メリー・クリスマス
インターネットの中では「クリスマス中止運動」が一部で盛り上がっているそうです。
「クリスマス」に名を借りた年末商戦は、「強迫的な消費」に人びとを誘うための豪華なイルミネーションと賛美歌のBGMを、信仰の問題とは無関係のまま街に溢れさせています。その上、12月24日のクリスマス・イヴに「メリー・クリスマス!!」と声をかけてくる「究極のKY」も普通にいますから、うんざりすることもしばしばです。当たり前のことで恐縮ですが、「メリー・クリスマス」とはイエスの誕生日を祝う言葉ですから、12月25日にしか使うことはありません。
しかし、多くの日本人になじみ深いお正月の初詣にしても、屋台が賑やかに並ぶ参道にほろ酔い気分で繰り出し、年一回の「縁起かつぎ」か「願掛け」をする慣わしかもしれません。日本のクリスマスはそれと同じようなものですから、世間がクリスマスに騒々しくなるからといっていちいち目くじらを立てるような気持ちは、個人的にはまったくありません。
聴覚に障害のある友人――恋愛編
(前回のブログからの続き)
ほどなく彼は、手話サークルの女子学生に「恋心を抱いている」ことを私に打ち明けました。その女子学生に手話通訳の協力を依頼して、まだ1か月ぐらいしか経っていません。それでも私は、「直情的な恋愛行動は青年の権利であるに違いない」との理解を寄せて、彼を応援することにしました。
当初彼は、恋心を抱く青年にふさわしく「どうしよう」「どのようにアプローチすればいいか」というような悩みを打ち明けてきます。この、いかにも青く「恋愛の初心者」のような彼の悩み方を前に、今しばらくはさまざまな会話や行動をともにする場面を増やすほうが得策なのではないかと示唆しました。
それでもこの青年の恋心は募るばかりで、何とか「自分の気持ちを伝えたい」という性急な思いから離れることができなくなっていきました。これではこの恋愛成就の確率はあまり高くないと私は踏みましたが、「場数を踏んで恋愛初心者の“若葉マーク”をとるのも、人生上の選択肢としては重要である」との結論を「薄い友情」から引き出し、とうとう彼にアタックすることを勧めたのです。
聴覚に障害のある友人――読話編
学生時代からの知り合いで、今は聴覚障害のある人の団体で責任のある仕事をしている友人がいます。私と彼は、学生時代にともにバイクを乗り回していたことや、障害のある人の地域生活支援に関する研究テーマが近かったこともあって、「悪友」と言ってもよい関係になっていました。
彼の聴力は若干残存しているのですが、補聴器を用いても音や話しことばを識別できるレベルにはありません。最高度の口話法の教育とトレーニングを積んできた経緯の持ち主であるため、コミュニケーションの受け手としては状況次第で読話と手話を適切に使い分け、自身からの発信には通常の話しことばを使っていました。
私と彼とのコミュニケーション手段は口話(読話と話しことば)でした。そして、彼といろんなことを話し合うようになったある日のこと、唐突にも「おまえの唇は読みにくい」と彼から苦情を言われたのです。
麻雀とデイケア その2
朝の会が終わり一日のプログラムが始まると、麻雀にそそられるメンバーは何となく雀卓の周辺に集まります。誰からともなく「やろうか」となって、メンバーが足りない時や私が入るようにメンバーからのご指名を受けたときに、私も台を囲みました。