聴覚に障害のある友人――恋愛編
(前回のブログからの続き)
ほどなく彼は、手話サークルの女子学生に「恋心を抱いている」ことを私に打ち明けました。その女子学生に手話通訳の協力を依頼して、まだ1か月ぐらいしか経っていません。それでも私は、「直情的な恋愛行動は青年の権利であるに違いない」との理解を寄せて、彼を応援することにしました。
当初彼は、恋心を抱く青年にふさわしく「どうしよう」「どのようにアプローチすればいいか」というような悩みを打ち明けてきます。この、いかにも青く「恋愛の初心者」のような彼の悩み方を前に、今しばらくはさまざまな会話や行動をともにする場面を増やすほうが得策なのではないかと示唆しました。
それでもこの青年の恋心は募るばかりで、何とか「自分の気持ちを伝えたい」という性急な思いから離れることができなくなっていきました。これではこの恋愛成就の確率はあまり高くないと私は踏みましたが、「場数を踏んで恋愛初心者の“若葉マーク”をとるのも、人生上の選択肢としては重要である」との結論を「薄い友情」から引き出し、とうとう彼にアタックすることを勧めたのです。
しかし彼は、とても躊躇しました。その理由は、惚れた女性が単純に女子学生であるというのではなく、彼の日常生活におけるコミュニケーションに必要不可欠な「手話通訳者」でもあることに起因しました。
つまり彼は、アタックすることによって、場合によっては「恋愛の対象」ばかりか「手話通訳者」を失うことを恐れたのです。彼がその女子学生に恋心を抱く文脈には、彼女の手話のあり方が彼にフィットしていた面があるかもしれませんから、彼にふさわしい手話通訳者を失うことへの不安は十分に理解できました。そこで彼は、彼女との間に「ワン・クッションをおく形で自分の意志を伝えることはできないか、おまえが間に入ってくれないだろうか」と言い出したのです。
私は逡巡しました。彼の恐れには一理ありますから、通常ならば「恋愛メッセンジャー」なんて役割は断固お断りですが、ふむと考え込んでしまったのです。これからの彼の長い人生を考えれば、聴覚障害のある青年男子が手話通訳者の女性に恋心を抱くなんてことは、いかにもありふれた「普通の出来事」に過ぎないし、ここで私が媒介役をすることは、彼にいつまでも“若葉マーク”をつけ続けるだけになりはしないかとの判断に傾いていきました。「大局的見地に立てば“泣いて馬謖を斬る”たとえもあるように」と、「ほかならぬ自分の恋だ、自ら切り拓け!!」と、私は断固手を引くことを宣言しました。
数日後の結論です。
「タダトモでいましょうね。夜9時までならこれまでどおり手話通訳できるから」と言われたそうな。しょぼくれて私の下宿にやってきた彼を、仕方なく呑屋に連れて行きました。呑屋で管を巻く悪友と、手話通訳なしでコミュニケーションすることにはまったく手を焼きました。男同士の友情は、ときとして疲れを伴うもののようです。
彼はその後、大学院生の時代に別の手話通訳の女性と恋愛して結婚し、子宝にも恵まれて幸せな家庭生活を営んでいます。
コメント
恋愛は誰にとっても困難で平等な障害であると感じました。気持ちというものは当然目に見えるものではありません。だからこそ知りたいと思い、伝えたいと思う気持ちが強くなるのでしょうね。
もし気持ちが目に見えるのであれば、恋愛で悩む人はほぼいなくなるかもしれません。恋愛感情を持つことは人間誰しもにあること。他者のことを好きになり、他者から好かれたいと思う。そんな当たり前のことを「障害があるから」という理由で隠してもらいたくはありませんし、隠してはならないとも思います。たとえ障害がなくとも、恋愛を成就させることは困難です。
今の世の中では、障害のある方が恋愛することを良く思わない人がまだまだいると感じます。誰もがこのケースのように一人の人間として応援する、そんな世の中にしなくてはならないと感じました。
“泣いて馬謖を斬る”と判断したことは、その後の結果から大正解だったのですね。
恋というのは人間にとって普通の出来事に過ぎないという文面に、思わず八ッとさせられました
日本ではまだまだ障害者の恋愛への偏見も根強く、社会的抑圧のようなものも残っています。しかし人と人が関わり合うことに区別をつける必要(たとえば障害者だから、など)は何処にも無いと考えます。『普通のことなのだから、成就も玉砕も当たり前』といったような、物事に仕切りを作らない態度が今の日本には欠けているような気がしました
初めに、「普通の出来事」と、あえて「 」を使っている所に対して、ハッとしてしまった自分が情けないと思いました。
恋愛をする事に対して、障害の有無というものは関係ない
こんな事は当たり前であるはずなのに、どこかでこのようには考えていなかった自分というものにこの記事を通して気付きました。
一人の人間として恋愛の一つや二つは、誰でもする事です。
それなのにもかかわらず、障害を持っているという事だけで「普通」の事が「特別」な事になってしまう。そんなはずがないのに・・・
自分勝手な推測ですが、「特別」だと感じている人が自分も含めて、おそらく多いのではないでしょうか。(自分勝手な予測なので外れているとは思いますが)
もしそのような考えの人がいるならば、それは全くの誤りだという事に気付いてほしいです。
自分はこの記事によって、今まで自分が誤った考えをしていたという事に気付けて良かったです。
女子学生との恋は成就しませんでしたが、とても心温まるお話でした。
やはり恋というものは良いものです。恋をすることで、恥じらいや切なさ、喜びや痛みなど様々な感情に気づき、たくさんの経験をすることが出来ます。そのような感情や経験を経て、その人の個性や感性を作り上げていくのではないかと思います。
また、恋をすることで日々の生活にめりはりがでて、何事も頑張れるような気がします。
私は、恋愛に障害は関係ないと思います。なぜなら、恋愛は心でするものだからです。お互いを思いやることが一番大切なことなので、私は障害は関係ないと思います。
このブログを読みながら、女子学生とくっついて欲しいと少し応援していたのですが、最終的には結ばれず残念な気もしましたが、二人の「手話通訳者」としての関係が壊れなくて良かったなとホッとしました。今は、奥さんとお子さんと幸せな家庭生活を営んでいると知り、私の幸せで嬉しい気持ちになりました。
残念ながら、恋は実らなかったのですね。でもその青年の方にとっても、実りあるものだったと思います。恋愛するということは、きっとだれもが体験するものですよね。
宗澤さんやみなさんがおっしゃるように恋愛は誰にとってもごく普通のことだと思います。だけど、現実問題で障害を持っているということが自由に恋愛することを妨げていることもあるのではないかと思います。
日本では、障害者の方の多くが、そのライフスタイルを親御さんと住む実家と職場の行き来のみであると聞きます。その中だけでは、障害者の方がいろんな人と出会う機会が少なくなってしまうのではないかと思います。
この青年の方のように素敵な恋愛ができたり、宗澤さんのようなよき理解者に恵まれている方もたくさんおられるでしょうが、障害者の方がいろんな人と出会えるようなコミュニケーションの場がたくさんあれば、もっと多くの方がこの青年の方のように素敵な恋愛や結婚ができるのではないかとおもいます。
とても温かいお話ありがとうございました。
障害者の方が臆せず懸命に自身の恋愛と向き合う姿と先生との間の友情に心打たれました。と同時に心臓が生まれつき悪い私の友人(先輩)のことを想ってコメントを書いています。記事の内容と逸れる部分があると思いますが、僕自身のことを書かせて頂きます。
その彼とは、大学の軽音サークルで出会いました。共通の音楽が好きですぐに意気投合し、一緒にバンドを組んだり、サークル以外でも時間を共有していました。当初、私は彼が生まれつき心臓が悪いことを知りませんでした。心臓という外見からはわからないことも起因していたと思うのですが、彼は普通に恋愛もしていましたし、学校もバイトも趣味も全部普通にこなしていたので、彼が第1級障害者であるという事実を知ったときは言葉が出ませんでした。
そして、彼が大学の3年生の時に彼自身も想像していなかったと思うのですが、毎年の定期検査に行った際に医者から「このままだと30歳まで生きられないかもしれない」と診断されました。彼はそのことを私たちに打ち明けてくれました。彼の話によると、手術をすれば生きられるらしいのですが、今のレベルの生活が出来なくなる可能性もある。自分のしたいことが出来なくなるかもしれない。当たり前にあった今までの日常が離れていくかもしれない。だから手術が怖い。どうすればいいか分からない……
彼の気持ちを考えると本当に心が痛みました。しかし同時に、彼が抱え込んでいる絶望感は彼自身にしか理解できないものであると私は感じていました。私たちは手術してほしいと自分たちの気持ちをそのまま彼に伝えましたが、結局彼はその選択を未だにしていません。
あの日から2年ほどの月日が経ち、彼は今公務員として働いています。私は今年卒業したら自分のやりたいことをするために東京に行きます。そのことを彼も知っていて、その彼から今年の始めに1通のメールが届いたんです。その言葉を私は今後忘れることはないと思います。「体のことはどうしようもない。こっちの生き方しかできないと実感した。病気を言い訳にしてるだけなんだけど、そう自分を納得させないとやるせないんだ。やりたいことをやろうとしている君が本当に羨ましい。俺が大学で得たものなんて、単位とお前らくらいだったからな…せつないよ。でも、ほんと楽しかったよ、ありがとう」
それは私が今まで生きてきて一番重みのある「ありがとう」でした。彼にはこの先もずっと生き続けてほしいし、生きる事に希望をもってほしい。幸せになってほしい。心から思います。私が東京に行く前に飲みにでも誘ってその気持ちを伝えるつもりです。
長々と失礼しました。先生のお話を見て自分自身のことですが、もう一度向き合えました。感謝しています。
「普通の出来事」という言葉を見て、ふと、どこかで普通じゃないと感じながら物語を読んでいた自分に気づきました。障がい者の方でも恋愛はするし、結婚、子育てだってする。それは当たり前のことです。
しかし、ドラマやドキュメンタリーで障がい者の恋愛物語や子育てを目にするからか、なぜか私たちとはちょっと違った感覚があります。確かに私たちに比べて多少は困難なこともあるかもしれません。でも、できないとか特別だとか間違った認識を自分の気づかない間にも持ってしまっていることが問題だったのだと思います。
このブログを読んで、「普通の出来事」という言葉を見て、ふと、どこかで普通じゃないと感じながらこの物語を読んでいた自分に気づきました。
障がい者の方でも恋愛はするし、結婚はするし、出産や子育てだってします。本当はそれは当たり前のことです。しかし、テレビドラマやドキュメンタリーで障がい者の恋愛物語や子育てをたびたび目にするからか、なぜか普通とはちょっと違った感覚があります。普通の出来事が悲劇的な感動的な出来事にも思えたりします。
確かに私たちに比べて多少は困難なこともあるのかもしれません。でも、できないとか特別だとかいう間違った認識を自分の気づかない間にも持ってしまっていることが問題だったのだと思いました。テレビなどで得た情報も悪いわけではありません。しかし、やはり本当の意味で障がい者の方々を理解するためには、自分自身が直接関わって得た情報が大切なのかもしれないと思います。
恋愛感情は誰が持つものだし、障害の有無は恋愛には関係ないと思います。ですが心のどこかで、障害者の恋愛は普通とは違ったものだと考えている自分がいました。障害者の恋愛を見たことがあるのがテレビの中だけだからでしょうか、想像がつきませんでした。ですが感情移入し彼を応援しながらこの記事を読むことで前よりも身近に感じることが出来ました。もし僕が宗澤先生の立場に立つことがあった時には一友人として、相手のことを考えたアドバイスをしたいと思います。
「普通の出来事」、この言葉に目が留まった。では「普通の対応」とはなんだろう。例えば、身長の高い子が好みの女の子に背の低い男の子が告白して振られたとする。その男の子は振られた原因が自分の身長が低いせいだと嘆くかもしれない。これをそのままいわゆる「障害」を持つ人に当てはめるとどうだろう、そう考えてみると明らかに「障害」を持つ人で考えたほうが心がもやもやするのだ。このことに私はショックを受けた。
「障害」というのは個性の範囲内である、というのが私の持論だ。背が低くて届かない人は背の高い人に手伝ってもらえばいいし足が悪い人は車いすを押してもらえばいい。そう受け止められることがことがノーマライゼーションだと思っているし、そうしているつもりでいた。しかし実際はまだまだ「障害」が自分のなかで特別であるということが分かった。配慮と特別扱いの違いを意識する必要がないくらいに「障害」を当たり前に受け止められるようになりたい。
「人を好きになるということ」、それは障害があるかないかというものを超えたものであり、誰もが抱くことのできる平等で、かつ大切な気持ちであるということを感じ、何とも言えない暖かな感動を覚えた。しかし彼が、コミュニケーションに必要な手話通訳者をなくすことになるという不安を抱くところは、やはり障害を持つもの特有の悩みのように感じた。私の知人も視覚障害者と結婚した。結婚に踏み出す時、障害の様々な壁があり困難なことが多かったようだ。しかしその困難も覚悟した上で、結婚を決意した。彼の不安ももっともだが、相手に気持ちを伝えるということは障害を持つ、持たないに関係せず誰もが行える平等な権利で、友達として彼の背中を押した先生の判断に共感した。そもそも障害を持つものは不自由だということ自体失礼に値するのかもしれない。私たちが泣いたり困っていたりする人に「大丈夫?」と接するのと同じように、上から目線でなく障害者に手を差し伸べることが大切だと思う。
障がいを持つ人に対して理解していこうとは思うし、彼らにも恋愛、結婚をする権利はあると思う。しかし自分自身が彼らと恋愛、結婚をできるかと言われれば、できるとは言えない。障がいを持つ人=他人事、別世界の人というイメージが自分の中に存在しているのが今の自分の現状である。大学の色々な授業を受けて考えさせられることは多いが、この根底にあるイメージはまだ覆らない。自分自身が障がいを持つ人についてより深く、より親身に、より現実的に考えていかなければならないと感じた。
前回のブログから読ませていただきました。聴覚障害のある方を見かけることがたまにあります。母が手話を習っている影響もあり、どうやって話しているのだろうと興味深く見てしまいます。私が以前見かけたのは中年のおじさんとおばさんでした。夫婦かどうかわかりませんが仲良く笑いあっていて、声で話していないだけで他は何も変わらないし、手話ってすごいなと思いました。しかし、私は聴覚や視覚に障害のある方とお付き合いし、結婚するというのは自分は難しいなと思ってしまいました。子供に障害が出てしまったらどうしようとか、うまくコミュニケーションとれるかなとか、周りの目を気にしてしまいそうな自分がとても情けなくなりました。沢山、性教育や障碍者に関する講義を受けてきたのに、いまだに自分の中に不安が残っていることに悲しい気持ちになりました。教師を目指しているので、どんな子も受け入れられる心を育てたいと思います。
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