白杖と「777」
ある日の夕暮れのこと。JRの駅を降りて家路へのバスに乗ろうと歩いていると、白杖をつく青年の歩く姿に眼がとまりました。この青年はほどなく、駅前のパチンコ屋に入っていきました。
私は、彼がどのようにしてパチンコをするのかを確かめたくなり、彼の後を追って私もパチンコ屋に入ったのです。
青年は、ぎこちない動作で500円分の玉を買い込みました。どうも、パチンコの常習者ではなさそうです。パチンコ屋は七分位の混み具合で、台の釘を確かめることもなく(当たり前か)適当な感じで、台の前の椅子に座りました。
隣の台に陣取っているオジサンは、いささかつぎ込んでいるのか、くたびれた表情の目線で、怪訝そうにこの青年を眺めました。パチンコ屋の店員といえば、とくに白杖の青年に気づくこともありません。
青年は玉を電動ではじき出すレバーを回し、パチンコ玉のはじける音を聞いては「わ~っ」と言って、ニコニコ笑っています。玉の打ち所を定めて狙うのではありませんから、レバーの操作も実に適当で、玉は野放図に台一面を転がり落ちていきます。
青年の持ち玉がもう少しで尽きようとしたときのことです。突然、パチンコ台はけたたましい音量の音楽を流しはじめ、台の照明は鮮やかな閃光を放ちました。青年の台はなんと「777」の大当たり! でも、もう玉がない!!
隣のオジサンは、一瞬目を見張って驚いたものの、すぐに青年の持ち玉がないことに気づき、慌てて自分の持ち玉を両手ですくい青年の台につぎ足します。「兄ちゃん、もうちょっとレバーを右にしろ」「いやっ、心持ち左にまわして」青年に降臨した「幸運の女神」が通り過ぎてしまわないように、オジサンは必死になって、玉を打ち出す強弱を大声で指南しています。
台から溢れ出てくるパチンコ玉は、この騒動に気づいたパチンコ屋の店員たちが駆け寄ってきて、二人がかりでケースに移しています。
しばらく怒涛のような時が過ぎ、3連続の大当たりで終了。
オジサン 兄ちゃんよかったね
青年 ついていました。面白かった。助かりました
店員 ケースの玉を運んで精算いたしますので、足元に気をつけておいでください
殺伐とした光景の中に、この青年を囲む人たちのひと時の笑顔だけは輝いて見えました。
コメント
このブログを読んで、心が温かくなり、やさしい気持ちになりました。パチンコ屋で偶然出会った白杖をつく青年と、隣の台のおじさん、店員さんのちょっとした心の交流は、青年の台に「777」を出した幸運の女神さまのもう一つのプレゼントだったのではないかなと感じます。
「白杖」で思い出すのが、以前電車の中で出会った、白杖をつくおじいさんのことです。
駅員さんの肩を借りてゆっくりと乗車してきたそのおじいさんは、偶然私の真向かいの席に座り、そのときに私と同じ駅で降りるということを知りました。
私は駅に着くまで、おじいさんが降りるときにもし困っているようだったら、手助けしたほうがいいのかな、でも降りる駅でも駅員さんが待っているみたいだから余計なお世話かな、などと考えていました。
迷っているうちに電車は駅に到着し、私はおじいさんよりも先に電車を降りてしまいました。ホームを少し歩いて振り返ると、おじいさんが降りる方向を間違えて、閉じているほうのドアにぶつかっていました。
ホームで待っていた駅員さんがあわてておじいさんを誘導して、おじいさんは無事に電車を降りることができましたが、やっぱり降りるときに声をかけるべきだったかなと後悔しました。
パチンコ屋で白杖の青年の隣の台にいたおじさんは、青年が「777」を出したのを見て、私のようにあれこれ考える前に、自然に手が出たのだろうと思います。
何かほんのちょっとしたきっかけをもとに、自然に誰かを助けたり、支えになったりする、そんな出会いや経験をたくさんの人々が積み重ねていければ、「ノーマライゼーション」という言葉をいちいち用いなくても、障がいのあるなしに関わらず、みんな幸せに過ごしていけるのではないかなと思いました。
このブログを読み、たいへん温かな気持ちになりました。また、自分でも気づかないうちに固定観念を持ってしまっていることに改めて気づかされました。
パチンコ屋というとイメージするのは『おじさん、タバコ、大きな音、女性もちらほらいるのかな』くらいでした。白杖をついてパチンコ屋に入店する方を想像したのは、この話を読んでいるときが初めてでした。それと同時に、目が見えないからパチンコは出来ないだろう、と心のどこかで勝手な解釈をしてしまっている自分が恥ずかしくなりました。
この青年のように、障がいをもちながらも、自分のしたいことが出来る環境で生活している方というのはかなり少ないのではないでしょうか。また、そのような環境であるにもかかわらず、一歩を踏み出せずに過ごしている方もいるのではないでしょうか。
障がいをもっている方が自分のしたいことを行える環境とは何か、そういった環境を作り出すために私達に出来ることは何かを考えさせられました。
ブログ拝見させていただきました。何だか私まで笑顔になってしまって温かい気持ちになりました。
青年はパチンコに興味があったのでしょうね。身障者がギャンブルをしてはいけないと決まっているわけではないし、青年は自分のやりたいことを普通に出来るという、誰にでも同じことだと思います。今回は隣のおじさんも親切な方で良かったですね。
私は駅構内のコンビニでアルバイトをしているのですが、最近、白杖を持った男性客が来店されました。
そのとき私が対応したのですが、狭い通路を無理に歩かせるのは大変だと思い、私が入り口付近に立つ男性の元へ行き、お求めの商品を伺いました。
お求めの商品が見つかると、会計もレジまで行かずにその場で済ませました。買い物が終わり、男性は駅の改札へ向かうというので、私の肩に手をかけて点字ブロックが敷かれているところまで送りました。
私はこのとき、周りの人からの少しの手助けがあれば障害があったとしても何ら変わりなく普通の生活が出来るんだなと実感しました。
ブログ拝見させていただきました。やはり私たちはどこかで障害がある=「~できない」という考えを持って見てしまいがちではないかと思いました。
今回のお話も、「視覚障害を持つ青年がパチンコをして周囲に助けられた話」ではなく「パチンコ初心者の青年が周囲の助けもあってたった500円で大当たりを出した話」という目線でみると、「青年、すごいラッキーじゃん!!」という気持ちにもなるのではないでしょうか。
この出来事を通して青年は彼自身の中に「パチンコ」という新しい世界を広げることができたのではないかと思います。未知なる物事に対して不安を抱いてしまいがちですが、自分の世界を広げるのも狭めるのも自分次第。青年はそのことを教えてくれたような気がします。
このブログを読むだけで、その光景が絵に浮かぶようなとても暖かい話です。
どうもパチンコと聞くと良いイメージはわきませんがそのイメージを払拭するような出来事であると同時に、その考えは間違ったものだったのだと気付かされました。
自分は他人に対して優しく手を差し伸べることが出来ているのだろうかと考えさせれました。
私は今、しょうがいしゃの施設で生活を支援しているアルバイトをしています。どうしても最初は上から「やってやっている」という感覚が抜けませんでしたが、最近は色々と教えられることも多く同じ目線で以前よりはやっていけているように少しは思います。
今回のブログを見て気付かされたのは、そういった施設で働くのに最も必要なのは、ノウハウでもなく技術でもなく、パチンコ屋のおじさんのような気持ちではないだろうか。
それと同時に、この青年に対するおじさんのような存在に私は施設で成れているのか考えさせられました。
なかなか簡単に出来ることではないですが、自分も可能な限りやっていきたいです。
心が温まるお話です。このオジサンのように困っている人を目の前にした際に何のためらいもなく手を貸せる人が沢山いれば、きっと障害をお持ちの方も暮らしやすい社会になると思いました。
白杖とはちょっと違いますが…
私が先日新幹線に乗った際、隣の席の方が松葉杖を持っていました。私は深く考えることもなく“足の骨を折られてるのかな~”と思い「すみません」と言いながら、大きな荷物を邪魔にならないようによけつつ席に座りました。
特に会話をすることもなく数駅が過ぎた頃その方は降りられるようでした。松葉杖だから立つのが大変なのだろうか…何かお手伝い出来るかな…と考えていると、その方は足に「カチャッ」と何かをはめ始めました。私はそのとき初めて、その方が義足であることに気づきました。義足の方と接したことのない私は、驚きと自分はどうすべきなのか分からずとっさに「大丈夫ですか?」と声をかけると、「これを持っていただけますか?」と言われ、松葉杖を一つ受け取り立ち上がられた後に渡しました。その方は「ありがとうございます」と一礼して新幹線を降りて行かれました。
私はこのとき、少しでも役に立てたのかな?という複雑な思いと共に義足の方の大変さを知りました。私が目にしたのは“立ち上がる”というたった一つの動作のため大変さをしったうちには入らないとは思いますが…
また、義足についての知識が少しでもあればもう少し役に立てたのかも・・・もうちょっと早く気が付いていれば…という後悔も覚えました。障害がある方が暮らしやすい社会を作るためには、知ることが一番大切だと改めて感じた体験でした。
ブログ拝見させていただきました。今の世の中では珍しいともいえる心温まる光景だと胸を打たれました。
目の不自由な人がパチンコをしにくるというだけでも驚きましたが、そのような人がパチンコをしても普通ですよね。当たり前のことのようですが今更ながらに気づかされました。
青年自身にも驚きましたが、青年の大当りを手助けしたおじさんに一層驚きました。正直言って青年が大当りを出したときに、「青年は目が見えないんだから気付かないし、誰も手を出さずこのままにしておくだろう」と当たり前のように思ってしまいました。これは明らかに障害者差別ですし、それよりもっとひどいことですよね。自分が恥ずかしくなりました。その一瞬一瞬に自分の周りに居る人のために、自分が出来ることを尽くす気持ちが、私自身に、そしてこの世の中に欠けているのではないかと考えさせられました。
今目の前に居る人がどんな人かを区別しなくなる心が広まっていくことで、この記事のような光景が珍しいとか暖かいとかではなく、普通の出来事として考えられるのではと実感しております。
ブログ拝見させていただきました。読み終えた瞬間暖かい気持ちになると共に、あることを思いました。それは、障害者だからといって障害者らしい生活をする必要はなく、堂々と普通生活を送るべきだということです。
最初は、目が見えないのにパチンコして楽しいのかな、と思いました。私もたまにパチンコ(主にスロットですが)をしますが、目が見えなければ何も面白くありません。しかし、すぐにこのような思いになりました。見える見えないは関係ない。パチンコをすることに意味があるのだと。
障害者だから、目が見えないからとかは関係なく、普通の生活を送れることに意味がある生活。それが障害者の方々にとってこの上ない生活なのかなと思いました。
しかし、世の中にはそれさえ儘ならないことが多々あります。でも、今回のブログのような心優しい人もいることも事実です。そのことを今日実感させていただきました。私もこのおじいちゃんのように行動したいと思います。
私も宗澤さん同様に、「どうやってパチンコをするの?!」とものすごく気になり、夢中でブログを拝見させていただきました。
私は現在、福祉を学ぶ大学生ですが、白杖の方とパチンコのイメージがどうしても結びつかず、最後までブログを読んだ後、自分はまだまだ固定観念にとらわれているなあと感じました。
それから、隣のおじさんが思わずパチンコの玉を入れて彼に指南をしたという部分で、すごくホッとしました。というのは、先日私が見た映画の中では「車を運転していて急に目が見えなくなり、助けを求める男性に対して、親切に助けるふりをした別の男性が、結局その車を盗む」という場面があったからです。映画の中の話ですが、なんて悲しい世の中なんだろうと感じていたところに、現実にパチンコ店で起きた心温まるこの話を読めて良かったです。
やはり、映画の話よりもこのパチンコ店の話のように、信頼を根底に助け合って生きていく姿こそ人間としてあるべき姿だと改めて思いました。
初めてブログを拝見させていただきました。このお話を読んで思わず笑顔になっていました。
私も白杖の青年が「どうやってするの?」と思いましたが、自分がやってみたいことをやってみる、という普通のことをこの青年はやってみただけなんだという普通のことに気づかされました。
私たちは普段、障害を単に「マイナスである」「出来ない」と決め付けてかかりがちですが、そうではなく、障害のある方が興味のあることに挑戦が出来る環境が整っていないだけなのだと思います。
また、最近では「困っている人がいたら助けてあげよう」と幼稚園や小学校で教わったのに、少しの勇気が出せなくて、大丈夫ですか?と困っている人にすぐに手を差し伸べるということが難しく思います。私もこのおじさんのように行動出来る人になりたいと思いました。このおじさんの行動を、きっと青年は嬉しいと思ったと思います。
たくさんの人が少しの勇気を出せるようになったらみんなにとっていい社会、過ごしやすい社会になると思います。ですからまず、自分から行動してみようと思います。
人が人を思いやり、支え合ったり助け合ったりすることは、どの時代においても欠かすことのできない大切なことなのだろうと感じました。今の世の中は、一言で説明するのは難しいけれど、人のために何かをする人間は減ってきているように思います。困っている人がいても見てみぬふりをしてしまったり、誰かのためよりまずは自分のため…私もその中の一人であるのかもしれません。
ブログを拝見させていただいて、人に手を差し伸べること、人のことを思いやり考えることの大切さを痛感させられました。
白杖をつきながらパチンコ屋に入るということの意味を、私は理解できませんでした。目が見えないというのに、どうやって打つというのか…疑問でいっぱいでした。しかし、きっとそれは青年にとって一つの楽しみであり冒険であるのだろうと感じました。
私はこのブログを読んで、障害を持っている人が心から喜び楽しむためには、やはり周りの助けの手があってこそなのだろうと感じました。人が困っているときに手を差し出すことができるのは、やはり人しかいません。私も自信を持って“人のため”に生きていこうと感じました。
ブログ拝見させていただきました。
この話をきいてなんだか心が和みました。私自身もだけど、社会全体が障害のある人はなにか違うとか、大変そうなどといったことを考えがちだと思います。けれどそれは、私たちがそう思うからこそであって、ほんとうは違うのではないかと感じました。
この話であるように、青年の隣にいたおじさんは、はじめ「怪訝そう」に青年を見つめていたとあります。次第にうちとけてはいきますが、「777」というきっかけがなければ、そのままコミュニケーションとれずに終わってしまったのではないかと思いました。そう考えるとすごく寂しい気持ちになります。
また、街を見渡すと、いまではところどころにスロープができたりエレベーターが設置されたりしています。そういった設備が整えば、障害のある人にとって、生活自体なんの困難もありません。配慮のない社会の環境作りや私たちの障害者に対しての間違った捉え方が、逆に障害のある人たちを住みにくくしているのではないだろうかと感じました。
この話を聞いて、すごく考えさせられました。
このブログを読んで、ほかの方と同様に心が温かくなりました。パチンコ店は大きな音、タバコのきつい臭い、好きな人でなければあまり行かないものだと思っていました。
その上、目の見えない方は目の見えないぶん、ほかの聴力、嗅覚、触覚などに大変優れていると聞いたことがあったので、普通の人でも行くのがためらわれるパチンコ店に普通に入っていったという所にも正直とても驚きました。
しかし、このわたしの考えも「目の見えない人」ということで制限された、視野の狭い考えだったのだと思いました。
隣に座っていたおじさんも、普通の人と接するように青年に接していて、過度な手助けをするでもなく、同じようにパチンコが好きな仲間として仲良くなっていてすごい方だと思いました。
「してあげる」ではなく、「一緒に楽しむ」ことができる世の中が来るのはいつになるかわからないけれど、夢では終わらず実現できると確信しました。
ブログ拝見させていただきました。読み始めて真っ先に、白杖をついた青年がパチンコ屋へ行くとなると、楽しめるのだろうかと考えました。
このように考えるということは、いくら大学で障がいについて学んでいても、私はまだ障がいをもつ方を特別視しているのだと気づかされました。障がいがあっても、私たちと変わらない生活を送っている人は大勢いるんですよね。
青年が大当たりしたときのおじさんの行動に、思わず笑みがこぼれました。
最近では、このような青年とおじさんのように温かい光景を駅などでよく見かけます。乳母車を階段の上まで運んであげている老人や、当たり前のように老人や重そうな荷物を持っている人に電車の席を譲る人々。冷たい世の中とは言いますが、まだまだ日本も捨てたものではないなと思います。困っている人を見かけたとき、ためらいもなく手を貸せるかと言ったら、嘘になります。
しかし、綺麗ごとかもしれませんが、できるかぎりのことはやっていきたいと強く思っています。
ブログを拝見させていただきました。素敵な話をありがとうございます。
私も白杖をもっている人が、パチンコ屋に入るところを見ると、「目が見えなかったら、狙うことがままならないパチンコ」ができるはずがないと感じると思います。しかし、出来るとか出来ないとかではなく、そこに楽しみがあるのなら、障がいを持っている人も「したい」という気持ちになるはずですよね。ですから、パチンコ屋でオジサンが白杖の青年を手助けしてあげたように、私たちも障がいをもつ人はもちろん、高齢者や子供、妊婦さん、何かに困っている人達を、必要に応じて手助けすることが大切だと感じます。きっと、手助けした方も手助けされた方も良い気持ちになれると思います。
現在では、駅や病院などの公共施設では、障がいを持っている人も行きやすい環境になってきていますので、パチンコ屋などの娯楽施設を含めた生活全般について、ハード面でもソフト面でもバリアフリーが進んで欲しいです。私自身、そういうことが率先してできるようになれればと、このブログを見て改めて思いました。
ブログ拝見させていただきました。すごく心温まる場面が思いうかべながら、癒されました。
このおじさんの、初めは怪訝な顔をしていたはずなのにあとから青年をほっとけなくなる様子が、とても人間の情のあったかさがあるなぁと思いました。でもなかなかできないことだと思います。
もし自分だったら、怪訝な風に見るだろうし、なかなかこんな風に一緒に楽しもうと何か行動に移すことできない気がします。
しかし、この青年のように、身障者がパチンコなどの楽しみをしてはいけないはずはないし、むしろ目が見えないでも来てみる青年はとても前向きなような気がします。身障者がそうでない人たちと同じ楽しみをしにくること、そして自然と周りの人がおじさんのように一緒に楽しめるということはすばらしいと思います。
何より、青年が「面白かった。助かりました。」といったこと。なんだかホッとしました。店員さんの優しい言葉もいいなぁと思いました。このような暖かい話を私も日常の中で増やしていきたいと思いました。
ブログ拝見させていただきました。とても胸があたたまりました。
この日、隣にいたおじさんのおかげで、この青年はきっとその1日だけでも、とても幸せな気持ちになれたのではないでしょうか。
このおじさんがしたことは、人として当り前のことなのかもしれません。しかし、今の時代、このおじさんのように人として当たり前の周囲の人々に対する思いやりが欠けている人がいることも事実なのだと思います。“自分さえよければいい、他人が困っていても自分には関係ない。”自分以外の人々に無関心なことほど怖いことはないと思います。
ほんの少しの心使いだったり、言葉だったりが、周囲の人の安心感や幸せにつながるのだということを、私たちは忘れてはいけないと思います。当たり前なことだけれど、つい臆病になってしまう。しかし、一人ひとりがほんのちょっとの勇気を持つことができたら、もっともっと思いやりに溢れた社会が生まれるのではないかと思います。
このブログのおかげで、改めてそのような大切なことを再確認することができました。
初めてコメントさせていただきます。
パチンコをきっかけにした青年とその周りの方たちとのやりとりを見て、おもわず和んでしまいました。また、青年の行動力に驚かされると同時に、正直パチンコを楽しめるのかと思っていました。しかし彼自身、興味があってやっているのだから、楽しみ方は人それぞれです。一瞬でも、障がい者だから…という考え方をしてしまった自分が恥ずかしくなりました。
理由はどうあれ、おじさんの咄嗟の行動をきっかけに、周囲の人達が協力してくれました。ほんのささいなきっかけであるにせよ、自分から手を差しのべることのできる人でありたいと感じました。
まだまだすべての人々にとって暮らしやすい社会とは言えませんが、今回の出来事のようにお互いが、ごく自然に、当たり前のように接することのできる環境をめざすものであって欲しいです。
「パチンコ屋」「白杖」
最初の三行でこの二文字を目にした時、正直私の頭の中には消極的なイメージしか浮かびませんでした。青年は目が見えないのに何故パチンコ屋に来たのだろう、率直にそう思いました。
しかし、ブログを全文読んで「障がいを受け入れること」とはどういうことなのかを改めて考え、これまで福祉の授業の感想文やレポートで私が書いてきた事は、結局はきれいごとに過ぎなかったんだと気づかされました。
私は接客業のアルバイトをしていて、障がいのあるお客さんを対応したことが何度かあります。しかし、いつも頭で先に色々考えてしまい、ブログでのパチンコ屋のおじさんのように、心で動き、すぐに手を貸すことが出来たことは無いように思います。
大学で福祉を勉強していて、障がいのある方と関わる機会もあるのに、その方達の事を親身になって考えたことがない自分に対して残念な気持ちになりました。
障がいをもつ人が何かをする時、その人に積極的な気持ちがあって、周りにそれをサポートする人が居れば、普通は出来ないと思われる事も出来るようになる。このブログを読んでそれを強く感じました。
今後またアルバイト先で、障がいのある方を対応することがあったときに自然にサポートできるように、今のこの気持ちを忘れずにパチンコ屋のおじさんの姿勢を見習いたいです。
心温まる話をありがとうございました。
ブログ読ませてもらいました。
パチンコと言えば、玉が入る様を見ながらするのが一種の楽しみだったりするもの。しかし、そのパチンコ屋には一人の白杖を持った青年。この変わった組み合わせは誰だって興味が湧いてくると思います。
その中で起こった奇跡のようなアタリとその場面に居合わせた周りの人との触れ合いは、とても心温まるものです。これは、物が見えない人と見える人という括りなしに、一緒に楽しんでる光景がすぐ浮かびます。
今でこそそんなには感じることはないですが、昔は視力障害者だけではなく、様々な障害者と、私たちいわゆる健常者にはボーダーがあったような気がします。そうすることによって、私たちは障害者のことはあまり知ることもなかったし、知ろうとさせしていなかったのではないかと思います。
しかし、「ノーマライゼーション」というものが社会に浸透してきた今、この言葉の通りの行いがされていっています。それがこの記事に少しの繋がりを感じました。
ブログ拝見させていただきました。
この話の中に登場する隣のオジサンは、立派な人間だなと感じました。
私も、もしこの隣のオジサンと同じ立場になったら、何か自分に出来ることはないかと考えると思います。しかし、実際に行動できるかといえば、100%は言い切れません。
確かに私は、今まで駅や電車の中でご年配の方に席を譲ったり、体の不自由な方の手伝いをしたことはあります。しかし、そのような境遇にあったときに、毎回行動できたわけではありません。まわりの目を気にしたり、余計な考えが頭をよぎり、行動に移せなかったことも何度もありました。しかし、そのたびに後悔したのも事実です。
私は将来、人の役に立てるような人間になりたいと思っています。その第一段階として、これからもし同じような境遇にあったときには、戸惑うことなく手をさしのべられるようになりたいと思いました。
ブログを拝見させてもらいました。
この記事を読んだ感想から述べさせてもらうと、なんだかほっとして、よかったなと思いました。
僕はパチンコを打っていますが、まだこのような場面には遭遇はしていません。そこで、僕が今回の記事と同じような場面に居合わせたらどうしていたのだろうかと少し考え込んでしまいました。すると「隣で見て見ぬふりをしてしまう」と「このおじさんと同じことをしていただろう」という2つの思いが去来してきました。
この時、僕はこの白杖の方を助けてあげたいと頭では思っていても、すぐに行動に移せないかもしれない自分が少し嫌になりました。僕の親戚には障がい者がいて、その姿を身近に見ているにもかかわらずです。
これからは障がいのあるなしもそうだけど、困っている人がいたら助けられるような自分になりたいと思いました。
ブログを拝見させていただき、自分の意識の持ち方で何気ない日常の出来事が多くのことを考える機会になると感じました。
もし私が宗澤さんと同様に、白杖の青年がパチンコ屋に入っていく光景を目の当たりにしたとき、疑問や興味を持ったり、何らかの行動をとっていただろうかと考えました。
私は今まで、障がいを持つ人に対して特別視などせずに接してきたつもりです。障がいを持っているということを自然に受け入れて対応していたと思います。しかし、今回このブログを読んで、私の対応が障がいをもつ人にどのような影響を与えるのか意識して考えたことがないということに気づきました。今までの私の行動には、その人の障がいを理解しようという意識が欠けていたと感じます。
何事も、無関心や知らないということはとても恐いことだと感じます。興味を持ち、障がいを持つ人の行動に実際に自分が手を貸したり共に行動するという体験が、障がいを理解することにつながるのではないかと、このブログを読んで改めて考えることができました。
ブログを拝見させていただきました。読み終わった後心が温まり、笑顔になれた自分がいました。
私も宗澤さん同様に、「どうやってパチンコをするの?!」と、ものすごく気になりました。しかし、それは自分の偏見だったと気づかされました。
福祉の勉強をしているにもかかわらず、まだどこかで障害を持っている人との間に壁を作ってしまっていた自分を恥ずかしく思います。
最近、街や駅で杖を持った人や車椅子に乗っている人を見かけるようになりました。おそらく障害を持つ人たちも外出しやすい環境になってきた証拠だと思います。「困っている人がいたら助ける」という言葉はよく使います。しかし、いざそのような場面に出くわした時に声をかける勇気があるかといわれると、自信がない自分もいます。なので、このお話に出てくるオジサンの自然に相手に手を貸すという行動を見習わなければいけないなと思いました。
今回のお話のように、誰かを助けることにより自分も相手も周りのみんなも温かい気持ちになれるような環境がもっともっと広がっていくといいなと思います。その為にもまず、自分に出来ることは偏見を捨て、手を貸す勇気を持つことだと思いました。
素敵なお話ありがとうございました。
ブログ拝見させていただきました。素直に、素敵な話だなと感じました。隣に座っていたおじさんと、パチンコ屋の店員さんと青年の連携プレーによって青年はパチンコで勝利することができて本当によかったです。ただ、このできごとを読んで、いいお話だなと感じてしまった自分がいます。隣のおじさんと、店員さんはいい人だなと少し感じてしまった自分がいます。私の中で、障害をもった方々へのノーマライゼーションな考え方ができていない部分があるのかと感じ、恥るべきことだなと思いました。目に障害をもった青年がパチンコをできないという固定観念をもち、そんな少年を助けたおじさんや店員さんに対して、すごくいいことをしたと考えるのは間違っていて、障害をもった方でも楽しむことは当たり前であるし、障害をもった方が困っているなら、それを助けるのが当たり前のことであると感じました。だから、いいお話だなと感じることは、自分がノーマライゼーションな考え方を持っていない部分があるということで、自分も当たり前のようにこのお話を読めることが大切なのではないかと感じました。
ブログ拝見させていただきました。
読んで真っ先に思ったのが「白杖の青年がパチンコに行って楽しいのだろうか」でした。私の中でパチンコはあまりいいイメージはありませんでしたが、読み終わった後は青年の楽しそうな笑顔、おじさんや店員さんの優しさが目に浮かんで温かい気持ちになりました。
障がい者だからパチンコに行ってはいけないという決まりはないのに、自分のイメージで勝手に決め付けていたことが恥ずかしく思い、このブログを読んで違う視線を知れてよかったと思いました。
青年に手を差し伸べたおじさんも「困っている人がいたら助ける」という簡単なようで難しいことができて、凄いなと思いました。ギャンブルである「パチンコ」通じて障がい者と健常者の距離が少し縮まったのは不思議な気持ちですが、無理に交流会とかで触れ合うのではなく、日常生活でこのような機会に出合うことが障がい者との一番の交流になるのではないかなと思いました。
ブログ拝見させていただきました。
初めて拝見させていただいたのですが、どれも大変興味深い内容で、これからもぜひ読ませていただきたいと思います。
今回のこのブログを読ませていただいて、私自身もよくパチンコをするのですが、この光景を思い描くだけで、なんだかやさしい気持ちになることができました。なかなか負けている時はいらだちが募り、自分の事で精一杯で、人になにかをしてあげるという気持ちにはなりにくいものです。今回登場したオジサンも、読ませていただいた限り、負けていたはず。そんな人の心を動かしたのは、実は少年が白杖だったからではなく、純粋にパチンコを楽しんでいたからではないでしょうか。パチンコもだれでも最初は、人に教えてもらいながら覚えていくものです。今回のオジサンも、自分が初めてパチンコをして困った事や、人に助けてもらって助かった事を思い出したのかも知れません。このオジサンは少年が白杖だから助けたのではなく、少年の純粋さが、本来人間がもっている優しさを引き出したのだと思います。
障害者だから助けるという考えは、個人的な意見ですが違うと思っています。人という字は、人と人が支えあって云々という言葉がありますが、本来の姿は、健常者、障害者関係なく、人と人として助け合うものだと思います。そこで、ただ障害者が、助けを求める機会が健常者より多いだけ。困っている人がいれば、それを助けられるのなら、その方法を懸命に考える。助けられた人は、感謝し、そこに人と人との繋がりが生まれる。そうやってよりよい人間関係が構築されていけば、障害者にとってもっともっと暮らしやすい社会になるのではないのかなと思います。
当たり前に人を助けられる人間、素直に感謝できる人間、そういう人間に私もなっていかなくてはいけません。
最初読んだときは、白杖の人とパチンコというものが連想できませんでした。しかし考えてみると障がいを持った人もパチンコにいくことはごく普通のことだと気づかされました。
あたりが出たときに、とっさに自分のパチンコの玉をあげるという、つまり自分の利益にもならないにもかかわらず、人を助けるということはすばらしいことだなと思いました。
また、おじさんは白杖の人があたりが出てうれしそうな姿を見て、自分もうれしい気持ちになったに違いありません。人助けというのは、助けたほうも助けられたほうも幸せになるすばらしいものだと思いました。
日本全体が助け合いの精神がいきわたっている国になってほしいと願ってやみません。
先日電車に乗った時、白杖の男性と同じ駅で下車しました。
「改札までご一緒しましょうか?」
と聞いてみたのですが、何も返事をしてもらえませんでした。聞こえていないのかと思い、もう一度尋ねてみたら、手をふって結構ですというジェスチャーをされました。
明らかに不慣れな様子でしたので、一応後ろから着いて行ってみましたが、壁にぶつかりそうになったり、道もよく分からない様子でした。
助けを必要としているように感じましたが、それは私の勘違いかもしれませんし、ゆっくりでも自分のペースで歩きたいのかもしれません。
また、今の世の中は物騒で、声を掛けてくる人が皆いい人だとは限らないという状況も少し影響を与えているのかな、と思いました。
助けが必要な時に、声を掛けてくる人を信頼できる社会・地域コミュニティの形成が大事だと思いました。私も助けを必要とされている時に応えられる人間になりたいと思います。
初めて拝見させていただきました。読んでいると、とても心が温かくなりました。稚拙な文章で申し訳ございませんが、コメントさせて頂きます。
私は、ゲームセンターでスロットをしたことしかありませんが、当たりがくるまでは淡々と回し続ける作業のようにしか感じませんでした。しかし、目の不自由な白杖をつく青年には、パチンコ玉のはじける音さえもとても新鮮に感じたのでしょう。
この文章を見て、私達が普段何気なく行っている事や聞こえる音、見える物等も、少し立場が異なれば全く捉え方が違うのだと感じました。またその点から、普段私達が当然のように行っていることも、体の不自由な方にとったら難しいこともたくさんあるのだろうなと、改めて考えさせられました。
また、パチンコ屋はお金が絡むこともあり、とても殺伐としたイメージがあります。青年の隣にいたオジサンも、文章中の様子だとあまり勝っているようには思えないのですが、そのような状況においても自分の持ち球を差し出し、アドバイスを与え、青年のために行動したことはとても心動かされます。
自分がオジサンの立場だったとしたら、果たしてそのような行動をとれていたかと考えると正直自信がありません。
私はまだまだ体が不自由な方々に対する意識が低いと言わざるを得ません。もっと理解を深めるためにも色々実際に見て考える必要があると思います。どのように行動したら体の不自由な方が安心できるのか、喜んでもらえるのかを考えていきたいと思います。
このことを皆で考えていけば、助け合う心を育てることができ、より住みやすい社会に近づいていくと思います。
初めてブログを拝見させていただきました。
読み終えると暖かい気持ちになると同時に、障がいを前に構えてしまっている自分に改めて気付きました。
白杖を持った方を見かけることが度々ありますが、そんな時どうしたらいいのか正直わかりません。
明らかに困っている様子ならまだしも、そうでないときは
「声をかけようかな」「迷惑じゃないかな」「偽善者ぶってない?」とさまざまな葛藤が生まれ、結局何もしないまま見て見ぬふりをするのです。
でもこのおじさんはそんな難しいことを考え、行動に移した訳ではないように思います。
私は障がいがあるというだけで「助けてあげよう」と考えてしまい、その時点で構えてしまっているのでしょう。
もっとシンプルに捉えようと思いました。
深く考えるきっかけとなる素敵なお話、ありがとうございました。
障害を持つことに偏見のあるオジサンが、パチンコを通してこの少年を普通の少年なんだと思った瞬間だったと思う。私のような不自由のない人間は、障害を持つ人の本当の苦労を知ることはできないし、障害を持つことで社会がどのように見えているかを体験することもできない。しかし、障害を持つ人と関わったり、話す機会を持つことで見えてくるものが必ずあると思う。例えば喜ぶポイントだったり、泣くとこだったり。私たちは障害をもつ人との関わりを気づかないうちに断っているのではないかと気づかされた。
この文章を読ませていただいて、色々と感じるきっかけをいただきました。ありがとうございます。
ブログを読ましてもらいました。
小説を読んでいるかのような感動をもらいました。目の見えない少年はとても勇気がある人だなと思いました。自分だったらきっと白杖をついてパチンコ屋には入れないと思います。
そして、おじさんはとてもやさしい人だなと思いました。私もパチンコをしますが、自分が負けているときはほんとに機嫌も悪くなります。自分がもしおじさんの立場だったらと思うと、きっと同じことができてないと思いました。
このブログを読んで、目が見えなくてもパチンコができるということは、障害を持っていない人だったら何でも出来るんではないかと思いました。
私たちは、出来そうもないことがあればすぐに諦めてしまうと思う。でもこのブログを読んで、今まで簡単に様々なことを諦めてきた自分が恥ずかしく思いました。このブログを読んで、勇気や優しさだけでなく、いろんなことを考えるきっかけになりました。
初めてコメントさせていただきます。
コメント数の多さが目にとまり、拝見させていただきました。
私もみなさんと同じように、読み終わったあと心がホッとするようにあたたかくなりました。
正直「パチンコ」という言葉からあまりいいイメージは浮かばないと思います。やはりギャンブルのイメージが強いからでしょうか…。
しかし、このような素敵な出来事もあるのですね。日々の中には、自分の見方次第で幸せな気持ちになれることも多いだろうに、見逃している気がしてなりませんでした。
私事ですが、軽い知的障がいをもついとこがいます。盲目の方とはまたわけが違うかもしれませんが、障がいを抱えているという点からお話させていただきます。いとこは青年と同じように明るく積極的に行動していて、どんなことがあってもいつも笑っていて、妹を大事にして、周りの人をとても幸せな気分にさせてくれます。
この青年の話を読んで、またいとこの姿を見て思うことは、障がい者の方々が望んでいるよりも、私たち周りの人間は過度なほどの気遣いをしてしまっていることもあるのではないか、ということです。
そういった自分では見えていない・気づいていないかもしれない心の隔たりがなくなり、ホッとする一コマがもっともっと増えていくことを望みます。
素敵なお話ありがとうございました。
コメント数が多いのにコメントするのは、とても抵抗がありましたが、この話の冒頭を読んで気になってしまったので読んでしまいました。
この話を読んで、隣に座ったおじさんの親切さや不自由な生活をせざる負えなくなってしまっている青年のちょっとしたことではあるけれど少しの幸運に心温まりました。
きっと、今回の大当たりくらいでは埋めきることのできないような困難な生活を、白杖の青年はいままで送ってきたのだと思われるが、私はそんな青年に降り注いだささやかな幸運を知って生きていればきっとなにか良いことがあるのではないかと少しの勇気ももらえた気がします。
また、青年の隣に座っていたおじさんは、青年に球をあげることは全く得にはならないのに、必死になって青年の幸運の手助けをしてあげた所に優しさを感じました。この優しさを私も持ち合わせたいとおもいました。
この青年がこの後、パチンコにはまって負けまくったりしないことを祈ります。
この文章を読んだ時、白杖にパチンコというものがうまく結び付きませんでした。しかし、それはおかしな事です。障がいを持った人にはその人に合った楽しみ方があるのではないかと、勝手に決め付けていたことに気づかされました。この青年のように、障がいを持った人がそうでない人と同じ空間で、同じ方法に則って、娯楽を享受することへの壁が社会にはまだまだあるのではないかと感じました。
障がい者への援助というと、する側される側という、区分が生まれてしまいがちですが、この文章では、隣のおじさんや店員がごく自然に、青年に接しています。
私たちは、障がいを持った人の立ち振る舞いを頭の中で勝手に決め付けて、彼らのニーズを勝手に解釈してはいないでしょうか。私たちの「まなざし」が彼らから主体性を奪い取り、彼らの行動を制限しているのではないかと思いました。
ブログ拝見させていただきました。初めてコメントさせていただきます。
感情的に読めばとても心温まる話、しかしその分たくさん考えさせられることがありますね。
私はまだパチンコ屋というところに足を踏み入れた事はないのですが、パチンコ屋と聞いて思い浮かぶ言葉は「騒音」「ギャンブル」等といったものばかりです。(私はそんな場所に行く事を一概にマイナスのイメージとしては捉えていませんが。)
白杖を持った青年は、きっと初めてそんなイメージのあるパチンコ屋に入るという事に対して「どきどき、わくわく、期待感とそしてちょっとした冒険心」を持っていたのだろうなと思います。
そしてそれは障害を持たない人が抱く感情と何ら変わりのない事だとも。
そう考えると目の不自由な方がパチンコ屋に行きたいと思い、実際に足を運んだことは何も不思議なことではありません。少なくともノーマライゼーションに対する十分な理解を持った人から見れば。
この青年がパチンコ屋に入ったという事実についても考えましたが、私はそれ以上に隣のおじさんの行動について考えました。
私の勝手な想像ですが、きっとこのおじさんは「咄嗟に」青年の手助けをしたのではないかと私は考えます。
一瞬の驚きの後に行動を開始した瞬間は、それこそ「ノーマライゼーション」だとか「障害者に対する思いやりの気持ち」だとか、そう言う事を呑気に考える前に口が出ていたのかと。
そういう行動こそがまさに「ノーマライゼーション」への大切な一歩なのだと思います。
見返りだとか周囲の目だとか、そう言った感情はもちろん、「ノーマライゼーション」「バリアフリー」などの言葉を強く意識することなく手を差し伸べる事が出来る。「障害者を特別視することなく」という考えのノーマライゼーションという概念それ自体を特別視する事がなくなる。
そう言った事が社会に浸透出来れば、障害者の方々にとっても心地の良いものになるのではないかと考えさせられました。
こころ温まる話、社会について考えるための素敵な題材をありがとうございました。
記事の最初の方をよみ、とても、興味が沸いたので、夢中で読みました。
目が不自由だから…という理由で、できないことというのは、実際にはあまりないのではないかと、考えが変わりました。(もちろん、困難なことはたくさんあるかもしれませんが…。)
パチンコというのは、一種の賭けごとで、やはり、自分が得をするのが最もよいのでは…という固定観念があったわたしにとって、このおじさんの行動はとても感動しました。自分さえよければいいのではなく、周囲の人のちょっとした幸せに貢献できるということは、そう簡単にできることではないと考えるからです。みんながみんなこのおじさんのようなこころを持つということは、決して簡単なことではありませんが、こころのどこか片隅に、少しでもこのようなこころを持つ人がふえれば、単純に世の中変わるのではないかな…と思いました。この記事に登場する、青年や隣のおじさん、周囲の人々の様子というのが、社会全体が目指すべきものなのではないかと考えることができました。ありがとうございます。
ブログを読んでほっこりとした気持ちになりました。
無縁社会という言葉が流行語となるなか、それでもやはり人の温かさはどこにでもあるのだと、安心しました。
ギャンブルに挑戦したドキドキ感、おじさんに親切にされたことは大当たりしたこともそうですが、青年にとってよい思い出になったと思います。
パチンコ屋という一見無機質な空間に温かみのある光景が目に浮かびました。障害っていうのは体が自由に動かないことだと定義付けしたとして、心ってやっぱり自由なんだなぁと思いました。いろんな人間の心が重なり合えばこんなに優しい時間が流れるんだな。
こんなことを言ってしまうのは失礼にあたるかも知れませんが、目の不自由な人がパチンコ屋に行くなんて正直びっくりしてしまいました。しかし、目が不自由であっても自分が興味をもったことに果敢に挑戦していくことのできるこの青年は、おそらくとても充実した、豊かな人生を送ることができているのだろうと思います。
私の頭の中に浮かぶ、はじめてレバーを回して玉を打ち出したときの彼の笑顔は、さわやかで満足感に満ちた、見ているこっちも気持ちの良いものです。
また、このときのおじさんのように困っている人を見て見ぬふりするのではなく、自然と親切心を働かせることのできるような人が増えれば福祉を取り巻く環境もより良くなるのではないかと感じました。
最初の部分を読んで興味を持ちました。
とてもすてきな話だと思いました。
おじさんは自分の利益よりも青年の大当たりを優先させています。おじさんのように、自分よりも誰か他の人のためになることをすることができたら、相手も自分も幸せを感じるのでないかと思います。相手がどんな人であっても手を差し伸べられるように、助け合えるようになれたらいいなと思いました。
とても心温まるお話だと思いました。恥ずかしながら、このブログの最初の部分をよんだときに、目が見えないのに十分にパチンコを楽しめるのだろうかと考えてしまいました。しかし、それは自分の固定観念にすぎなかったことに気づかされました。
何が楽しいか、というのは人それぞれであるのに、障害があるというだけで、その障害が楽しむことさえも阻んでいるように考えてしまっていました。
そして、もし自分がおじさんの立場であっても、おじさんと同じように助けることはできなかっただろうなと思います。相手に、障害があるにしろないにしろ、自分にできることであっても、困っている人を助けるというのは、簡単なようでいてなかなかできることではないです。それをすっとやってのけた隣の席のおじさんはすごいと思います。
何も考えず、自然に相手に手をさしのべることができる人でありたいと思いました。
パチンコ屋とは殺伐としたところで、そこにいる人もちょっと恐い感じなのかなというイメージが私の中にありました。
しかし、この話を読んで上記のイメージはすっかりなくなってしまいました。人との繋がりが希薄になりつつある現代で、このような心温まる出来事があったなんて、すばらしいことだと思います。
ここには、健常者と障害者という壁はなく、共に喜びを分かち合える人たちがいる。そのことに私は感動しました。
私はこのブログを見てとても心が温まりました。私には知的障害の弟がいます。私自身は、弟が障害を持っているからといって特別な意識を持っているわけではないし、なにも障害を持たない人とほとんど同じように生活ができるのは十分理解しています。
しかし、「障害者だから〇〇ができない」だとか「障害者には何か手伝ってあげなければいけない」とかいう意識がまだそこらじゅうにあるような気がします。そして実際に弟が他人に何か手伝われているときの、苦笑いぎみの顔を見ると、とても切なくなります。
だからこのブログを見て、障害のある人とない人とが、同じ目的でただ楽しんでいる状況を想像して、とてもほっこりした気分になりました。そして、「〇〇してあげる」という意識ではなく、隣に座っていたおじさんのような、「一緒に楽しむ」という意識で障害者と触れ合う人が増えればいいなと思います。
タイトルから気になってしまい、読みました。障害を持った方でも、助けさえあれば普通の人と同じように娯楽を楽しめるのだなと思い、感慨深い気持ちになりました。白杖を持った青年はさぞかし楽しかったことでしょう。でもその楽しみもおじさんや、パチンコ店の店員の助けにより得たものです。人間同士の助け合いがとても大切だということが改めてわかりました。これは普通の人とでも同じです。人間1人では生きていけないということを思い知らされました。
さて、僕が高校の登下校時、たまに白杖をもった女性の方を見かける時がありました。その人に声をかけて何か手伝えなかったかということに今になって悔やまれます。あの当時は声かけてつっぱねられたらどうしよう、はずかしいな、という気持ちがあって声をかけれませんでした。
でも今思うと、助けをしてくれるのは悪い気ではないはずなので、声をかけても恥ずかしいことではなかったと思います。単に、私に勇気がなかっただけなのでしょう。次にそのようなことがあったら、一言かけてみようとおもいます。そんな勇気のでるブログ記事でした。
この記事を読んで、なんだか心がほっこりしました。
青年は他の人が物事に興味を示すようにパチンコに対して興味を持ってパチンコ屋に入ったのだと思いますが、私は青年がパチンコ屋に入ろうという行為に驚きました。なぜなら、私は障害のある人が、人が込み合っていて狭いイメージのあるパチンコ屋内を移動することは困難であると思ったし、玉の動きを調節するようなことができないのだから、パチンコとして成り立つのだろうかとおもったからです。
しかし、青年が物事に興味を示すことは普通のことであり、それに挑戦するのも当然の権利であるのだと改めて考えさせられました。障害のある人は身体的な弱者でありますが、障害を乗り越えてきたぶん、心は強くなっているのだと思いました。
また、青年を手助けしたおじさんは、青年が障害を持っているなどとは関係なく、自然に手が出たのだと思いますが、実際に障害のある人を目の前にすると、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまいます。
私たちも障害があるなどとは関係なく、自然に手助けができるようになりたいとおもいます。
障害のある方を見かけるとどうしても健常者を見る気持ちとは違った心もちで見てしまう自分がいる。障害者の方々にどのように接したらよいかわからないからであるように思う。障害を持っているからといって相手との関わり方なんて実際変わらないのに・・。障害を持っているからと言って何一つ健常者と変わらないということを肌身で実感する事は何よりも障害者の方々への理解において重要な要素になるように思う。そのような考えを持てればパチンコ屋で隣に座っていたおじさんのように健常者が困っていて手を差しのべるのと同様に何の戸惑いもなく障害者の方々に手を差しのべられるのだと強く思う。
このブログを読みとても心温まり思わず笑みがこぼれました。身体障害者にたいしていわゆる何も障害がない人というものは、なにかとできないと決めつけてしまいます。ですが今日では全盲のピアニストもおり、私も彼らの演奏をききましたがとても鳥肌が立ちました。これらのように身体障害者のハンデというものは日に日に少なくなってきているようにおもえます。ですがまだまだ課題も多くあります。お札の大きさの統一(コンパクト化)など”私たち”にとって世の中はとても便利になっています。ですがこれはあくまで”私たち”にとってであって、すべての人に対してはありません。障害者に対してこの統一は果たして良いものであったかどうか、見分けがつきにくくなったのではないか。普段何気なくしていることも少し意識するだけで見方が変わります。そうすればこの記事のようにみんなが手を取り合う世の中がきて幸運の女神が訪れてきたときの喜びは何倍にもなると思います。私はこの「777」のようにささいな出来事がきっかけとなり健常者が戸惑いなく障害者に手を差し伸べられる時代がくるように、また一緒に楽しめるように、今行ってる事に感謝しまた周りを気にかけていくことで自然と障害を感じない世の中になると思いました。
最初読んだときは、白杖の人とパチンコというものが連想できませんでした。しかし考えてみると障がいを持った人もパチンコにいくことはごく普通のことだと気づかされました。
自分はよくパチンコ屋に足を運ぶのですが、いまだに白杖の人は目にしたことがありません。時折車いすに乗っている人は目にします。彼らが台に座るときには店員さんが、設置されている固定椅子を外しているようです。最近ではパチンコ屋でも多目的トイレが設置されるようになりノーマライゼーションの風潮がよく見られるようになったと思います。
バリアフリー、ノーマライゼーションと聞くと障碍者のための特別な設備や方策のように思ってきました。しかし、今回のブログを読んで、バリアフリーやノーマライゼーションを実現させる第一歩は“人の心遣い”なのだと気付かされました。白杖を持っている、つまり視覚障碍者の方はパチンコをする場合に限らず困難なことが色々とあるのは事実でしょう。しかし、その様な時に過度な扱いをするのではなく、咄嗟にさりげない手助けをすることが大事なのだと思います。もし、過度に扱ってしまえば、そこには“してあげた方”と“してもらった方”というある種の“歪み”を産む可能性があります。それはノーマライゼーションの精神とはかけ離れたものとなるでしょう。
また、この白杖を持った青年はおそらく他人に助けてもらうことを期待して入店したわけではなく、純粋にパチンコに挑戦してみたように感じました。そうした前向きで欲の無い姿勢が周りの人たちを動かし、自然なバリアフリーとノーマライゼーションを呼んだようにも思いました。
我々がしなければならないことは、障碍を持っている人が何かに挑戦しようとした時、「周りに迷惑を掛けないかな。」と躊躇させないように、普段から自然に接していくことでしょう。それが交友と相互理解を育むことに繋がっていくと考えます。
驚きました。今までの自分の考えの狭さにむなしささえ感じました。障がい者とは、不自由さゆえに無気力でふさぎ込み、他人の助けがなければ行動さえ起こさない人々だと思っていたからです。なんと軽率で幼稚な考えだったのでしょうか。自分の考えが変わりました。変わった今何をすべきか。もっと障がい者の人々とかかわりたいと思いました。もっと知りたいと思いました。自分かこのブログの状況だったら同じことができたか。これからの生活を一人の人間としてもっと豊かにするために、考えて生活していきたいです。
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