「学識経験者」とは何者なのか?
この10年余り、私はさまざまな自治体の障害者計画・障害福祉計画の策定に関与してきました。今でこそ、計画策定の運び方に少しは知恵と知識を持ち、このブログの左側の欄に紹介されている障害者計画・障害福祉計画に関する単行本も出していますが、最初の頃は、計画策定の委員会のたびに頭を抱え込んでいました。当時は、福祉領域におけるプランニングについての議論は殆ど見当たらず、自治体にしても障害領域の計画策定は未経験でしたから、「手探り」ではじめるしかないような状況でした。
このようにいささか覚束ない気持ちを抱きつつ、私にとって最初の計画策定である埼玉県和光市の障害者計画に臨むことになりました。以来、私は「未知との遭遇」を連続して経験することになります。
これからしばらくの間、私の計画策定に関する経験談(単行本には書くことのできない裏話)を綴ってみましょう。
まず、計画策定の委員会の冒頭で面喰ったことを告白しなければなりません。それは、委員の委嘱や委員長選任の際に「学識経験者である宗澤委員を…」と私が紹介されたことです。社会的な場で「埼玉大学の宗澤先生」と紹介されることがそれまでは常でした。職場名を肩書きに据えた人物紹介はありふれた慣習です。その他には、地域の保育所や学童保育の父母会で「トモちゃん(娘の名前です)のお父さん」とか、地域の子ども会で「○○町12班の宗澤さん」(私の住まう町内の子ども数は多いため、子ども会の班が20近くあります)というのが経験した呼称の範囲です。
だから、いきなり「学識経験者」と呼ばれ面喰ってしまったのです。この呼称には、どことなく「偉そうな人」であるかのような臭気を感じます。私は自分の指導した学生が卒業してしまうと、私のことを「先生」と呼称させる習慣さえ持ちません。だいたい「学校の教師」なるものが卒業生のことをいつまでも「教え子」と思うような通念は、パターナリスティックでベタベタするような湿度の高さがありますから、私の肌には合いません。その上、卒業してまでも「先生」呼ばわりされ、まだどこかに指導責任が残っているかのような「所定外労働」への傾きに対しても、「卒業したら本人と本人の職場の責任、今さら俺の出る幕じゃないよ、勘弁して欲しい」と、私は涼しく考えるタイプです。
だから、一般的な「先生」よりさらに偉そうな「学識経験者」と紹介された段には、悪寒が走り鳥肌が立ちました。理屈抜きに自己嫌悪に陥りました。それでも、「俺はいつから『学識経験者』をやっているのだろう?」「そもそも『学識経験者』とは何者なのだ?」との疑念がつきまといます。
最初の委員会から自宅に戻り、早速、「学識経験者」の項を辞書で引っ張ってみました。
「専門領域の学問で評価を受け、豊富な経験と高い見識をもつと社会的に認められる人」 (三省堂『大辞林』)
「学問上の識見と豊かな生活経験のある人」 (岩波書店『広辞苑』)
「え゙~、嘘だろう?!」と、もうびっくり。この言葉から私の想像できる人物は、聖徳太子か菅原道真級といってよく、自分の身丈に合わないのは当然です。その上、およそ大学の教師が「専門領域の業績」の何らかを持つことは一般的だとしても、「豊富な経験と高い見識をもつ」ことは必ずしも一般的ではありません(と少なくとも私は思っています)。どのみち「学識経験者」とは、『大辞林』の説明の末尾に「社会的に認められる人」とあるように、本人の側からアイデンティティに組み込む概念ではなく、行政機関やマスコミ等の周囲の側から勝手に「社会的権威」として祀り上げたいときに使う言葉ではないでしょうか。私には、「よいしょ」されているか、「あんたが大将」と揶揄されているようにしか思えません。
計画策定を行なう自治体や地域については、生活文化、ネットワークと社会資源の実情、障害のある人の願いのさまざま、地域の利害関係と支配構造、首長・議会・自治体職員の構造と関係性等々、数多くのファクターが交錯しています。そこにいきなり、「大学の先生」が「学識経験者」と呼称されて「委員長」や「会長」に納まったとしても、地域の実態や実務の必要に即したリアリティのある計画内容・策定過程をゆたかにするとは限りません。下手をすると、「学識経験者」という「社会的権威の付与」によって、策定過程や計画内容に「正当性のお墨付き」を与えるためのキャスティングに過ぎないのかも知れませんね。
私の計画策定に関する初体験は、以上のような当惑から始まりました。
(次回に続く)
コメント
ブログ拝見させていただきました。
現在大人気の少年漫画「ONE PIECE」の中で、ある国の王が主人公である海賊に風呂場で頭を下げ、大臣が「王が人に頭を下げるべきではない」と苦言を呈したところ、王は「権威とは衣の上からきるものだ。…だがここは風呂場。裸の王などいるものか。」というセリフがあります。
王が風呂場にいるとき、それは王ではなく一人の人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。私は王などという立派な立場にありませんが、先輩であり、後輩であり、甥っ子であり、叔父さんであり…と様々な存在に場面ごとに変化します。
ですが、どの私であれど私は私。場面によっていい子ちゃんであったりはしません。私のような若輩者から言われずともおわかりでしょうが、どのような呼ばれ方をしても「宗澤忠雄」という人間が変化することはありません。
今後も「宗澤忠雄」の信念の元にご活躍されることをご期待しております。
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