松本清張『鬼畜』から―「息苦しい」親密圏について
家族内部の虐待について考えをめぐらすとき、私は松本清張の短編小説『鬼畜』が胸をよぎります(松本清張『鬼畜』(松本清張短編全集07)、光文社文庫、2009年)。この作品は、松本清張氏が検事から直接聞いた実際の事件を題材に、1957年に発表された傑作です。78年には映画化され(野村芳太郎監督、松竹映画)、近いところでは2003年に日本テレビ開局50周年のドラマとしても放映されました。
わが国の高度経済成長の初期に執筆された作品でありながら、格差社会が広がるなかで急増してきた今日の児童虐待の発生要因を考えるためにも、十分なヒントを与えると考えています。それは、庶民が暮らしのために余儀なくされる苛立ちや焦燥であり、生活に窮して追い込まれた家族を取り巻く「息苦しさ」の中で、子どもたちが犠牲にされていく点にあります。前回のブログで紹介した姫崎由美氏の「gifted-誰かが誰かを思うこと」に表現された「清清しさ」とは対極にある親密圏の関係性です。
この作品のあらすじをご紹介しましょう。
主人公は竹中宗吉という印刷職人です。彼は、16歳で印刷屋に弟子入りし、その後は各地の印刷屋を転々として渡り歩きながら立派な腕を磨いていきました。27歳で同じ印刷屋で働いていた女工と結婚し、32歳のとき、コツコツと溜めてきた資金を元手に夫婦で印刷屋を構えることになります。
宗吉の腕の良さを頼りに、下請けから直請けとなるにしたがって売り上げを伸ばした頃、宗吉は取引先の接待に使っていた料理屋の女中と関係をもち、カミサンに内緒で妾宅を与え囲います。そうして8年が経ち、カミサンには子宝が恵まれないまま、妾との間には3人の子どもができていました。ところが、宗吉の印刷屋と機材が類焼のせいで失われたことから、商いはがっくりと傾きます。折しも、宗吉が印刷屋を構える同じ地域に最新鋭の技術と設備をもつ印刷所が進出したため、宗吉のような腕一本で勝負するだけの古い印刷屋は歯がたたず、ますます経営と暮らしは窮していくことになります。
囲っていた妾と子どもたちへのお手当てを出すことのできなくなった宗吉の印刷屋へ、とうとう妾は3人の子どもを連れて現れ、カミサンにすべてを暴露した挙げ句、子どもたちを置き去りにして姿を消します。カミサンは自分の子どもではないことを理由に養育を拒み、印刷屋の切り盛りに青息吐息という苦境の中で、これら3人の子どもたちは次々と夫婦の犠牲にされていくのです。一番下の男の子は栄養失調の末に、押し入れから「落ちてきた布団で窒息する」という不審な死を遂げます。二番目の女の子は、宗吉が東京のデパートに連れて行き置き去りにします。長男は、饅頭に毒を混ぜて殺そうとしますがうまくいかず、伊豆半島の海岸まで遊びに連れて行き、疲れて眠ったところを絶壁から突き落とす…。
ここでまず、私には『鬼畜』の主人公とその家族のストーリーが、戦後の日本の軌跡にだぶって見えてきます。つまり、敗戦の焼野原から努力を重ねて経済成長を遂げ、ひととおりの必要を満たす豊かさを通り越して「バブル」をつくり、個人の欲求をグロテスクにも肥大化させます。そして、バブルの破綻から「構造改革」の時代錯誤と失敗によってもたらされた格差の拡大と雇用情勢の悪化が進む中で、児童虐待が激増してしまう―この成り行きのすべてが、宗吉の歩みと相似した印象をもたらします(なお、平成に入ってからの20年間に、児童相談所の虐待取扱い件数は40倍増加しました)。
次に、話を個人と家族の問題に引き戻して考えたとき、「努力を積み重ねてきたのだから、成功と報いに恵まれるのは当然だ」という単純極まりない欲求のあり方と人生観が、無限定に肯定される問題点を『鬼畜』は描いています。このような欲求のあり方は、成功に追い立てる強迫的な愛情を産み出す土壌ではありませんか?
私は、努力することの価値を否定する気は露ほどももちませんが、「人よりもいい暮らしをしたい欲求を実現するための努力」や「落ちこぼれにならないための努力」に合法性と合理性さえあれば、際限なく正当化できるものとは考えません。個人の成功には、偶然的要素を必ず含むからです。
庶民の生活観としては「人生は思うようにならない」というのが、長い歴史の中では一般的な受け止め方だったのではないでしょうか。ご主人のお子さんを後添いに入って育てられた田辺聖子さんが、「神さんは人の寝首を掻くのが上手い」という処世訓をご主人と共有されていたことが想い起こされます(田辺聖子著『残花亭日暦』(角川書店)、2008年8月28日ブログ参照)。
わが国のIT長者や自動車産業の巨大な発展も、国策による支援がなければありえなかったように、それぞれの生きる時代の風向きや波の高低があり、成功の契機となる人やモノとの出会いに運・不運のつきまとう点は、個人の努力に還元できる問題ではありません。
ところが、このような点での幸運を含めて成功者の「実力」とするような「麻雀的人生観」の通弊や、「成功者」と勝るとも劣らない努力を重ねた「敗者」が常に必ず存在する事実を全く顧みない風潮が社会的に作り出されているのではないでしょうか。
一流のアスリートや職業人の「感動サクセス・ストーリー」を煽るテレビ番組を観ていると、個人の努力だけを摘み出して強調する一方で、個人的努力が成立した客観条件や偶然的要素にはまったく触れず、しかもこれらのサクセス・ストーリーを正当化するために、場合によっては、「脳学者」まで動員するという手口には辟易します。これは「個人的努力の強迫化」以外の何ものでもありません。
もとより、「個人的努力を越えた問題」への正視とその社会的克服への展望の中に、はじめて社会保障・社会福祉のゆたかさをテーマに据えることができると考えます。
第3に『鬼畜』から思うことは、家族という親密圏がさまざまな欲求の渦巻くところであり、それぞれの家族メンバーがいつも「心を一つ」に欲求を調和させているわけではないという点です。この小説で虐待されるのは「妾の子」だったからだと受け止めるのは皮相的な理解かと思います。印刷屋を構えた当初に懸命に働く宗吉夫婦には、「子供が生まれないから、邪魔になるものはなかった」とあります。
仮に、夫婦の「子どもが欲しい」願いがことの出発点であっても、子どもが生まれてから後の暮らしには、夫婦・親子それぞれの欲求が対立することもあればすれ違いもある、とくに仕事の必要と家事・育児の必要の「股裂き状態」に苦悩する生活現実は、現代庶民の家族にとってはありふれたことです。そこで、労働の長時間化と生活困窮の同時進行には、このような「股裂き状態」による「息苦しさ」を回避するために、非婚化の増大と出生率の低下を招く必然があるといえるのです。
このようにみてくると、最後に大きな問題が出てきます。松本清張氏の作品には「鬼畜」というタイトルがついていましたが、そこには「子どもを愛することのできない親は、鬼畜生だ」とする響きが感じられます。努力を重ねても安定した暮らしを実現することが難しくなった時代に、それぞれの欲求をもった個人から構成される家族の中で、「わが子を愛する」ということはアプリオリに前提できるのでしょうか? 「虐待」とまでは言えないにしても、「わが子を愛しているつもりで、愛しているとはいえない親」は普通にいるのではないでしょうか?
この問題を真正面から問うた労作に、フランスの大教育学者ジョルジュ・スニデルスの『わが子を愛することはたやすいことではない』(法政大学出版局、1985年)があります。
次回は、ジョルジュ・スニデルスの見解から考えてみたいと思います。
(追記)
1978年に野村芳太郎監督作品として映画化された『鬼畜』は、宗吉を緒方拳が、カミサン役を岩下志麻が演じ、名脇役も相まってなかなかの出来栄えだと思います。子どもを「虐待する父親の宗吉」役の緒方拳は、鬼のような父親ではなく、小心者である宗吉を演じているところに「虐待」のリアリズムが表れていると感じます。
この映画は、川越を舞台にして撮影されており(原作の小説では「S市」となっています)、当時は、今放映中のNHKの朝ドラ「つばさ」に登場する川越の「蔵の街」を保存する住民運動がはじまった時代で、映画の光景には当時の住民運動の張り紙や息遣いが映っています。開発を重ねる一方の首都圏では昔の街並みを保存することは稀なため、当時の街づくり運動が背景に記録されていることは意外にも貴重な発見でした。松竹ホームビデオで市販のほか、レンタル店でもよく置いている作品ですので、どうかご覧ください。
コメント
「鬼畜」は実際の事件を題材にしたお話なんですね。驚きましたが、戦後ということもあり色々と心に貯まったものがあったのだなぁと思いました。機会があれば読みたいです。
また、『「わが子を愛しているつもりで、愛しているとはいえない親」は普通にいるのではないでしょうか?』という問いにゾクっとしました。
そのような、自分が思う「愛」が一般的な「愛」から外れてしまっている親は(明確な基準は無いですが)きっと私が思っている以上にいると思います。
子から親へのどんな反応もそれは子から親への愛だと思います。なので、親は子へ愛を一方的に与えるばかりではなく子からの愛もしっかり受け止め、理解し、また愛を与える…というサイクルを続けなければいけないのだと思います。
「鬼畜」ビデオで見たことがあります。まさか実話だったとは知らず、とても驚きました。
虐待についてですが、とても他人ごとだとは思えなくなりました。私自身、いつか結婚して、母親となる日がくるとは思いますが、いざそうなったとき、自分の子供に愛情を押し付けてしまうのではないかと、怖くなりました。幸い、私の母親と父親は私のことを正しく(基準はありませんが)愛して育ててくれたのだと思いました。
愛することは人間にとって大切なことですが、一歩間違えると人を傷つける凶器となってしまうというのはなんだか悲しいことです。人間は人を愛する事ができるのだから、本当の意味で相手が幸せになるように愛することができれば、と思いました。
私たちには常に運が関わってきます。それは人生における真理とも言えるでしょう。
しかしおっしゃられる通り、世間では個人的努力や能力ばかりがやたらと持て囃され、運的要素は無視されているように思います。同じ努力でも良い方に転がれば「勝者」、そうでなければ「敗者」です。
虐待についても同じように言えるのではないでしょうか。
虐待をする親は「責任能力がない」とか「子供を愛しようとする気持ちが足りない」などとよく言われます。確かに責任能力のなさが引き起こす事件はあります。(パチンコ店の駐車場に子供を置き去りにして熱中症で死なせたケースなど)しかし、運的要素が絡んでくる場合もあるように思います。仕事がうまくいかない、姑との関係がうまくいかない、など具体例をあげたらきりはありませんが、自分の能力や努力だけでは補いきれない運の要素が親を虐待へと向かわせることは少なからずあるでしょう。虐待とは言わないまでも、子に煩わしさを感じる親はどれだけいるのでしょう。
「わが子を愛しているつもりで、愛しているとはいえない親」は、これから過酷になる世の中で増えていくのではないかと、不安を覚えました。
何が鬼畜であるか、子供を愛せない親が鬼畜であるのか。私は「その時代が鬼畜」と考えます。子供に優しく接しない親を認めるというわけではありません。誰しも自分が生きるのに余裕があれば自分の子は愛したい。だがそうもいかない事情がある故に虐待をしてしまう。
我が子を愛する、簡単なように見えて難しい問題です。
「鬼畜」という作品を今回このブログを読んで初めて知りました。
「鬼畜」が実話ということに驚きましたが、それ以上に人間の行動や心理状況などを読んでみると今の私達に重なる部分があり、私達はいかに(幸せと欲求を満たし生活して)いけばいいのか考えさせられました。
また、「子どもを愛することのできない親は、鬼畜生だ」とブログのなかでありましたが、現代で親は様々な状況下の中で虐待に至っている部分が少なからずあると私は考えます。
だからこそ報道などで取り上げられて悲観するだけでなく、虐待をしている親も救うような周りの理解が必要なのではないかと思いました。
そして、子どもの「愛し方」が分からない親が増えていることも事実でしょう。
最後になりますが、虐待に経済状況が少なからず関わっていると思われるので、家族が親密な関係を築けるような政策に期待したいです。
こんばんは。このブログと「わが子を愛することはたやすいことではない」を併せて拝読させていただきました。
以前から、現代における虐待の増加と現代「人」の変容が100%結びついている、と言わんばかりの論評には疑問を感じていました。実際に「人」のありようが変わっているのは紛れもない事実だろうとは思いますが、それをもたらす更なる背景として、現代社会の変容を挙げずに虐待の増加を語るのは暴挙だろうというのが私の意見です。
情報化が進んだ現代では、子育てや介護の在り方についてさえも「模範解答」が用意されてしまっていると思います。
実際にはそんなものは存在せず、各家庭ごとに違うやり方があって、それぞれが試行錯誤しながら、ときには他者の力を借りながら、自分にとって一番のやり方を探してゆくというのが、本来あるべき姿のはずではないでしょうか。なのに、「子育て(介護)とはこうあるべきで、その通りにしたんだから報われなければいけない」というような方程式が用意されてしまっていて、「人生は思うようにならない」というような考え方は忘れ去られてしまっているように思われます。
申し訳ありませんが、このコメントの続きは次のブログのコメント欄に書かせていただきます。
松本清張「鬼畜」ですか。
松本清張の作品は私の中にもありそうなどろどろとした部分を言い当てられてるような作品が多いためなかなか読む勇気が出ませんでしたが…それと向かい合うためにも、いつか読んでみたいです。
「虐待」とまでは言えないにしても、「わが子を愛しているつもりで、愛しているとはいえない親」は普通にいるのではないでしょうか?という問いは何か胸に突き刺さるような気がしました。
もし虐待をしていても、実は「わが子が可愛い」と思っている親も多いようですね。ただその反面、いろんな事情からその子供をどうしても憎まざる負えなくなって虐待をしてしまう親も多い。
また先生の言う通り、「虐待」をしていなくて、十分親は愛情を子供に注いでいるつもりでも、子供がひどく傷つき「虐待」されてしまうこともある。親だから、子供だから互いのことが十分わかりあえるというのは嘘ですね。お互い「自分」以外の人間。
ただ子供は親の遺伝子を半分ずつもらっているだけ。見知らぬ他人と分かり合うのと同じくらい、親子で分かり合うというのは大変なことだと思います。
「愛情」だって、何を愛情とするかは人によってさまざまですし。
互いに同等の立場ではなく、言い争いのできない分、親は知らず知らずのうちに子供を傷つけ、子供は言いたいことを我慢して「虐待」され続けてしまう…その分、親子で分かり合うというのは知人らと分かり合うこと以上に難しいのかもしれません。
私も以前テレビドラマで鬼畜を見たことがありました。まさか実話だとは思ってもみなかったので、とても驚いています。
鬼畜を見たとき、「こんなことするなんてありえない!!」っと思っていましたが、このブログを読んで、確かに親子と云えど考え方や性格は違い、個人個人にさまざまな苦悩があるものだと思いました。
虐待とは言わずとも『わが子を愛しているようで愛せているとはいえない親』は私もいると思います。子供のために怒っているつもりでも本当は自分のストレスのはけ口だったり・・・。
愛することは難しいことかもしれませんが、沢山の子供たちが愛されるといいなと思います。
この「鬼畜」という作品が実話だということでとても驚きました。生活の状態、状況によっては、子供を愛せなくなることがあるのだと知りました。虐待なんてありえない!と思っていましたが、自分が親になったときに虐待をしてしまう可能性もあるのだと感じました。
この「鬼畜」の中の虐待は、親が子供に対して愛し方を知らないから虐待をしてしまうとかではなくて、苦しみから解放されたくて虐待をするというものであり、凄く辛くて苦しいことではあるけれどある程度はしょうがないのかな、と思いました。
自分の子供でも、親自身が生活に苦しく、精神状態も半ば鬱状態で生活をしているのならば、仮に子供を自分の中で愛すべき存在と認識されていたにしても子供のことを考えている余裕などなく、虐待に走ってしまうのかな。私はそう感じます。
でもやっぱり
子供にとって親は神様であり、全てだから
そんな親に殺される子供って、どんなに辛いかを考えるととても切なくなります
>>「成功者」と勝るとも劣らない努力を重ねた「敗者」が常に必ず存在する事実を全く顧みない風潮が社会的に作り出されているのではないでしょうか。
全くもってその通りだと思います。
いわゆる「成功者」が社会を動かしているために、自分の利益を優先するあまり、失敗した人がどんどんと追いつめられる。
そして、成功者が社会を動かしているわけですから、もちろん、さらなる成功へと進んでいく。逆に、失敗者はますます追いつめられていく。
結局、この悪循環が今まで続いてきたがために、虐待の件数が年々増加しているのだと思います。
すでに手遅れかもしれませんが、国がそういった金銭的に余裕のない人に援助をしたり、子育て支援、保育園、幼稚園の充実等、しっかりとした基盤を確立することが、少しでも虐待件数を減らす上で、大事だと考えます。
松本清張の「鬼畜」は原作しか知らず、このブログで映画化されていたことを知りました。今度時間があれば見てみたいと思います。
この”鬼畜”は親のことを表していますが、私も先生と同意見で、原作を読み終えてから数年たった今でも、子供に厳しく当たるお梅を”鬼畜”であったとはどうしても思えません。無責任かもしれませんが仕方ないことだとしか思えませんでした。
生まれた直後から環境に翻弄される子供たちの姿を見て、ただ子供がほしいという理由だけで親になろうとする大人はいかがなものかと思わずにはいられません。そういう人に自覚を持たせるいいきっかけにこの作品はなりうると思います。
子どもへの虐待は、語弊がありますが、私達の誰もが一生の中で直面する可能性のある出来事がきっかけであるように感じます。つまり、誰もが虐待の被害者にも加害者にもなり得ることは否定できないと考えられます。
今回の引用である《鬼畜》において生活困窮が契機となり、波風の立たなかった一家の生活の歯車が狂うという流れから考えさせられました。
であるからこそ、子どもへの虐待はどの家庭にでも起こり得るという社会的意識の向上が急がれるのではないでしょうか。
ですが具体的な改善内容は“これ”というように提示することは困難と思います。また個人的には思案すればするほど理想論化してしまったり、自己矛盾を起こしてしまう題目です。
《鬼畜》は、今日の福祉が抱える問題は一朝一夕には解決しえず、且つ一部のプロフェッショナルや関係者による努力で好転するものではないことの以上2点を、意識する人の増加を呼び掛ける作品のように思います。
このブログを読み、この「鬼畜」という作品を初めて知りました。実際の話とはなかなか信じがたい現実であると感じました。
社会のなかで、人生は思うようにならないと感じることはあると思います。努力したからといって成功するとは限らない。確かに努力すれば上手くいくというサクセスストーリーに自分の人生を照らし合わせて上手くいかないと感じる人も多くいると思います。子育てに関しても似たようなことが言えると思います。また、このように育てたい、こんな子に育ってほしいという理想とプレッシャーが虐待につながっていると考えます。このように考えると「わが子を愛しているようで愛せているとはいえない親」はいるのではないかと思います。
このような社会の在り方の見直と周りが親を支援する環境が必要であると感じました。
子どもが欲しいという欲求と、子どもを慈しみ愛情を持って育てていけることは全く別のことであるということを感じました。
先生の講義の中でも何度もこのようにおっしゃっていました。この話を聞くと、欲求にかられてしっかりと先のことを考えずに行動を起こすことの愚かさを思い知らされます。実の子どもであったとしても慈しみ愛情を持って育てていくことは難しいことだと思います。虐待という行為はどのような家庭でも起こりうるものです。
それを防ぐためには、その夫婦の周りにいる人たちが気にけたりできるようになることが必要だと思います。
このような悲惨な出来事を防ぐためにも、もっと虐待について考えなければならないと感じました。
まさか「鬼畜」が実話だとはしりませんでした。なかなか信じがたいですが、そういった現実を知ること自体いまのわたしたちには必要なのかもしれませんね。もう一度観直して、現実を直視することで自分にもできることがみつかるようなきがします。
「鬼畜」のあらすじを読んで、心が痛んだ。
親が子どもを愛することっていうのは、想像以上の難しいことなんだと思う。
子どものためを思って言っているというその言葉は、本当に子どものためを思っているのか??
自分の叶わなかった夢を勝手に子どもに託し、思い通りにしたいだけではないのか。
親自身も、子どものために言っているのか、自分の理想を押し付けているのかがわからなくなっているのかもしれない。
親なら誰もが感じている不安が形を表したとき、それが「虐待」になる可能性を秘めているのかもしれない。
ブログを拝見させていただきました。
児童虐待はどの時代でも存在し、現代でも変っていないということを改めて感じました。
子どもの権利を守るようにとどんなに他人が努力しようとも、子どものすぐそばにいるのは親や保護者なのです。
子どもを愛そうと思っても、うまく愛することができずにいらだちを感じる親もいます。
子どもに対する支援が大きく取り沙汰されていますが、実際には虐待をする可能性あるなしに関わらず、養育者への支援をしていくことも必要です。
この物語が実話だと知って驚きましたが、話の要約を読んで正直少しわからなくもないなと思ってしまいました。
子どもを育てるには実際にはお金がかかり、バブル時代から、バブルが崩壊したあと、今まで通りには子育てができなくなり、そのつらさが非力な子どもに向かってしまったのだと思います。そんなとき、どうしたらいいか私にもわかりません。
しかし、自分の子どもであってもそうでなくても、子どもには何の罪もないし子どもに当たる時間があるのなら、この先どうすればいいのかを考えることに時間をあてるべきだという考えを忘れずにいたいと思います。
児童虐待について思うところは多々あります。
この授業の講義で何度か、このテーマについての映像を観ました。
アメリカの児童虐待についてで、みんな内容に衝撃を受けているようでした。
しかし私はあまり衝撃を受けませんでした。
なぜならそのような事実があるということを知識として持っていたからです。
そして日本の児童虐待の映像を観た時も同じでした。
そしてその時の話し中で、責任は誰にあるのか。
その被害を受けている児童のに関わっている人、全員に責任があると思います。
しかしそれは関わっている人、国民すべてだと考えます。
実際に虐待をしている両親等はもちろんであるが。
今、経済の状況が悪かったり、近所の人との付き合いが軽薄になっていたり、核家族化が進んでいったり、とこれらすべてが児童虐待につながっていると思います。
この状況を生み出しているのは国民である。それに間違いはないだろう。
今の社会で児童虐待をなくす方法はないと思う。
しかし早期発見などはできるだろうし、一人ひとりの意識が変われば、新たな展開があるのでは、と考えます。
このブログを読み初めて「鬼畜」という作品を知りました。
最近では虐待が注目され、法律の改正やニュースでも取り上げられることが多くなりました。我が子を愛しているようで、愛しているとはいえない親は本当にたくさんいると思います。今はひどい親だなと思っているけど、自分が実際に親になったときの状況によって自分もそうなりかねないのではないかと怖くなりました。
また、努力すれば必ず報われるわけではないということにすごく納得しました。成功するためには努力だけでなく他にもいろいろな条件が必要なんだと思いました。
努力をしたらその分自分に返ってくる、というようなフレーズについては、私もすべて間違っているとは思いませんが、その言葉を信じ込みすぎていると、頑張ってもできなかったり、うまくいかないような状況のときに自分の心の支えとなるものを作ることが難しいように思えます。多くの人が自分ができるだけ幸せになりたい、と考えているのではないでしょうか。
しかし、努力をすれば必ず成功するというような言葉が、その気持ちをせかしてしまい、人々の努力が空回りをしている気がしてなりません。また、数年前に勝ち組、負け組という言葉が流行ったように、自分が相対的にどのあたりにランク付けがされているかに人々の関心が高いことが考えられます。
そのことで、少しの失敗でさえ自分の価値が下がったようにとらえてしまう傾向があるのではないかと思います。
失敗したからには反省点を見つけ、克服する努力をするといったように、次につなげていくことは必要だと思います。その上で、うまくいかない人を支えてあげられる環境が必要ではないかと思います。
この記事を拝見して、いろいろな文献はもとより、映画も教養の1つになるということを改めて感じました。単なる娯楽などではない、社会風刺を根底に据えた映画が過去にはたくさんあったのだろうと思います。
さて、虐待というワードは最近明らかになったものだと思っていましたが、戦後早くからも問題にされていたことが分かり驚きました。「子供を愛する。」自分はまだ親になってはいないのでまだ実感をわかせるのは無理ですが、子供を愛するのはそんなに難しいものなのでしょうか?私は虐待する親は、子供を所有物化しているからこのようなことが起こると思います。
子供も1人の人間、自分とはまったく違う思考を持ったものだと思うと、自分で納得できたりすると思います。ですが「この子は私の子」と限定すると、いかにもモノとして扱いがちになるのではないでしょうか。そのため手荒な行為に至るのではないでしょうか。子供を愛しすぎるのも少し考えものかもしれません。子供も他の人と同じくらいとは言いませんがある程度の距離を持っていたほうが、平和にいくのかもしれません。
児童虐待についていろいろと考えることがあります。
児童虐待は、大きな社会問題になっていますが他人事ではないように思えます。虐待をする親だけに責任があるのではなく、その親が育ってきた環境だとか、虐待をしている現在の環境などが大きく影響していると思うからです。なので自分の将来、虐待を犯すかもしれない環境が生まれないとは言い切れません。
親というのは子供に対して無償の愛を注いでいると思います。無償の愛とは、何も見返りを求めないでただ子供のためを思い共に生きることだと思います。しかし見返りを何も求めないというのは、実際難しいことかもしれません。
たとえば、自分の子供に将来「勝ち組」にするために教育費をつぎ込んだりしています。
幸せは人それぞれ違うかもしれませんが、少なくとも力のないものが虐げられるような社会は幸せではないのかなと思います。
松本清張さんはテレビで聞いたことがある程度であまり知りませし、「鬼畜」という作品も初めて知りました。
親が子供を虐待するのは現代の社会問題になっています。恥ずかしながら、私の姉も虐待とまではいきませんが、あまり子供に興味がないようで、子供をあまり構ってあげていません。私はいつも「自分が産んだ子供なのになんで可愛がれないのだろう」とおもっていました。
そんなある日、先生の授業で「家庭内の虐待は別に特別なことでは無いんです」と言っているのを聞いたときは「この先生は何を言っているのだろう」と耳を疑いました。そのくらいの衝撃を受けました。しかし、講義を聴いているうちに、現在の家庭の現実が分かってきて、そうなってもおかしくはないように思えてきました。それからは、姉の代わりに子供たちとも積極的に関わるようになりました。
この問題を解決するのは難しいですが、少しでも他の人が気に掛けたり手伝うことで少しはよくなるのではないかと思います。
「鬼畜」読んでみたいと思います。
虐待問題を解決していくのは非常に難しいと思います。
勝者、敗者にほぼ完全に二分される今の過酷な社会で、経済的に逼迫している家庭というのが少なくないというのは想像に難くありません。
そのような環境の中、親がわが子を疎ましく思う傾向にあることは、「鬼畜」のあらすじから読み取れるように、当然だとおもうからです。
しかし、当然この社会に存在しなければならない敗者である親たちにできることは何かしらあると思います。親の不安などが、子どもに虐待という形で発散されるのであれば、親が自分の不安を心おきなく話せるような存在が必要になってくるのではないでしょうか。
学校や幼稚園などで、親同士の関係を密にするような機会を増やしていくことができれば、虐待が少しは減っていくと思います。
虐待。遠いものの気がしていましたが、考えれば考えるほど実は遠いものではないということを実感してきました。
昔は虐待に対しての対策は、当事者である親に対して行い、虐待を消すことに力をいれていくのが得策と考えていましたが、今は考えが変わり、虐待は当然のように存在するものでありいかに虐待を理解し周りの環境が変わるかが大事であると考えるようになりました。
「鬼畜」でもそうですが、虐待を起こさせないように金銭面での困窮を減らすこと、とても大事なことだと思います。
このブログを読んで、一人ひとりの人間として、とても考えさせられるなあと感じました。
人の欲とはときにプラスになるけれどあまりに肥大化した時の恐ろしさを感じました。また、「努力を積み重ねてきたのだから、成功と報いに恵まれるのは当然だ」と思うことは努力を自分なりに積み重ねてきた人にとっては1度は感じてしまう欲求ではないかとも思いましたが、努力=成功に過度につながり自分をも追い込んでしまう考え方になるような努力への欲求につなげたくないと思いました。
生活苦の中、子どもが生活の障害とされ、虐げられる状況はなくす必要があると改めて考えました。生活上、手間暇のかかる子どもが出来ると負担は確実に増え、生活はより苦しくなります。その時、家族が社会から孤立しているから全ての圧力が子どもに向き、虐待等の悲惨な出来事が起こるのではないでしょうか。地域が負担を共有し合い、支え合える社会の実現が望ましいと考えました。
自分に豊かさを求める気持ち(自分の欲望を実現しようとする気持ち)はどんな人にもあるけど、結婚をして家庭を持ち、こどもを育てるという場合、それが豊かさを求めることに対して支障をきたすかもしれないということを自覚する必要があると思います。こどもが健やかに育つためにはこどもと触れ合うことに時間を費やす必要があるからです。また、こどもを育てることへの心構えだとか、こどもの心身の発達の仕方について少し知る必要があると思います。しかし、これらのことを知る機会はあまりないかと思います。
そこで、自分は中学校や高校においてこどもとの触れ合い方やこどもの心身の発達の仕方について学ぶ機会をもう少し増やしたらいいんじゃないかと自分は思います。正直、自分がいた高校はそういうことを学ぶ機会はほとんどなく、授業が「大学受験のための授業」みたいな感じでした。そのような高校は全国において結構あると思います。しかし、人生において大事なのは受験勉強ばかりでなく、上に書いたようなことを学ぶことも大事なのではないでしょうか。
人間同士が触れ合うこと、世代から次の世代へと命をつないでいく営みをよりよくするために、学校教育について少し考え直す必要があるのではないかと自分は思います。
虐待は私にはほど遠いものであると思っていたのだが、生活をしていくために仕事をすることと育児や家事をすることを何とか良い加減で行っていた普通の家庭で何らかの拍子にそれが崩れてしまいおこるものではないかと感じた。子供のいない夫婦であれば育児に気を取られることなく成功のために進んでいくのかもしれないが子供のいる夫婦であれば育児に気を取られることなく成功のために進んでいくのかもしれないが子供のいる夫婦においても夫と妻が平等に仕事・育児・家事を分担して、さらに地域社会が全体で助け合っていくことが重要なのだと思う。
「鬼畜」からは、生活が困窮した家族内部における虐待という格差社会の弊害が読み取れました。息苦しい親密圏の中で犠牲者となっているのは子ども達だけではないと思います。親も同様に犠牲者だといえるのではないでしょうか。
しかし、虐待の発生要因を社会のみに帰するのは短絡的だといえます。格差がなければ虐待は生まれないと断言することはできないでしょう。
家族内部における欲求の不調和や確執も虐待の発生要因の一つだといえます。人間がさまざまな欲求を抱くのは自然なことだけれど、その衝動による行動に責任を持つことが重要です。そういったことは、親から学んだり、地域社会や学校教育から学んだりして身につけていくものです。大人から子供へと伝えていくサイクルをうまく機能させるにはどうすべきか、検討する必要があります。
松本清張「鬼畜」、読んだことはないが、このブログであらすじを読んでひどい話だと思った。この夫婦は結果的に、三人の子供を殺している。だが殺すまでには至らなくても(死に至るケースもたくさんあるが)、児童虐待が大幅に増加しているという現実がある。そう、これは本の世界のひどい話ではないのだ。
家族が「息苦しい親密圏」となってしまったら、家族といることが苦痛でしかなくなる。家が安らげる空間でなくなってしまう。そして最悪の場合、子供が親の感情のはけ口になり虐待へつながる。その原因は、生活の困窮、社会のサポート不足が根底にあるのだと、このブログを読んで思った。実際の世界で起きている児童虐待という問題を解決するために、社会保障、福祉の必要性を強く感じた。
私は、自分の努力だけで報われることはほとんどない、ということを常々感じる。
例えば、私は小学生の時にスイミングスクールに通っていたのだが、同じアドバイスを聞き、同じ時間泳いだはずなのに、気付いたら一つ下の学年の人と練習していたのである。
勉強も同じだと思っている。よく予備校の先生は「やった分だけ出来るようになる!」ようなことをおっしゃっているようだが、そこには個人差があり、その原因は勉強の仕方だけではないであろう。
どのような環境で育ち、どのような才能を持つかは自分では選べないので、努力は自己満足に近いものなのかなと思ってしまう。というか、そう思わざるを得ない。しかし、その自己満足が人生を少しでもよりよいものにするために必要だとは思う。
「わが子を愛しているつもりで、愛しているとはいえない親」は普通にいるのではないでしょうか?――私はこの問いかけに非常に納得した。自分はパン屋でアルバイトをしている。そこには幅広い層のお客さんが来店し、親子連れも多い。その中で明らかに親が子を愛していないのが見て取れる親子や、子供に怒って平気で手を挙げる親もいる、その光景を見るたびに私はぞっとする。なぜ産んでしまったのか。親は子を愛する義務を持つ、というとおかしいが、子供を産んで育てるということには愛情が必要不可欠である。また、先生のおっしゃる通り、その意識を持っているつもりでも実際に愛することが出来ていない親はたくさんいると思う。個人の努力を強いることがその一例だ。「いい学校に進学してほしい」「子供がいい評価を得られるように」親は子に努力することを強要する。愛ゆえだ、とする人もいるかもしれないがそれは違うと思う。道理に外れない程度に子供の思うままにさせることが一番だと私は考えるがでは道理に外れないようにするにはどうすればいいのか?また道理とはなんなのか?考えたらきりがなくなってしまうし、何が愛なのか、本当の答えは知りえない。愛することの難しさから虐待に走る親も少なくないのかもしれない。
高度経済成長期やバブルは、良くも悪くも人々の生活が大きく転換した時期であると思う。豊かになれば、余裕のある暮らしに酔いしれ、貧しかったころの生活を忘れてしまう。大枚はたいて一文無しになるだけならまだいい、お金は巡り巡って誰かの手にわたることで経済は回るのだから。しかし、子供は違う。両親は子供にとって代わりのきかないかけがえのないもので、そして親にとっても慈しみ、守るべき存在である。時代の風潮で、ついつい作ってしまうものではない。本当にわが子への愛があるのか、時代の風に煽られて真実の愛を見失っているのではないか。
虐待の相談件数が増え始めたのは近年のことであるが、高度成長期にこの作品を発表し、疑問を投げかけた松本氏は鋭いと思う。
僕はこの「鬼畜」という作品をこの記事で初めて知りましたが、虐待を引き起こすもととなる人間の感情、欲望、嫉妬などをうまく表しているとても素晴らしい作品だと思います。また、「努力」に対する考えを巡らせると、努力だけを重んじる風潮も問題だと思います。成功の陰に隠された要因には「努力」、「運」がありますが、確かにテレビなどでの報道などでは「努力」の部分だけがピックアップされ、貴いものとされ、崇拝されています。これもまた大きな問題だと思います。このような問いかけをしている「鬼畜」という作品一度見てみたいです。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。