そこかしこにある「障害」
「障害のある人」の支援や制度は、社会の中の「マイノリティ」に関する領域だとするイメージを今日まで払拭し切れていません。児童や高齢者というライフステージによってグルーピングされた領域との対比で、「特殊な」問題領域という印象に傾きがちです。
でも、はたしてそれは真実なのでしょうか?
自立への回り道
知的障害のある青年のAさんは、子どもの頃「虐待」を受けた経験をもちます。私が出会った当初は、他害行為と自傷行為が頻発し、感情の波も激しく、他者との穏やかなコミュニケーションの運びに著しい困難がみられました。
それから7年が経った今、チームを組んで支援を行なってきた私や関係者からはもはや別人と見違えるほど、人間としての逞しさや自立心をもつ青年に成長しました。現在、Aさんは考えと感情の運びの穏やかさを取り戻し、一般就労に向けた実習に励んでいます。支援関係者は、Aさんとこれまでと現在を共有してきたことに大きな喜びを感じています。
わが子を愛することはたやすいことではない
全盲のピアニストである辻井伸行さんが、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝されたとの報が飛び込んできました。もうすごいですね。これまで、辻井さんの演奏をテレビで視聴しただけでもぞくぞくしましたが、生演奏だとさぞや、と想像してしまいます。
全盲の方がピアノを弾くことにはさほど困難はないと思います(2008年10月16日~11月6日付本ブログ参照)が、国際コンクールで優勝することは「たやすいことではない」。心からおめでとうございます。ぜひとも、生演奏を聴きに行きたいと考えています。
松本清張『鬼畜』から―「息苦しい」親密圏について
家族内部の虐待について考えをめぐらすとき、私は松本清張の短編小説『鬼畜』が胸をよぎります(松本清張『鬼畜』(松本清張短編全集07)、光文社文庫、2009年)。この作品は、松本清張氏が検事から直接聞いた実際の事件を題材に、1957年に発表された傑作です。78年には映画化され(野村芳太郎監督、松竹映画)、近いところでは2003年に日本テレビ開局50周年のドラマとしても放映されました。
わが国の高度経済成長の初期に執筆された作品でありながら、格差社会が広がるなかで急増してきた今日の児童虐待の発生要因を考えるためにも、十分なヒントを与えると考えています。それは、庶民が暮らしのために余儀なくされる苛立ちや焦燥であり、生活に窮して追い込まれた家族を取り巻く「息苦しさ」の中で、子どもたちが犠牲にされていく点にあります。前回のブログで紹介した姫崎由美氏の「gifted-誰かが誰かを思うこと」に表現された「清清しさ」とは対極にある親密圏の関係性です。