新年を迎えて
明けましておめでとうございます。皆さん、年末年始をどうお過ごしになったでしょうか。
冬将軍の到来に由来する交通機関の乱れに巻き込まれた方もおられるでしょうし、不景気の最中に寝正月を決め込んだ方もおられるかも知れません。私は昨年、「障害のある人の虐待または不適切な行為に関する実態調査」をまとめている真只中でお正月がなかったため、2年ぶりのお正月となりました。
この年末年始には、私の注目した二つの出来事がありました。その一つは、日比谷公園を中心に展開された「年越し派遣村」の支援活動で、もう一つは、千葉県東金市の女児殺害事件です。
「派遣村」の支援活動は、次の三つの点で注目しました。
その一つは、「貧困」や「ホームレス」の問題が今日でも雇用・失業のあり方と直結した問題であることを明らかにしている点です。およそ100年前にイギリスのS・ラウントリーやC・ブースが貧困調査で明らかにした「古典的貧困」が、「戦後最長の好景気」といわれてきた直後の日本において厳然と存在するということです。
二つ目は、「日比谷公園」を拠点に展開された支援活動が全国の国民的な関心事になっているということです。かつての山谷、寿町、釜ヶ崎といった高度経済成長の只中で局部的に現われた地域の問題ではなく、地方経済の解体と「派遣労働」に由来する全国に共通する問題であることを明らかにしています。
そして三つ目は、弁護士や医師を含む多数のボランティアが支援活動を担い、今後の問題克服に向けた行政機関への働きかけを展開した結果、制度的な問題解決の必要性に対する社会的な共通認識が生まれてきている点です。
以上の全体を総括すると、「貧困」と「ホームレス」の問題が、特殊で個人的な責任に帰されるものではなく、社会的な解決を要する課題との国民的な関心事になっているという点で、わが国の歴史上画期的な出来事であると思います。
一方、東金市の殺人事件のほうは、やりきれない気持ちに襲われる出来事でした。まずは、殺されたお子さんのお母さんの無念さはさぞやと胸が痛くなります。次に、秋葉原事件のときと同様、「無理やり連れて行ったと供述」「アニメ好き」など、容疑者に関する報道があまりにも一面的であることに強い疑問を感じます。
たとえば、軽度の知的障害をもつ容疑者は、養護学校の卒業と同時に就労した工場を欠勤するようになって、昨年の9月に辞めており、しかも容疑者のお父さんは重い病気で入院中だったと報道されています。
それでは、進路指導は本人の適性と意向に即した適切な内容であったのか、養護学校の校長は、欠勤するようになった局面で「頑張って続けるように励ましていた」とおっしゃっているようですが、アフターケアはその程度のものでしかなかったのか、お父さんが入院中というご家族の困難が予想される事態の中で、退職以降の適切な地域生活支援が提供されていたのかどうか、少年法は少年の更生保護と刑事罰の責任を年齢(広義の発達のレベル)によって区別し考慮するものであれば、知的障害のある人に対しては年齢の延長が考慮されるべきではないのか……。
私にはさまざまな疑問が湧いてくるのですが、「事件の真実」に迫るような報道はほとんどなく、1月6日に千葉県の障害者団体や弁護士会が「知的障害に配慮し、取調べの全過程を録画するよう」地検と警察に申し入れたとのニュースが流れただけです。インターネットのブログの中には、この事件をめぐって「人権団体と親の会の過剰な保護」がこのような事件を招いたと、身勝手な「感想」を一方的に書き込んでいる者までいる始末です。
この世界同時不況の折、障害のある人の雇用・失業問題も深刻な事態に直面していますから、「行き場のない」障害のある人の支援は重要性を増しています。この種の事件の再発を防いで新たな犠牲者をつくらず、また障害のある人の暮らしの中の人権を擁護するためには、もっと真実に肉迫する報道が求められるのではないでしょうか。
コメント
明けましておめでとうございます。
昨今の雇用不安について、その影響が及んでいる相談ケースがいくつかあります。そういった中で、生活保障、生活支援のあり方が見直されるようになり、一つの転換点となるのではないかと感じています。
軽度知的障害をもつ人の事件に関し、報道によって「障害者は危ない」という一方的なイメージが、誤って先行することがなければよいのだが、と思いました。
派遣労働者問題は、労働問題だけではなく、社会保障の視点からも今日の日本における解決すべき重要な課題の一つです。
社会保障は、人間が人間らしく生活していける最低限度の保障ですが、働きたくても働けない労働者にはこの社会保障制度が果たされていないのが現実です。
宗澤さんがおっしゃるように、「年越し派遣村」がメディアによって大々的に報道され、問題解決の必要性に対する社会的な共通認識が生まれたことは支援活動の成果でありますが、私は、結局は国や企業の意識や体制自体が改善され、実際に労働者の生活が保障されるまでに至らなければ、この支援活動の意味が半減してしまうように思います。
企業の都合の良いように、労働者を人間として扱っていない企業や、その現状を見てもあまり大きな動きを示していない国に対して憤りを覚えます。
もう一つの千葉県東金市の女児殺害事件は、日本の障害者を取り巻く環境の現状を顕著に表しているように思いました。障害者の就労、生活、精神面における支援等、障害者が自分らしく生きていくことのできる環境は未だ整っていません。
私は、国民だけでなく、国もメディアに踊らされているのではないかと思います。もしメディアがこの事件の真相を追究して、それを報道し、番組を見た国民が、国に対して様々な改革を求めていたら、この現状に少しでも変化が見られていたのではないでしょうか。
私は、メディアが報道することだけでなく、国民一人ひとりが事件や問題の真相を知ろうとする姿勢や、視野の広さが必要なのではないかと思います。
hagiさん、コメント有難うございます。
ご指摘のように、生活保護の運用の仕方と、生活保護につきまとう国民の偏見やスティグマに対して、本格的な問い直しと反省がはじまる契機になるのではと感じますね。
Hagiさんもなさっている生活保護のワーカーは、国民にとってかけがけえのないセーフティネットを守る仕事をしているのだと国民全体の共通認識になることも祈っています。
マスコミやメディア、社会に情報を発信するものとしてどんな責任をもっているのでしょうか。正しい情報を発信し、間違った情報は発信しない、そういった姿勢は見られます。けれど発信する情報の偏りは見られます。それはなぜでしょう。新聞記者やリポーターなどの仕事をしたことも、その現場を見たこともない私にはわかりませんが新聞や雑誌は売り上げを、テレビ番組は視聴率を狙っているはずです。そのためには読者、視聴者を引き付ける面白さ、印象のある情報を発信しなければなりません。人間の本質として、「他人の不幸は蜜の味」とも言われるように、人は他人の不幸、事件を見て自分の平凡さ、幸福に気づき安堵します。日常的に人は刺激を求めます。凄惨な殺人事件などが起きると犯人の動機、事件の真相などあれやこれやと想像し、騒ぎたてます。結果、加害者は危険思想をもった人づきあいの苦手な、そういった人物に仕立て上げられ、被害者は善良な、罪のない人物と表現されます。もちろん人を傷つけることが悪いことであるのは事実です。被害者よりも加害者に責があるのも事実です。裁判員制度が始まって、気づけば3年。これからの情報発信の仕方が問われることはないのでしょうか。
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