聴覚に障害のある友人――読話編
学生時代からの知り合いで、今は聴覚障害のある人の団体で責任のある仕事をしている友人がいます。私と彼は、学生時代にともにバイクを乗り回していたことや、障害のある人の地域生活支援に関する研究テーマが近かったこともあって、「悪友」と言ってもよい関係になっていました。
彼の聴力は若干残存しているのですが、補聴器を用いても音や話しことばを識別できるレベルにはありません。最高度の口話法の教育とトレーニングを積んできた経緯の持ち主であるため、コミュニケーションの受け手としては状況次第で読話と手話を適切に使い分け、自身からの発信には通常の話しことばを使っていました。
私と彼とのコミュニケーション手段は口話(読話と話しことば)でした。そして、彼といろんなことを話し合うようになったある日のこと、唐突にも「おまえの唇は読みにくい」と彼から苦情を言われたのです。
読話とは、口と唇の動きから話しことばを読み取る方法です。以前から、読話はコミュニケーション手段として不確実さを免れないことや、相手の口と唇の動きを読み取ることに集中できる時間に限界があること(せいぜい20分ほど)の指摘はされてきました。しかし、今回の指摘は「おまえの唇」の問題ですから、はたと困ってしまったのです。
そこでとりあえず、彼とのコミュニケーションで会話の内容が複雑になりそうなときには、必ず手話サークルの女子学生に会話の輪に入ってもらうことにしました。その女子学生は清楚で気さくな美人であったため、手話通訳を兼ねて会話の中に入ってもらうことに、彼はことのほか喜びました(現金な奴め!!)。
それからというもの、私は人の口唇の動きを注視しては、鏡を覗いて自分の口唇の動きと比較してみることをしばらく続けました。確かに私の口唇の動きは、視覚的な変化に乏しいように思えます。私は話すときに、いくら意図的にはっきり発音する努力をしても、彼からの苦情は変わりませんでした。育ちの良さに由来する、控えめで奥ゆかしい「話し方」をしている(?)のに、悪友からケチをつけられるのは実に腹立たしい。
そこで、いささか意地になって次のようなことを考えてきました。
欧米の方から日本人の発話をみると、口や唇の動きに表情が乏しいようにみえるそうです。それは、ヨーロッパの言語と比較したとき、日本語の母音と子音が乏しいことに起因します。その上、〔f〕のような唇に動きのある摩擦音も日本語にはありません。また、言語は一般に、緯度が上がり寒冷な気候になるにしたがって、外気の出し入れの少なくて済むような発音になっていくといわれますから、たとえば北欧の人たちの発音は、どちらかというと「ボソボソ」と話すような感じの言葉になっています。
私は口話法の研究者ではありませんが、今のところ、それぞれの言語のもつ口唇の動きとの関連で読話の有効性を論じたものを知りません。ひょっとすると、言語ごとの口唇の動きの特質によって、読話の確実性や有効性には差異が認められ、聴覚障害のある子どもたちの教育方法やアプローチに関する国ごとの相違も、そのような要素が少しは反映しているのではないかと想像します。この領域の専門家の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示いただきたいと思います。
さて、彼との会話は専属の「美人通訳」が輪に入ったおかげで、ますます頻繁になっていきました。
(次回に続く)
コメント
人間形成と教育の講義を受講しているものですが、先日の講義の際、私語に対し受講者全員の前で個人を叱り付ける様子がありました。
初回講義において私語を厳禁とする喚起もあったため、先日の私語は講義者に非があるものとは思います。
しかし、あのような対処は本人とって行為自体の善悪を認識するよりも、恥ずかしさや不満などを与えるのみとなってしまうのではないでしょうか。
また、歩きタバコをしている所を頻繁にお見受けしておりますが、埼玉大学では喫煙所以外での喫煙を禁止していることをご存知でしょうか。
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