが出来ず苦しんでいる親は多くいます。また、愛しかたを間違っている親はそれ以上に多いように感じます。
私と母親の関係は、表面的に見れば何の問題はないのでしょうが、私自身は子どもの頃から現在も母親との関係に違和感を持って生きています。その原因のすべてが母親の私への愛しかたにあるとは思いませんが、その部分に何かを感じずにはいられません。しかし、この記事を読み母親の立場になり考えると、彼女もわが子を愛することの難しさを感じていたのだろうと推測できます。愛しかたに正解はありませんが、不正解はあります。その間違いに気づき、修正していくことが親子関係において重要なのだと思います。


投稿者: 0530ST | 2010年01月15日 00:51

 こんにちは、北九大の学生です。
 異性や友人を愛するように、子どもを愛する事も容易い事ではないと思いました。
 誰かを愛する行為は、愛すべきだと脅迫概念から生まれるものではありません。同じように、子どもは「愛する存在」であって、「愛すべき存在」ではないと思います。愛するのが当たり前と認識し、思いつめる事が、更に愛するのを困難にする事もあるのではと思いました。
 そして、誰かを愛するとき、自身の状態、周りの環境が大きく関連していると思います。心にゆとりがなければ、愛することは難しいです。子どもを愛するのも、同じです。自身の状態、周りのサポートがあってこそ、愛する存在になるのでは、と思いました。
 そのため、昨今の近所付き合いの低下や核家族化、親に関しては経済状況等、問題の多い状況は、愛するという事を遠ざける要因の一つではないだろうかと思いました。


投稿者: かわ | 2010年01月15日 12:58

 前回ブログの続きです。

 そしてそのような「マニュアル」が、家族の関係の在り方にまで用意されてしまっているように感じます。
 親の立場、子の立場というようなものが用意され、それに自分たちを当てはめなければいけない、という一種の強迫観念があり、その「理想」と自分が立っている「現実」との間に齟齬を感じ取ってしまう。
 そうなったとき、数十年前であれば自分自身の親や、ご近所付き合いの中で形成された人間関係の輪の中で、相談し、解決へ導くことも可能だったかもしれないけれど、核家族化が進み、地域社会が脆弱化してしまった現代ではそれさえもできない親(や介護者)が多く存在していると思います。
 そして袋小路に追い詰められ、閉ざされた家庭環境の中で、蓄積されたストレスは家庭の中…子どもや被介護者へ向けられてしまう。そのようにして、どうしようもない苦悩の末に虐待につながってしまうケースも間違いなく存在します。

 もちろん、虐待を肯定するわけではないのですが、虐待を行った人を、その行為でもって全否定してしまうのも違うと私は思っています。その人に寄り添い、ケアをしてあげることが出来るようなネットワーク…つまりは地域社会の再構築が必要不可欠なのだと思います。「自分なり」の「我が子の愛し方」を見つけられる社会が求められているのではないでしょうか。


投稿者: MK | 2010年01月16日 00:00

 埼大の学生です。最近、同い年の親友が女児を出産し、自分が親になったらどうなるんだろうと「子育て」について考えるようになりました。
 子供嫌いな親友でしたが、自分の子供は可愛いと思うと言っています。それを聞いて私は、「わが子なら自然に愛するようになるのかな」と思いました。しかしこのブログでの「わが子を愛することはたやすいことではない」という全く逆の主張からすると,彼女にはこれから「愛せなくなる」ときがくるということでしょう。
 私が彼女の子と遊んでいるときに「この子が自分の子だったら」と想定してみました。しょせん他人の子なので絵にかいた餅ですが、「愛せなさそう」な気がします。少なくとも今の自分にとっては、色々な自己実現の足手まといだな、と感じられました。おそらく、私は自分の子から何らかのメリットを得たいのでしょう。つまり、子供を支配して自分にメリットのある存在に育てた上で、そのメリットを得たい(搾取したい)と言い換えられそうです。
 この考え方は、私が無意識に「今日の社会秩序にみる関係性を所与のものとしてもちこんだ」結果なのでしょうか。人は自分に得のないことはあまりしません。それでもなお従来の関係性を複製しないことは可能なのでしょうか。支配も搾取も自分へのメリットです。
 先生のブログからすると、慈しみ・育み合いにメリットを見るように強いて努力することが大切だということだと、私は理解しています。今日の社会秩序はあまりに自己中心(メリットがほしい)的だから、言うなれば「関係中心」的(自分と相手との関係にメリットを見る)になればよいということなのだと思いました。


投稿者: ゆん | 2010年02月03日 12:47

 「我が子を愛することはたやすいことではない」このことはよくよく考えてみると、その通りだと思います。実際、児童虐待や子が親を殺すという事件は今日も後がたちません。また、親自身が子を愛していると思い込んでいても、親子関係に「支配―従属」や「搾取―被搾取」という関係性があれば、子は親の愛を愛として受け取っていないということが少なからずあると思います。
 私の場合は、親の愛にとても恵まれて育ってきたと思います。小さいころから、周りの子どもたちとは決して比較することもなく、あなたはあなたなんだからということを言って育ててきてくれました。また、どんな失敗をしても頭ごなしに怒ることもなく、私と同じ立場でむきあってくれ、無理に期待をかけることもしなかったので、私は自由にのびのびと育つことができたと思います。両親には頭が上がらないくらい感謝しています。
 確かに、親が子を愛することは簡単なことではないですし、子が親の愛を愛として受け取ることも簡単なことではありません。しかし、親が子に一対一の立場で向き合い、子に対して心の底からの愛情を持っていれば、どんな形であれ、最終的には子どもに愛は必ず伝わると私は考えます。


投稿者: 58号 | 2010年02月03日 18:40

 「わが子を愛することはたやすいことではない」…本当にその通りです。
 確かに親からみれば、子供は自分と血のつながった人間。母親の立場から見ればおなかを痛めて産んだ子です。でも、そう簡単に「愛する」ことはできないです。幼い子供は、まず親の言うことをなかなか聞きません。余計なことをたくさんして親の仕事も増やします。目が離せないし、自分の時間を奪います。
 そしてもし自分が憎んでる人間と血のつながりがあったら…もしこれが知らぬ他人だったらとっくに人は怒ってるでしょう。自分の子供だったら…そこはなんとか我慢する。「だって自分の子供だし」「可愛いし」…でもそれはきついだろうなあと私は思います。
 確かに子供は可愛い。でも、いろんな理由からどうしても子供を憎みたくなる、そういう板挟みになったしまう親が多いからこそ、「虐待」が起こってしまう。
 親だから子供を愛するのが当然だなんて私は考えてません。他人よりは愛しやすくなるかもしれませんが、やっぱり「自分」以外の人間なんです。
 やっぱり最後は「自分」になるのではないかと思います。
 わが子を愛している、なんて簡単に言わないでほしい。嫌ってもいい、憎んでもいい、いろんな気持ちを持って子供と過ごし、最終的に「愛する」ことができると思います。その「愛する」はきっと口には出せない心にしまっておくものだと思います。「愛」を押し付けない気持ちが「愛する」ことなんじゃないかなあと思います。


投稿者: 雲雀 | 2010年05月31日 23:09

 子供を愛しているというのは親としての大前提であると思っていましたが、ブログを読んでそれは違うと考えが変わりました。
 確かに子供の行動は理解を超えるものも多く、たまに会うのなら可愛いばかりでも、毎日顔を合わせ、またその子の将来に責任を持って育てていかなければならないと思うと、その責任はものすごい重圧だろうし、イライラすることもあるだろうし、可愛いだけではやっていけないと思います。
 私は親に愛情いっぱいに育ててもらいましたが、祖父や祖母からの支援、また保育園や学校などの環境があってこそだと思います。
 子育てというのは家庭という小さなコミュニティーだけでやっていくには責任が重過ぎると思います。上手に地域からの支援を利用し、みんなが幸せな家庭でいい親子関係を築いていければいいなと思いました。


投稿者: ぺたんこパンプス | 2010年06月02日 16:03

 このブログを読み、改めてわが子を愛することは本当に難しいと思った。子どもを愛しすぎても子どもは甘えるし、だからといって興味を持たないとネグレクトになってしまう。
 「支配ー従属」という親子の関係は、親を絶対的な存在としてみることになってしまい、虐待されても自分が悪いと思い込んでしまったり周りに訴えることができなくなってしまうと思うので、私はそういう関係は築きたくない。
 また虐待において親だけを責めることだけでは解決できない今、昔のように地域とのつながりを密にし、周りが虐待に気づき家族を支えることが大切だろう。


投稿者: YG | 2010年06月10日 14:17

 「我が子を愛することは容易いことではない」
 この言葉は一見間違いのように感じる。自分が望んで産まれた新しい命(家族)をどうして容易に愛せないのか?と疑問に思ってしまう。しかし、それは単なる偏見であるということを知った。
 子育ては大変だ、とよく聞く。今まで自由だった時間は全て子供に対して注がれ、夜もうかうか寝ておられず、また子供はただ泣くだけで何を伝えたいかなんて育児初心者の人には分からない。頑張っても頑張っても「親なんだから当たり前でしょ」の一言で片づけられ、周りは自分を褒めてはくれない。そうして親はどんどんストレスが溜まっていき、爆発する。
 「虐待」と聞くと親などの加害者だけが悪いように私たちは捉えがちである。しかし、虐待をしてしまったほうにもきちんと理由があるのではないか。全然分からない子育てにおける不安や苛立ちを受け入れるのに現代社会は制度が不十分だから、現在も多くの虐待が存在するのではないかと思う。親族や友人といった身近な人だけではなくて、社会全体が理解し親を守るための制度などを形成していく必要がある。
 「子供を愛することは容易いことではない」というが、子供はやはり親に愛されたいし親もまた子供を愛したいと思っている。社会はこのように思っている人たちの気持ちを無駄にしてはいけない。そして、親と子供の両方を守っていかなければいけない。


投稿者: チーズグルメ | 2010年06月25日 14:53

 わたしは、はじめ「虐待は親が悪いに決まっている。そもそもわが子を虐待する親の気がしれない。」と思っていました。しかし、これを読んで、わが子を愛することは容易いことではないのだと、考えを改めさせられました。わが子を愛したくても愛せない親や、根本的に愛せない親など、親にも様々な事情があるために、一概に親は子どもを愛するものだと決めつけてはいけないのだと思いました。
 また、そのような親のためにも周りのコミュニティを作ることはとても重要なことなのではないかと考えられます。苦悩を抱く親を、周りが支えて、一緒に子どもたちを育てていくことが大切なのではないかと思います。そのような環境は、現代の日本ではなかなか作りにくくなっていると思うけれど、地域が一丸となって努力をしていくことが大切なのではないかと思います。


投稿者: あとむ | 2010年06月27日 20:07

 現代の家族の在り方について考えさせられました。
 家族が地域から孤立することで、親が閉塞感などからストレスや交流がないことで完全に子育てに縛られているような感覚を強めることなどにより、虐待というものが生まれてくるのではないかと感じました。
 特に最近では自分の故郷を離れ暮らす人が増えてきているので、地域との交流が少ない家族も増加していると思います。
 そこで地域での催しで交流の場を設けることで地域間の交流を深められるようにすることも虐待解決の1つの糸口になるのではないかと思いました。


投稿者: お~い粗茶(微糖) | 2010年06月30日 10:57

 虐待は親の責任だ、と言われがちですがやはり親だけの責任ではないのだと思いました。
 スニデルス氏の『わが子を愛することはたやすいことではない』という言葉は衝撃的でしたが、愛したいと思っていても周囲の状況によってできないこともあると思います。
 仕事関係のトラブルなどから起こる心的負担が、愛すべき子どもに虐待となって現れてきてしまうこともあるでしょう。
 愛することのできる環境や配慮が整ってなければならないと思いました。
 虐待の改善策としては、すべてを親の責任にしない、地域・社会で相互理解をして協力しあう、などが考えられます。
 しかし、日本は血縁に縛られていて、里親の理解が薄いのです。
 まずは日本の家族関係の在り方について、見直すきかっけを作らなければならないと思いました。


投稿者: みん | 2010年07月07日 08:44

 私は、どの親も当然「わが子を愛している」と思っています。
 たしかに、子育ては大変だと思います。私はまだ学生で親になったことがないから、このように言えるのかも知れませんが、どんな親だって絶対に「わが子を愛している」というか、そうであってほしいと思います。みんな本当はわが子が大好きで愛しているからこそ、悩んだり、苦しくなったり、どうすればいいのか分からなくなってしまうのではないでしょうか?
 愛しているからこそ、どう表現してよいのか分からなくなって、間違った形で表してしまう人がいるのではないか。私はそんな風に思います。
 もちろん環境なども大切だと思います。記事にもあったように、地域とのつながりは私もとても大事だと思うし、そのつながりが昔のようにしっかりあれば、親は1人で考え込み、間違った形で表したりせず、周りの人々に支えられながら、しっかりと子どもとの関係を築けていくことが出来るので、地域環境はとても大切であると思います。
 これから、そのような環境が整ってほしいと私も心から思います。そして1人でも多くの1人で悩みを抱えている親が減ればいいなぁと思います。


投稿者: はかたっこ☆ | 2010年07月12日 21:23

 「わが子を愛することはたやすいことではない」
 そう言われると、本当だろうかと疑問に思います。
 私が自分の両親を見る限り、子どもに不満や要求を持っていても、愛することを大変だと思っている様子を見ることはできません。たしかに、世の中には人の数だけ家庭もあり、感じ方もそれぞれではあると思いますが、私は愛することを大変だとは思いません。それは私が両親から十分な愛情を注がれて育っているからだと思います。

 私が考えるに、愛することを困難であると考える人は、愛された経験があまりない人なのではないでしょうか。「虐待」と私たちはひとくくりにまとめてしまうことが多いですが、虐待を行ってしまう人の中には、愛されたことがないために愛する方法が分からず、また自分の思い通りにいかないが故に虐待という方向に向かってしまうことがあるのかもしれません。

 もちろん、虐待を肯定する訳ではありませんが、虐待を行う人すべてが暴力的であると考えてはいけないと思います。


投稿者: 悠 | 2010年07月14日 00:54

 私はどの親も愛情を持って子育てをしているとは思っていませんでしたが、現状を知り、やはり子供を愛するのはたやすいことではないのだと再確認しました。
 日本は閉じられた家庭で親が支配する関係が強いと感じます。もっと行政や教育現場が家庭に介入し、虐待を未然に防ぐことが必要だと思います。
 また、妊娠した時点で、虐待を防ぐような取り組み、子育てに不安を持ったときにすぐに相談ができる駆け込み寺のようなところが必要であると考えます。


投稿者: ぴーこ | 2010年07月14日 15:07

「わが子を愛すること」は当然のことだと思っていました。人の子さえとてもかわいらしく思えるので、ましてわが子ならば愛さないわけはないだろうと思い込んでいました。しかし、育児では、自分は自由の身になれる時はない、外の世界と接する時間が少ないなどの要因でいらいらの矛先が子供に向いてしまうこともあるということを今回気付かされました。だから私は「わが子を」常に「愛することはたやすいことではない」だと思います。
そして子どもを愛せない、正しく教育をできないといったことの責任を親にだけ負わせるのは間違いだという宗澤先生の意見に賛成です。むしろそういった社会の風潮こそが、「虐待」を深刻化させているのだと思いました。親子関係だけを特別視するのではなく、さまざまな関係の一つ一つを大切にし、また次の世代への責任を全員が背負っているという自覚を持つことが必要だと思いました。


投稿者: あみ | 2010年07月19日 00:30

 親も一人の人間ですし、「わが子を愛することはたやすいことではない」というのは、わからなくもありません。だからといって、現在問題となっている、育児放棄や虐待をしても仕方がないとは決して思いません。やはり、親にはわが子を育てるという責任はあると思います。
 しかし、子どもは家庭の中だけで生きているわけではありません。この記事にもあるように、「親(教師)を責める」ことで責任を回避しようとする大人はたくさんいます。子育ては、親の責任かもしれませんが、親「だけ」の責任ではないと思います。
 子育ての中では、親は自身の欲求を捨てなければならないことも多々あるでしょう。家庭の中の親子関係という、閉ざされた狭い空間の中での子育てでは息がつまります。そうではなくて、親が抱えている困難にも目を向け、親への支援を含めて、社会全体で子どもを育てていくという意識や制度、関係をつくっていかなければならないと考えます。


投稿者: チロル | 2010年07月19日 22:04

わたしは子供をもったことがないのですが、親は子供がかわいくてしょうがない、子供が嫌いな親なんていないと思っていました。しかし、このブログを読んで、必ずしもそうではないと知りました。
 子育てをしていく中で、親と子が「支配―従属」の関係になってしまうことが多いと思いますが、そうならないほうが良いと感じました。


投稿者: キャサリン | 2010年07月20日 13:41

親が子を絶え間なく愛し続けることは難しいことである。お互い人間なのだから相手(子)に苛立ってしまうことがあると思う。そのときにその苛立ちを発散させる場所があれば虐待は未然に防げるであろう。たとえば近所の人々や地域センターで話をきいてもらいアドバイスをしてもらう等。
どんなに子供を愛していても時にその愛情表現が間違った方向に向いてしまうことがあると思う。そのときの対処方法を皆で考えていけばよいと思う。


投稿者: ピンクシート | 2010年07月20日 13:50

ヴァンクライバーン国際ピアノコンクールで優勝された辻井さんの生演奏を聴く機会があり、優勝して帰国直後のコンサートに行ったことがあります。私は目を瞑って美しい音色に耳を傾け、最後には涙を流しました。彼の才能や感性や努力、そして彼を支えてきた環境が整った最高の状態で優勝できたのだと感じました。
私も幼いころからいくつかの習い事をさせてもらっていました。練習が辛いのも苦しいのも楽しいのも全て自分ひとりで経験しなくてはならないことから、私だけの力でどうにかやってきたと勘違いしてしまっている自分がいました。そんな時、私の習い事に対して滅多に口を出さない母が習い事をズル休みした私をこっぴどく叱り、頭を叩いたことがありました。叩いてからすぐに母は私に泣きながら「ごめんね、ごめんね」と謝り続けていました。一方叩かれた私は突然のことすぎて拍子抜けしてしまい声も出ませんでしたが、そのときを境に、私はいつも誰かに支えられて応援されているから頑張れるんだと意識するようになりました。私を叩いた当時の心境を母に聞くと「とっさに手が出てしまったけど、叩いてからは手だけではなく胸が締め付けられるほど痛かった」と言っていました。このことから、虐待をしている親は、きっと叩いたり殴ったり蹴ったりしていながらも、どこかで胸を痛めているのかなと考えてしまいました。もちろん虐待はあってはならないことです。だからといって事情も知らずに子供を擁護し、親を非難するのは何かしっくりいかない気もしました。
私自身、幸いにして虐待には無縁だったため感じたままでしか考えることが出来ませんが、私が親になったとき、わが子をどれだけ愛することが出来るのかについて、明確な答えを出せないと思いました。


投稿者: なぁたん | 2010年07月21日 02:05

虐待に関する事件を聞くと、我々第三者は親を責める。それは当然のことだと思う。なぜなら、日本のメディアは集中的に加害者である親を責めるような報道をするからだ。また、我々は被害者である子供に同情の念を抱き、心を痛める。しかし、それはその時だけ。私たちは次の瞬間には何事もなかったかのように自らの生活を始める。そうしてまた次の虐待の事件が起こった時は「またか」といったような感覚を受ける。家庭によって様々な事情があり悩みがある。なぜ同じような事件、悪者は親だと我々は決めつけてしまうのだろう。
私を含めた人々が、自分を基準において物を考えすぎてしまう傾向にあるからだと思う。
虐待の問題は本当に難しい。けれども私たち第三者が無関心であり続ける世界では虐待はなくならないのではないかと考える。


投稿者: BLUE | 2010年07月21日 15:41

社会の包摂性が失われ、希薄になっている昨今において、親自身に子育ての責任が集中してしまうのは仕方ないことだ。よって、この問題を解決するには社会構造を見直し、共同体として一個人を位置づけしなおそうという先生の意見はもっともだと思う。
親の「子供への愛情」の表現は、親の数だけあるわけで、虐待の方向へと向かってしまうことも考えられる。それを回避、対処できるだけの人間関係、社会構造を構築することが大事だと思う。


投稿者: あずにゃん | 2010年07月22日 13:17

 今まで私も親が子供を愛するのは当然だと考えてきました。しかし「わが子を愛することはたやすいことではない」のですね。単純に親だから、当然。との自分の考えは浅はかなこととを知りました。
 虐待と聞くと私も含めて多くの人々がおそらくまず親を責めるでしょう。テレビなどの報道からもそう思わせるような報道の仕方を感じます。しかし、親だけを責めてはいけないのですね。その家庭にはそれぞれの事情があり、またそういった親子が地域とつながることができたり何かの手助けを受けられるような環境を作るべきなのですね。虐待を受けている子供だけでなく虐待をわが子にしてしまっている親も苦しんでいるのだと思います。そういう困難をもつ親子が少しでも問題を解決できるような社会の一員になるために、他人事として構えるのではなく、私達はもっと虐待の事実について学ぶべきだと考えました。


投稿者: はちさん | 2010年07月25日 15:36

私は親子の間での虐待というものが理解できませんでした。
道路で好き勝手に遊んでいたりする子供を見ると「親の顔が見てみたい」と思うことがありますが、
そのような思想が知らぬ間に、子供は親のものであるという考えにつながっているのですね。


投稿者: ゆずコーン | 2010年07月25日 23:06

「わが子を愛することはたやすいことではない」ということは、やはりまだ実感としては分かりませんが、最近頻繁に虐待のニュースがながれているのをみて、子供を愛することができない親が増えてきているのではないかと思うようになりました。虐待の行われていない家庭ですら自分の子供を憎いと思うこともあると思われ、自分が想像している以上に子を愛するというのは難しいということは感じます。また、親子関係に「支配-従属」「搾取-被搾取」の関係をもちこまないということは、私は今まで当たり前のことだと思っていました。しかし、よく考えてみると、親が子供の職業を決めてしまったり、子供に無理やり言うことを聞かせようとしてしまうなど、程度の差はあっても親が子供を支配しているというのは少なからずあり、このようなことは日本ではもはや慣習のようになっているように感じます。この意識を変えていくために親と子がそれぞれを尊重できるような社会を作っていくことが大切であると思いました。


投稿者: のあ | 2010年07月26日 21:43

 「わが子を愛することはたやすいことではい」。そう言われると正直子育てが怖くなる。僕はまだ子を持つ立場にはありませんが自分の子供は絶対に愛せると自信を持っていた。もっと言えば教師を目指しているので、他人の子供でも愛せると考えていた。しかし考えてみると難しいことかもしれない。親と子と言っても個と個の関係。嫌なところも必ずあるだろう。子供にとって親がいやなときがあるように、親にとって子供が嫌なときがあって当然かもしれない。そうすると親になることの難しさ、教師という仕事の難しさを少し感じてしまう。
 「しつけのつもりでやった。」虐待のニュースでよく聞かれる親の話だ。報道されたときの状態からは「それはないだろ」と思ってしまうが、はじめは本当にしつけ程度だったのかもしれない。それがいつの間にかエスカレートしてしまい、家庭という閉ざされた環境の中で誰にも気づかれることなく進行してしまうのかもしれない。本当に愛していれば叱ることはしんどいことだろう。しかし親の責任として強くいかなければならない、叱らなければならない時は必ずある。だからしつけには愛が必要なのだろう。その愛がいつの間にか暴走して、虐待になってしまうのだろう。男女間のDVはまさに愛情の暴走だろう。そこにもわが子を愛することの難しさがあるのかもしれない。最初は愛していたが気づいたら・・ということである。
 愛の難しさを考えさせられました。


投稿者: ぴと | 2010年07月27日 22:51

私は今までニュースや新聞などで虐待の話を見聞きするたびに、「どうして自分の子どもにそんなことができるのか」と疑問に思っていました。というのも親は自分の子ども当然だと思っていたからです。しかしながら、『わが子を愛することはたやすいことではない』という子育ての厳しい状況を知って、周囲との関係の希薄化という環境の中で自分のように「親は子供を愛して当然」と思っている人の存在が、わが子を愛せずに悩んでいる親をより孤立させてしまっているのではないかと思いました。子育てを地域全体で行うと共に、人々の子育てに関する認識を変えていく必要性を感じました。


投稿者: あひる | 2010年07月27日 23:09

自分の子供を愛することはたやすいことではない、ということを考えたことは今までありませんでした。しかし、子どもを愛するのは当たり前ならば、頻繁にニュース等で取り上げられている虐待という問題はあり得ないことだと気づき、衝撃を受けました。私が思ったのは、虐待が起こる原因として、親は子どもが憎いだけではない、愛し方が分からないというのもあるのではないかと感じました。子どもと親の意思疎通が、まずは何より大切なんだと思います。


投稿者: ぴー | 2010年07月27日 23:29

「わが子を愛することはたやすいことではない」、最近の虐待の報道などを見るとまさにその通りだと思います。

わが子の愛し方がわからない親、などと言いますが、本当に自分の子供を心から愛せている親は一体どれだけいるのでしょうか。
また、自分も含めて「虐待なんてもってのほかだ!」などと糾弾する人がいますが、その人が虐待を100%しないと、どうして言い切れるでしょうか。

経済状況の悪化や、ストレス、これまで過ごしてきた環境など、見まわしてみれば要因となりそうなことは沢山あります。
周りの人が親を責めるなどということをしたら、さらに悪化してしまうかもしれません。

地域の中で子供を慈しみ育てていく。現代ではなかなか実現しにくくなっていると感じますが、それが出来れば親の負担も減り、確かに虐待も少なくなるだろうと思います。


投稿者: らんと | 2010年07月28日 00:46

私はずっと、自分の子どもを愛していない人はいないと当たり前のように思っていました。でも実際は違っていたのかもしれません。自分の子どもなのに愛せない、愛したくてもどうしたらいいかわからないという気持ちになってしまう人もいて、それが虐待につながってしまうのだと思いました。特に、虐待されていた人が親になったとき、愛し方が分からなく虐待してしまう、ということをよく聞きます。この悪い連鎖を止めるためには、親子だけで解決しようとするのではなく、周りにいる多く人とコミュニケーションをとっていくことで、わが子の愛し方をわかっていけるのではないかと思いました。


投稿者: きょん | 2010年07月28日 02:39

 このブログを読んで、親が子を愛する難しさをはじめて知りました。今まで私は親が子を愛するのは当然と考えていましたが、その考えが間違いであったということに気づかされました。
 虐待で悪いのは親だと思いますが、親だけを責めていても解決にはならないのだと思いました。虐待苦しむのは子供だけでなく、虐待をやめられない親も苦しんでいるのだと思います。虐待を親子だけの問題にしないように、もっと親子と地域社会のつながりを作る必要があると感じました。社会の助けを必要としている親子はたくさんいると思います。


投稿者: しゅしゅ | 2010年07月28日 06:19

>>「親の顔がみたい」「責任者出てこい」と言いたくなるような心の運びから必ずしも脱却できていない弱さをもっているのではないでしょうか。
教師という立場になくても、こういったことを思う場面は多々あります。飲食店の中であったり電車の中であったり。
でも、これは子どもがある意味で、親の所有物であると思ってしまっていると思います。
しつけがなってないとか、そういうことを言われた親が、最終的に体罰による支配で子どもをおさえつけてしまったり、最悪、虐待にまで繋がってしまったりと親を取り巻く環境は良いとは言えないと思います。
まず、そういった環境づくりから始めて、社会的思想の変革等、課題はたくさんあると思います。


投稿者: ぬー | 2010年07月28日 11:02

「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉は、私は少し信じられませんでした。この記事を読むまでは、自分の子を愛することは当然だと思っていました。
しかし、親も一人の人間、親にも様々な考え方があります。頭ではわかっていても、子どものことを憎く思ってしまう事もあると思います。でも、だからと言って虐待をすることは絶対にあってはならない事だと思います。最近では地域とのつながりも薄れ、一人孤独に子育てをせざるを得ない親も数多くいます。悩みなどを相談することもできず、虐待がエスカレートしてしまう事もあります。なので、もっと地域の人々との関わりをもち、共に相談しあい、支えあい、親と子が共に育っていくことの出来る環境を作っていく事が出来れば良いな、と思いました。
 また、自分の子を愛するがあまり、親が子どもを支配したり、考えを押し付けたりケースもあります。過干渉な親も増加しています。いくら親だからといっても意見を押し付け過ぎてはいけないと思います。子どもだって一人の人間、人権は尊重すべきだと思いました。


投稿者: セナ | 2010年07月28日 12:42

わが子を愛することはたやすいことではない。私はこの記事読んでみるまで、自分が恵まれた環境で育ったこともあり、そんなことがあるなんて考えたこともなかったし、なぜ虐待をする親がいるのか理解できませんでした。しかし、この記事を読み、親も人間であり、全てを親の責任にし目を背けることをしてはいけないのだと思いました。家という閉鎖空間の中に親子を閉じ込めてしまうのではなく、親戚、近所の人たち、行政が手を差し伸べることも虐待を防ぐために重要なことなのではないでしょうか。


投稿者: シヲ | 2010年07月28日 12:55

親と子の関係はとても難しい関係で、親がどれくらい愛情を表現するかによって、子の人生が全く違うものになると思った。自分では大切にしていると思っていてもそれが虐待であったり、それを避けるためにおもいきり子を大事にできなっかったりとバランスが難しい。そのため親が親だけで子を育てていくのは危険で、ほかの地域の人や親せきなどによるサポートがとても重要である。でも親は親で他人によるそのようなものに対して、良い風に受け取るかは疑問だと思った。


投稿者: amy | 2010年07月28日 16:49

今まで親がわが子を愛するということは当たり前のことだと考えていましたが、この記事を読んでその考えが間違っていることに気づかされました。しかし、多くの人がわが子を愛することを当然だと考えている日本では子供をうまく愛せないなどの悩みは相談のしにくいものだと思います。
普段から地域や親戚などでコミニュケーションをとり、社会全体として孤立させない、子育てのしやすい環境づくりの必要性を感じました。
また、現在は友達親子という友人関係のような親子関係もあります。親のおしつけや支配することだけでなく親に対する敬意や尊敬の消失にも問題があると思います。親子という形にさまざまな関係がある現在、一人の人間として親と子供が向き合うことが大切だと思いました。


投稿者: たら | 2010年07月30日 18:59

 最近は核家族化が進み、子育ては主に父母だけで行うようになってしまっていることにプラスして、近所や地域の人たちとの関わりが薄れているため、子育てを自分だけでやらなくてはならないという気持ちになり、また、地域や学校等でも自分には関係ないう感覚が生まれてしまうのだと思います。
 もっと周りも一緒に子育てをしていける環境を作ることが大切だと思います。
 しかし、今の世の中の感覚がある限りそれはたやすいことではないと思うので、自治体が積極的に親子と地域が関わりあえるような行事などを広めていくという大きな方面からや、友達間等の身近なところに考えを広めるなどの身近な方面からなど、さまざまな方面から取り組んでいく必要があると思います。


投稿者: TAKUYA∞ | 2010年08月01日 13:22

 親子関係に「支配-従属」「搾取-被搾取」の関係を持ち込まない、複製するべきではないと言うことですが、この親子関係においてあるべきではない「支配-従属」の境界線が正直よく分かりませんでした。
 親が「この子のために」と考えて、子供のしたいことや遊びを制限させるのも「支配-従属」の関係になってしまうのではないでしょうか。たとえそれが子供の身を守るためであってもいけないことなのか・・・いろいろと考えさせられました。


投稿者: きょーこ | 2010年11月24日 15:37

 わが子を本当に愛することは非常に難しいと思います。子供からすると、やりたい事や興味あることは非常にたくさんあって、どうしてもやろうとしてしまいます。親は制止しますが、それは子供を愛するため。
 しかし、子供を愛するがゆえに子供に何もさせずに、親が面倒を見すぎると子供にとって良くない。親は子を愛するがゆえにどうしても支配しようとしてしまう。でも、親子関係に支配関係を持ち込むのは良くないという。それでも、私は親子の支配関係はある程度は必要だと感じます。
 でも、この私の考えは、地域の関わりが薄い現代で育ったせいかもしれません。地域が子供を見守る環境が整えば、親子の支配関係に頼らずとも、子供を愛し、かつ、元気に育つことができるのかなと同時に思いました。


投稿者: フィジカル | 2010年12月21日 22:54

 愛するとは何なのか、考えさせられました。母親でも、妊娠期間が長く自分のおなかを痛めて産んだからといってすぐに子をかわいいと思えるのか。父親は出産しませんし、里親なら血がつながっていません。しかし子どもを持てば教育を受けさせる義務や、その子が社会で生きられるようにしつける責任も生じてきます。そのような責任を感じた時に、親は自分にその責任が果たせるのかどうか不安になるのではないのでしょうか。
 町やテレビでは、親子で遊びに出かけたり、家で談笑したりと楽しそうな様子をよく見かけます。確かに、子どもの好きなことをさせて楽しませてやることも子どもを想ってのことであると思います。
 しかし、子供と過ごす時間のすべてが楽しい時間とは限りません。善悪やマナーを知らない子供にしつけて教えなければならない親には、底知れぬ苦労があると思います。子どもがなかなか言うことをきかないことなどで親は子供に対してだけでなく、子どもをコントロールすべき存在であるができていない自分の情けなさにストレスが生じるのではないかと思います。その繰り返しで「自分は子どもを愛していないのではないか」と思うのではないでしょうか。
 しかし一般的に親は子供を愛することが当たり前という形になっています。その「普通」のことができないと自分が異常だと思われたくないばかりに、相談しづらくなっていると思います。ですが、しつけは子どもが社会で生きていくために必要不可欠なものであり、子どもを愛しているからこそ行っているのだと思います。
 ですから、親が自分で「子どもを愛せていない」と思ったとしても、元をたどってみると子どもへの愛情への裏返しなのではないかと思います。


投稿者: コモンタイム | 2010年12月29日 17:03

 最近、私のいとこが結婚し、子どもが生まれ、「親子」という言葉が以前より身近に感じられるようになりました。
 私が中学生や高校生だった頃は、親子関係は強力で深いものであると感じていました。しかし、ここ2,3年で親の子に対する虐待のニュースなどを、よく目にするようになり、「親が子どもを愛するのは当たり前」だと思ってたことが、そうは思えなくなってしまいました。
 でも、よく考えればそれは仕方ないことなのかなとも思います。子育ては大変なものであると思いますし、当然、疲労や費やす時間も増えていく。では、そこで何が親子関係を守るのか。私が考えるには、「周りのフォロー」であると思います。
 例えば、親戚であったり、近所の人であったりする人が、親を支えてあげる。そうすれば、親の心にも余裕が出てきて、わが子を愛することに多少は気持ちが向くのではないのかなと思います。


投稿者: えんがわ | 2011年01月04日 23:55

 まだ、周りには結婚して子供が産まれましたという人々がいないので、もちろん自分もまだまだ子どもを育てるということは先のことであるという認識しかできないのですが、他の皆さんが書いているように、私もわが子を愛することはすぐにできて当たり前のものだと思っていたので、ブログの題名に興味を持ちました。
 自分も親からは沢山愛されてここまで生きてきたと思っていましたが、そこまでないのかもしれないという思いも出てきました。自分が勝手にこれは愛情なんだって思っていたり、親から言われたので愛情だと思ったり…でも、その愛情が暴力に結びついたらとても恐ろしいことになるなと思います。
 どうすることが子どもへの愛情なのかということなども、その親の生まれ育った環境でちょっとずつ変わっていくものだと思うので、溺愛することが愛情と思ったりする人や、放任することが愛情と思う人もいると思うので難しいです。


投稿者: トマト | 2011年01月11日 01:06

 親が子供を愛するということは、当たり前のように見えて、実は非常に難しいことだろうと思います。育てていて思うようにいかないことのほうが多いであろうし、「自分はこんなにも子供のために時間を費やしているのに」と思う時もあるのでしょう。
 私の同級生には、すでに子供がいる人が何人かいます。「子供がいるせいで、~~ができない」という時も、「子供がかわいい」というときもあります。それを聞いていると、その人にとって子供とは、「時間に余裕があるときは可愛いが、時には邪魔な存在であるもの」なのではないかと感じてしまいました。
 今の時代、「まだ自分の時間を楽しみたいのに、子供が出来てしまった」というような人が多すぎる様な気がします。だから家族の結束力も弱く様々な場面で溜まっていくストレスをリラックスという形で発散できない。それがゆえに、力の弱い子供にストレスをぶつけてしまう。
 もちろん虐待の原因は他にもたくさんあると思いますが、もし家庭が落ち着ける場所であれば防げていた虐待は多くあると思います。
 子供を産むのなら、自分がひとりの人間を育てるのだという自覚、そのことが自分にどのような影響を与えることになるのか、最低限ちゃんと感じ取ってほしいです。
 だけど、私は子育ても対人関係の問題であると思うため、トラブルは無くならないであろうし、社会からいじめがなくならないように、虐待も無くならないのでしょう。本当に難しい問題なのだなと思いました。


投稿者: もちち | 2011年01月11日 21:59

 私は今まで、親がわが子を愛するということは当たり前のことだと考えていました。しかし、福祉の講義を通じて考えが変わり、自分が当たり前だと思っていたわが子を愛するということが今の日本の社会では難しくなっていると考えるようになりました。
 今の日本では、子育ての責任のほとんどは母親に押し付けられ、多くの人が子育てに関する悩みを抱えているのではないかと思います。しかし、多くの人が私のように親がわが子を愛することが当たり前のことだと考えているであろう今の日本の状況では、自分の子供が愛せないといったような悩みを身近な人に相談するのは難しいと思います。
 そのような状況で、誰にも相談できずに親が孤立してしまい、より一層わが子を愛せなくなってしまうという悪循環に陥ってしまうこともあるのではないかと思います。そこで、子育てを行っている親の心理ケアなどの社会福祉援助などの、親を孤立させない環境作りが必要だと感じました。


投稿者: じゃいあん | 2011年01月16日 11:51

 「わが子を愛すること」は当然のことだと思っていた自分は親に大切にされていたんだと気づきました。
 どんな状況でも自分の子どもを愛することができると思っていたのは、私を育ててくれた親の姿を見ているからこそなのだと思いました。
 私は自分の親のことしか知りません。他の親子がどんな風に暮らしているかなど知る機会がほとんどないからです。そのため、虐待のニュースを見ると信じられない気持ちでいっぱいになります。しかし、「虐待」は親が悪いと簡単に片付けられる問題ではないのですね。親には親の事情があることを知りました。「虐待」はニュースではよく取り上げられていますが、具体的な対処はあまり聞いたことがありません。もっと積極的に問題解決に取り組むべきだと思います。
 「虐待」という問題はそう簡単に解決できる問題ではありませんが、そうやって傷つく親子が少しでも減っていくことを願っています。


投稿者: aqua | 2011年01月17日 16:53

 「わが子を愛することはたやすいことではない」まさにそうだと思います。
 私はまだ学生でしかも実家で両親と生活しているので、自分がもう20歳を超えた大人であるというのが実感できません。
 しかしこのような私でもいつかは子供を持ちたいと考えています。子供が生まれた瞬間私は親になる訳ですが、そんなに早く切り替えられるのでしょうか。自分が親である自覚はどのように芽生えるのでしょうか。
 最近では子供への虐待が増えていますが、親としての自覚が無いままに急に親になってしまった代償ではないでしょうか。今は自分がわが子虐待する訳ないと誓って言えますが、いざその立場に立った時、キチンと愛してやれるのかとても不安です。


投稿者: ものくろ | 2011年01月19日 11:06

 最近では近所付き合いが以前よりも希薄になっていると言います。家族の問題は最終的には家族で解決していくものなのかもしれませが、解決に至るまでも家族以外の外側の人に相談もできないような状況であるように感じられます。
 また、小学生のうちから子供に受験をさせるといったこともよく耳にします。世間が「勉強のできる子=いい子」で、ならばそう育てた親は立派だという尺度で人を測っている部分もあるのでしょうか。自分はまだ学生で、当然ながら子育てもしたことがないので自分の子供に対しての愛情をちゃんと語るとこはできません。
 ただ、わが子を愛することは当たり前ので、ごく自然なことだと思っていました。当たり前のようにそれができないこともあるような社会背景の中、子供をもつような年齢になったとき自分はどう思うのだろうと考えざるを得ませんでした。


投稿者: 色鉛筆 | 2011年01月20日 00:09

 私は正直言って、子どもがあまり好きではありません。子どもを見ても「かわいい」「見守りたい」という感情が心の底から湧いてくることなどほぼありません。愛し方もわかりません。私は主に、「この子はこの状況をどう見ているのだろう」「どういう気持ちでこの行動をとっているのだろう」と、不思議な生命体の観察者として子どもを見ています。
 ですが、子どもの権利の侵害、子育ての抱える問題について、子どもを取り巻く環境について、教育についてには関心があります。
 「子どもに興味・関心がある」という人、「子どもに愛情を持っている」という人、前者と後者両方が当てはまる人、両方とも当てはまらない人、様々なタイプの人がいます。そして、それには社会の状況も関わっているのだと思うし、また、その人がどのような立場にいるかで子どもに対するとらえ方も異なるのだと思います。
 そのような子どもに対するとらえ方は変えられるのか、どのようなとらえ方がベストなのか、子どもの立場にたって、また、他の角度からも、考えていきたいです。


投稿者: ピッコロ | 2011年01月21日 03:17

 宗澤先生の講義を受けた北九大の学生です。先日は有難うございました。
 私も大学の講義で虐待問題について学ぶまで、親が子を愛すのはごく自然なことだと思っていて、わが子を虐待する親の気持ちなど理解しようとも思っていませんでした。けれど、両親の方にも様々な事情がある場合や、虐待の連鎖などについて知り、自分のこどもを愛することが難しいという状況もあるんだと、少しですが理解できるようになりました。
 そんな中で、虐待されたこどもはもちろんですが、虐待してしまう親や、こどもの愛し方が分からないと悩んでいる親への支援も大事なんだと知りました。この記事を読み、改めて地域社会と家庭の繋がりの大切さや、問題を抱えた家庭や親への支援、教育に関してのもっと社会的な手立てが必要だと感じました。
 こどもはやはり両親をはじめとする周囲の人に、たくさんたくさん愛されて育つべきだと思います。少しずつでも現状が改善されて、こどもを育てやすい環境が整っていけばいいなと思いました。


投稿者: えぬ | 2011年01月21日 03:36

 私は学生であり、未だ子供を育てたことがありません。私は自分の子供であれば自然と愛すことができ、子供を愛すことのできない異常な親が虐待や放棄をするのだと思い込んでいました。しかしそれは大きな勘違いなのだと感じました。
 自身が人間であり子も人間である限り、さまざまな感情を抱くなかで子を愛しきることはとても難しいのだと思います。そのようなことから、虐待や育児放棄というものは別段特異な行動ではなく、どの家庭にも起こりうるものなのだと感じました。愛が絶対のものでないならば、愛がどうのというばかりでなく、親としての正義感や使命感をもって子を育てなければならないのだと感じました。


投稿者: haru | 2011年01月23日 01:05

  この記事を読み、虐待についての問題が深刻であることが改めてわかりました。本文中の言葉にもありましたが、社会、家族というまとまりを「みんなでつくり上げる」ことが重要なのだと思います。社会の発展と共に、共同体としてのつながりが希薄化し、おそらく人間形成も変化していると思います。そういった時代にあって、いままでどおりに社会が動いていくならば親子という関係がぽつんと孤立してしまいます。
 私自身に子どもがいるわけではないので、虐待に走る親の気持ちを完全に理解できるとはいえません。とはいえ虐待の加害者になるという可能性もあります。虐待の問題をより身近なものとして考えた時、これらを社会保障や雇用などの社会全体の視点から早急に捉えなおしていく必要があると思います。
 一方、自らが親になることを考えた場合、虐待や子育て放棄からみてとれるように、親として子を育てることが難しく非常に労力を伴うものであることを自覚しなければならないことも感じました。


投稿者: ちょこどーなつ | 2011年01月24日 09:31

 今までも虐待について話を聞いたり、ビデオを見たりしてきました。そのときは、なんで自分の子どもなのに虐待なんてするのだろう、ひどい親だなとばかり思っていました。
 しかしこの記事をみて、親だからといって常に子どもを愛しつづけることができるわけではないということに気がつきました。親だって人間。親にだって感情の変化はある。
 そうは言っても、虐待をしていいという理由にはなりません。親が落ち込んだ気持ちになったとき逃げられる場所があれば、親も子どもも救われるのではと思いました。親を追いこんではいけないと思います。
 私は親の気持ちはわかりません。想像することしかできません。きっと親の立場になってみないとわからないことがたくさんあると思います。だから、親である人たちの意見をとり入れてよりよい育児環境を整えるべきだと思いました。私たちが親になるころには、よりよい環境が設けられて、虐待がなくなればいいのにと思います。


投稿者: T☆M | 2011年01月26日 02:04

 上記より感じたのは、色々な「愛する」があって、たとえば矛盾したようですが、虐待の中にも「愛する」故の虐待があるのかなということです。それは上でいう本当の「愛する」ではありません。つまり我が子を本当の意味で「愛する」ことが難しいのではないかと私は思いました。
 私は将来子供がほしいと思っていますが、おそらく正解がないであろう「愛する」の本当の意味に近いかたちで愛を注ぎたいです。


投稿者: ラダー | 2011年01月26日 11:15

 虐待というのはだめなことは皆が知っているはずなのに、なぜここまで発生しているんだろうとずっと疑問になっていました。
 自分の子供を愛することがなぜできないのかが本当に疑問でした。しかし、授業などを通じて親の置かれている環境の中で、社会や、家庭で求められていることが、あまりに大きいためのひずみによって虐待も発生しているのだと思いました。
 虐待はその家庭の問題ではなく、企業社会によってつくられた閉塞的な社会全体の問題であると自覚しました。
 抜本的な解決策のない中、できることは、やはり地域とのつながりや、おじいちゃん、おばあちゃんなどの家族のつながりをこれからもっと重視していくべきだと考えます。
 親も経験的にまなんだ人たちから教わることがなにより安心できるのではないかと思います。


投稿者: ぽんた | 2011年01月26日 12:24

 私の母親は時たま私を虐待(というほどのものでもないが)していました。虫の居所が悪い時になにか私がやらかせばすぐに殴られていたものです。とはいっても理不尽に暴力を振るわれることはなく、あくまで私がなにか怒られるようなことをした時にビンタをされた程度ですが。
 しかし今になって考えてみると、祖父母と母親と私で暮らしていたからあれですんでいただけであり、母親と私だけだったら、虐待はエスカレートしていたのではないか、と邪推してしまいます。やはり子どもの育て方を分かっている人間が近くにいるといないでは、違うと思うのです。
 だからといって、暴力を正当化してはいけないと思います。たまたまイライラしていた時に子どもが怒られるようなことをしたから、必要以上に躾と称して虐待するのは許されるべきでない。そういう時、自身が不安定な時にでも子どもに対して手を上げないかどうか。それが「愛する」ということではないでしょうか。そしてそれは確かに容易なものではないのだと私は考えます。


投稿者: ささくれ | 2011年02月01日 08:42

 先生の文を読んで、ある本当のことを思い出しました。
(留学生なので、文法のおかしいところ、どうか大目に見てください。)
 私の伯母さんは凄く優秀な人で、旦那さんも社長さんなので、社会の上層に生活している人とも言えます。ですから、自分の子どもに対する期待はとっても高くて、子どもの勉強について異常に熱心で、厳しいです。
 伯母さんが子どもの学習状況をチェックするたび、もし子どもが同じミスを何回も犯したら、あるいは学習内容を何回も教えても、子どもがなかなか伯母さんの要求に達成できなかったら、伯母さんはすぐ頭がきって、手を出して、子どもに傷をつけてしまいました時はしょっちゅうあります。近所の人は常に子どもの泣き声を聞こえるので、児童相談所に通報しました。結局、伯母さんの行為は虐待行為に認定されて、子どもを一時に児童相談所に強制保護されたことがあります。
 こんなことになったのは色々な原因があると思います。
 まず一つ、伯母さんもこういう育て方法のなかで、成長してきたのです。伯母さんの母、つまり私のお祖母さんの時代は、“殴るほど子どもが立派になれる”という考え方を信じている時代です。あの空腹と貧困に取り囲んだ時代には、愛の教育なんで考えられないものです。子どもが言うこと聞かないなら、殴ればいいという教育方法は普通でした。伯母さんはずっとこういう教育を受けて、こういう教育方法は当たり前だとおもっているでしょう。おそらく、昔の時代では、日本でもこういう思想を持っている親が少なくはないでしょうと思います。そして、自分の子どもに対しても、当たり前のようにこういう教育方法を使いました。
 次、一人外国で生活している女性として、違った文化や、優秀な旦那さんや、上級階級みたいな生活圏から与えられた圧力は、私たち想像以上遥かに超えています。毎日緊張の生活の中で、ストレスがドンドンたまって、子どもに発散するしかないでしょう。
 そして、もう一つ言いたいことがあります。一回この子のピアノ塾の発表会にいったことがあります。全員の発表を聞き終わったら、この子は確かに同年代の子どもによりかなりレベル上と感じました。この子は普通の子どもと明らかに違うのは、“熟練度”です。それは素人の私でも聞いた瞬間にすぐわかりました。当時は本当に周りの親にいっぱい褒められました。伯母さんの厳しすぎる教育方法はよくないと分かっていますが、その効果は否定できません。
  もちろん伯母さんは自分の子どもを愛しているに間違いないです。ただ、その愛する方法が少し過激です。子どもを一時に強制保護された時、伯母さんは毎日意気消沈して、泪が止まらなくて、常に後悔していました。これを見て、子どもの将来のため、ベストを尽くし、一生懸命子どもを育んでいるのに、虐待に言われる伯母さんの辛さは多少わかります。子育ては本当に簡単なことではないと思いました。
 子どもの教育について、まだまだ社会や、地域環境や他のいろんなところから改善しなければいけませんと思いました。


投稿者: XING YING | 2011年02月02日 01:45

 先生の講義を聴講するまでは、親が我が子を愛するのは当然で、愛しているのならその子に虐待などするわけはない、と安易に考えていました。
 しかし、講義の中で虐待の現状を知るに至り、虐待をする親は決して子供のことを愛してなどいない、ということではないという事がわかりました。加えて、虐待はそれを行った親ばかりを責めても何の解決にもならないということもよくわかりました。
 虐待は単なる家族内だけでの問題ではなく、地域や社会にも大きな責任を問う問題であると感じました。確かに、子供を育てていくことに対して親はその責任を負う立場ではありますが、子育てに行き詰ったときに頼れる場所があるべきではないかとも感じました。今の日本では、子供に対する責任をすべて親に押し付けるような閉鎖的な親子関係が築かれてしまっており、このままでは虐待という問題を根絶するのはかなり困難だと私は考えます。


投稿者: オーガ | 2011年02月02日 01:51

 子供は両親の愛の副産物のように私は思ってます。腹を痛めて産んだ、血がつながっているとはいえそれを必ず愛すことはできなく、逆に忌み嫌うこともあるのではないかと考える。
 むしろ、子供を愛すというのが酷なことでありそれを求めるのは困難だと思う。


投稿者: 係長 | 2011年02月02日 03:36

 この記事を拝見して自分も地域関係の多彩な関係が虐待を減らすというのはなっとくしました。
 この地域関係の軽薄さは日本人の考え方が全から個へ変わったゆえに起きているのではないでしょうか?
 これからの日本を担う若者としては昔の良いところも取り入れつつ新しい時代を築いていきたいです。


投稿者: ニッシー@へたれ | 2011年02月02日 06:08

 労働時間、所得、子育て環境などの関係で子育てが上手くいかない親が「自分の子供の子育てしっかりできてないんじゃないの」と世間一般から言われるのはメディアのせいではないかと自分は思います。
 自分がここで言うメディアとは主にテレビと新聞です。これらのメディアは人々が世間の情報を得るためのものとしては主流なものだと思います。
 メディアは子どもの虐待や殺人を侵した人に対し、その事件が起きた事情をあまり把握せずにその人を非難する傾向にあります。情報を得るものとして深く社会に定着したメディアがこのようなことを言うと、それを読んだ人々は事件を起こした人を批判的な目で見るようになります。そうなると、「子どもをしっかり育てることはあたりまえであり、逆にそれができない人はダメなんだ。」という考え方が社会一般に広まります。
 メディアは社会一般の考え方に大きく影響すると思うので、それを作る側は自分たちが記事にする言葉(あるいは言う言葉)に責任を感じるべきだと自分は思います。


投稿者: Moai像 | 2011年05月29日 01:03

 私は今まで生きてきて、両親に無条件に愛されてきたと思っていたけれど、親だからといって子供を愛することが当たり前ではないのだなと思いました。将来、子供を産むことが正直怖くなりました。私はそんなに子供が好きではないけれど、自分の子供はきっとかわいいだろうし、愛せるものだと思っていましたが、そんな簡単なことではないのだと思いました。
 そして、テレビの報道などで、虐待について取り上げられているのを見ると、当然のように親を責めてしまっていたけれど、それぞれに親の事情や家庭の事情があるわけで、それなのに親だけを責めるのは違うと感じました。
 家庭という狭い空間の中だけで子育てするのではなく、地域の人との関係をもっと深いものにして、みんなで子供を育てていけるような環境を作れたらいいのではないかと思いました。


投稿者: みー | 2011年06月08日 13:40

『わが子を愛することはたやすいことではない』
 この言葉は私にとっては非常に衝撃的でした。しかし、隠したい親子の姿を表していると思います。
 親と子は別々の存在です。相容れない何かを感じてしまう事もおおいにあり得る事です。その状態では、献身的に子育てをしていく事は不可能です。
 虐待する事をただ否定するのでは何も解決しません。様々な親子の形がいる事を当たり前に考え、温かくサポートしていける環境が必要だと考えました。


投稿者: おぺら | 2011年06月08日 14:22

 子供を見ていて「この子の親が見てみたい。」とごく自然に口にしている、今の日本の親子に対する固定観念のようなものが自分にも身についてしまっていることに気づかされました。
 親子に対する問題を解決するにはやはり、親子を閉じられた単位にしないことだと思います。親だけが子供を育てるのではなく、社会全体が子供を育てるのだと思います。そのことに親が気が付けば、それだけでも親子に関するいろいろな問題に対する解決の糸口が見えてくるのではないでしょうか?


投稿者: おなつ | 2011年06月09日 22:56

 虐待をした親を責めて刑事罰を科すことは何の解決にもならないことを授業やブログを拝見して学びました。親に刑事罰を科して満足するのは、一方的に「虐待する親は悪い」と思い込む無知な人たちだけである。表面だけで判断してしまうのではなく、そこからもう一歩踏み込んで考えることが大切だと思った。
 特に、ブログの文中でも挙げられた<地域の多彩な関係>を構成する人に必要な一歩だと思う。
 受け入れる十分な環境があれば、親子をそのネットワークに組み込みやすく、子どもの安全もより守られやすくなるんじゃないかと考えます。親子だけの閉じた関係を、地域ネットワークというひらけた関係の中に置くことは、虐待を未然に防ぐ効果が大いにあると思います。
 また、児童虐待に限らず“ひととのつながり”は社会を構成・運営していく基本であるのに、それが薄れてしまっている現状はとてもさみしいものだと感じました。


投稿者: ちゃん | 2011年06月10日 22:28

 虐待をした親を責めて刑事罰を科すことは何の解決にもならないことを授業やブログを拝見して学びました。親に刑事罰を科して満足するのは、一方的に「虐待する親は悪い」と思い込む無知な人たちだけである。表面だけで判断してしまうのではなく、そこからもう一歩踏み込んで、「どうして子どもに虐待してしまう結果になったのか?」などの背景に目を向けることが大切だと思いました。
 特に、ブログの文中でも挙げられた<地域の多彩な関係>を構成する人に必要な一歩だと思います。受け入れる十分な環境があれば、親子をそのネットワークに組み込みやすく、子どもの安全もより守られやすくなるんじゃないかと考えます。親子だけの閉じられた関係を、地域ネットワークというひらけた関係の中に置くことは、虐待を未然に防ぐ効果が大いにあると思います。
 また、児童虐待に限らず“ひととのつながり”は社会を構成・運営していく基本であるのに、それが薄れてしまっている現状はとてもさみしいものだと感じました。


投稿者: ちゃん | 2011年06月11日 21:18

 愛し、愛される。人としてこの世に生を受けたその瞬間、この関係は成り立つものだと勝手に信じ込んでいた。だが、そうではなかった。愛したいのに愛せない、そんな苦悩と闘っている人。愛されたいのに愛してもらえない、そんな絶望と闘っている人。今なお闘い続け、助けを求めている人がいるということをあらためて実感。なぜ愛せないのか、なぜ愛されないのか。彼らの苦悩を取り除くために、何ができるのか。何が必要なのか。
 ブログでも取り上げられていたように、開かれた世界。つまり、地域社会とのつながりが必要不可欠となるだろう。閉じられた狭い世界にいては、誰でも癇癪を起したくなる。狭い空間が好きな人は別だが…。しかし、ある程度の広さ、開かれた世界で多くの人と関わりを持つ。それは、自分が解放されるだけでなく、吐き出す場所があることによって、たまったものを虐待というかたちで子どもにぶつけることは少なくなるだろう。
 私たちに出来ることは、彼らと地域社会との狭間にパイプを繋げること。太く切れない、力強いパイプを…。


投稿者: コウノトリ | 2011年06月12日 19:13

 今まで自分は「親が子供を愛することなんて当たり前のことだ」と思っていました。しかし最近、ある人に「無償の愛がもらえるのは親からだけだ。だから親を大事にしなさい。」と言われました。それを聞いて親が子供を愛することは大変なことなのだと考えました。
 確かにすべての親が子供を愛せるなら虐待など起こりません。ですから、親子を地域の関係の中に位置づけ直すことは、愛されない子供を減らすためにとても大切なことだと思いました。


投稿者: EMT | 2011年06月14日 11:46

 「わが子を愛することはたやすいことではない」という題のこのブログに衝撃を受けました。
 しかしよく考えてみれば、そこまでおかしなことではないなと思いました。人が人を育てることの困難さ、それに付きまとう責任、経済的な問題など要因となることはたくさんあるからです。ちょっとしたこのような要因から生まれるほころびが大きくなり、子供に対する愛情に不安が生じてしまうのはしょうがないと思います。
 このような問題の解決策としてこのブログに書いてあることには、すごく感心させられました。閉じられた家族という単位の中で親子が完結することは不可能だと思います。地域との関係性が不可欠なのです。親子の問題を家族としてではなく、地域社会の問題として人々が共有してあげることが大切だと思います。そのような社会ができていけばいいと思いました。


投稿者: タンヤオ | 2011年06月14日 14:01

 「わが子を愛することはたやすいことではない」
 確かに、自分の子供を愛することが当たり前のことだと思われがちです。しかし、現在社会では、たくさんの子供は望まれて生まれたわけではありません。そして、たくさんの子供が不健全の家庭で育てられています。自分の子を愛したい気持ちがあっても、経済的な困難や精神的な負担が原因でわが子が自分の荷物になってしまいます。そこで、子供の虐待が多発することにもつながっています。
 このような社会においては、まさに先生が言っているように子育ての客観条件が非常に重要になってきています。これからの子育ては親子を一単位にせず、社会全体の力で、子育てに問題のある親子を助けるべきです。


投稿者: ハンハン | 2011年06月14日 16:25

 先生が指摘されるように、現代の親子は地域とのかかわりが薄く、閉鎖的な単位とされることが多い。このコミュニケーションの少なさが、親子自身や、その周りの人々の考えの多様性を乏しくしてしまっているのだと思う。その結果、視野が狭くなって危険な「複製」が生まれてしまうのだ。また、子どもを愛するのは、なにも親に限る必要はないと思う。周囲からも愛情やサポートをすることで、親子の視野も広がり、心に余裕の持てる生活を築くことができるのではないかと考えた。


投稿者: シマリス | 2011年06月15日 11:38

 倫理上、親はふつう、わが子を愛するものだと考えられていますが、親も子どもも、親子という立場の前に一人の人間であるから、常に自分の子どもを愛しつづけるという行為は難しいことだと思います。
 母親だから、父親だからという理由で、自分を犠牲にして子どもに愛情を注ぐことが、本当の愛なのではなく、親と子として生活すると同時にお互いを一人の人として接していくことが、良い親子関係を築くための土台になると思いました。
 親が子どもに依存することこそ、最も子どもの成長を阻む一番の原因だから、お互い干渉しすぎに一定の距離を保って共生していくべきだというのが私の意見です。


投稿者: りらっくす | 2011年06月17日 00:55

 親子は遺伝子が半分同じであったとしても全く別の人間である。親子関係を築くこともまた、他の人間関係を築くことと同様に難しさがあって当然だ。誰か人と付き合うときには、思い通りにならなかったり、意見が合わなかったりして、ストレスが伴う。それは親子の間にも言えることだ。
 親と子の関係の問題を家の中から外に出すのは難しいことだ。だが虐待問題解決のためには、社会がもっと親子をも見守っていく仕組みが必要だと感じた。


投稿者: なぎ | 2011年06月18日 16:41

 私が子供をもつとして、四六時中愛していられるかという自信は全くない。いくら家族といってもやはり自分とは異なる個体なのである。意見のすれ違いや衝突といった摩擦が起きることもあろう。そして親は責任者として社会から叩かれるのが日本の慣行である。
 ここで大事なのは、家族と社会を別個のものとして考えるのではなく、社会の中の家族、つまり社会全体で子育てを支援していくことが大事なのではないか。親の負担にも目を向けてしっかりと考えてみるべきである。


投稿者: たまぞう | 2011年06月19日 18:44

 私は親になったことはないので「わが子を愛すること」がたやすいかどうかはわかりません。しかし、以前何かの本で自分を無条件に愛してくれるのは親だけだ、という言葉をきいたことがあります。
 たやすいことではないかもしれませんが、大抵の、少なくとも私の周りの親たちは子供たちを愛していると思います。ただ、現状としてそうではない家族が増え、子供たちが親に愛してもらうために「条件」が必要になってしまうのは社会としてもとても悲しいし、あまりにもマイナス面の多いことだと思います。
 こういった問題を解決する取り組みもたくさんあると思いますが、やはり地域の意識がまだ低いのだと考えます。無縁社会といわれる時代ですが、そうなってしまった原因に立ち返ってそこから社会の仕組みを作り直すことも必要なのだろうか、と思いました。


投稿者: あべ氏 | 2011年06月20日 15:03

 本来、親子関係というものは見返りを求めるものではなく、無償の愛を提供するものだと聞いたことがある。しかし今日の日本の親子関係の中には、「塾に行かせてやったのだから(お金をたくさんつぎ込んだのだから)、偏差値の高い大学に行き上場企業に就職しなさい」というような親の願いが見え隠れしているような気がする。
 こうした願いをこめるのは幸せな人生を歩んでほしいという親の純粋な願いであり愛情なのかもしれない。しかし一般的に安定とされるレールを用意することも愛情であるかもしれないが、子どもの行うことを見守り、道をはずれそうになったときに手を差し伸べるのが愛というものなのではないかと私は思う。そして見守るためには、その人を信頼し全てを受容しなければならない。つまり受容することが愛だと私は思っている。
 子どものすることを全てとまではいかないが、少しずつでも親が受容していくことができれば親子関係はよりよい方向に向かっていき、本当の意味で「わが子を愛する」ことができるようになるのではないか。


投稿者: sophie | 2011年06月21日 23:37

虐待が身近な問題であると感じられる人はとても少ないです。どんなに虐待をされる人やしてしまう人がたくさん苦しんでいても、当事者自身もそれが特別だと、自分が、相手が特別だと考えてしまうのではないでしょうか。
もちろんそれが通常ではあってはいけないと思います。しかし、親子であっても人間同士の関わりです。常に愛することができるのが通常だと思ってしまっては、虐待という問題は異端とされ解決にはつながらないでしょう。

また、虐待は周りの人間によって状況を変えることができると思います。
ニュースで親が子供を殺してしまった事件などを目にしますが、その近所の人へのインタビューで「悲鳴が聞こえたことがある」などという答えがよくあります。そういったものが聞こえた時、自然に声を掛けられるような社会であれば、現在の虐待の状況は変わるのではないでしょうか、と私は考えます。


投稿者: はやま | 2011年06月25日 21:54

先生の講義を受けるまで、私は虐待に関するニュースなどを聞くたびに自分の子供に暴行や子育て放棄などをする親を許せないと思っていました。しかし先生の講義を聞いて、またこのブログを読んで虐待の背景にある様々な要因、そして自分の子供を愛することはたやすいことではない、このことを知って虐待に対する意識が変わりました。
しかし、ほとんどの人は虐待に対して私が以前抱いていたようなイメージを持っているはずです。
それはテレビなどのメディアでコメンテーターが「こんな親信じられません」と言っていたり、虐待の事件があった近隣の人がインタビューに対して「そんなことをする人には見えなかった」と言っていたり(そんなことをする人と虐待する親を否定的にとらえている)するところを見てかんじます。
私は虐待から子供を守るにはまず早期に虐待を見つけることが大切だと思います。そこで虐待をする親を怖い人だ、恐ろしい親だなど否定的なイメージを持っていると相談所への連絡などをする際に足がすくんでしまうと思うのです。逆に「こんなにいい人が虐待をするわけがない」と虐待に気づかないといったことが起きると思うのです。
だから私はたくさんの人に虐待が起きる背景を知ってもらいよりたくさんの人の意識を変えることが虐待に苦しむ子供、そして親を救うことができると考えます。


投稿者: Ray | 2011年06月26日 22:57

 親が子を愛せない理由の1つとして「親の無責任」があるのではないだろうか。
 「ハガネの女」というドラマにおいて自分の子を愛せない母親が登場したが、彼女の場合は子が生まれたことにより自分のあらゆる自由が束縛され、それゆえに子を憎み、離婚をし、子から離れていった。彼女のように子を愛せない親で、子どもが自分の自由を束縛しているゆえに子に憎しみなどを感じてしまうと考える人が多いのではないだろうか。
 しかし、子どもを持つということは、自分の時間を自由を子に注ぐ、子を愛するということだ。自分の子を愛せないという人は子どもをつくるべきではない。妊娠した後の新しいいのちに対する責任を持たずして性行為を持つこと言語道断であると私は考える。自分の行為が引き起こすあらゆる可能性を認識し、責任を持つことにより親が子を愛せない一つの理由を解決に導くことができるのではないだろうか。


投稿者: マカリィ | 2011年06月27日 00:29

 今まで「親が子どもを愛すること」は当たり前のことだと思っていましたが、そう容易なことではないのだと実感しました。
 「子を愛する」ということは単に子の欲しいものを欲しいままに与えることでもなく、親の期待を一方的に押し付けることでもないと思います。親子というものを地域社会のひとつの組織としてとらえ、子を育てると同時に親として大人も成長できる子育てが望ましいと思います。


投稿者: りっちゃん | 2011年06月27日 19:06

私は今まで生きてきて、両親に無条件に愛されてきたと思っていました。しかし、親だからといって子供を愛することが当たり前ではないのだなと思いました。将来、自分に子供が出来たらきっと愛せると思っていましたが、そんな簡単なことではないのだと思いました。また、虐待というと親に過失があるとみなされていますが、家庭の数だけ事情があるのに、親だけが責められるのはおかしいと感じました。狭い家庭のなかでの子育てではなく、まわりの親戚の人や地域の人たちとの関係を広げて、みんなで子供を育てることのできる環境をつくることが大切なのではないかと思いました。


投稿者: ショートケーキ | 2011年07月04日 22:51

わが子を愛することの難しさについて深く考えさせられました。
親も子もいくら血がつながっていてもひとつ屋根の下で暮らしていたとしても、違う価値観・個性をもつ人間であるので、親が子を愛すのは当然だなんてこれから先、口が裂けても言えないと思いました。
また、保坂渉さんの『虐待―沈黙を破った母親たち』に、わが子を愛することでわが子に嫉妬してしまう母親がいました。わたしは、虐待の連鎖の中で本当の意味で虐待が終わるには愛されることの喜びと安心を知ることなのではないかと思いました。


投稿者: 梅子 | 2011年07月05日 00:56

冷静に考えてみれば、わが子というのも人間の一人であるのだから、必ずしも愛せるものではないというのは当たり前なのではないかと考えさせられました。
一般的に虐待があると「親が悪い」と思い込んでしまったり、ブログの記事で仰っているように子どもの素行が悪いと「親の顔が見たい」と思ってしまったりするなど、「子どもの責任は親がもつもの」という風潮があるのではないかと思います。一見当たり前のことのように思われますが、反面では「親の過保護を煙たがる子ども」という子どもの姿も見かけられます。
したがって、これからは「親が子供を守る、育てる」という一方的なプロセスではなく、「親と子どもが支え合っていける」「親子を社会で支えていける」相互のプロセスのような社会を築ければいいと思いました。


投稿者: 瑠拿月 | 2011年07月05日 21:23

 我が子を愛することはたやすいことではない、本当だろうか。自分の子どもなのだから、可愛いに決まっているではないか。先生の授業を聞くまではそう思っていました。しかし我が子であっても、自分ではない他人なのは確かで、さらにはその他人を育てあげるという大変な使命を背負っているのだから、たやすくなどないと思い直しました。
 親の顔を見てみたいという言葉はよく使われるけれども、これは親は子どもを管理していなければいけないという意味に感じます。そうではなく、親と子どもが協力して、一緒に関係を築き上げていくことが大切であると親自身が理解し、社会全体でも理解されるようになることが必要だと思いました。


投稿者: 赤ずきん | 2011年07月06日 11:15

親も教師も、「子どもを育てて当たり前」と思われがちです。私も今までそうで、育児を放棄し、虐待をする人は無責任だと思っていました。
しかし、虐待を批判的に見ている私たちにも虐待への責任があると思います。親子が閉じられた関係になった今、「我が子を愛せない」ことを理解してもらえずに苦しむ親は沢山いるのではないでしょうか。虐待から親子を救い出すためには、子育てへの理解がある地域づくりが必要だと思います。


投稿者: Ryo | 2011年07月08日 15:45

 虐待においてはブログにあったように「親子を閉じられた単位とするのではなく、地域の多彩な関係の中に位置づけなおすことが構想されなければならない」ということが最も大事であると考えられる。例えば、共働きの母親ならば保育サービスを利用したりするだろうが、専業主婦であればほとんど一日中子供と向き合わなければならない。努力の成果が目に見える訳でもない子育てに確信を持てない親たちが虐待に手を出してしまうケースは多い。だが、そういう虐待であれば未然に防げるだろう。近所付き合いが広い人、子育て以外の生きがいを持っている人、また、父親が子育てに協力的であるほど育児不安が少ないという話はよく聞く。
 よって、親子の閉じられた環境をむりやりにでも開けるために、行政による支援や地域で子育てサークルを作ったりすることが求められていると思う。そして父親が育児に参加し、協業型家族への移行を行うことも一つの解決策だと考えられる。


投稿者: ヒバ | 2011年07月09日 23:24

親の子に対する愛が当然だと考えらえれ、人は誰しも普通でありたいという一面を持っているので、 自分の本当の気持ちを抑え込み、そこに息苦しさが生まれ、溜まり、虐待にまで発展してしまうのではないかと思います。親は、子供に対して自分を犠牲にしてでも育て上げなくてはいけない、という義務感を感じているのではないか、そうだとしたらそれを作り上げた時代背景に問題があるのではないかと思います。


投稿者: TK | 2011年07月10日 16:27

 「我が子を愛することは容易いことではない」という言葉は、一見間違っているように感じた。どうして自分の子どもを愛することができないのか?愛することは親として当然のことではないかと思ってしまう。しかし、それは子どもを持ったものにしか分からない気持ちや、社会環境等のことを深く考えない無責任な意見にすぎないことを知った。
 今まで自由だったはずの時間が全て子どものために使われる。子どもを産む前に描いていた子育てとのギャップに翻弄され、誰かに相談したくても相談できる人がいない、頼りになる人がいないという周りの環境は、母親を次第に孤独へ陥れ、その結果母親は子どもに虐待をしてしまう。
 それにしても、現在日本にはどのくらい母親を支援する制度が存在するだろうか。私はまず、母親支援の充実が必要だと思う。また近年、「無縁」という言葉が頻繁に使われるようになったが、人とのコミュニケーションがうまくいかずに苦しんでいる親も多くいるだろう。そういった意味で、親たちへのセーフティーネットを早急に確立していく必要があると思う。


投稿者: O2 | 2011年07月11日 02:23

 わが子を愛することはたやすいことではないと書かれていますが、そんなことは絶対にないと思います。どんな子供も親からは愛されているはずです。というよりも、親が一番に子供を愛さなければいけないと思うのです。
 親は子供の味方であり、自分を肯定してくれる人です。もしもそうでないのなら、生きていくのが大変だと思います。


投稿者: aiko | 2011年07月11日 14:44

今まで私は、「我が子を愛すること」は当然なことだと思っていました。
 しかし、この記事を読んで、親も「子供の親」である前に「一人の人間」であるのだからそれぞれ複雑な事情を抱えており、杓子定規で虐待をする親のことを責めることはできないのだな、と思いました。
 子供だけではなく、親の心のケアも必要なのではないかと感じました。その役割を、地域の人たちが親子をあたたかく見守ったり、かかわりを持ったりすることで果たし、虐待を防ぐという動きが必要だと思います。


投稿者: ザジ | 2011年07月12日 13:10

今まで私は、「我が子を愛すること」は当然なことだと思っていました。
 しかし、この記事を読んで、親も「子供の親」である前に「一人の人間」であるのだからそれぞれ複雑な事情を抱えており、杓子定規で虐待をする親のことを責めることはできないのだな、と思いました。
 子供だけではなく、親の心のケアも必要なのではないかと感じました。その役割を、地域の人たちが親子をあたたかく見守ったり、かかわりを持ったりすることで果たし、虐待を防ぐという動きが必要だと思います。


投稿者: 地下鉄のザジ | 2011年07月12日 13:10

 虐待や自分の子供を殺害する親のニュースが流れる時代で「わが子を愛することはたやすいことではない」とはその通りだと思う。子供は生まれたばかりであれば夜突然泣き出して親の睡眠を削ったり、おねしょしたり、少し大きくなってもわがままを言ったり、いろいろと手がかかる。そんななか親はストレスを感じ、それが虐待につながるのだと思う。
 今の社会には子供を守る制度や機関だけでなく、親に対するものも必要だと思う。


投稿者: ジンジャエール | 2011年07月12日 19:19

 「わが子を愛することはたやすいことではない」
 最初は本当にそうなのか?と思いました。わが子ならば無条件で可愛く思い、愛するものではないのか、と。虐待をしてしまう親だって、本心では子どもを可愛がって愛しているのではないのか、と。
しかし、このブログを読んでそんなに簡単な話ではないのだと思いました。
 確かに、自分の子どもは肉親です。でもだからといって「自分」ではありません。ある意味では「他人」です。「他人」を無条件に愛することなどできないと思います。そう考えれば、「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉の意味が少し理解できたような気がしました。


投稿者: 蒼鷺 | 2011年07月12日 23:39

 私は親をとても尊敬しています。今自分がここに生きているのは全て親のおかげだ、と思うくらい私は親に救われました。その時感じとったのは、そこまで子どもに尽くす親の愛でした。私は心の底から親に愛されていると感じました。その子どもへの愛を、自分も自分の子どもに与えることができたらいいなとずっと考えています。
 そんな経験があるからこそ、今回の子どもを愛する難しさの話には胸をうたれました。親なら子どもを愛すのは当たり前だ、そう思っていたのに、実はそうではない。より一層親への尊敬が増すばかりです。よく考えてみれば、確かに自分の親は、子どもの固有の価値を尊重する人でした。一元的な価値尺度からの評価や、アイデンティティーの確立の強制より大切なのは子ども固有の価値の尊重。それはほんとに大切なことだと感じました。


投稿者: JT | 2011年07月13日 08:51

 『わが子を愛することはたやすいことではない』ことに対し、今の日本の風潮は「親は子どもを愛して当然だ」というところから未だ抜け出せていないように思います。また、同様に「子どもの育て方にはひとつの正解がある」という考えもどこかに存在しているように思います。
 最近はあまり言われなくなりましたが、「最近の子どもは小さいうちから携帯電話を持っている。持たせる親も親だ。『けしからん』。」という言い方をする人をテレビなどでよく見かけました。恥ずかしながら私も僅かながらそう思っていた時期がありました。
 ですが、先生の講義を聴いているうちに、共働きの親の世帯を始め、子育てが行われる場である家庭の状況・条件は各々に異なることに気づかされました。そのような事情を鑑みずに自らの体験にのみ基づく判断を絶対的な「正解」として一方的に押し付けるような行いを許してはいけないと思います。


投稿者: わらび | 2011年07月13日 12:02

 我が子を愛するのはたやすいことではないという言葉は社会環境の変化を表していると感じた。自分の子供なんだからあいすることは当たり前のことだと思っていたがそうではなかった。今日の社会の中で親が自分のことで手一杯な状況の中、子を愛する余裕というものが一昔前に比べて減ってきていると私は思う。
 我が子を愛するために何が必要か。それは社会に開けた環境の中で子育てをしていくことである。昔は近所の大人たちが他人の子を我が子のように見守っていた。親は周りの大人たちの我が子に対する思いに触れ、我が子への自身の愛を再確認していただろう。
 今日の社会において欠けているものはそういったような開けた環境における子育てである。我が子を愛することがたやすいことではないからこそ、子が社会の中で周囲と関わり合いながら育っていける環境を我々が作っていく必要があると言えよう。


投稿者: みさ | 2011年07月13日 13:33

 自分は、タイトルの『わが子を愛することはたやすいことではない』は、その通りであると感じたことがある。新聞で、虐待について裁判の様子の記事を見ていた時のことだが、「ママの子として失格」という文字が目に入ってきた。この言葉は、虐待をしていた母親が児童福祉士と警察に取り押さえられる際に子供に言った言葉であるらしい。
 こういう言葉を発することは少ないことではないと知った時、タイトルのようなことを思った。親と子というタテの関係性によって生じる支配と被支配という感覚によって発せられた言葉であると考えられるので、ヨコやナナメの関係の人がどう関係を持ち、新しい関係性を築くかがこれからの課題となるだろう。


投稿者: OGA | 2011年12月09日 23:49

 このブログのテーマは、自分の子どもを愛せない親がいる。ということでしたが、私自身は子どもが好きなので、どうして自分の子どもが愛せないのだろうと不思議におもっていましたが、数々の精神科医の先生方がおっしゃるように、そう感じている親はたくさんいるのだな、と思いました。
 そういった親たちに無理矢理子どもを好きになれというのはストレスだと思うし、なにより子どもがかわいそうなので、先生がおっしゃる通り地域の連携を大切にして親同士が助け合うことが重要であると考えます。


投稿者: チャーリー | 2011年12月21日 00:34

 『わが子を愛することはたやすいことではない』を読んでいて確かにその通りであると感じた。
 私は子供が好きなので、小さい子を見ると、とてもかわいく見える。そのため、「わが子はどうしようもないくらいかわいいのではないのか?」と疑問に思い、この記事を読み始めた。
 しかし、読み進めるうちに、そんな単純ではないことが分かってきた。最近の地域社会はそれぞれ孤立してしまっていて、例えば、マンションの隣に住んでいる人とさえ知り合っていないという光景があるのではないかと思う。そのような状態では、子育てに励んでいる親たちは、誰に相談することもできず、一人で抱え込むことになり、ストレスとなって、わが子を虐待してしまう、というのもあり得る話であると思う。
 そこで、地域社会の結びつきを強めるということは非常に大切なことだと思う。みんなで負担を分かち合い、助け合える社会であれば、わが子を愛することことがより可能になるのではないかと思う。


投稿者: nz | 2012年01月06日 11:03

現代社会において『わが子を愛している』という言葉は非常に無責任で、信頼性にかけるものだと考えます。
親は子どもを愛していなければならないという大前提のもと育児がなされてきましたが、親による虐待が広く世間に知られている事実になっている今日では『私は子育てをしています』という一種のアピール手段になっているのではないかと思われます。
私はスニデルス氏の意見を知りませんでした。そもそもこれから子育てをしていく世代の私が知らないと言うことが問題であると考えます。親だけでなく、私のような世代に伝えていくことが大切なのではないかと考えます。
また親子関係は「支配―従属」という関係性があってはならないとありますが、愛情という言葉が許される範囲で行われれば、それは親が子どもを守るということになります。日本では親がこのようなよい意味での「支配―従属」を強く意識しているような印象があります。そういったことが現代の親の教育を閉塞的にし、自分の子育ては正しいのだと猛進する親が生まれてしまうのではないかと考えます。このような履き違えた責任を解決するためには、やはり他の人間の協力が必要不可欠であると考えます。
教育に対する様々な問題は、親だけを責めるのではなく、社会制度を見直し、地域社会を通してサポートすることで改善していくのではないかと考えます。さらにそうしていくことで次世代に教育に対する『責任』が生まれると考えます。


投稿者: 太一 | 2012年01月08日 00:22

 「わが子を愛することはたやすいことではない」とありましたが、私は正直、親というのは自らの子を愛するのは当然のことだと思うし、いたって簡単なことと捉えていました。
 しかし、さまざまな虐待が起きている今日、親子の愛とはいったいなんなのかと考えさせられます。
 よく町で見かけるのが、子供に親自らの趣味に合わせた服装をさせ、自分の所有物のように子供を捉えていることがあります。これはただの支配的な関係なんだなと思いました。
 そのような支配に対して、子供が反抗したときに虐待というものが起きるのではないだろうか。小さいうちはぐずったり、泣きやまなかったりするだけで支配できてないと感じて、虐待がおこるのではないか。
 親子の関係というのは支配的であってはいけない。れっきとした人と人との関係として認識することで支配できるものではないということを親が理解することが大切であると感じた。
 わたしはアルバイトで塾の講師をしていますが、子供というのは本当にいろいろな可能性を秘めていて、一人ひとりさまざまな個性があるのだと間近で感じています。そんな子供たちがそれぞれの個性を十分に発揮できる環境といったものを親だけではなく、周りの大人たちが作ってあげれることがとても大切であると思いました。親だけではなく、みんなで子供を育てていく。そんな環境がつくれれば良いなと思います。


投稿者: YT | 2012年01月12日 18:12

わが子を愛していない親というのはごく一部ではないかと思います。少なくとも望んだ出産であったなら産まれた瞬間というのは喜びで満ち溢れていることでしょう。それにも関らず虐待が増えてしまっている訳としては子育ての中で溜まったストレスがわが子への愛だけで支えられないほどに積ってしまっている現実があるのではないかと思います。
私の従姉妹に知的障害を持つ小学生がいますが、その親の苦労は聞く限り凄まじいものです。あまり裕福な家庭ではないため母親は時間のない中でパートをしなければならず、それもあまり時間が取れないため雇ってもらえずやっと雇ってもらえた場所で目いっぱい働き、子を迎えに行く。そんな中でも幸せな家庭を築いているのは家族や近所の住人、また小学校の親仲間などの多くのネットワークがあるからなのかなと思いました。わが子への愛はもちろん、それを押しつぶさないような周りの支援も重要だと思いました。


投稿者: NASA☆ | 2012年01月17日 14:21

 わが子を愛することはたやすいことではない、私もそう思います。親は子供に理想を抱いたり、期待してしまったりすることが多少なりともあると思います。そしてそれが達成されなかったとき、子供を責めてしまうと思います。
 子供も子供でその理想・期待に答えようと必死になるはずです。そこから親子間の息苦しい関係がはじまってしまうのではないかと思います。この解消には、子供を一人の人間として見つめ、子供の声に耳を傾け、子供の意思を尊重することが大切だと思います。


投稿者: しゃもじ | 2012年01月22日 00:30

 このブログで取り上げられた、子どもを育てるということ。我々学生にとって、とても大切なことと感じます。以前、先生が授業で取り上げられたように、周りから見たら虐待のように見えるものも、「これがうちの教育だ。」と言う親もいます。
 確かに、しつけや子の叱り方は親によって異なると思います。しかし、それが子どものためになるという妄想は、その親のエゴではないでしょうか。もしそのような間違った発想が生まれる世の中では、これからの社会の役に立つ子どもを育てることはできません。少しでも子どもを傷つけるようなことがあれば、すぐにそれを改善できる社会の仕組みを作らなければなりません。そのために私は、このような授業で、学んでいます。


投稿者: クリープ | 2012年01月22日 17:07

 この記事の『わが子を愛することはたやすいことではない』というタイトルを目にして初めて,親が私たち子供を愛してくれることが当たり前ではないということを知った。そして,記事の中の「支配‐従属」というところを見て,親子関係はそのようなものなのかもしれないと思ってしまい,考え込んでしまった。
 私は,両親のことをとても尊敬している。過保護だなあと少し思ってしまうくらい,愛してくれていることが伝わる。しかし,私も親になったとき,わが子を愛せないということが起きてしまうのだろうかと考えるとこわくなった。
 「日本の親子の現実は深刻」とあり心配になった。虐待のニュース等もよく耳にする。これから先,虐待が減少していくことは容易ではないことは分かってはいるが,なくなって欲しいと本当に思う。
 わが子を愛する親が少なかったとしても,子は親を愛していると私は思う。


投稿者: Mo | 2012年01月23日 01:22

「わが子を愛することはたやすいことではない」というタイトルをみて、親は子を愛するのは普通なんじゃないか?と思っていたが、実際に虐待問題が起きている今、本当に子を愛するのは難しい事なんだと思う。また、親子の関係が「支配-従属」ではいけないとあった。これはやはり子供は一人の人間であるのだから、親の所有物じゃないのだからその通りだと思う。親が子供を守るための愛情だと言って子供に対して支配的になるのではなく子供の人としての個性を尊重していかなくてはいけないんだと考えます。


投稿者: Anonymous | 2012年01月25日 08:06

「わが子を愛することはたやすいことではない」とありますが、確かに子供を産むだけで親になれるとは限らないと思います。
私のアルバイト先の後輩に、小さい頃、実親から虐待を受け、今は里親の下で暮らしている高校生がいます。
入ったばかりの頃、すぐに謝るクセがあり、ずっと不思議に思っていました。何ヶ月かたち、店長に事実を聞いたとき、驚いたとともに、虐待を受けている時に子供は謝るのだと知りました。謝っているのに虐待をする親が考えられません。


投稿者: Anonymous | 2012年01月25日 17:25

記事を読み、確かに子供のすべてを親のせいにしてしまうのは間違いだと思いました。それでもやはり、子どもに最も影響を与えることが出来るのは家族だと思います。記事の中では「親の顔が見てみたい」と思ってしまうことから脱却できないことを弱さと書いておりましたが、果たしてそうなのでしょうか。親との関係から子どもに負担がかかり…という場合もあるのではないでしょうか。そのような場合、弱さと捉え親への配慮を怠ってしまったがために…なんてこともあるかもしれないのでは?弱さと捉えず、親の責任もあるかもしれないと視野に入れてこどもと向き合っていくのもいいのでは、と私は考えました。


投稿者: 竹 | 2012年06月20日 17:07

「子供のため…。」一見子供に尽くしているかのように見えるこのような親の行動には、自分の望みをかなえるためや他の人に自慢できるようにするためのものがあると思います。
まるで子供が自分のモノであるかのような行動は、価値が重視される今の社会では仕方がないことのようにも思えます。しかし生まれながらに持った個性を尊重することこそ、子供のためであり、子供を愛するということであるのを理解し、子供は自分をよく見せるための道具ではないということに気付くべきだと思います。本当の意味での親子愛があふれた社会になることを願っています。


投稿者: ky-ma | 2012年06月23日 17:54

私も親子を閉じられた単位とする考え方はよくないと思います。
児童の中に困難を見出すと、親は今問題となっているモンスターペアレントのように教師に責任を転嫁したり、逆に教師も家庭の問題だと言ったりします。このように両者が責め合って「大人の子ども・青年に対する責任」、先行世代の次世代に対する責任を転嫁し合っているように私は思えます。そうではなくて、子供の親、教師はもちろんのこと、その地域の大人たちが協力して児童の困難を解決できるような環境づくりが大切だと私もおもいます。地域の人は子供たちの様子に気を配ってあげて、子供のほうも地域の人への挨拶を必ずするように親がしつけをするなど地域の人との交流も大切にするべきです。子供の未来への責任はまわりの大人全員で負っていくべきだと思います。
親は子を愛するあまり、大人の考える『いいこ』にわが子を育てようとしてしまいます。児童の困難をこれができないからこの子はダメな子と決めつけがちですが、児童の長所を見つけてあげて、それを伸ばすにはどうしたらいいかを考えることが大人たちのするべきことなのだと思いました。


投稿者: しゃもじ | 2012年06月23日 22:41

 私も、子育ては親子関係、教師と生徒の関係のように孤立した環境のみで行われるものではないと考える。私が小学生の時には、近所の人に叱られることも何度かあったし、近所のおばあちゃんの家に遊びに行くこともあった。近所の人みんなが私を育ててくれていたのかと今は考える。
 子育ては社会全体で行うべきである。親や教師のみの問題とはとらえず、次の社会を背負う人間を現在の社会で育てると考えれば、親も教師も力を抜いて子育てであったり教育ができるだろう。子育ては親、教師がするものという考えがあると、困ったことがあっても周りに相談しにくい。助けてくれる人がいることがわかるだけ人は安心して物事を行うことができる。
 将来、自分が子育てをするようになった時、そのような社会になっていることを願い、自分もその考えを忘れないようにしたい。


投稿者: KAIRI | 2012年06月30日 20:27

 今までは外出先でやたらに騒ぐ子供をみかけると親の躾がなってないなと思い、また自分の子供を愛せない親を見ると生まなきゃいいのに・・と考えていました。
 子供の過失はどうしてもその周囲の大人に責任を問うしかありません。そうした状況で親子関係が閉じられてしまえば責任はなにもかも親に依拠してしまいます。「子を愛せない親」という存在も悲しいことながら当然と言えるかもしれません。
 とはいえ昔のような地域社会を取り戻すというのも非常に困難なことのように感じます。
 今の社会の中でどうすれば親が責任に縛られることなく子供と向き合えるか考えることが重要だと感じました。


投稿者: ギース・ハワード | 2012年07月04日 06:32

閉鎖的な親子関係は虐待の温床となるように思います。
どんなにわが子を愛していても、ずっと一対一で生活していれば、親はストレスを感じるでしょう。子育ての不安や疲労感、たくさんの悩みを抱えながらも誰にも相談できない状況では、健全な親子関係を築けないのではないでしょうか。頭では「愛している」と思っていても、子供に冷たく当たってしまう矛盾がさらに親のストレスとなる悪循環が出来上がります。
そんな時に助けとなるのは地域の人々だと思います。家族内では解決しきれない部分を、地域全体で支えあうことが必要です。昔は近所の人との交流が今よりも盛んで、親子が1日中2人きりということはあまりありませんでした。
子育てを親子だけの問題ではなく地域社会全体の問題として、互いに支えあおうとする気持ちを持つことが虐待の軽減につながると思います。


投稿者: YKK | 2012年07月05日 08:36

閉鎖的な環境でずっと親子でいるのは、やはりマイナス要素が強いと思います。いくら自分の子供とはいえ、一緒に生活していれば本気で嫌気がさしたり、きと子供の対応に追われる親のストレスは募り募っていくのだと思います。最近では優しそうな親でさえ気づいたら児童虐待を行っていた、というニュースも飛び交い、私はなぜ…?と疑問を感じずにはいられませんでしたが、誰にでも虐待をしてしまう可能性は否定できないのだと思いました。授業を通してよりよい親子生活を築くには親子の関係だけでなく、社会すなわち近所付き合いももっと重要なのではないかと考えさせられました。愚痴を言えたりアドバイスをもらえる身近な存在は現代にとって最も重要なのだと思いました。


投稿者: いきもの | 2012年07月05日 08:42

私は「わが子を愛することはたやすいことではない」ということに、初めは納得行きませんでした。まだ子供を産み育てたことはありませんが、痛い思いをして産んだ我が子を愛するのは当然のことで決して難しいとは思いませんでした。
 しかし、愛することがたやすいならば虐待は起こらない、つまりたやすいことではないということが理解出来ました。虐待を解決するためには親を更生させれば良いと思いましたが、それでは解決しないのが事実です。親と子の関係が閉ざされたものであると、社会から見えないところで虐待が起こってしまう可能性が高くなるので、地域社会で親子関係をサポートしていくべきです。今の日本は、なかなかサポートが出来ていません。子供を親だけでなく地域社会の宝として扱うことが必要で、そのためには児童相談所の利用をしやすくしたり、幼稚園・保育園等のサービスを向上させるといいと思います。
 虐待を撲滅することは難しいことだとは思いますが、地域社会が何か行動を起こさない限り、減少することはないと思います。そうした努力を一刻も早くしてくれるのを願っています。


投稿者: まゆっぴ☆ | 2012年07月08日 02:14

高校生のとき、現代社会の授業で先生が虐待とそれにまつわる親子関係の難しさについて話してくれたのを思い出しました。そこでまさに「わが子を愛することはたやすいことではない」ということを話されていて、私は「なるほど」ととても感銘を受けたのを覚えています。そしてその日帰宅してすぐそのことを母に話したのですが、「子どもを愛せないなんてありえない」と返されてしまい、ショックを受けました。現代社会は昔と大きく姿を変えました。そんな中で、地域社会と個人の関係の希薄化による孤独などのストレスが、子育てに悪影響を及ぼすのは明確なことでしょう。しかしそれを「昔はよかった」などの懐古主義的な考え方でまとめるだけでいいのでしょうか?これからも続く「現代」に合わせた手だてや改善方法など、もっと未来につながる前向きな姿勢を多くの人が持たないと、虐待やその他の教育上の問題は、減らないと思います。


投稿者: luna | 2012年07月09日 12:53

こんばんは。
「わが子を愛することはたやすいことではない」この記事を読んでいて,「慈しみあい,育みあう」ということが人と人の関係において大切であること,忘れてはいけないことであることだと改めて感じさせられた。
子どもの世話をすることは,わたしは子育てをしたことがないけれど,身体的にも,精神的にも大変なことであると思う。正直,いま妊娠して子どもをさずかっても産み育てる自信はない。「こんなにしてあげてるのに」とわたしも思ってしまうだろう。感情をうまく伝えることができない子どもに対して親のイライラもつのるだろう。親子の関係が閉鎖的になっているとき,この負の感情をどこにも持っていくことができず,虐待の可能性を生み出してしまっているのだと思う。
そうしたことを避けるためには,地域との関係というものが必要不可欠だとわたしも考える。地域の「大人」と「子ども」がしっかりとつながっていることで,良い意味での「監視の目」の役割を果たしてくれることになるのだと思う。
また,「大人」と「子ども」の関係だけでなく,子ども同士の関係をしっかりと構築してほしいと思う。保護者ー被保護者という関係ではなく,すべてにおいて対等な友達同士のほうが話しやすいこともある。
そうして,地域の関係というものが開かれていくとわたしは思った。昔のように,安全に子どもたちが遊べる公園や環境ができればいいなと,人がいない公園を横切るたびに思ってしまう。


投稿者: もとの | 2012年07月11日 00:02

親子を閉じられた単位とするのではない、という言葉が印象に残りました。
様々な虐待の番組や本を読むたびに、母親が慣れない育児に苦しむなか、父親は仕事で忙しく家にいない、近所付き合いもない、実家の親にも頼れない、などの母親の孤独を感じ、自分自身が母親になることに不安も感じました。このように閉じられた単位、閉じられた人間関係のなかにいることで、虐待が起こってしまうのではないかと思います。
もっと人間関係を開くこと、親も子供も自分自身の安らげる人間関係を築くことが虐待をなくす一つの手段なのではないかと思います。


投稿者: あべ | 2012年07月12日 00:23

これはいつの時代からかわかりませんが、きっと私の生まれるずっと前から、子どもの良くない行いや学習の遅れなどのすべては親のせいであるとされ、子育てやその親自身の人間性などが非難されます。これは今の時代も変わらず続いていることです。そんな周囲からの大きなプレッシャーにより、親子の関係、家族の関係がどんどん閉じられたものになってしまい、子どもたちの社会の中での育ちが制限されているのではないでしょうか。子どもは親だけの手によって育てられるものではなく、周りの社会のあり方も子どもの成長に大きく関わっているため、親子とその周りの社会との良い関わり合いをまず作らなければならないと感じます。


投稿者: MIKI | 2012年07月17日 12:29

まだ最近も虐待事件のニュースが流れていて、見るたびに悲しい気持ちになります。
しかし、子供に暴力をふるってしまう親たちだって、はじめはわが子を愛していたと思うのです。それでもこのような悲しい事件が起こってしまうのだから、わが子を愛し続けることは簡単なことではないのだと痛感しました。
親子の関係が閉じられた息苦しいものにならないために、地域社会との交流は欠かせないと思います。


投稿者: スナフキン | 2012年07月18日 10:18

「わが子を愛することはたやすいことではない」この言葉を見た時、私は衝撃を受けました。私は母親というのは自分の産んだ子供は無条件で愛することが出来ると思っていました。しかし、現代では親による子供への虐待が問題になっています。それは、親子という関係と、それを見る周囲の環境が変わってきた現代においてより問題となるのだと思いました。子育てにおいて親子の関係に第三者が関与できる社会が求められているのではないのでしょうか。


投稿者: りんご | 2012年07月24日 18:18

「わが子を愛することはたやすいことではない」という一文で、『ハッピーバースデー 命かがやく瞬間』という書籍を思い出しました。娘を精神的に虐待してしまっている母親は、我が子でありながらもどうしても愛することが出来ずにいます。この場合母親の少女時代のトラウマが発端として描かれていますが、子が親を選べないように親も子を選べないのだと今になって考えさせられました。
現代はインターネットの発達により、情報収集となるとまずパソコンに向かう人が大多数です。人とのコミュニケーションの中で情報を交換しようという発想がそもそも希薄になりつつあるのだと思います。結果何でも一人で解決しようとすることにより、親密圏の関係がどろどろとしたものになっていきます。記事でも述べられていますが、やはりナナメの関係の活性化が要になってくると思われます。けれど一度発達してしまった情報技術から手を引けというわけにもいかず、なかなか打開策は見つかりません。
しかし震災が起きたことにより、ネットやメディアが当てにならず、隣近所の繋がりが大切だと実感し始めた人が多くいるのも事実です。緊急事態にならないと気付けないというのは悲しいものがありますが、人間の価値観、考え方の転換はそれほど衝撃的なものでなければ起こり得ないのかもしれません。


投稿者: chi-410 | 2012年07月25日 11:06

 「わが子を愛すること」は、社会の中で「当たり前のこと」と位置付けられている傾向にあり、このように、多くの人の中に植え付けられている固定観念が、わが子の愛し方がわからない親たちをさらに苦しめていると思いました。また、現在ますます深刻化している日本の虐待の現状から「虐待」と「わが子を愛することのむずかしさ」は非常に大きな関わりがあると思いました。
 愛情と虐待はかけ離れているように思えるけれど、実際はとても近い存在にあると私は思います。子供に愛情を注ごうと思っても、その方法がわからないから虐待につながってしまう。過度な愛情がいつの間にか虐待になってしまう。ということがあると思います。
宗澤先生の講義をうけて「強迫的な愛情」ということを知りました。一見、子どもを褒めたり、励ましたりする言葉も、「子供にやましさを植え付ける」ことにつながる時もあるということを知り、「わが子を愛すること」は決して簡単なことではなく、親自身が「私はわが子を愛している」と思っていても、それは親の自己満足に過ぎないと思いました。そして、そのことに親自身が気付くことは難しい時もあり、そんな時に、祖父母や第三者が親子のサポートができるような環境が必要だと思いました。


投稿者: ばすどら | 2012年11月24日 18:21

経済面で家族を扶養していることになれば、そこに愛がなくても親の社会的な役割は果たせている、ということになるのでしょうか。これは、私の最近の疑問ですが、この記事を読んで愛がない親子関係は虚しいものだと感じました。植民地時代の子供に対する考え方が今日の親子関係にも浸透しているのですね。愛を育てるはずの家族が悲しい組織として存在する日本の姿を改めて知ることができました。しかし、この記事にも書かれている通り、子供を成長させるのは親だけの役割ではありません。たしかに「育てる」のは親の仕事かもしれませんが、「成長させ」たり、「成長のチャンスを与え」たりすることは、学校や地域の役割でもあります。よって、学習環境が整っている学校やコミュニティが存在する地域が必要となってきます。つまり、これは福祉の問題です。福祉の問題、という言葉だけを聞くと生活困窮者への対処などしか思いつきませんでしたが、この記事を読み子供の育成にも関わる重要なことだと思いました。この記事の内容とは少しずれてしまいますが、愛されない子供の問題にしろ、自分の興味の有無に関わらず様々な社会問題から日本の福祉制度を知っていこうと思います。


投稿者: オリオンをなぞ子 | 2012年11月25日 01:38

私は「わが子を愛することはたやすいことではない」というタイトルにハッとさせられました。私は今まで無意識のうちに自分の子を愛することは当たり前だと思い込んでいたのです。テレビのニュースや新聞記事で、子どもの虐待や親による子ども殺害などの事件を知る度、“どうして自分の子にそんな酷いことができるのだろう”、“わが子を愛していないのだろうか”と思っていました。現代の社会は子育てが難しい社会だということは何度か目や耳にしたことがあります。親同士の繋がりや地域のコミュニティが希薄になっていることもその一因であるのだと思います。悩みを打ち明ける相手、相談できる相手がいないのかもしれません。学校生活などにおける人間関係のように、うまくいかなくなること、相手に苛立ってしまうこと、距離のつかみ方がわからないことなどは、親子間において生じてもなんの不思議もないことなのだと思いました。虐待やいじめなどの報道では、親や学校が社会から非難されます。私はそれを今まで当たり前のように受け入れていました。しかし、私たちは「子どもたちは社会で育てていく」という意識を持つべきなのではないか、と考えました。


投稿者: ぱすてる | 2012年11月28日 22:21

「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉にほっとしました。最近子どもと関わる機会が増え、かわいいと思う反面どこかしんどくなるので、私は将来自分の子どもを愛せるのかと少し悩んでいたからです。社会は「わが子を愛することなんて当たり前だ」と思いがちです。しかしそれは違い、当たり前なんてことはないのです。もし親が子どもに対して虐待などの過ちをおかしてしまっても、正してくれるひとがいればいいのです。宗澤先生が講義の際おっしゃっていた「つながり」についてですが、「親と子ども」という縦のつながりだけでなく、「子どもと友達」という横のつながり、「近所のおばちゃんと子ども」という斜めのつながりが生まれ、共に助け合うことによって地域で生きていけるのだと思います。地域全体で子育て、そして自分育てを支えていくという気持ちが大切だと学びました。斜めや横のつながりが希薄になりつつある世ですが、震災が起きたことであらためて地域でつながることの重要性を確認した人も多いと思います。福祉にとっても地域というものはとても重要だと思うので、いまいちど地域についてみんなで考えなおす必要があると思いました。


投稿者: カーテンレール | 2012年11月28日 22:46

以前、母に私の兄と姉はどんな子どもであったのか尋ねたことがあった。その時の母の「一番最初の長男の子育ては、余りにつらくて自暴自棄になりかけた」という発言がとても印象に残っている。まだ幼かった頃の私にとってその言葉はショッキングであり、何だか不安さえ感じた。その頃の私は、親が子どもを愛するのは当然であると思っていたからだ。しかし、色々な事を見たり、経験し、あの頃よりも少しは大人になった今、あの言葉も分かる気がする。
自分の子どもが生まれるまでの人間の世界は、いわば『自分と他人』の世界だといえる。結婚してパートナーができたとしても、その相手も元々は赤の他人である。そんな世界の中に突如現れる、子ども。それは自分でも他人でもない存在であり、余りに弱く、故に自分を頼ってくる。今まで自分と他人しかいない世界を生きていた人間全てが、それをすぐに受け入れることなど、できるはずがない。
そして子どもに対しては無条件の愛を注がなければならない。これも一見簡単そうで、実は難しいことだ。なぜなら、こちらがいくら愛を注いでも、その愛にどう答えるかは子ども次第だからだ。それまで、「支配-従属」「搾取-被搾取」の社会に生きてきた人は、自分の愛情と子どもの行動の釣り合わなさにもどかしさを覚えるだろう。そういった思いが、現代の脅迫の愛情を生み出しているのではないだろうか。
私がまだ小学生だった頃、姉が問題ばかり起こし、手が付けられず、母が祖父母(母にとっての両親)に対して、「もうどうしていいか分からない」と泣きじゃくったことがある。私はそれを見て、何となく「ああ、母も子どもだったんだ」と思った。このブログのタイトルを見た時、何故だか分からないが、その時の事を真っ先に思い出したのである。


投稿者: TK | 2012年11月29日 03:54

 私も、わが子を愛することは、すべての人ができることではないと思います。理由は、他の動物にも育児放棄というものがあるからです。例えば、動物園のパンダが育児放棄を行った場合、飼育員が子どもの世話をします。人の場合飼育員はいないので、児童養護施設にあずけることになるでしょう。しかし、集団で行動するサルのような動物の場合は、同じグループの他のサルが世話をしてあげます。私は、親だから子どもの世話をするのではなく、大人だから子どもの世話をしているのだと思います。人の場合も同じように、親がだめでも身近な大人が子どもをみてあげることができればいいのですが、今の日本では宗澤先生がおっしゃっていた通り、「ナナメ」の関係が薄れているため無理でしょう。そのため、家族内のコミュニケーションも必要ですが、親戚や近所の人とのコミュニケーションも必要だとあらためて思いました。
 人には感情があるので、愛することができないのも当然ありうることです。だから、虐待をしてしまうぐらいなら、児童養護施設にあずけるほうがいいと思います。ただ、育児が辛いからとか、言うことを聞かないからという理由で、簡単に諦めてしまうのではなく、まず近所の人等に相談することができれば、虐待も減るのだと思いました。子どもだって一人の人間で、人格のあるものだときちんと理解して接していくことで、愛し方も少しは変わっていくのではないでしょうか。


投稿者: ユガミ | 2012年11月29日 21:39

 私は子育てを受ける側だったので、最近まで親の愛情はあたり前だと思っていたし、そもそも深く考えたことはありませんでした。だから虐待なんて理解ができませんでした。
 しかし子育てをする側に近づいていくとともに、誰だって子育ては初めてで、手探りをしていかなければならないのだから、子どもへの接し方がわからなくても当然であり、それを一人で抱え込ませてしまう環境もおかしいと感じるようになりました。子どもを育てる難しさを感じたことがないけれど、子育ては思うようにいかないことばかりだと思うし、不安でいっぱいになるから、子どもにあたってしまうことだってあるよなと少し理解できるようになりました。
 やはり昔は子育て経験者が傍にいる環境があり、悩んだとき迷ったときに一人で抱え込まなくてよかったと思うし、ご近所付き合いとかも今より強く、子どもをみんなで見守るという環境があったが、今はご近所さんとの関係が弱く核家族化がすすんでいるため、子育てで孤独を感じる人は多いと思います。だから、もっと地域社会で子育てをする意識というのが必要だと私も思います。


投稿者: なみだいろ | 2012年11月29日 23:44

 「わが子を愛することはたやすいことではない」。先生の講義を聞き、まさにその通りだと感じました。その理由の一つに挙げられるのが、今日の悪意のない育児放棄です。子どもが望むものだけを食べさせ、子どもが食べたくないと言うのならば食べ物を与えない。その行為が結果的に虐待になってしまうことにさえ気付いていない親が増えています。子どもの為を思っての行為がまさか虐待になっているとは、親は考えもしないだろうし、ショックさえ受けるのではないでしょうか。また、家庭がそれを取り巻く社会から孤立しているのも今日の特徴です。「共同体の中にある家庭」を築かなければ、家庭内で起きている虐待に気付くのが遅れてしまうし、虐待の原因になる育児ストレスを周囲との共感で緩和することも難しくなります。閉鎖的な家庭は子どもにとっても親にとっても、マイナスになる可能性が高いということです。
 この現実を踏まえ、これから親子関係をより親密にする為には、家庭が地域社会との積極的な関わりを持つこと、そして地域が一体となって共同体内の子どもを危険から守ることが求められると私は感じました。


投稿者: emi | 2012年11月30日 02:36

先日は特別講義に来てくださり有難うございました。虐待の土壌がどのように出来ていくのかお話して頂きましたが、確かに地域社会における「タテ」関係の突出は、昔の時代に比べ、近年強く感じるようになった気がします。親や教師が無意識に権威的な気持ちを未自立な子供達に伝えてしまうことで、かえって子供達の中には劣等感ややましさが生まれやすくなってしまうという悪循環の要因が、強迫的とはいえ愛情にあるということが何とも複雑で難しい問題だと感じました。また、男女関係であっても、歪んだかたちでの愛情がDVを生み、さらに共依存に陥ってしまうことで息苦しくも抜け出せないという負の連鎖が生まれてしまうということは、上記の問題と同じく難しく、そしてもの悲しいものがあるように思いました。今回は、父親と母親が支え合い、子供を正しいかたちで支援していける家庭を築いていくことの大切さ、本来在るべき正しい人間関係の在り方について、改めて考えさせられるとても良い機会となりました。有難うございました。


投稿者: まちこ | 2012年11月30日 14:35

3年ほど前、母が祖母に「私がガラスのコップを落として割ったら最初になんて言う。」と聞くと、祖母は「なにしてるのっ、かなぁ。」と言いました。すると母は「心配している言葉をかけるのが先でしょっ。考え方がおかしい。」と、鬼の首を取ったように言いました。

母は、戦後の近代家父長制のもとで育ちました。祖母は先生の講義で学んだとおりの母親像で、家事はしなくていい、だから、いい学校に行って、いい職を手につけなさいと常にけしかけ、強迫的な愛情を注いでいたようです。そして、現在、母と祖母の間には目に見えたひずみがあります。そのような二人の現状があるなかで、受講させていただいた講義は興味深いもので、このような関係になってしまったのは、本人たちのせいだけでなく社会の仕組みが関係していたのだと知りました。これを知ることで、祖母は自責の念が、母は不満が、お互いに和らぐかもしれません。相手や自分にだけではなく社会にも原因があったと考えればそれが気持ちの逃げ場になるからです。

また、先生の記事の以下の文に惹きつけられました。
”親子関係に「支配―従属」や「搾取―被搾取」という今日の社会秩序にみる関係性を所与のものとして持ち込まず、「複製しない」ことが大切”
祖母と母の問題の解決への手だてがここにあるように感じます。


投稿者: ます。 | 2012年11月30日 14:50

北九州市立大学で先生の講義を受けました。
授業を受ける前の私は、虐待がどの家庭でも起こりうるものと想像することができませんでした。夫による家事の丸投げ、赤ちゃんの夜泣き、悩みを相談できない・困ったときに頼るアテがない核家族世帯の環境など…考えてみれば確かに要因は日常にたくさん埋れていて、特別なことなど何も無いのだと知りました。虐待について学び、我が子を愛するということですら容易ではないと知る中で、私は今まで出会ってきた友人たちの親や自分を育ててくれた親のことを偉大だと思えるようになりました。
虐待のような暗い話題が出ると親になることに躊躇いが出てしまいますが、将来家庭を持ったら周りの人と協力して円満な生活を築けるよう肝に銘じておきたいと思います。
先生、これからも頑張ってください。


投稿者: あまおう | 2012年11月30日 16:07

わたしは初め、わが子を愛することはたやすいことではないというブログの表題を見て、とても違和感がありました。わが子を愛せない親など存在するのだろうか、とても疑問に思いましたが、きっと最近よくテレビニュースなどで見かける虐待の問題で虐待をするような親のことだろうと思いました。しかし、虐待をしてしまうような親だけに限らず、様々な社会的要因などによってわが子を愛せない親がたくさんいるのだろうと思いました。わたしには年の離れた弟がいます。弟の同級生のなかには母子家庭の子がいます。そのような子が何か学校で問題を起こしたりすると、周りの保護者たちは親が1人だからとか、親が遊びまわっているからと全ては母親がわるいということで片付けてしまっています。しかし、母親のせいにするのではなく、地域全体の問題として捉える必要があります。今、虐待の事件があとをたたないのもこれと似たような原因があると考えられると思います。昔は隣近所の人たちも一緒に子育てをしていたのに、現在では子育てをするのは親だけの状態です。これで、親の負担や、不安、ストレスが重なり虐待といった事件に結びつくのではないかと思います。これからは子育ても地域でやって行く時代だと考えます。


投稿者: みなな | 2012年12月10日 01:21

北九州市立大で宗澤先生の虐待に関する特別講義をうけました。児童虐待が年々増加しており、それによる死亡事件もあいついでいると頻繁に耳にします。私の中でどんなことがあっても親だけは絶対に裏切らない人であり絶対的な信頼をよせれる存在と思ってました。子どもが親の愛情を受けることは当たり前たど思っていましたが、社会問題となっている児童虐待の実体をみると決してそうといえないと認識しました。「我が子を愛することはたやすいことではない」という表題通りなのかと思いました。
子育ては体力的にも精神的にもかなりの労力をようするといいますが、自分の子は自分で育てないといけないという考えを持っている人が世間一般に多い気がします。よって子育てにいっぱいいっぱいになり児童虐待に繋がるのだと思います。閉鎖的な社会ですが、子育てはみんなでするという考え方が浸透したらいいなと思います。
そうすることで子育ての不安やストレスが少しでも軽減し子どもにたっぷりの愛情と愛のあふれる家族でいっぱいになってほしいです。


投稿者: あい | 2012年12月10日 18:18

虐待の事件を聞くたび「なぜ、自分の子に暴力をふるったりするのだろうか。」という思いを抱いていたが、それは自分が“親が子を愛することはあたりまえなこと”と考えていたからだ。親も人間であるし、子育てのことでストレスもたまる。そんなとき今の社会では、まわりの人に頼ることができない。親はそのストレスを一人で抱え込んでしまい、やがてそれが溢れ出し、虐待にいたる。この負の連鎖を止めるためにもこの社会を改善する必要がある。


投稿者: メカ | 2012年12月22日 17:01

わが子を愛することは、たやすいことではないけれども、本当は愛したいのだと感じます。しかし、周りとの関係が希薄になった現代では、親子関係に依存しすぎてしまうから、虐待につながってしまうのだと思います。虐待はもちろんいけないことですが、それを恥ずかしいと思って誰にも相談できないと、状況はもっとひどくなってしまいます。相談しやすいコミュニティづくり、苦しんでいる親はあなただけじゃない、と親子を救ってあげられる場所がもっと身近に必要です。


投稿者: ほいっぷ | 2012年12月24日 09:17

私は今日まで日本で生きてきて、この先自分の子供を持つことにためらいを感じています。それはなぜかと自分に問いかけたところ、親になって子供をもつことに対する魅力よりも子供を一人前の大人になるまで責任をもって育て上げなければならない、その過程における数々の苦難のイメージの方がはるかに大きいためだと感じました。
しかし、母親から話を聞くと、「それ以上に親は自分の子供をかわいく思っているから頑張れるんだよ。」という話をされました。ですが、私は子供に対する愛情だけでは子育てはうまくいかないと考えています。それに愛情というものは感情であり、感情には不確定要素がかなり影響しているため、子供が自立するまで愛し続けられる保証なんてどこにもありません。
限に日本における出生率は低迷しています。また日本の教育制度や子供を持つ親に対する支援政策、子育てにおける環境、国特有の風習を考えると、日本で里親が増えないのにも納得がいきます。
私は先生がおっしゃるように親子が外の世界から孤立しがちであることが一番の問題点だと考えました。何でもかんでも昔と現在を比較するのが良いとは思いませんが、やはり昔の方が親同士やご近所さんとの助け合いがあり親としては子供を育てやすい環境だったのではないかと思いました。子供を育てるというこの大変な行為において、その親だけでは解決できないような場面が必ず訪れると思います。その時にいかに周りに頼れる人がいるかどうかが子供を愛することと同じくらい大切ではないかと考えています。


投稿者: みその | 2012年12月31日 09:59

 私は両親から虐待などをうけた経験がありません。これは当たり前のことと思っていいのかとこの記事を読んで感じました。当たり前と考えるなら両親から愛情を注がれて育てられて来ている証拠だろうなと私は思います。しかし、現在の日本では、当たり前と感じることのできない子供たちが増えていると聞きました。虐待を受け、両親からの愛情を感じられないまま児童相談所に保護される子供もいるという現実に心が痛みます。
私自身、正直なところ子供を授かった時に愛することができるかというと不安な面もあります。しかし、自分のもとに生まれてきてくれた子なので、私自身が両親からたくさんの愛情をもらったように、私も子供に愛情を注ぐべきだなと思いました。私の母は一人で今日まで育ててくれました。話を聞くと「最初は突然のことで、父親がいなくなったことを受け入れることができずに私を育てていくことが不安だったし、一人で育てていくのが嫌だった。でもあなたの心の中には父親がずっといるし、周りの人が支えてくれたからここまで育ててこれた」と聞きました。やはり、周りの人からの支えがあれば、子供を愛することができるのではないかと思うので、信頼できる人を見つけることが大事なのではないか、また、子育てに対するストレスを解消する場を作ることも大事だと考えます。 


投稿者: ゆうだい | 2013年01月07日 19:13

「わが子を愛することはたやすいことではない」私はこの言葉を見たとき、はじめはそんなことはないだろうと思っていました。しかし、最近新聞やテレビのニュースで“児童虐待”という言葉をよく耳にするようになりました。私はそんなニュースなどを見るたびに、どうして自分の子どもにそんなことができるのだろう、と不思議に思っていました。でも、今の世の中は核家族が増えていて、子どもを育てる中で、近くに助けを求められる人がいなくて、家という狭い空間に閉じこめられてしまうことで、ストレスがたまりそういうことが起こってしまうのではないかとも考えるようになりました。母親、父親は子どもに愛情を注ぐことは当たり前というように考えていましたが、考えてみると、母親、父親も私たちとなんら変わりない一人の人間です。そう考えると、やはり子育てをするには地域や周りの人の協力がとても大切なのではないかと思います。子育てをしている自分の近くに、そのように相談にのってくれたり、話を聞いてくれたりするような頼れる人がいれば一人ですべてを抱えこんで、閉じこもってしまうこともなくなるのではないかと思います。だから、児童虐待という悲しい事件を少しでも減らすためには、地域社会の協力がとても大切だと思うし、その協力によってわが子に手をあげてしまう悲しい親、親に手をあげられる悲しい子供が一人でも多く救われるような社会になればと思います。


投稿者: あいこ | 2013年01月07日 20:17

わたしは、むねさわ先生のわが子を愛することはたやすいことではないという言葉に強く興味をもちました。わたしは、親がわが子を慈しみ、愛することは当たり前のことだと思っていました。しかし、先生のブログをよみ、それが必ずしも、当たり前ではないということを知りました。わたしは、自分でも感じ、理解できるほどに父と母に愛されています。本当に心から感じられるくらいにです。わたしは、今までそれが当たり前であり、すべての子供がそうであると思っていました。しかしそれは、非常に恵まれたことであることに気づかされました。わたしは、自分が母親になったとき、心からわが子を愛しているとゆえるのだろうかと自分に問いかけずにはいられませんでした。


投稿者: 結 | 2013年01月08日 04:11

地方の田舎や、島では未だにその地域の大人たち全員が親のような存在となり、子供たちを見守り、そして育てていくという風習がある。あいさつはきちんとするし、悪いことをしていれば本気で叱る。それはかつての日本の一般的な姿であったが、現代の親子関係はあまりに閉ざされすぎている。子育てに行き詰ってしまった親たちが経験ある年配の方々に頼れるような環境を復活させていくことで親たちは余裕をもって子たちを見守ることができると思う。


投稿者: まさき | 2013年01月08日 20:45

年を重ねるにつれ「育てられる側」から「育てる側」に近づきつつあるなあと思い、ときどき「自分に子供ができたらどうやって育てていこう」と考えるようになりました。先生がこのブログにも書かれていらっしゃったような、「支配―従属」といった、子が親の所有物であるかのような接し方は、親と子が血の繋がりはあっても全くの他人だということへの不理解からくるものではないかと思います。ある一定の時間を一緒に過ごす家族であっても別の人間であり、別の人生を歩んでいます。自分の子供だからといって自分の思い通りにさせようとしたりせず、一人の人間への尊敬の意を忘れずに接するべきだと思います。


投稿者: つっきー | 2013年01月14日 01:37

「わが子を愛すること」とはどういうことなのだろうかと改めて考えました。最近よく、子離れができない親の話を聞きます。大学受験、さらには就職活動にも、親が付き添うということも増えているようです。子どもに幸せになってもらいたいからこその行動かもしれませんが、それらの親は自分への親としての評価のために、子どもを支配しているのではないかとも思えます。愛することは、その子の価値を認め、大切にすることではないかと思います。


投稿者: 花 | 2013年01月15日 22:46

ブログの題名を見て、そんなことはないだろうと思っていました。しかし現実には、赤ちゃんや幼い子に向かって抑えきれない怒りや憎しみがこみ上げ手をあげてしまったり、ネグレクトになったりと様々です。まだ子を育てたことが無いのであくまでも想像にすぎませんが、このようになってしまう親は思い通りにならないのは人・環境のせいと考えていると思います。なんの苦労もなく育つ子なんて存在しないという認識や子を持つという責任をどのように捉えるかがとても重要なことだと考えます。


投稿者: Eita | 2013年01月16日 11:49

わが子を愛することはたやすいことではない、ゆえに親子間での殺人や虐待が起きているのかもしれない。殺人が起きた近所の住民はインタビューで、決まって「仲はとってもよさそうでしたよ。」などという。しかし、事実として殺人が起きるのは、やはり社会や地域から閉ざされた親子間に何らかの問題、関係性が希薄の近所の住民には見ることのできない問題が存在するからだろう。このような問題がもっと地域に表面化しやすく、そして地域全体でそんな問題を抱える親子を助けてあげられるような環境づくりや関係性の強化が必要だと感じた。


投稿者: ジョルジュ | 2013年01月17日 01:35

わが子を愛することのできない親が本当にいるのだろうかと初めは疑ったが、それは自分や周り(友達)など、問題のない家庭を見てきたからこそそう感じたのだろうと思った。
核家族化が進み、親と子だけの閉鎖的な空間が虐待の現場となってしまうのならば、親子共々開かれた空間に出ることは一つの解決策になりうる。町内会、同じマンション内など、子を開かれた空間に晒すことで子を親だけでなく周りの目にも触れさせる。否定的に見れば子自身の周りのコミュニティが虐待からの逃げ道となり、肯定的に見れば親が子育てについて周りに具体的な相談を持ちかけることができる。誰にも相談できずに子育てにおける苛立ちを一人で抱え込む親が、勇気を持って自分と子を周りに見せることが親子両方を救済することに繋がると思う。


投稿者: にんじん | 2013年01月17日 17:34

私は良き親に恵まれており親子間の問題には関心が薄かったのですが、この記事を読んで深刻さを認識しました。近年、親子間で起きる事件が多発していますが、これは親子間の愛が薄れている証拠です。愛情とは特に親から子どもへと注がれるものですが、親から子どもに注がれる愛が薄れてきたことが、児童虐待のみならず児童間でのいじめが多発していることにも関連しているのではないでしょうか。
 そして、親子間の愛情の希薄化は親子間だけの問題ではなく、地域全体における問題であるという考え方には賛成です。地域間、ひいては人と人との繋がりが弱まっていることが、親子間で顕著に現れているのだと思います。
 人によって起こるほぼ全ての問題は、愛情の不足が原因であり、それはつまりその問題を起こした人を育てた人の責任であるとも言えます。そのような問題を解決できるかどうかは、私たちが次世代の子どもたちにしっかり愛情を注ぐことができるかどうかにかかっています。現代に生きる私たちは、この問題に向き合う義務があります。


投稿者: アーモンド | 2013年01月20日 15:42

親がわが子に虐待をしているからと言って,一部の事例ではあるがその親がわが子を愛していないとは私には思えない.この子が言うことを聞かないからとか,わが子のことでストレスが溜まってしまったとか虐待をする理由は様々であるだろうが,それは全部わが子を考えた上で虐待をしてしまっているのである.自分の言うことを聞いた方がわが子にとって良いと思っているのであるし,わが子のことでストレスになってしまったわけである.赤ちゃんポストに赤ちゃんが置き去りにされたというニュースも以前はよく耳にした.この親はわが子を愛せないからこそ,捨ててしまったのであろう.ゆえに,虐待をしてしまう親たちはわが子に対する愛情表現の仕方が間違ってしまっているだけであって,愛していないとは言えないと考える.この間違えた愛情表現をしている親をどう変えていくべきか.それが,今の私たちに必要な課題ではないかと考える.


投稿者: ちょい | 2013年01月20日 16:54

親は子供にこうなってほしい、こう育てたいなどいろいろな理想をもって子供を育てていくでしょう。しかし思い通りにいくことばかりではありません。今回の記事を読んで思い通りに子供に愛情を注ぐことは実はとても難しいことなのだと感じました。虐待・ネグレクトなどの問題は決して子供に対して愛情がないから起こるということではないのだと思います。仕方のない状況によって思うようにわが子を愛せない、親にとっての愛が子供にとっては違って伝わってしまうなど親が子供を愛していないわけでは決してないのです。
虐待の一因に親と子の二者という閉じられた関係があるということには同意いたします。核家族化の進行によって現代では子供は親の支配関係にのみおかれがちです。子育ての問題にぶつかったとき、親は自分の問題だと背負い込んでしまう傾向があり、また周りの人もその子の親の責任だとしてしまう傾向があるように感じます。それも教育環境が親と子供の二者間のみに限定されているためです。しかしだからといって子育てにおける問題を地域・社会で共有していくことは容易ではないと思います。閉じられた関係の原因として家族構造の変化が一つ大きくありますし、親の子供を支配したいという欲求も消えるわけではありません。親密件における問題を社会で共有していくためには様々な課題があり、それらをどう対処していくか考えていくことが大切になると思います。


投稿者: truth | 2013年01月22日 22:56

私は今まで親が自分の子供を愛することはすごく当たり前のことだと勝手に思っていた。しかし、親の自分の子供への愛の欠如こそが虐待や育児放棄など様々な問題につながっていることに気付かされた。
核家族化や周りとのかかわりが希薄化した現代において親子の関係性はより重要になってきていて、親子のあるべき姿について考えさせられる。


投稿者: アリゲーター | 2013年01月23日 00:07

私はこの記事を読むまで、親が子供を愛するのは至極当然のことと考えていました。しかし、それならば虐待や捨て子などの悲しいことが起こるはずはないなと改めて考え直しました。私は、現代の親子関係において(まだ20ちょっとしか生きていないので、昔のことはわかりませんが)親は、周囲に対しても自分の子供に対しても「親」であろうとしすぎなのではないかと思います。そしてその役割のようにとらえられた「親」を演じることに息苦しさがあるのではないかと考えます。「親」だから子供に弱みは見せられないとか、威厳を保たなければとか、責任をとらなければとか。しかし、親である以前に一人の人間です。楽しいときもあれば、当然辛い時もあります。子供を「子供」とあなどらず、対等な立場で対話することもときには必要で、子供もそれを望んでいるのではないでしょうか。その対話ができたとき、お互いを本当に理解し、真の愛や慈しみが親子間に生まれるのではないかと考えます。また周囲の人間も、親を責める前に、親たちの声に耳を傾けることが重要だと考えます。


投稿者: 青 | 2013年01月23日 11:41

私はこの記事を読んで、子育てが怖いと感じた。親子関係に「支配-従属」「搾取-被搾取」の関係をもちこまないということは至極当然のことかもしれないが、どれだけの家庭がこの関係を無意識のうちに形成しているかを考えると、当然のこととは言うことが出来ない。
 講義で「慈しみあい育みあう」と仰っていましたが、このことを行動に移すのがどれだけ難しくかつ重要なことかを知らしめていく必要があると考える。


投稿者: zIMa | 2013年01月24日 15:45

私は親に愛されてきたと思っている。しかし、それは簡単なことではないということはわかる。現在、家族は閉ざされた環境の中にあり地域とのつながりが希薄化されている。それにより子育てはさらに難しくなっている。昔のように地域で子育てをする社会を再び構築するには、治安など様々な難しい点があるが、再構築できたならば、再び子育てのしやすい環境が生まれ、今より親の負担が減るのではないだろうか。


投稿者: ササキ | 2013年01月24日 18:23

 授業で、昔は地域で一つの家族のような状態であった、と言っていましたが、そのような地域社会は私の理想です。
 誰の子であっても同じ地域に住む子供を同じように愛せるのはとても素晴らしいことです。親同士がお互いに助け合うことで、地域のきずながより強くなっていくでしょう。
 また、子供からしてもたくさんの人に愛情を注いでもらえることは人間性が豊かになります。親の愛情によって、これから先、人を信用できるかどうかが変わると思っています。
 今の地域社会は核家族化が進んでいますが、どこかに助け合いの精神を取り入れていくことができればいいです。


投稿者: ねこさん | 2013年01月25日 00:05

わが子を愛することはたやすいことではない、というタイトルがまず自分の心にずっしりときました。今日の子ども虐待の報道を見るとそれを痛感せざるを得ないからです。また、今の自分の年齢から考えても、近い将来子どもを持つことが考えられます。そうすると、その問題がより身近に感じられ、親と子どもの関係やそのまわりのコミュニティーとの関わりについて深く考えさせられました。これからも子どもをどう慈しんでいくべきかを考えていきたいです。


投稿者: もりたん | 2013年01月25日 00:30

「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉に子育ての難しさを強く感じました。もちろん自分の子どもなので可愛くないわけではないと思いますが、子育てをしていく中での不安や疲労などから、子どもに対する思いが一瞬歪んでしまうこともあるのではないでしょうか。また、子どもの行動は親の責任と言われるプレッシャーもあり、それらをすべて抱え込んでしまうと子育てが大きな負担になってしまいます。そうならないためには、自分だけでなんとかしようとするのではなく、周囲と協力し合い、子育てが楽しいと思えるようになることが大切ではないかと思いました。


投稿者: WATARU | 2013年01月25日 10:01

「親が子どものことを愛せない」という気持ちは自分の両親が私のことを持してくれていなかったので、よくわかります。親と子の関係といっても所詮は人間関係なため、合う、合わないが存在します。しかし、母親は子どもと合わないと感じつつも地域と密着しているからこそ、子どもをきちんとしなければ自分の評価が悪くなってしまうという強迫観念に襲われて苦しんでしまっていたような気がします。閉鎖的な空間にいないことは大事ですが、その行動をとってしまうのは、母自身が外に出ることを嫌がっているからではないでしょうか。外に出て、自分の母としての評価を他人からうけることを恐れるがゆえに。それは学校教育の中で自分を自分として認めれられず、他人の評価を通して自分を作ってきたからだと思います。よって、地域の密着を強めればよいと単純にはいえないのではないかと考えました。


投稿者: さとうけんた | 2013年01月25日 12:45

「親子を閉じられた単位とするのではなく、地域の多彩な関係の中に位置づけなおすことが構想されなければなりません。」ということは大事だと分かる一方で、どうしたら位置づけなおすことが出来るのかを考えなければいけないと私は思います。虐待が親子関係・家庭という閉鎖的な空間の中で行われる中で、どうやってそこを切り開いてあげるのか、どうしたらつながりを持った地域へと出てくることが出来るのか、これが一番の課題であると思います。基本的に人間は一人ではいけていけないものであり、子育てに関しても同じ事が言えるのではないかと思います。今までの講義を聞いていても虐待をしてしまう親は人よりも内に溜め込みがちで相談することが得意ではない人が多いと思いました。その理由として考えられるのは、他人など信用できないという不信感や私は大丈夫といった過信・思い込み、親の家庭環境や習慣などです。また、メディアを通して親が子どもを一人の人間として見ることできない、ペット的な感覚で扱う様子も伺えます。こういった人間(親)が形成されていく中で、どうしたら位置づけなおし、心を開くことができるようになるのかというと、やはり教育や環境なのではないかと思います。義務教育を終えてしまった人間が子育てに関して何かを学んでくるとしたら、学校という場ではなく、産婦人科であったり役所であったり、その人と関わる人間関係の中であると思います。そこで学び考えを変えて、どうにか位置づけなおすことができないといけないと中々親子という閉じられた関係をこじ開けることは出来ないと思います。ここから改めて、政府や国単位で取り掛かり解決していかないと難しい問題なのだと感じさせられます。しかし、私たちがこうやって記事や講義で学び思ったことを友達や恋人、身近な人と共有することも大切だと思います。少しでも気づきがあれば、悩み考える中で解決方法が見えてくるものだと思うからです。


投稿者: SST57 | 2013年06月18日 20:52

「子供が嫌い」と聞くと今までは、どういうことだ。
などと差別的な目線で見ていた私ですが、この記事を読み考え方が変わりました。
私は”親子を閉じられた単位とするのではなく、
地域の多彩な関係の中に位置づけなおすことが構想されなければなりません。”
という点について疑問を感じます。
おっしゃる通り、親を責めるということは次世代につながらず、負の連鎖を引き起こしてしまいます。親子と地域の関係をつなげることは
確かに虐待・支配被支配の関係の面からみると抑止力のように働きいいことです。
ですが、一概に言えないかもしれませんがこれが責任放任ということにつながる
のではないかと感じます。
例えば、地域の関係において預けた先で子供が事件に巻き込まれた時に親は預け先の人を糾弾するでしょう。
このような事件がメディア等々で放映されるとき、まず感じることは
「子供を安易に預かるのはよそう」ということだろうと推測します。
こうして新しく確立した開けた親子の関係はあっという間崩れてしまうとおもいます。
ゆえに私は、家族という仕組みを閉鎖した、地域と関係した状態ではなく外部が干渉できる空間にすべきだと考えました。


投稿者: ちくわぶ | 2013年06月25日 12:12

このブログを読んで一番心に響いたのは、親子関係に「支配―従属」や「搾取―被搾取」という今日の社会秩序にみる関係性として所与のものとして持ち込まず、「複製」しないことが大切であるということである。親子愛というテーマがタブー視されているのも感じるし、大学生の今でも高校生のときでも、子どもがもうほしいといっている人はたくさんいたが、果たして今の状態で子どもが生まれ、ちゃんと育て、ちゃんと愛を与えられるのかという不安にかられる。親子だけでなく、地域の多彩な関係の中に改めて位置づけるということは良い方法だと感じる。


投稿者: とも | 2013年07月01日 14:46

 僕は、非常に「子供のいる暖かな家庭」に憧れの気持ちを持っています。その動機という物を改めて考え直すと、その原因は非常に受け身なものと気づかされました。
 というのも、私の家族は個人が非常に孤立していて、両親が話す機会が業務連絡しかないという冷ややかなものであったために「ここから抜け出したい」「絶対自分の家庭はこんなものにしない」という思いが、強かったのです。
 それに拍車をかけたのが、父の「子供の価値を決めつける」ような教育です。これこそ、ブログ内の「一元的」な教育なのではないでしょうか。
 そのような「一元的コミュニケーション」の負荷は、子供に大きな負担がかかります。実際自分もそうでした。「失敗」に対する対抗手段を知らなかったのです。「キレる子供」問題は、この家庭事情から来ていると思います。
 このような「価値の一元化」は、日本の中にあるアナログな考え方でありながら、いまだに根強く残っている深刻な問題であると思います。これは、「外の事情」を家庭内にシフトしてしまっているとみることができます。
 今の日本の様々な形態の社会が変容するものであることと同じように、「子供と親の関係」も一元的なものでは決してないと思います。以上から「価値の決めつけ」というのは、二者関係において非常に危険なものであると思いました。
 なぜ「我が子を愛することは難しいこと」なのか。それは「愛すること」を自分の理想のみで決めているからではないでしょうか。「人を愛する」という他者関係は別に夫婦間で限られることもない自由なくくりであると思います。(まるで「隣人愛」のようですが。)大切なのは「愛すること」という形態が様々なスケールの社会の中に存在する一形態であるということです。
 今までの僕は、ただ単純に「理想」を自分の中に携えているだけの妄想者でした。そのような自分を反省し、いろいろな他者との間で「愛する」とはどんなことかという答えのない命題の答えを模索して行きたいです。
 このような「他者の関係の中に自分を押し込める」のではなく「社会の中でどのように自分を入れることができるか」という視点が大切だと考えました。
 長文失礼しました。


投稿者: ひよし | 2013年07月02日 10:57

 僕は、非常に「子供のいる暖かな家庭」に憧れの気持ちを持っています。その動機という物を改めて考え直すと、その原因は非常に受け身なものと気づかされました。
 というのも、私の家族は個人が非常に孤立していて、両親が話す機会が業務連絡しかないという冷ややかなものであったために「ここから抜け出したい」「絶対自分の家庭はこんなものにしない」という思いが、強かったのです。
 それに拍車をかけたのが、父の「子供の価値を決めつける」ような教育です。これこそ、ブログ内の「一元的」な教育なのではないでしょうか。
 そのような「一元的コミュニケーション」の負荷は、子供に大きな負担がかかります。実際自分もそうでした。「失敗」に対する対抗手段を知らなかったのです。「キレる子供」問題は、この家庭事情から来ていると思います。
 このような「価値の一元化」は、日本の中にあるアナログな考え方でありながら、いまだに根強く残っている深刻な問題であると思います。これは、「外の事情」を家庭内にシフトしてしまっているとみることができます。
 今の日本の様々な形態の社会が変容するものであることと同じように、「子供と親の関係」も一元的なものでは決してないと思います。以上から「価値の決めつけ」というのは、二者関係において非常に危険なものであると思いました。
 なぜ「我が子を愛することは難しいこと」なのか。それは「愛すること」を自分の理想のみで決めているからではないでしょうか。「人を愛する」という他者関係は別に夫婦間で限られることもない自由なくくりであると思います。(まるで「隣人愛」のようですが。)大切なのは「愛すること」という形態が様々なスケールの社会の中に存在する一形態であるということです。
 今までの僕は、ただ単純に「理想」を自分の中に携えているだけの妄想者でした。そのような自分を反省し、いろいろな他者との間で「愛する」とはどんなことかという答えのない命題の答えを模索して行きたいです。
 このような「他者の関係の中に自分を押し込める」のではなく「社会の中でどのように自分を入れることができるか」という視点が大切だと考えました。
 長文失礼しました。


投稿者: ひよし | 2013年07月02日 10:57

私も親が子がを愛す事は簡単ではないと思います。きっかけや理由があって出会ったわけでもなく、どんな性格でどんな能力を持つのかもわからない我が子を簡単に愛することなんて出来ないのではないでしょうか。思い通りにいかなかったり、精神的、肉体的に苦労があれば無関係でいたかったり憎くなったりもすると思います。子育てのしやすい環境と親の気持ちに余裕がなければ苦労ばかりかける子供を愛すのは難しいでしょう。


投稿者: そら | 2013年07月03日 16:34

「わが子を愛することはたやすいことでない」というタイトルに、昔の私なら「自分の子どもを世界で1番愛せるはずだ。」と思っていたが、講義や児童虐待が招いた事件を聞くと、愛のある親子関係を築くことはとても難しいことだと今は感じています。親子関係を築くことは親子間で愛・信頼を持つことだと思うので、それを築く環境が地域の多彩な関係を広げていくことで、親も子どもたちもお互いの関係を見つめ直すことができると思います。


投稿者: きらーん | 2013年07月10日 10:40

我が子を愛することはたやすいことではない、という考えには私も同調します。私自身、将来子供を育てる側になった際に、きちんと子供を愛せるかどうか不安です。現在、我が子を慈しみ育てることは当たり前で、全ての親がそうあることができるはずだという考え方が定着し過ぎているように思います。子供の愛し方が分からない親が、そうした固定観念に縛られ悩み苦しんだ末に虐待に走ってしまうのではないでしょうか。そのような事態を防ぐためにも、子育ての責任をすべて親に負わせるのではなく、周りの人々が分担して役割を持つことで、彼らを支えていくべきなのだと思います。


投稿者: みすはる | 2013年07月10日 16:10

 親はきっと子供を愛しているだろうと思っています。この愛も人の本能でたやすいと思っていました。今、中国では、子供に優れた教育を受けるため、子供にいろんなことをやらせる親がたくさんいます。このような親は子供を愛しているかというと、私は愛していると思います。しかし、この愛は子供に強制し、虐待(主に精神的である)になってしまうこともあるでしょう。
 一体、どうやって子供に愛をあげますか。この事は確かに難しいです。親は子供を守るため、赤ちゃんのときからずっと子供の世話を見ています。いわば、支配の状態になれていました。そのため、親子関係は「支配ー被支配」ということがなかなか改善しにくいと思います。親子関係を見直すことは、児童虐待問題を解決する鍵だと思っています。
 


投稿者: xxoo | 2013年07月15日 00:28

私は今まで、「わが子を愛することはたやすいこと」だと思っていました。しかし、このブログを拝見させていただき「わが子を愛すること」が難しいことなんだと思うようになりました。
今、ニュースなどで「虐待」という言葉を耳にすることが多くなっています。親が子供にたいして「こんなふうになってほしい」と強く思うあまりに思い通りにいかなくなると暴力などを加えてしまうのではないかと思います。
虐待を防ぐためにもこのブログに書いてあるように「親子を閉じられた単位とするのではなく、地域の多彩な関係の中に位置づけなおすこと」が大切だと思いました。


投稿者: ラーメン | 2013年07月17日 15:03

私は親が子を愛するのは当然で、虐待は100%といっていいほど親が悪いと思っています。確かにそこには社会とのしがらみや色々あると思いますが、子にとって最初に出会う大人は親であり、親がすべてであると言っても過言ではない。なぜこのように考えるかというと、私は親に愛されて育てられていたからだと気づかされます。しかし、わが子を愛さなければならないと考えたならば、使命感に押しつぶされストレスを抱える原因になってしまいかねないのです。心から生まれる愛のもとに子育てを考え、子供を産んでほしいと思いました。


投稿者: ホーリーナイト.K | 2013年07月18日 00:04

「わが子を愛することはたやすいことではない」。わたしはまだ親という立場を経験していないため、子どもの立場からしか言うことしかできませんが、親が子を愛するのは本能的なものなのだと信じています。わたしが小さいころに母はいつも、「親は自分の子がどんな子でも愛らしいもんなんやで」と言っていました。うちは一番下の弟が赤ちゃんのときに画びょうを飲み込んで肺に穴が開き、植物人間になったときも同じことを言っていました。どんな子でも、親が子を愛するのは自然のことなのだと。しかし、このブログを読んで、本当に「たやすい」のか?「当たり前」のことなのか?と少し考えるようになりました。
また、親の支配はある程度はあってもいいのではないかと思います。程度にはよるけれどそれが心配からきている、子どもが大切だからくることもあるし、それを子どもが理解していれば多少の支配は許されると思います。ただ、支配される子どもが、将来大人になったときに支配に慣れすぎているのは社会にとってどうなのだろうと感じました。


投稿者: しおやん | 2013年07月19日 15:43

今期の宗澤先生の授業を受けている者です。
「わが子を愛することはたやすいことではない」この記事のタイトルを見て、自分たちの子供たちなのだから愛して当たり前なのではないかと感じました。現に、私はそのような自分たちの子供を愛してくれる両親に育てられました。しかし、現実には子供を虐待したり、親が子供を殺してしまったりするといった事件は起こっているということに記事を読んで改めて考えさせられました。
自分が将来親になった時、どう子供を愛していくか、どうその愛情を表現するか考えていきたいと思います。


投稿者: ろき | 2013年07月20日 02:11

私はまだ親という立場になったことがないけれど、自分の両親にはめいっぱい愛情をもって育てられたと感じています。最近は自分が二十歳を迎えたこともあり、自分の将来のことをよく考えるようになりました。少し前までは、大人になれば当然自分は結婚していると思っていたし、子どもは三人欲しいなあとか、休日には子どもと一緒にお菓子を作ったり家族ででかけたりするのだろうと思っていました。しかし今回のように虐待についての講義を聴いて考えることは、そもそも親になれるのかということです。想像していた二十歳と今の二十歳の自分はだいぶかけ離れていて、一つの命を自分が育てていくという責任や重圧のようなものに耐えられる気がしないのです。子どもを一人育てるのに何千万というお金がかかるし、子どもが小さいうちは一日の時間のほとんどを子どものために使うようになります。もちろん大変なことだけではなく、子どもに癒され幸せを感じられるのだろうけれど、親はたくさんのものを「犠牲」にして子どもを育てるのだということを思ったときに、子どもに対して手をあげてしまう親の気持ちが少し分かるような気がしました。親が子育てに一生懸命であっても子どもはわからないのです。だからといって虐待は仕方ないと考えているわけではもちろんありません。私は親とケンカしたとき近くの祖母の家に行っていました。そんな経験からも、「ナナメの関係」というのは親にとっても子どもにとっても必要だと思います。しかし近所に親がいない家族も多く、周りに頼ることができないとなると、余裕がないときも逃げるところもなく精神的に追い詰められてしまうのだろうと思います。そうした中で、やはり地域のなかで「ナナメの関係」を築いていけるよう構想してゆくことが、講義の中でもおっしゃっていた虐待防止の課題にもつながるのだろうと思いました。


投稿者: UKI | 2013年07月20日 15:51

「わが子を愛することはたやすいことではない」とはまさにその通りだと思います。自分の子供といえど結局は他人であるのを理解しつつも、愛したいという葛藤にさいなまされた結果、どうすればわからず暴力をふるってしまう親も多いのではないでしょうか。
そのような場合において最も大切なことは、親と子の関係を客観的に見つめることのできる人との関わりではないでしょうか。
以上のようなことから親子の関係に限らず、愛を育むということは1対1という狭い範囲の出来事ではなく、もっと広い、多くの人との関わりの上に成り立つ行為なのだと思いました。


投稿者: えだまめ | 2013年07月22日 10:48

わが子を愛するための解決策の1つとしてまず「親子を地域の多彩な関係の中に位置づけなおす」とあるが、自分なりにこの意味を考えてみて、具体的にどうすればよいか考えてみた。すると、簡単なことからであるが、まずは親が自分の子を「自分の子ども」としてみるのではなく、「1人の人間」として見て接するべきではないか。そうすることで、親も子も地域の関係の中に「親子」として入るのではなく、人権を持つ1人の人間として地域の中に溶け込めるだろう。そして親も子どもの事を「1人の人間」として愛することに繋がるだろうと私は考える。


投稿者: ちゃん | 2013年07月23日 22:22

私は将来、子ども、特に幼児と深い関わりをもつ職業に就き、また親となるであろうので、保育現場においても、親としても、親子を援助していく側からしても、胸をはって「自分は子を愛している」と言えるような社会になっていったらいいなと思いました。そのためにも、子どもを一般的な社会的通念や風潮といった固定観念によって定義づけてしまうのではなく、どの子どもも違っていてよくて、個性があり、全ての子どもが等しく愛されるべきであるという観念をもち、また子どもとの関わり方で少しでも悩んでいる親がいたら、相談にのり、少しでも力になれるような保育者になりたいと思いました。


投稿者: たむたむ | 2013年07月24日 04:49

現在の社会では、親の子どもに対する「母性」「父性」「無償の愛」といった抽象的な言葉が社会的に美化されている。それらの言葉によって親が「愛さなければならない」という一種の強迫観念に駆られているのではないかと考える。この観念から由来する親の子への愛情の神聖化が親を苦しめ、子育てという営みを親子間でのみ完結させようという働きを生ませてしまっているのではないか。そして、これによって生まれた閉鎖的な子育て空間が虐待の温床になってしまうことは十分に在り得ると私は考える。


投稿者: みよしの | 2013年07月24日 07:14

私がこのブログ記事を選択したのは、「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉がとても衝撃的だったからです。どこか私の中で親が自分の子どもを愛することは理由など必要もないほど当たり前だと決めつけていたからです。ですが、このブログ記事を読んでそれは当たり前のことではないのだと、たいへん驚いてしまいました。なぜ、わたしはこのような考えなのかと考えてみると、わたし自身が両親からたっぷりと愛されているからではないかと思いました。わたしの両親は若くして私を生みました。そのため、祖父母も若く、わたしの子育ては両親の祖父母にかなり助けられたのだそうです。このことから、わたしの両親はわたしを育てるのに理解してくれる第3者がいたことがとても重要だったのではないでしょうか。
子どもを育てるということは母と子、個人の問題と位置づけをしてしまいがちです。しかし、地域の問題であるとか、家族の問題であるとかといったような考えが大切だと思いました。よく、近所のおばさんたちが、共働きの家庭や母子家庭で夏休みなんかに朝から地域をウロウロしている子をみると、「あの家庭はどおなってるの」「親があんなだから」「子どもは可哀想」と意見しているのを耳にしますが、もうちょっと社会が地域で子どもを育てる、地域で子どもを愛するといった雰囲気になったらいいと感じます。わたしも成人して、近い将来子どもを授かることも十分に考えられます。そんな時、当たり前だと思っていた親が自分の子どもを愛すること。それが突然不安になってきました。また、わたしの身の回りにいるもお母になった同級生たちは自身の子を本当に愛しているのかとても疑問に感じてきました。


投稿者: みなな | 2013年07月24日 12:23

「わが子を愛することはたやすいことではない」子どもの立場からこのことについて考えると「そんなことは当たり前だ」というふうに考えてしまいますが今日にニュースをみると児童虐待という言葉をよくみます。私は今日では近所の付き合いが少なくなり相談など助けを求めることができないどころか近所に迷惑をかけられないというような状態になってしまいそのことがストレスになって児童虐待がおこってしまうのではないかと考えます。
児童虐待をなくしわが子を愛することをたやすくするには親と子との関係だけでなく周りにいる人と親子の関係をよくすることが一番なのではないかと私は考えます。


投稿者: ちび | 2013年07月24日 12:28

「わが子を愛することはたやすいことではない」という題名を見て、私はまず「そんなことはないだろう」と思いました。私の家庭は割と厳しく、いろいろなことに口を出されることが多く、反抗したこともありました。でも、大学進学のときにたくさん話し合って、この厳しさは愛情であったということに気付くことができました。しかし、実際には児童虐待などの問題もあり、もう少し考えていかなければいけないと感じました。親と子で「支配ー従属」の関係はおかしいと思います。自分が親になったときのためにも課題など考えていこうと思いました。


投稿者: クリスティーナ | 2013年07月24日 12:58

私は「わが子を愛することはたやすいことではない」という題名を見たときに大きな衝撃を受けると同時に「親を愛することもたやすいことではない」のではないかという考えを抱きました。
私自身がそうだったのですが、中、高校生だった頃は両親に対してどうしようもなく敵意を抱いていました。あまり裕福な家庭ではなかったのと、そんな現状を良くしようともせずに生活していた両親が憎らしくて仕方がありませんでした。今でもそんな気持ちは少なからずあります。
ですがこうして大学まで進学させてもらったことは感謝しなければならないことですし、今まで育ててくれたことにありがたみを感じる自分もいるのです。
そんな矛盾した気持ちから、両親にどう接したらよいのか分からずにいます。
ずっと良い存在だというわけでもなく、かといって常に嫌悪する存在でもない。
子や親、家族というものは本当はとても難しいものなのかもしれませんね。


投稿者: マリー | 2013年07月24日 22:01

「わが子を愛することはたやすいことではない」
大学に入る前の私ならこの言葉をバカにしていたと思う。大学に入り個別支援入門や虐待についての授業を受ける中で「個を愛すること」の大変さを知り、親に対しての見方・虐待などの問題を見る目が変わりました。
また、ただ親だけがどうこうではなく周りの環境が与える影響も大きいので周りが支援することも大事だと思いました。親の努力はもちろん重要なことで子供を授かる上での基盤であると考えています。けれど、それだけでは乗り越えられない時に「周りがどう動けるか」これが大きな課題だと考えました。


投稿者: kumapen | 2013年07月25日 14:13

「わが子を愛することはたやすいことでない」
まず、この題目をみて一番に興味を持ったので拝見させていただきました。
 (子どもは、無条件に親から愛されるべきものじゃないの?)(子どもにとって親というものは何にもかえれことのできないとても大切な存在じゃないの?)というように当たり前に考え生きてきた私の考えを覆される記事でした。当たり前と思っているこの考え、環境にとても感謝したというところが本音です。最近になり、親の子どもに対する虐待のニュースがよくメディアによって取り上げられています。リアルに私たちにマスメディアを通じて情報がとどきますが、昔と今を比べると(しつけ)と(虐待)の境界線の概念も変化してきていると思います。親や教師にばかり責任を押し付ける社会状態が出来上がっているのはこのような日常生活からも感じることができます。
私は、まだ子育てをしたことがないですが、子育てというものは、親と子どもという1対1のものではなく、周囲があってのものだと母の育て方をみて思いました。自分の子どもだからといって本当に愛せるということができないこともあるでしょう。その際に、親と子というように孤立した状況に置かれていたならば、虐待や育児放棄がおこることは、自然な流れではないかと考えます。その時に回りの支援や地域の関わりが充実しているものなら親、子ともに頼れる場所ができるので最悪な事態は避けられると思います。
 最近「子どもの権利条件」というものがあるということを知りました。第3条に子どもにとって1番いいこと。という項目で親や周囲の大人は子供にとって1番いいことを考えなくてはいけないとあり、親と一緒にいることが1番幸せな家庭だけではないと思いやはり、親と子というだけではなく、周囲の環境やサポートがとても重要なのではないかと考えながらこの記事を読ませていただきました。


投稿者: Sakura* | 2013年07月29日 15:45

虐待など、今の日本にはたくさんの親子関係の問題が存在していると思います。そういう世の中だからこそ、「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉にはあまり衝撃を受けませんでした。確かにきつい言葉だけど、世の中で起きている虐待問題などに比べたらまだ受け入れやすい言葉だと思いました。
また“「親を責める」(したがってまた「教師を責める」)だけでは私たちが次世代に責任をもつことには決してつながらない”という言葉がとても印象深く心に残っています。親子という関係だけで閉じこもるのではなくて、もっと社会的なつながりを持つことが、今の日本には必要なのではないかなと考えました。


投稿者: サンタさん | 2013年12月21日 08:44

「親子を閉じられた単位とするのではなく、地域の多彩な関係の中に位置づけなおす」とありますが、私もそれが重要なことだと思います。私は地域と比較的深く関わって育ってきました。幼いころには近所の人に叱られたり褒められたりすることが多々あり、親だけでなく地域に育てられたと感じています。もし親子の関係が閉じられ、地域とも関わっていなければ親の負担がものすごく大きくなり、また子供の人格を形成するうえで多様な影響を受けることができず、親の考えが大きく反映されることになると思います。地域全体で子供たちを育てていくことで子供の成長にとってもよりよい影響があり、親にとっても自分の子供を愛しやすい環境になるのではないかと思います。


投稿者: めんぼう | 2013年12月25日 15:27

親の子どもにたいする正しい愛とはなんなのか。わたしはいつからかわかりませんが、このことについてずっと考え続けています。最近は考えることがさらに増えた気がします。非常に私事ですが、わたしの父親は厳しいです。わたしから見ると、理不尽に、厳しいです。その典型的な例が門限で、成人した今も22時までには家にいなくてはおらず、1分でも過ぎれば怒鳴り散らされます。いろんな人は「愛されてるんだね」と言います。もちろん本人も心配しているからだと言います。たしかにそんなふうに言われてしまうとありがたいことなんだと受け止めざるを得なくなります。しかしわたしには、日常で起こるさまざまなことをも考慮するとクエスチョンが拭いきれません。いまわたしがこういった立場にいると、自分に子どもができた場合どう接すればいいのか、考え込んでしまいます。


投稿者: ちゃむ | 2013年12月30日 11:36

今日ではテレビのニュースで母親が虐待して子供を死なせてしまったなどという話題を耳にすることが珍しくなくなった気がします。特別な例を除いて、なぜ愛し合って結婚した相手との間に授かった子を死なせてしまうのかと、いつも衝撃を覚えていますが、今回「わが子を愛することはたやすいことではない」を読ませていただて、親にすべて非があるのかを考えてみると必ずしもそうではないのではないかと思いました。自由な時間がなくなり夜中に泣き声で起きてしまったり、それが原因で近所から冷たい目で見られたり、ストレスになることもたくさんあると思います。そういった時に児童相談所や地域の施設や支援がしっかりしていれば、つまり、親を手助けできるような地域であるならば、虐待も減るのではないかと考えます。


投稿者: CONY | 2014年01月03日 21:28

ニュースなどでもよく目にする、虐待や育児放棄の現実。これを見て私は、世の中にはなんてひどい親がいるんだと思いたびたび憤りを感じていましたが、その中で、「わが子を愛すること」の難しさというものに目を向けたことはありませんでした。今回この記事を読ませていただいて、このような虐待、育児放棄の問題においては、すべてを親の責任にして、親子なんだから、といったような親子の枠組みに無理やり押し込めるような社会のあり方は間違っているのではないかと改めて考えさせられました。やはり、親が抱えている子育ての難しさにも目を向け、親への支援を含めて、社会全体で子どもの成長を見守っていくという意識やそのための制度作りが必要になってくると思いました。


投稿者: いちご | 2014年01月06日 11:26

タイトルである「わが子を愛することはたやすいことではない」という題に正直怖さを感じました。自分は両親から愛されていたのか‥結婚してわが子の顔を見ることはもう少し先のように思いますが、生まれてきた子を愛すことができるのか、親としての責任を果たせるのか考えさせられました。両親の大きな愛に包まれて育てられたと今感じられる私は、幸せ者だと思います。
将来生まれてくるわが子を愛すると同時に、わが子(私)を愛してくれた両親にも恩返しをしていきたいです。


投稿者: ペン | 2014年01月06日 21:19

わが子を愛することについて深く考えることができました。
私は子どもが大好きなので、自分が生んだ子を虐待するなんて信じられないと思っていました。最近では実際にニュースに虐待が取り上げられ、なぜわが子にそのようなことができるのかと残酷な気持ちになります。そこではすべては親の責任だと感じていましたが、親だけの責任だけではなく、さまざまな社会要因によるものによってわが子を愛せないことにつながることがわかりました。そして、虐待はどの家庭でも必ずしも起こらないという確信はないと思いました。
周りの支援や社会問題を理解しながら、家庭を築き上げていくことが重要であると考えさせられました。


投稿者: coco | 2014年01月07日 18:09

私は中国の者です。もちろん「虐待」という現象もあります。それは日本とはちょっと違う現状だと思います。中国は1980年ごろから「一人子政策」が始まりました。今の10代20代は大体一人子です。子供は少ないですから、みんな小さいごろからずっと大事に育てられてきました。だから、日本より親子関係に「搾取―被搾取」のほうが少ない、「支配―従属」のほうが多いだと思います。ここの「支配」も体力上の命令や指示ではなく、親自身も気づかない精神的な「虐待」だと思います。例えば、親が若いときに実現できなかった夢を子供に任せることは少なくありません。こうすると、子供の精神上に大きいなプレッシャーをかけて、しばしば期待と裏腹の結果になっています。


投稿者: テイセツホウ | 2014年01月07日 22:35

 先生の後期の授業を受け虐待の話を聞いている中でたくさんのことを感じていました。小中学生の頃、虐待についてのビデオや文章を見ても「可哀想だな」「こんな大人は最低だ」と思うだけで他人事でした。しかし周りが結婚し子供を産んで、自分にとって子育てが身近になり他人事ではなくなってきました。そんな中での今回のタイトル「わが子を愛することはたやすいことではない」はとてもショックでした。今妊娠して子どもが出来たら私は愛することができるのだろうか、と怖くもなりました。私が最低だと思った人になる可能性が十分あるのが恐ろしく思いました。それはもちろん年齢によるものではないのでいつ準備ができるのかもわかりません。私の母は十代で母になったのでこの年になって初めて母の偉大さを感じました。自分がいつ母になるかはわからないのだから先生の授業で少しでも現状を知っておきたいと思いました。


投稿者: pooh | 2014年01月15日 17:26

わたしは親が自分の子供に対して虐待を行ったというニュースを見聞きすると、「子供が可愛そうだ。なぜ、この親は自分の子に対してこういうことができるのだろうか。」といつも思っていました。今回この記事を読んで、わたしは子供のことしか考えていないことに気づきました。親たちの中には、夫婦の問題や地域との関わり、そして子供の成長など、多くの不安を抱えている人達がいます。子供への虐待をただ親のせいにしてしまうのは間違っていると思います。親の意見もしっかり聞くことが、親子の関係をよりよくするために重要であると感じました。


投稿者: ゆあ | 2014年01月15日 20:59

 私は、「わが子を愛することはたやすいことではない」という内容にとても興味をもちました。現在の日本での児童虐待の数は年々増えているということからも、自分の子どもを愛せない親が増えてきているというのは分かっていましたが、この記事を読んで、親が子どもを100%愛するということは、そう簡単にできるものではないのかなと考えさせられました。親が子どもを愛するということは、どのようなことなのだろうと考えた時に、少なからず親の名誉や地位、利益のために子どもが使われていることもありうるのではないかと思いました。
 だから、親であっても、その子どもであっても、それらは独立した一人の人間なのであって、一人の人間としての権利を尊重してあげることが重要なのだと思いました。私の親は、私のことを、一人の人間として見てくれています。属性にこだわらず、自分の責任で自由にやらせてもらっています。それは子育ての放棄、放置ではなく、見守るという愛だと思いました。親子関係の中に、多少の「支配―服従」の関係は必要かもしれませんが、関係性の中での「親子」という型にはまり過ぎて、その中でしか生きられなくなってしまったために、親も子も息苦しくなっているのではないかと思いました。もっと親も子も地域や社会に開かれた存在にならなければならないと思いました。しかし、親子関係が閉ざされてしまうような仕組み、地域、社会を作り上げてしまったのは私たち自身であり、また、その社会に苦しめられているのは私たちなのだろうと、とても歯がゆい思いになりました。


投稿者: みかん | 2014年01月17日 13:09

 私の母は「子どもが一番大切に決まっているじゃない」とよく言う。成人して大人の仲間入りをしたといっても、私はまだまだ未熟、その考えは未だに理解できない。いくら親といえども、皆がみんな、自分より子どもが大切ということはあるのだろうか、と思うのである。私は3人兄弟、それぞれいろいろな迷惑を母親にかけてきた。私は何度も精神科にお世話になったこともあり、母親には本当に今でも迷惑かけていることが多い。どれだけ子ども3人が苦労をかけても、母親は育児放棄をしてきたりしなかったし、暴力を振るわれた経験も一度もなかった。現代では虐待が問題視されてきているが、この虐待に手を出してしまう母親とそうでない母親の違いはいったい何なのだろうか。私が親になる時、こんなにひたむきに子どもに愛情を注げる自信が全くないということに最近気づかされた。虐待を受けた子どもが親になって同じことをくりかえしてしまう、という事例はよく聞く。母親はとても尊敬すべき存在ではあるが、私の父親はネグレクトである。普段ほとんど家にいないし、母親との喧嘩が激しく、それを小さい頃から見せられている私たち子どもはある意味虐待を受けているのかもしれない。そうすると恐ろしくなった。現代の虐待の原因は、母子だけの関係に限ったことでも、家族というコミュニティーの中でもないもっと違う視点からも解決できる問題であると考えたい。


投稿者: ちゃん | 2014年01月17日 18:10

「親の愛は一生の片思い」という言葉があるように、子どもの教育は難しいです。
19世紀の産業革命中、子どもは「小さな大人」として存在していました。子どもが「現代のこども」の立ち位置に立つようになったのはつい最近のことであり、保育制度、教育制度ができたのもその後です。
また、子どもを愛することに重点を置かれるようになったのは現代に入ってからであり、その現代の産物である愛情を親は男女の愛も満足に語れないのにわが子を愛していると断言することは実はとても難しいことではないのでしょうか。
親はいつからこどもを愛せなくなったのか。また、親はいつからこどもを愛するようになったのか。
二つの議題は相反することのように思えて、実は一つのことではないかと私は思います。


投稿者: LTK/124/a | 2014年01月18日 19:15

「わが子を愛することはたやすいことではない」という言葉、なるほどなと感じました。子を愛するということと支配下に置くということはある点で似ているのではないでしょうか?自分の支配下に置き安全であるという認識を持ちたいと思うのは親の愛ではないかと感じます。一方で過度の愛情は過干渉になりともすれば虐待に発展する場合もあるでしょう。愛がゆえに、と言えば聞こえは良いものの過干渉は立派な精神的虐待であると思います。
 自分が親となるのはまだ先の事だとは思いますが、きちんとわが子を愛することができるのか、少し不安になりました。以前「親は子と共に成長し親になる」という言葉を聞きました。残念なことにどなたの文献であったのかはたまた講演であったのか覚えていません。産めば当然親にはなるでしょうがそれは真に親と言えるのか、考えてもなかなか答えにはたどり着きません。


投稿者: とっとこ | 2014年01月19日 15:48

私は親が子供を虐待するということはなんて無責任な行為なんだろう、親は何を考えているのだろうか、など親が全面的に悪いと思っていました。しかしこのブログ記事を読んで親子間の虐待はその周りを取り巻く人や環境も関係しているのだと深く考えさせられました。たしかに私自身もでしたが、多くの人たちは虐待は親子間だけの問題だから親が悪いと考え、自分は関係ないと無意識に思ってしまっていたがために現在のように親子の関係が閉鎖的なものになってしまったのだと思いました。これからは地域の人たちが親子の悩みを聞いてあげたり、アドバイスをしたりと、親子をバックアップする体制を整えていくことが親子間の虐待をなくすために大切なことだと考えました。


投稿者: tubasa | 2014年01月19日 19:40

近年、子育てということが、子供に対して一方的であるような気がします。俗にいう過保護な親が増えたように感じます。その背景には、先入観としての子育てのむずかしさがあり、そのために親になった人は子育てを頑張らねばと思ってしまうのではないでしょうか? そうした頑張らねばという思いが、社会全体の風潮としてあって、そのために親の精神的な負担となってしまうのではないでしょうか? 子育てとは、生物学的にも自然なもので、その子育ての意識は親となれば自然と身につくものだと思います。しかしながら、それをそれを阻害する社会的背景、先入観があり親となった人は自然な子育ての思いを忘れてしまいがちなのだと思います。気を張らず自然な子育てができるような、そんな環境が必要です。子育てをする人たちに対して、私はそれを見とがめるのではなく、見守る姿勢であることが大切であると感じました。


投稿者: songyou | 2014年01月21日 13:01

後期の宗澤先生の授業を受けているものです。
この記事を読ませていただく前にこの記事の「わが子を愛することはたやすいことではない」というタイトルにまず興味を持ちました。それはきっと私の周りにはそのように見える親に出会ったことがないからだと思います。しかし、記事を読みよく考えてみると確かに親子間での関係はこれまで社会で自力で作り上げてきた関係とは全く違ったものであることがわかり、想像してみると難しそうだなと思ってしまいます。私自身確かに尻込みしてしまいそうです。私自身を愛してくれた親にもっと感謝しなければならないなと思ったと同時にいつか生まれてくる私の子供にも愛を注いでいきたいと思いました。


投稿者: ごまだれ | 2014年01月22日 08:03

私はまだつづきがら「子」で子供をもった親ではないので子供に与える実際の愛情というものは分かりませんが、与えられる愛情というものはわかります。18年間親に愛情を与えてもらったからです。いざ親元を離れるとそれがより一層身に染みて分かりました。自分は愛情を注いでもらって支えられて生きてきたんだと。愛とは当然形のない無形物ですから人によって価値観は異なるでしょう。躾をすることが愛情とする親もいれば、多少甘やかしたり、過保護なくらいが愛情だとする親もいるでしょう。しかし結局は親と子の関係に尽きると思います。親が素直に純粋に子を愛し、子はそれをまっとうに受け止めることができるやすらぎある空間形成が大切なのではないかと思います。そのためには親はわが子はわが子という概念を持つことが大切で他の家庭との比較でアイデンティティを欠如させてはいけないと思う。独自性を保った本当の意味での愛情を注ぐことが必要ですね。


投稿者: spare | 2014年01月22日 08:45

私はまだつづきがら「子」で子供をもった親ではないので子供に与える実際の愛情というものは分かりませんが、与えられる愛情というものはわかります。18年間親に愛情を与えてもらったからです。いざ親元を離れるとそれがより一層身に染みて分かりました。自分は愛情を注いでもらって支えられて生きてきたんだと。愛とは当然形のない無形物ですから人によって価値観は異なるでしょう。躾をすることが愛情とする親もいれば、多少甘やかしたり、過保護なくらいが愛情だとする親もいるでしょう。しかし結局は親と子の関係に尽きると思います。親が素直に純粋に子を愛し、子はそれをまっとうに受け止めることができるやすらぎある空間形成が大切なのではないかと思います。そのためには親はわが子はわが子という概念を持つことが大切で他の家庭との比較でアイデンティティを欠如させてはいけないと思う。独自性を保った本当の意味での愛情を注ぐことが必要ですね。


投稿者: spare | 2014年01月22日 08:45

子どもが成人するまでは、子どもは親の責任は大きいと思います。しかし、子どもは勝手に育っている場面も多いと考えています。成長するにつれて、行動範囲も広がり、様々な人と出会い、触れ合う中で成長していきます。ですから、私もこの記事でも書かれていますが、全てを親のせい、教師のせいにしてはいけないと思います。地域、国の協力も必要不可欠だと思います。この記事を読み、子どもがよりよく育つ社会づくりに貢献していきたいと改めて感じました。


投稿者: tomato | 2014年01月22日 13:58

「親の愛は一生の片思い」という言葉があるように、子どもの教育は難しいです。
本ブログでも述べているように、19世紀の産業革命では子どもは「小さな大人」として
存在していました。
子どもが「現代のこども」の立ち位置に立つようになったのはつい最近のことであり、
保育制度、教育制度ができたのもその後です。
子どもを愛することに重点を置かれるようになったのは現代に入ってからであり、その
現代の産物である愛情を親は男女の愛も満足に語れないのにわが子を愛していると断言
することは実はとても難しいことではないのでしょうか。
親はいつからこどもを愛せなくなったのか。また、親はいつからこどもを愛するように
なったのか。
二つの議題は相反することのように思えて、実は一つのことではないかと私は思います。


投稿者: CTK124a | 2014年01月22日 23:03

親は愛しているからこそ、子どもに期待してしまったり、親が子どもの人生を支配してしまったりするのではないでしょうか。愛してるからこそ子どもの首を親が締めてしまうこともありうるのではないかと思いました。また、子どもが親の思うとおりにならないから愛することができないということもあり得るのではないかとも思いました。親も子供も愛されたいし愛したいと思っていてもそれが相反してしまうこともあると考えると、「わが子を愛することはたやすいことではない」のではないかと思ってしまいました。


投稿者: 衿 | 2014年01月28日 22:31

 初め、「わが子を愛することはたやすいことではない」という題にえっとなったが、文章を読んでいくうちになるほどと思った。血のつながりをもつ親子であるならば、互いに愛し合うことは当然だと思ったが、必ずしもそうではないということ。たしかに愛し合えるのが家族という関係の上では理想ではあるが、今日の赤ちゃんポストという一時預かり所への殺到、里親制度の問題、児童虐待の現状などをふまえると、納得してしまう。
 また、それは愛することの難しさというのがわかった。“愛し”、“愛される”という関係は人と人の関わりにおいて最も基本的なものであると思われるが、それが男女間であろうと家族、友人であろうと単純なことではない。そこにはさまざまな過程をへることでようやく愛し合えるものだと思う。


投稿者: ゆきち | 2014年01月29日 06:17

「わが子を愛することはたやすいことではない」、
こうして言葉にすると強い印象を受けますが、私も同じような考えを持っていました。
私は、子どもを産んで育てていける自信がありません。将来、子どもがほしいという考えを持つ人には共感できずに、これまで暮らしてきました。それは、自分自身が子どもを立派な大人に育てることができるかどうか、わからないからです。
子どもを自分の人形のごとく扱う親や、虐待をしてしまう親は、きっと子どもを産んでからもこんな風な不安をいつも抱えているのではないのでしょうか。正しいことや将来が曖昧だから、迷ってしまう。愛を注いでいるつもりが、つもりのままで完結してしまう。
この記事を読んで、親子の問題は親子の関係のなかだけで終わらせるのではなく、社会の目を通して、共にその問題へ取り組んでいくことが大切なのだと学びました。一概に社会の責任にはできませんが、不安定な情勢や教育への問題が目立つ今の時代では、親でない人でさえも不安を抱えているように感じます。子を持つ親にとっては、さらに重荷に感じる部分もたくさんあるのでしょう。人が親になることへの不安を社会がなくしてゆければ、親になる前に息苦しく感じる人も、親になってから過ちを犯してしまう人も減っていくと思います。
私のなかにある不安もいつか小さいものとなり、子どもを育てることへ前向きに考えられたらいいなと思いました。


投稿者: もちこ | 2014年01月29日 10:45

私は先生の講義を受け、虐待についての考えが少し変わりました。以前はニュース等で虐待と報道されるとどうして自分の我が子を痛めつけることができるのだろうと虐待した親ばかりを責め、その親の気持ちがわかりませんでした。もちろん虐待されている子ども自身に不はありません。私は女なので女性の立場になって考えてみると、子どもを産んで育てようと思うにはそれなりの決心をすると思います。10か月も自分のお腹な中に命がありしっかりその命を守ってやっと産むことができるのです。どの母親だって子どもを産んだときには少なからず喜びがあると思います。この子をしっかり育てていこうと思うはずです。しかし決心したこともその後の子育てで崩れていってしまうのです。子どもを愛するということは口でいうのは簡単ですが実際に愛せている親はこの世にどのくらいいるのだろうと疑問に思います。子育てというのは見返りを求めてはいけないものだと私は考えています。しかし親も人間であるので誰かに認めてほしいと思うことがあるはずです。そんな時、認めてくれる受け止めてくれる社会があるだけでとても心が救われるのではないかと思いました。子どもを愛するにはまず自分の心に余裕がないといけないと思います。子育てをする親たちすべてが心に余裕を持てるような社会を目指していかなければいけないのではと思いました。


投稿者: MK | 2014年01月29日 12:29

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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