全盲の人と音楽(世界編)――ルイ・ブライユからマーカス・ロバーツ 3
(先週のブログからの続き)
当時、マーカス・ロバーツのアルバムはCDしか出ていなかったため、後にDVDで発売された『ヴァルトビューネ2003ガーシュイン・ナイト』(GENEON)によって、マーカス・ロバーツの演奏をじっくりと視聴する機会を得ました。
このアルバムは、ジャズのマーカス・ロバーツ・トリオ(ピアノ:マーカス・ロバーツ、ベース:ローランド・ゲリン、ドラムス:ジェイソン・マルサリス)と小澤征爾指揮のベルリン・フィルハーモニーとの夢の協演を収めたすばらしいDVDです。クラシック・ファンかジャズ・ファンかを問わず、クラシックとジャズのコラボレーションを最高度の演奏で堪能できます。特に「ピアノ協奏曲へ長」では、トリオやマーカスのソロにインプロビゼーションが入り、溜息が出るような演奏でした。複雑なリズムの曲で、しかもマーカスは小澤のタクトを視認できないにも拘らず、オーケストラとピアノの息がぴたりと合っているのもすばらしい。
この『ヴァルトビューネ2003ガーシュイン・ナイト』(GENEON)を改めて視聴してみると、私が最初にテレビで眼にしたマーカス・ロバーツの演奏スタイルを観ることができます。つまり、鍵盤のどこを叩くにも体軸が左右にぶれない演奏法です。
しかし、彼の演奏法を繰り返し観るうちに、全盲であることに由来して、「体軸を動かさないことによって鍵盤との距離を一定に保ち、正確な鍵盤タッチをしているのではないか」との仮説はいささか皮相的な解釈であるように思えてきました。彼の体は大柄なため、グランドピアノの鍵盤のどこを叩くにしてもあまり体軸を左右に振る必要はないでしょうし、腕-肘-手首-指先を絶妙にコントロールして鍵盤に必要な力を載せていくには、むしろ体軸を左右にぶれさせないことのほうが、プロの演奏家としては合理的な力の運びになるのかもしれないと考えるようになりました。彼のバネの利いた鍵盤タッチと上肢・全身の運びを注視すると、一つの演奏法として完成された姿であることが分かります。
全盲の彼がピアノの練習をはじめた当初は、正確な鍵盤タッチをするために、体軸をぶれないように注意しながらのものだったかもしれません。しかしマーカス・ロバーツは、その演奏スタイルが、練習を積み重ねて磨き抜かれ、体全体が青年・成人へと発達した時、大コンサートにも発揮できるすばらしい演奏法にまで結実していったのではないか。特に私は、体を派手に左右に動かすような演奏は、素人目にはいかにも情感を込めているように見えますが、それは間違った演奏法だと考えてきたからでもあります。
ここまでくると、晴眼者であることはむしろ「ピアノ演奏の障害ではないか」とさえ思えてきます。私の個人的な嫉妬心はさておき、ぜひともこのアルバムは一度ご視聴ください。
2008/10/3発売DVD
品番:GNBC-1026
ヴァルトビューネ2003 ガーシュイン・ナイト
小澤征爾/ベルリン・フィル
小売価格:¥3,200(税抜)¥3,360(税込)
発売元:ジェネオン エンタテインメント
コメント
まさか福祉領域のブログで、こんな文化的な文章を読むことができるとは。
日本の福祉領域には、洋の東西を超えた文化的土壌が醸成されていないし、その必要性を感じてもいない「文化」があるからなのでしょうか。
作業所などの学芸会的な発表会や文化祭が文化的でないとは言えないけれど、青年・成人期にふさわしい“本物の”文化・芸術が求められているように思います。援助者側の実践的な課題ではないでしょうか。
福祉関係のブログでこういった領域について書かれている文章は初めて見ました。非常に興味深い内容です。
音楽の世界には、全盲と生涯をともにし活躍されている方が多いことに驚きました。目が見えないことによって、ほかの感覚が非常に発展したためといっても、その感覚の鋭さには驚愕です。
盲学校の生徒が打楽器アンサンブルで全国へ行くまでを記録した本にもあるように、個人個人のブレスや、タクトを振り上げる空気を感じて演奏しているのだろうと察します。ブログでおっしゃってるとおり“晴眼者であることはむしろ「ピアノ演奏の障害ではないか」とさえ思えてきます。”には納得するものがあります。
見えるからこそ、音楽をするにあたって障害となるものが、全盲であることによって除外されて純粋に音楽を感じることができるのだと感じました。
一般的に障害といわれている目が見えないことですが、考え方次第で障害とならない場合があるのだと、このブログで改めて実感しました。
私は、多くの全盲の人が音楽家として活躍しているということは知っていましたが、演奏の仕方からこの人はもしかして全盲ではないか…と考えることが今までなく、ブログを読んで体軸について気づきました。
私も幼いころからピアノを習っていて、部活では吹奏楽をしていたので、大勢の人と呼吸を合わせて演奏する難しさを知っています。指揮を見て、周りの音を聴いて演奏してもなかなか音がそろわないことが多々あるので、全盲の方たちの練習量や感覚、聴覚力はすごいと全盲の音楽家を知るたびに思います。
確かにピアニストの演奏の仕方に圧倒されることがあります。それは、体を動かすことによって音量を変化させたり、曲の雰囲気を表しているのだと思いますが、ブログを読んで全盲の人の演奏が真の演奏ではないかと少し思えてきました。
お店でこのアルバムを見つけたら、ぜひ聴いてみようと思います。
初めてコメントさせていてだきます。私は大学で福祉について学んでおり、また部活では音楽系のサークルに属しているので、このブログの見出しに興味を持ちました。
音楽の世界には、全盲だがとても才能に長けている音楽家が多いように感じます。“全盲だが”という言い方は、差別的な意味を含んでしまうかもしれませんね。ただ、それくらい目が見えないことと音楽の才能があることに無意識のうちにギャップを感じていたのだろうと思います。目が見えないことで音楽ができない、またはやりづらいという固定観念が私の中に存在していたのだろうことに気付かされました。
全盲だからこその才能であるといったほうが正しい気がします。私は授業でブラインドウォークを体験したことがありますが、その際に、普段は感じることができない些細な音にも敏感に気づけた記憶があります。きっと全盲の方には、目が見える私たちよりはるかに豊かな音の世界が広がっているのだろうと思いました。
最後に、このアルバム聴いてみようと思います。
私は今まで点字の楽譜の存在を全く知らずにいました。というより、考えたこともありませんでした。だから、全盲のピアニストの方はみんな、全て耳で聞いて弾いてを繰り返していると思っていました。
辻井さんは先生が弾くのを聴いて覚えたというのを聞いていたので、そのような先入観があったのだと思います。全盲の方は耳がすばらしく発達していると思っていましたが、よく考えてみれば、それだけの並大抵ではない努力をしているのだろうと思いました。
自分が直接体験してみないとわからないこと、知らないままでいることがまだまだたくさんあると思います。直接体験をしなくても、このようなブログを通してなど、知ることは大切だと思いました。
スティービー・ワンダーをはじめ、世界には数多くの盲目の音楽家がいて、彼らはすばらしい音楽を作り、私たちに届けてくれています。
私はマーカス・ロバーツとベルリンフィルハーモニーが共演したDVDをみて、とても感動しました。まず、マーカス・ロバーツのピアノの所でクラシックの曲をジャズ風にするテクニックと感性がすごいと思いました。また、指揮者、演奏者全員が一体となっていると感じました。全員が互いの音を感じ取れているからでしょう。
そこで私はひとつの曲を演奏するということには、晴眼者も盲目の人も関係なく平等で、ただ全員の息が合えばすばらしくなるのだと思いました。これは私たちの社会にも同じことが言えると思います。
今の社会では障害を持つ人の能力が認められなかったり、過保護になったりしていると思います。障害を持つ人も社会に役立つ能力が発揮できる社会。つまり、このオーケストラが、社会のひとつのありかたを表しているのだと思います。
全盲のピアニストといえば、レイ・チャールズと、スティービーワンダーという名前だけ知っているくらいの知識しか私にはありませんでしたが、このコンサートの素晴らしい演奏には聴き入ってしまいました。
途中でピアノソロの部分が何度もありましたが、目が見えていないなんて想像できませんでした。
目が見えていない状態では、耳で音を感じ、体軸を動かさない演奏法によって鍵盤の位置を体で覚えることで演奏が可能になる事はある程度理解していましたが、指揮や、他の演奏者が音を出す瞬間を直接目で見ることができないのに、タイミングがぴったり合っていたところが何よりもすごいと思ったところでした。
演奏を見る前にこのブログを読んでみて、実際音は感じることができてもリズムが少しずつずれてきたりするのではないのかなと予想していたのですが、ジャズというよりリズムの複雑な演奏も完璧に演奏していて、音楽に身体の障害なんて関係ないんだなと感じました。
このオーケストラのように身体の障害を持っている人も、持っていない人も、その障害は関係なく自らの才能を発揮できる空間がもっと増えていけばいいなと思います。
こんにちは先生の授業をとっているものです。
この記事の趣旨とは離れますが、先生のすごく文化的な一面を垣間見ました。
私ならテレビで偶然コンサートを見ただけで、ピアノの演奏のうまさに感動できないと思います…クラシック音楽も自分から進んでは聞きませんし。
ピアノの演奏の説明もあったので、先生自ら弾かれるんですか?
と、ここまで書いて百聞は一見にしかずということでマーカス・ロバーツさんの映像をyoutubeで見てみました。
ソロやコンサートの映像をいくつか見ましたが、しっかりした音だなと思いました。
たしかに体の軸をぶらさずにひいていらっしゃいましたね。長い指が印象的でした。
「しっかりした音以外に何か感想ないのか」と思いましたが、まっすぐだというか、普段重低音のきいた音楽しか聞かないもので、良いのだと思いますが、それくらいしか書けません…
でも何か感想が書けないかときいているうちに、彼が目が見えないことを思い出しました。
ということはやっぱりすごい人なんですね。
幼稚園生並みの感想でごめんなさい。
この文章を目にして、初めてマーカス・ロバーツという人のことを知りました。
全盲のピアニストといえば、スティービー・ワンダーやレイ・チャールズ、そしてバンクライバーン国際ピアノコンクールで優勝された辻井伸行さんなどが思い浮かぶ程度でしたので、今回また一人素晴らしいピアニストを知ることができ、個人的にうれしく思っています。
このブログを読んでから、先に挙げた方々の演奏を聴きましたが、どれも「やはり」素晴らしい演奏でした。というのも、(特に、辻井さんの演奏がそうであるが、)彼らは鍵盤を見て弾くなど視覚情報を参考にして音を捉えることをしていない。聴覚のみに頼ることで、一種の「言葉」のように音を捉えて、それで「話」をするかのような、あまりに自然な音を奏でているからである。
音楽に関して言えば、聴覚に特化しているほうがより自然な「音楽」の形成ができるのではないでしょうか。だから、「目が見えないのに凄い」のではなく、単純に「彼らのセンスが凄い」と考えるほうが理にかなっていると思います。
今書いたような、「目が見えないのに」や「車イスなのに」といったような見方が日常的に用いられることが多い用に思われますが、それは少しおかしいのではないでしょうか。
「障害があるのに」という見方では、その人が持つ能力や資質から見ることなく、「障害」という側面からでしか判断していないといえます。つまり、その人を「障害者」という枠組みでのみ捉え、「その人自身」を捉えていないのではないかということです。
以前の私は、「目が見えないのに、ピアノが弾けるなんて凄い」と考えていることがありました。しかし、このブログや大学での授業を通じ、「一人の人間」として障害を持つ人のことを考える必要性を感じ、このような提言をさせていただきました。
また、日ごろ接触の機会が少ないために障害に対する理解が低いものとなり、「障害があるのに」という考え方が生まれるのではないかと考えます。そういった機会を、例えば「総合的な学習」の中で時間をとって持つことで、障害に対する理解を浸透させる必要があるのではないでしょうか。
そうすれば、レイチャールズや辻井伸行さんの演奏を、また違った角度から楽しめるのではないでしょうか。
7月14日の講義で始めてマーカスロバーツの演奏を聴いて鳥肌が立ちました。
その時には、体の軸が左右に動いていないということには目がいきませんでしたが、このブログを見て思い返してみると、確かに体に一本の棒があるかのようなとても安定した演奏だったように思います。
私は、宗澤先生の講義を受けるまでは障害を持つ方々に対してかわいそうだなという感情を抱いていました。しかし、彼らには私たちと同じように、個性があるということなのです。
彼らも私たちと同じ一人の人間として接していくべきなのだと感じました。
講義でその映像を見て、胸を打たれました。マーカス・ロバーツが全盲だと先生から聞かされなければ、障害を持っていると分からないほど素晴らしい演奏でした。確かに、先生がおっしゃっているとおり体軸を動かさない演奏法はどことなく見ている人に違和感を与えます。しかし、目を閉じて彼の演奏に集中すれば、聴覚からの情報しか入らないので彼が障害を持っている唯一のヒントは伝わりません。彼の演奏の素晴らしいところは、「完璧」だということだと思います。あれだけ大勢の観客を前にしてミス一つない演奏を彼はしてのけました。それは「全盲であるがために観客が何人いるかなんてことがわからないから演奏に集中できる」、という解釈もあるかもしれませんが、私は「彼が障害という大きな困難に立ち向かいピアニストとして成長したから、どんなに観客がいようとも自分を失うことなく自然と自分の演奏に集中することができる」のだと思いました。
講義で虐待、障害など様々な問題に取り組みましたが、彼らはそれを乗り越えることよって普通の人(生活に不自由なく暮らしている人、五体満足の人)より何倍も充実した人生を送る可能性を持っているのだと思いました。同時に、わたしたちは彼らを遠くで見守り、ときには手を差し伸べる義務のようなものがあるのだと痛感しました。
12月22日の講義で初めてマーカス・ロバーツというピアニストを知りました。彼は全盲であるがために独自の演奏法を持つようですが、それは彼の個性であると思います。
世間や周りの環境が全盲であることを「障害」としてしまうだけで、見方を変えれば、一つの個性であると思います。目が見えることを普通であると定義する社会では全盲であることは不自由を伴います。全盲は「障害」であると定義され、それを他の人に劣ることと考えるからです。
しかし、ピアノなど、音楽においては、全盲であることを障害と捉えず、聴覚など他の五感に特化した才能と捉えられるかもしれません。ある点においては他の多くの人と同様にできないかもしれませんが、別の点においては他の人とは違う独自の才能を持っていると言えるかもしれません。
障害と捉えるか個性と捉えるか、見方次第で変わってくるのではないでしょうか。社会が普通を定義してしまうことでこういった「個性」を持つ人々にとって暮らしにくい社会を作り上げてしまっているのかと思います。他の多くの人と違うことは障害ではなく、個性であり、その人を形作る一部かと思います。障害としてではなく、個性として捉えていくことができればよりよい環境ができていくのではないかと思いました。
授業で初めて全盲の方のピアノ演奏というものを視聴した。初めはいくらプロの方とはいえ、全盲ということから間違えてしまうのではないかとはらはらしながら見ていたが、まるで目の前の鍵盤がはっきり見えているかのごとく巧みな演奏で、ただただ驚き、感動した。
生まれたときから全く目が見えない環境でなぜピアノ演奏家になろうと思ったのか、どのようにして練習してきたかなどいくつもの疑問があふれてきた。目が見えないから無理だと決めつけず、むしろそれ乗り越え健常者とは別の秀でた才能を高めていったことには感服するばかりだと感じた。
講義で辻井伸行さんとマーカス・ロバーツという二人のピアニストの演奏を聴きました。二人は全盲という普段の生活にとって負担でしかないハンデをものともせず、堂々とした素晴らしい演奏を披露していました。
いとも簡単そうにピアノを弾く姿からは想像できませんが、お二人とも練習中に、私には到底考えられないほどの多くの高い壁にぶつかったと思います。しかし、そこであきらめずに乗り越えていったからこそ、あのような演奏ができるのだと感じました。また、全盲という障害があってもなおピアノを弾いている生き生きとした姿を見ると、人には無限の可能性があることを感じさせてくれました。お二人には、これからも世界中の人に勇気を与えるような演奏を続けていってもらいたいです。
先日授業で、辻井伸行さんとマーカス・ロバーツさんの演奏を聞きました。私はまったくピアノ、オーケストラの知識が無いですが二人の演奏は今まで聞いたピアノ演奏とは違う感じがして圧倒されました。
自分もそうですが、現代の日本人は何かが「無い」ということ、例えば才能、時間、物などが無いということを理由にチャレンジすることをあきらめる傾向があるように思います。しかし辻井さんとマーカスさんは人より優れた聴覚と触覚が「ある」ということを武器にピアノに挑戦したのではないかと思います。自分もそうですが「無い」ことを理由にあきらめるのではなく、「ある」ことを武器に何事にも挑戦する、そういう捉え方の変換が必要なのではないかと思いました。
私は全盲の方のピアニストがいることは知っていましたが、その演奏を見ることは初めてでした。本当に目が見えないのかと思ってしまうほど素晴らしい演奏でした。でも、確かに彼の演奏はほかの演奏家とは違う何かを自分でも感じとることができました。
私は彼の演奏を見たあと、なぜ全盲にもかかわらずあんなにも素晴らしい演奏ができたのかを自分なりに考えてみました。私は彼が体のあらゆる部分を最大限に使って演奏をしていたんだと思いました。音を耳だけでなく体全体で感じたりして、試行錯誤しつつも努力した結果があの演奏につながったのだと思いました。 彼の演奏は私に多くのことを教えてくれた気がします。なので、本当に聞くことができて良かったです。
最後にこのような機会を設けていただきありがとうございました。
こんにちは。私は先生の講義で見たjazz演奏会に感動を覚えました。私も一時期jazz音楽に関わっており(トランペットでしたが)あの独特なリズム感は慣れるまですごく苦労したのを覚えています。その中でも一役活躍していたマーカス・ロバーツさんが盲目であるということは実に興味深いことでした。
改めて後日YouTubeの動画で見てみると、先生のおっしゃる通り体の軸がぶれていなく、繊細な弾き方をされていると思いました。もはや「盲目」というステータスは音楽には関係ないのかもしれません。
プロフィールによればマーカス・ロバーツさんは5歳のころに失明しており、8歳のころから両親に与えられたピアノを独学で始めたとあります(Marcus Roberts Official Website)。
ここで注目したいのは、「両親がピアノを与えた」ということです。これがマーカス・ロバーツさんの運命を変えたのだと私は思います。「全盲」という事実を受け止め、マーカス・ロバーツさんに可能性を探求させた両親は素晴らしいと思います。
一人の才能を生かすことができるのは親の手にかかってもいるのだな。と思うと共に、これは「健全(区別してよいかわかりませんが、障害がないという意味で用います。)」な子においても共通するものだと思いました。
「五感の一つを失うと他の感覚が優れる」という言葉を耳にしますが、これは根拠ないものだと私は思っています。マーカス・ロバーツさんを例にとっても、きっとあらゆる苦労を経て今こうして人びとに感動を与えられる技術を習得した訳で、その結果がこの言葉に帰属するのだと思います。
ただ、見方を変えれば「健全」な人よりもより鋭く集中できるのかもしれません。いずれにせよ、「障害を抱えている=他者より劣る」という考え方は間違っているのだとよくわかりました。
マーカス・ロバーツさんのような「盲目」でありながら、素晴らしい演奏をできる方を見ると、人間ってすごいな。と関心してしまいます。どんな人でも努力すれば報われるというようにも思いました。盲目に関わらず体に障害を抱えている人が輝ける場を提供するための環境作りが今の社会に必要だと私は思います。そのために、どういうことができるのかを自分なりに考えていきたいと思いました。
「気持ち」「心」
結局これらなんだな、と感じました。
そして、その強い「気持ち」や、強い「心」は、他の人の心も動かす。それを、この演奏を見たときに思いました。
まっすぐ一つのことに向かって突き進んでいく姿というものは、とても美しく魅力あるものです。そして、自信にあふれた姿というものはとてもかっこいいものだと思います。
全盲だからとか、そういうことを気にせずに演奏し、聴くものを魅了するあの音楽は、聴いている側にも大きな得るものがあるだろうと感じました。
辻井伸行さんとMarcus Robertsの演奏を聴いて、心を動かされました。
辻井さんのことはニュースでも話題になったので知っていたのですが、Marcus Robertsという人は今まで知りませんでした。
どちらも初めて演奏を聴いたのですが、辻井さんの演奏は、全身でメロディを表現しているように感じた。これこそが本当の演奏という感じがした。Marcus Robertsの演奏は、すごく格好良かった。胸が躍った。Jazzならではの即興、ハンディキャップなんて全く感じさせなかった。
全盲というのは目の見える人の持つことができない別の目を生み出しているのかもしれないと思った。
素敵な講義、ありがとうございました。
マーカス・ロバーツの演奏はとても素晴らしいものでした。全盲というのは普通に考えると晴眼者より劣っていると考えられるが、マーカス・ロバーツは全盲であることをむしろアドバンテージであるように自分の演奏をして世界で活躍しているのは純粋にすごいことだと思います。
しかし、自分の演奏法を確立したり、指揮を見ずにオーケストラと息を合わせたり、など他にもたくさんの多くの努力を晴眼者より必要としてきたと思います。その苦労を乗り越えて大勢の人の前で演奏するのは私には想像できないほどの幸せなんだろうと思いました。
このように障害がある人が活躍するのは他の障害者の希望となると思います。また演奏を聴くすべての人に幸せを与えていると思います。今まであまりこのような映像を見たことがなかったので、いろいろ調べて観ていきたいです。また自然とこのような映像に触れる機会が増えていって欲しいと思いました。
先日の講義で見たマーカス・ロバーツ・トリオと小澤征爾さん、ベルリン・フィルハーモニーの協演がとても印象に残っています。
小澤さんやベルリンフィルの凄さは、高校の音楽の授業で鑑賞したことがあるので知っていましたが、マーカス・ロバーツさんという方は初めて知りました。全盲とは思えないほど、指揮やオーケストラとの息が合っていて、衝撃を受けたことを覚えています。所々にあったマーカス・ロバーツさんのピアノソロには、とても感動しました。
ほかに全盲のミュージシャンでは、スティービー・ワンダーさんが手を動かしながら歌っている映像を見たことがありますが、あれは点字楽譜を読んでいたのだと、このブログを読んで気付きました。
私はピアノと管楽器の演奏経験がありますが、ピアノの場合、鍵盤に目が釘付けになってしまい、距離感から正確な鍵盤タッチをすることなどできません。そう考えると、全盲の方たちは並々ならぬ努力をしてきたのだろうと思います。
また、私は管楽器を演奏していた頃、目を閉じながら吹いたこともありましたが、目を閉じると視覚からの情報が一切なくなり、聴覚だけを頼りにするので、周りの音がよく聴こえてきました。全盲の方は、視覚がはたらかない分、ほかの感性が豊かなのだと思います。音楽は、全盲であることなど関係なく表現できる素晴らしい芸術だと感じました。
講義中に演奏の映像を見て、真っ先に思ったことは、晴眼者の演奏との差異が全く見られないということでした。後々、鍵盤等を全く見ていないという事に気付きましたが、それ以外は全く変わった所はありませんでした。相当量の練習をしたのだと思いますが、正直なところ、驚かされるばかりでした。
全盲であるが故に、他の晴眼者とは違ったものが見え、感じることができ、表現することが出来るのだと、改めて実感することが出来ました。
また、音楽に限らず、何かを極めようとする思いがあれば、どんなハンデも関係ないのだということを自覚させる内容だったと思います。
先日の講義で辻井伸行さんとマーカス・ロバーツさんの演奏する姿を拝見して、鳥肌が立ちました。
私も長年音楽に親しんできましたが、全盲の方の演奏を聴くのはこれが初めてでした。
それまで、「眼が見えないのにピアノが弾けるなんてすごい、眼が見える人よりもうまく弾けるなんてすごい」と思っていましたが、そんなことを考えていた自分を恥じました。
先生が仰っているように、晴眼者であることはむしろ「ピアノ演奏の障害ではないか」、私もそう思います。
「障害」とはいったいなんだろう、と考えさせられました。普通の人と違うことが「障害」なのでしょうか。「健常者」である私たちができないことを、障害を持った方々はたくさんすることができます。
障害者と健常者というくくりに疑問を感じました。
マーカス・ロバーツ・トリオと小澤征爾指揮のベルリン・フィルハーモニーとの協演を見て、鳥肌が立つほど、とても感動しました。小澤征爾がにこやかに、それでいて感嘆している表情を見せていたことが印象に残っています。
障害を持っていることは、ハンディを負うことだと私は思っていました。私が簡単にできることでも、障害を持っている方はできないことが確かにあると思います。しかし、今回の演奏には、晴眼者には真似できないであろうマーカス・ロバーツの演奏法がそこにはありました。感動がありました。
講義が終わってから、音感、触感などは、視覚の情報に頼りがちな晴眼者のほうがハンディを負っているのだと感じました。障害者には、上手くできないこともありますが、秀でていることもたくさんあると思います。その部分にもっと光をあてていくべきだと感じました。すてきなクリスマスプレゼントありがとうございました。
クリスマスに素敵なプレゼントありがとうございました!私はピアノ経験が長くクラシックが大好きです。
今回聴いた辻井さんもマーカス・ロバーツさんも目が見える人にとっても弾きこなすのは難しい大曲で本当に驚きました。それと同時に才能が羨ましくも思えました。
たとえ障害を持っていても、違う部分できっとほかの人より長けているのだなと感じました。マーカス・ロバーツの演奏はソロでどんどんと脱線していくのに最後はピタッと戻ってきてオケと合わさるという流れに、聴いていてわくわくしました。いつか絶対あの会場に行きたいと思います。
マーカス・ロバーツさんの演奏 感動しました。全盲となった事実 最初はきっとこの現実を突きつけられた時、本人も絶望したと思います。しかし、その逆境を乗り越えようとした意思・前向きな姿勢、これには本当に脱帽です。人並み外れた努力がなければこの様な卓越した素晴らしい演奏は出来ないと思います。マーカスさんの演奏やそれを可能としたずば抜けた前向きな考え、本当に尊敬します。
マーカス・ロバーツさんの演奏を聴いて本当に感動しました。演奏する時に笑顔で楽しみながら演奏していたのがとても印象的です。
障害者に対して今までは特別という考え方をしていました。しかし、講義を通して障害者は障害のない健全者となにも変わらないのだと思いました。むしろ、障害も持つ人しかできないことがあると思います。そのことを演奏を聴いて思いました。この演奏は彼らにしかできないものだと思います。
マーカス・ロバーツの演奏を授業で聴いたとき、これが本当に全盲の方の演奏なのだろうか、と疑う程素晴らしい演奏でした。スティービー・ワンダーの演奏も聴いたことがありましたが、彼が全盲である、ということをこの講義で知りました。
この演奏やブログを通して自分が今まで全盲者に対してどのような目を向けていたのか、ということを認識することができました。ピアノを例にとると、全盲者はピアノを弾くことはできない、と自分の中で決め付けていました。しかし、全くそのようなことはない、ということを感じることができました。自分が持っていた"偏見"を排除することができたことに大きな意味があったと思います。
昨年末、講義で視聴したマーカス・ロバーツさんと辻井伸行さんの演奏にはただ驚くばかりでした。
私はこれまで、障害のある人はどうしてもハンディを背負ってしまうものだと思っていました。しかし、ハンディがあるなど全く感じさせないほど素晴らしい演奏をする彼らを見て、今までの認識を改めることができました。
以前の授業でこの映像を見たとき、そのパフォーマンス、音楽に目を、耳を奪われた。
そもそも私はこうした映像を見聞きすることがあまりなかったが、とても楽しむことが出来た。
そうした中で、見る前に奏者は盲目の方であるという話を聞いていたが、暫く一体誰が盲目であるかがわからなかった。しかしその一方、わずかな違和感も覚えたが、その違和感の正体がわかっていなかった。その違和感は演奏を聴いた後の講義で明らかになった。それはこのブログにも書かれているように奏者の”体軸”である。
実際のピアノの演奏を見たりしても(パフォーマンスとして用いられることもあるが)、鍵盤に入れる力に応じて軸をぶらしている。
また、授業では他にも著名な方で障害を持った人も紹介していたが、そういった面を考慮に入れると、盲目の方と比べ、健常者といわれる私たちはどれほど「視力」というものを巧みに用いることが出来ているのだろうか。
もちろん”盲目であるからこそ”といった面もあるだろうが。
そういった意味では、普段意識せず当然のものとして享受している五感というものをしっかりと生かすという事も考えるべきなのであろうが、難しいことである。
自分への認識を少しでも変えるきっかけになればいいと考える。
障害のある人の演奏。これは、健常者の演奏とは異なるということが映像を通してはっきりと見ることができました。しかし、これは演奏法が異なるだけで音楽的な質では全く劣ることなく、とても素晴らしい演奏でした。
マーカス・ロバーツさんの特色がしっかりと出た個性的な演奏だったと感じました。全盲という障害を微塵に感じさせないマーカスさんの前向きな姿勢に感動です。
講義でこの映像を見て鳥肌が立ったくらい驚き感動しました。私はもともとピアノの演奏を聴くことが好きで、友達の演奏会などを聞きに行ったことがありますが、映像だけでここまで人を感動させることができるのは本当に音楽の持つ力はすごいと思います。さらに盲目の方が演奏しているということもより感動させる要素かなと思います。
辻井さんはピアノを弾いているときの表情が素晴らしく健常者には持っていないものを持っている気がしました。素晴らしい演奏が聴けてよかったです。
先生のクリスマスプレゼントとてもうれしかったです。辻井さんのことはよく知っていましたが、マーカス・ロバーツについては知りませんでした。生じゃない演奏であんなに感動したのは初めてでした。
目が見えなくなくなると自然と耳が発達するのは、よくわかります。自分も目をつぶって演奏すると周りの音に聞き入ることもでき、音が自然と自分の中に入り込んでくるのがわかります。
辻井さんたち全盲の音楽家にとっては、生活は困難だと思いますが、音楽という生きがいを見つけられて良かったと思います。聞き手を感動させる音楽よりすばらしい音楽はないと思います。
私は授業でこの映像を見ました。最初は映像だしどうでもいいかなと思っていたんですけど、映像を見ているうちにだんだん演奏の魅力に引き込まれていくのが自分でもわかりました。
小澤さんに関しては私も知っていて最近体調不良でお休みなさられていたというニュースを見てどういう人なのかと思っていたのですがこのような素晴らしい演奏の指揮者をしていてすごい人なんだなと思いました。このような普段聞かない音楽を聴くのもいいなと思いました。
講義でマーカスロバーツの演奏を聞きましたが、演奏を聴いた時思わず鳥肌が立ちました。最初、全盲なのにと思いましたが、全盲だからなのかなとも思いました。目が見えない分、音だけに神経が集中し、繊細な音楽を作り出せたのかと思いました。すべてにおいて健常なことが優れているとは限らなのだなと思いました。
以前の講義でこのマーカス・ロバーツさんの演奏を視聴させていただきました。ただただ感動することしかできず、言葉通り最後まで魅入って見ていました。
彼の体軸を動かさないという演奏スタイルは晴眼者の私からすればとても珍しいものに感じる上に力の入れ具合がとても難しいように思うので、自分でピアノを弾くときには考えもしなかったスタイルです。彼もきっと、全盲でなかったらあの演奏スタイルを確立していなかったんじゃないでしょうか?だから、もしそれが先生の書いている通り”プロの演奏家としては合理的な力の運びになるのかもしれない”のだとしたら、彼の視力がないことは障害であるどころか、彼がピアノの世界で輝くための才能の一つであると言えるのではないかと思いました。
最近の音楽は耳だけでなく目でも楽しめるものが多いですが、マーカス・ロバーツさんの奏でるピアノは純粋に耳で楽しむ音楽という音楽の原点を教えてくれた気がしました。
ブログ拝見しました。
講義でマーカス・ロバーツの演奏を聴き、先生と同じように初めはこの人が全盲だとは気づきませんでした。オーケストラを相手に巧みにピアノを弾くマーカス・ロバーツに感嘆しました。
先生が言うように全盲の人は音楽感覚が優れていると思います。
以前、NHKの「のど自慢」で盲学校に通っている全盲の少女が絢香の「三日月」を歌っていました。その演奏は音程がぶれることなく、感情がこめられたものでした。プロの歌手になれるのではないかと思うほど声質も素晴らしかったです。この少女は案の定、優勝しました。
私のイメージからすると、全盲であることはお店や公共施設の設備が十分に整っていないこともこともあるから、とても不自由だというイメージがあったし、こうなりたくはないと思っていました。
しかし、全盲であることによって聴覚が研ぎ澄まされるのだということがよくわかりました。
また、全盲であることを障害と捉えることに疑問を抱くようになりました。全盲といっても目が見えないだけで一人で生活できないわけではありません。社会があまりにもマジョリティー側の都合に合わせて、設備を作っているだけなのではないかと思いました。
全盲に限らず障害を障害と思わずに個性と思うことが大事なのではないかなとも思いました。
最後にマーカス・ロバーツさんの演奏を聴かせていただきありがとうございました。
講義でマーカス・ロバーツさんの演奏を聴きたいへん驚きました。初めは全盲であることに気づかず、ただ体の大きな黒人のピアニストが力強く繊細な演奏をしていることに感銘を受けていました。一つ疑問に思ったことは、他のピアニストと違い体がほとんど動かないことでした。
その後の講義を聞きマーカス・ロバートは全盲であり、そのために体をあまり動かさずに演奏していることを知りました。
全盲であるというハンデを抱えながら、むしろハンデを長所にして演奏していることにただすごいと思いました。
体をあまり動かさないで演奏するといことは、体が小さい人では迫力も半減してしまいます。また、全盲であるが故の特別な音感。
マーカス・ロバートさんの演奏は、自分の武器をわかった上での演奏であり、他者には絶対にまねできないものだと思いました。
12月の最後の講義でマーカス・ロバーツの演奏を観てとても感動しました。もう演奏に引き込まれるような、そんな魅力的なものを感じまた。ソロが続いた後のオーケストラとの合わせがすごく自然で、全盲であるということを一切感じさせなくて、本当に凄い!!って思いました。音楽には健常者だとか障害者ということは関係ないのだと思い、音楽の素晴らしさに気付かされました。
先生からのクリスマスプレゼントとしてマーカス・ロバーツの演奏を見せていただいた時の率直な感想としては、すごいものを見てしまったというものでした。これが本当に全盲のピアニストなのかと、自分の目を疑ってしまいました。特にトリオでの演奏などは、息もぴったりと合っていて本当に驚きました。
ただ、この演奏は確かに素晴らしく、マーカスが晴眼者であったとしても高度なものであるのは言うまでもないのですが、演奏を聴いた時の「凄い」という私自身の感想が果たして純粋に演奏を聴いてのものだったのか、それともマーカスが全盲であるということから来るものだったのか、ということについてとても考えさせられました。
先生の仰った通り、日本は身体に障害を持つ人に対する特別視が強いと思います。健常者とまったく同じような生活はできずとも、何もできないというわけではなく、むしろ障害を抱えていることを忘れさせてくれるような活躍を見せる人が大勢いるにもかかわらず、私たちは障害を持つ人に対し「こんな障害を抱えて可哀想に」などと考えてしまっているように感じます。
バリアフリーを掲げて施設の整備などを進め、障害を持つ人たちが生活する上で物理的に整った環境をつくっても、このような意識が変わっていかない限り本当の意味でのバリアフリーは実現できないのではないかと、講義を通じて感じました。
先日の講義で、辻井伸行さんとマーカス・ロバーツさんの演奏の映像を見て、鳥肌がたちました。ピアノを弾いているときの二人は、全盲であることを観ている人に意識させない雰囲気がありました。目が見えない分、健常者の何倍も神経を使い、大胆かつ繊細だと感じましたが、何よりも二人ともとても楽しそうにピアノを弾くので、私は二人の演奏に目が釘付けになりました。障がいを持つ人の独創的なセンスや潜在能力を引き出し、それが大いに評価されるような社会を目指していくべきではないかと思いました。
マーカス・ロバーツに関するブログと、授業で視聴した実際の映像を通して私が考えたことは、障害者と健常者の境はどこなのかということだ。
全盲であっても活躍する音楽家やピアニストはたくさん存在するが、その人たちにとっては全盲であることが「ふつう」なのであって本人たちに障害がある、という認識はないかもしれない。
私たち人間は、自分と異なった型や習慣、外見を持つ人に対して特異な視線を向けてしまいがちであるが、障害者というくくりは私たちの心の中にある境界線なのであって、実際に目に見えてわかる違いではないように思う。
教育現場でも、特別支援学校や障害者向けの学校は多く存在するが、そこに通う生徒がいかに普通学級に適応できるのか、新しい学校の在り方を考えていくことも、将来教育者になりたい者の立場として考える必要があるように思う。
現在、全盲であることはハンデとして考えられることが多いです。しかし、全盲であり目に頼ることができないからこそ他の感覚が研ぎ澄まされていくのだと思います。講義内ではじめてマーカス・ロバーツさんの演奏を聞かせていただきましたが、体が全然ぶれない今までに見たことのない演奏法で驚きました。ただ、彼とピアノが作り出す音色はとてもきれいで彼の中では完成した演奏法であるのだなと感じました。全盲であることで目の前の人や物に影響されないからこそ独自の世界観を持った演奏が発達するのだと思います。そして独自の世界観が確立している演奏であるからこそ多くの人を魅了しているのだと思います。
この記事や講義を聞いて、私は障害とは個性であると思った。マーカス・ロバーツさんや辻井伸行さんの場合は、全盲であることで視覚以外の他の感覚が研ぎ澄まされ、すばらしいピアノ演奏ができる。おそらく他の障害をもった人にもそのようなことはあるだろう。しかし、そのような個性を発揮する場がこの日本にどれだけあるだろうか。私は少ないと思う。その個性を発揮できる場を増やしていくことがこれからの課題だと思う。
障害があるからといって全ての能力において劣弱性があるとは思えません。講義中に紹介された辻井伸行氏やマーカスロバーツ氏はもちろん、他にも素晴らしい能力を持っている方はいらっしゃいます。その一方で、障害者にはどこかで劣弱性を持っていることも事実です。例えば、生まれつき全盲の人には絵を描くことはおそらくできません。このように能力によって得手不得手があると考えると、障害を持つということは健常者間における個性とそう大差のないことなのではないかと思えます。
現在の日本において障害を持つことを個性だと考えきれないとすれば、そこにはいくつかの原因が考えられます。その内の一つに日常生活を送る上で誰かの補助を必要とすることがあるのではないでしょうか。偏見をなくすためには障害者であっても一人で生活できるような社会に変えていくことが必要だと私は考えます。
辻井伸行さんとマーカスロバーツの講義を聴いて、後日再びマーカスロバーツの演奏を聴いてしまいました。私はピアノの良し悪しはほとんど理解できませんが、辻井さんとマーカスロバーツが演奏しているときに、周りで見ている人たちが微笑み、一緒になって音楽を楽しんでいるのを見て、2人の演奏が素晴らしいものであることがよくわかりました。音楽に限らず、健常者、障がい者のお互いが楽しめる、そのような社会づくりを私たちはしていかなければならないと強く感じました。
私は以前、マーカス・ロバーツさんの演奏をテレビで見たことがありますが、その時の彼の障害を持っているとは信じられない美しい演奏に感動したことを覚えています。
先日の授業であらためて彼の演奏している姿を見ていて、彼はあまり体を動かさず演奏しているということに気づきました。健常者では行わないであろうあのスタイルにより、逆に美しい音色を奏でられるのだと思います。
彼を見ることで障害を持っている人も、様々なことで健常者を上回ることができるということがよくわかります。
この記事や先日の講義を聞いて、私は障害とは個性であると思った。マーカス・ロバーツさんや辻井伸行さんの場合は、全盲であることで視覚以外の他の感覚が研ぎ澄まされ、すばらしいピアノ演奏ができる。おそらく他の障害をもった人にもそのようなことはあるだろう。しかし、そのような個性を発揮する場がこの日本にどれだけあるだろうか。私は少ないと思う。その個性を発揮できる場を増やしていくことがこれからの課題だと思う。
私は、このブログと先日の講義で、はじめてマーカス・ロバーツさんというピアニストを知った。講義でマーカス・ロバーツさんの演奏を聴いたときは、驚くと同時に、何か演奏に引き込まれるようなものを感じた。
マーカス・ロバーツさん以外にも、授業で映像を視聴した辻井伸行さん、日本でも広く知られているスティービー・ワンダーさんなど、全盲のミュージシャンは数多くいる。目が見えないことがそれを促す要因になったのかもしれないにしろ、彼らに人並み以上の音楽的才能があったのは紛れもない事実である。
しかし残念なことに、現代の社会において、障害のある方の才能は発見されにくいのは確かである。講義中も先生がおっしゃったことなのだが、現代社会において、障害者の方の才能、または才能とまで行かなくても、障害者の方ができることまでを過小評価してしまう風潮が存在する。
現在の社会は、ある意味、健常者であることを前提に造られた社会である。このような社会の中では、目が見えない等の障害は、文字どおり「障害」となってしまう。「健常者にできて、障害者にできないこと」というのも当然発生してしまう。
この「何かができない」という事実に引っ張られるようにして、障害者の方の才能、才能やできることの過小評価が発生しているのは、大変残念なことである。
「障害者の方ができないこと」の部分をカバーする仕組みをつくり、障害者の方が存分に力を発揮できるような社会にしていくことが大事だと思った。
障害を持った人たちは、自分たちとは異なる素晴らしい感性を持っているのだと自分は思います。例えば、全盲の人たちは何も見ることはできませんが、音を聞くことはできる。そして、音を使って自分の周囲を理解し、状況把握をすることの一部に利用していると思うのです。そのような人たちが自分たち健常者よりも音に関して優れた感性を持つことはありうると思います。この時、全盲の人は音に関して、決して障害者ではないはずです。障害者、健常者と線引きすることない世界になることを望みます。
私は、小学校から高校まで地域の合唱団に入っていました。短い間でしたが、小学生の頃、2つ年上の視覚障害のある人(多分全盲だったと思います)と一緒にその団で歌ったことがあります。透き通ったきれいな歌声で、彼女の歌っているのを聴くたびに感動して、憧れたのを覚えています。私などはどうあがいても敵わないと感じさせる、天性の才能を持っていたと思います。いつも話しかけたかったのに、どう接していいのかわからなくて、結局一度も話せないまま、彼女は受験のため団を辞めてしまいました。今でも、話しかけてみればよかったと後悔しています。
そういった経験があったので、音楽に関しては、視覚障害があることにはハンデはないと私は思っていました。よくテレビなどで、視覚障害のある方の演奏を取り上げて、「視覚障害があるのにこんなに素晴らしい演奏ができるなんて」というような扱いをしているのを見て、ずっと違和感を感じてきました。今回の記事を読んで、視覚障害があることにはハンデはないことを再認識しました。
全盲のピアニストの辻井伸行さんがコンクールで賞をとり、テレビで放映された演奏を見たとき持った感想は「この人、目が見えてないのに鍵盤が叩けるなんてすごい!」でした。障害を持つ人が健常者が当たり前にできること(あそこまでの演奏は健常者が誰でも当たり前にできるというわけではありませんが)をするとすごいと感じてしまうのはなぜでしょうか。やはり無意識のうちに差別の目で見てしまっているからなのだと思います。
このブログの最後に「晴眼者であることはむしろ「ピアノ演奏の障害ではないか」とさえ思えてきます」とありました。このような感じ方ができる人が増えたら素敵だなと思いました。
ブログと授業を通してやはり体に障害を抱えている人は私たちとは異なった素晴らしい感性を持っていることを改めて実感した。よく一般の人が目が見えないのに、耳が聞こえないのに、演奏できてすごい、絵を描けてすごいと言うが、そう言ってしまうのもよく分かる。五体満足に生まれてきた私たちにとって視覚や聴覚が無い日常は考えることは非常に困難であるからである。
しかしよく考えると障害者にとっては視覚が無い、聴覚がないことは当たり前の状況であり、日常なのである。この記事を見て健常者と障害者も才能あるものが十分に発揮できる場は等しく存在すべきであると思う。
私もマーカス・ロバーツの演奏には大変感動しました。そして、単純ながらも「目が見えないのに凄いなぁ」と感じてしまいました。この記事を読んで、全盲の方がピアノを弾くことの難易度がさほど高くないことはわかりました。
しかし、何も知らない人が一瞬ふっとその弾いている場面をみたら、凄いなぁと感じてしまうのではないかと思います。確かに、この感じ方は知識に乏しく、またやや差別的な思想を含んでいるようにも思われます。
しかし一方で、誰もがもち得る当たり前の感情でもあるのではないかと思いました。それは多分、障がい者の方へだけではなく、健常者含め、誰にでも「○○なのに凄い」という感情でみることがあるからではないでしょうか。
例えば、私の場合。私は運動が大の苦手です。小学校のマラソン大会ではいつもビリ、鉄棒の前回りが怖くてできない、クロールができないので泳げてもバタ足で7メートルくらい・・・と本当に自分で振り返ってもなかなかの運動音痴ぶりです。
しかし、昔から体だけは柔らかかったのでした。これは特別なトレーニングをしたわけでなく、生まれもってのものです。そのおかげで、マット運動においては、ブリッジやY字バランスなどが出来ていました。おそらく、「運動が苦手なのに凄いなぁ」「柔らかさを使える種目は得意なのだなぁ」と何人かの友人は感じていたと思います。
つまり、ここから何が言いたいのかというと、誰もがもつ個性と障がいは同じなのではないかということです。「歌がうまい」「恥ずかしがり屋」・・・他にもたくさんの個性があります。そして、個性は誰しもが持つものです。その個性と比べたとき、他にもできることがあったり、もっとできることがあるならば、それに感動し、称えるのは当たり前のことなのではないかと思うのです。
ただ問題は「障がい=個性」と考えず、「特別に持っている障がいだから」と思っている人が多い、むしろ一般的な意見となっているところだと思います。だから「○○なのに凄い」という表現も、どこか差別的な意味合いを含んでいるように感じてしまうのではないでしょうか。
私は、大学の講義でハンディキャップスポーツを受講していました。その中で、全盲の方が行う卓球や、車いすバスケットボールを体験しました。これらのスポーツは、障がいを持った人のため、でなく、障がいを持った人を含める誰もができるように、楽しめるように作られているというお話を聞きました。この考えが念頭にあるのも、障がいをもつことが特別ではなく、全ての人が同じであり、その中で障がいという個性を持つ人がいる、ことをあらわしたいからではないでしょうか。
「○○なのに凄い」という言葉が差別的でないニュアンスで伝わるほどに多くの人が障がいの見方を変え、個性としていくことで、誰もがより過ごしやすい社会につながっていくのではないかと思います。
マーカス・ロバーツ、スティービー・ワンダー、辻井信行、…。「全盲」だから「凄い」のでしょうか。彼らの演奏は音楽家として純粋に心に響くものがあり、それが聴衆を虜にしていますよね。
マーカス・ローバーツの演奏に関しては「体軸が左右にぶれない」ことから「全盲では?」と思い立ったとのことですが、視覚のない彼の演奏を視覚で捉えてしまう私たち健常者を少し虚しくも感じます。こういった芸術の面では健常者、障害者といった枠から外れてみたいものです。
先生の講義で、マーカス・ロバーツの演奏を聴いたときはとても聴き入ってしまいました。
私たちは「盲目」であることにはハンディがあるのだろうと感じる。
それは、実生活において、視覚による情報量が他のどの五感よりも多いからである。
では、視覚の情報が遮断された場合、他の五感はどのように働くのか。
以前、テレビで紹介されていたアメリカに住む盲目の少年は、全く目が見えているかのように外で道を歩いていた。
その子は、舌を「チッチッ」と鳴らしながら歩き、その音の反射音を耳と肌で感じて、障害物の大きさと距離を測ることができるのである。
従って、盲目の場合には、聴覚や触覚により得られる情報量の絶対量が多くなっていると考えられる。
マーカス・ロバーツもまた、私たちが感じないほどの微細な音の振動を耳と肌で感じることができ、素晴らしい演奏を奏でることができるのであろう。
全盲のピアニストが活躍している様子を実際に眼にすることができたのは貴重な経験でした。先生のおっしゃったマーカスロバーツの体軸のぶれない演奏法には、彼の全盲という障害はハンデではなく個性としてあって、この演奏法はその個性の中で生み出された彼独特のものなのでしょうね。また、指揮者との息も合わせられていて、指揮を空気で、肌で感じるという彼の類ない能力に正直驚かされてしまいました。
障害の有無に関わらず、彼のようにすばらしい才能を持った方はたくさんいるということを認識させられました。これからも障害を持った方々が彼のように活躍していける社会になるよう、私達一人ひとりが障害について考え、意識を変えていく必要があると感じました。
講義ではすばらしい演奏を聴けてよかったです。自分は音楽について何かやっているわけではありませんが単純に好きなので楽しめました。
高校の家庭科の授業で全盲の擬似体験をやったことがあります。付き人はいましたが、壁に顔からぶつかってしまいました。普段から見ていた場所でさえそのようになってしまうのですから見えないことに恐怖をおぼえました。
そんな自分でしたので、今回の講義やTVを通してみてきた、ハンディをもっていていながらすばらしい活躍をしている方々を「すごいな」と思ってしまうのはおかしなことでしょうか。
人間だれしもどこかしら違う部分があります。自分やmajorityを基準にみて、その分野で不利だと思われているものをもちながら活躍している人たちを特別すごいと思ってしまうのは間違っていることなのでしょうか。
先日の講義での辻井信行、マーカス・ロバーツの演奏を見て、とても自然で楽しそうに音楽に触れている彼らがとても印象的でした。思わず盲人であることを忘れてしまう素晴らしい演奏でした。
実は自分も去年、似たような体験をしています。去年の始めから手話の勉強をしており、ダンスを経験していたこともあって、少しでも手話に親しむべく違った角度から手話を捉えるために「D'LIVE(ドライブ)」と言う手話ライブイベントに行くことになりました。そこでは聴覚に障害を持った方々がダンスを踊りパフォーマンスをするというものでした。そのイベントに行くまでは正直、聴覚に障害を持っていては中途半端なパフォーマンスで終わってしまうのではないかと疑ってしまっていたのですが、当日を迎えるとそのことを恥ずかしく思うほどのダンスが披露されていきました。特に表現力に関しては今まで見てきたどのダンサーより素晴らしく感じました。手話による歌詞の表現、表情や身体の動きによる感情の表現など、今まで自分がこだわってきた音に対するフィーリングが根本から打ち崩されていくような衝撃を受けました。
この体験と講義でのビデオを見て、自分はそれぞれが音楽に対して全く違う捉え方をしているように感じました。盲人であれば晴眼者と比べ、より深い音を感じることができ、また聾者は健聴者とは全く異なる、振動や歌詞といった聴覚に頼らない部分で音を感じているように思いました。それはおそらく日常生活でも同じように言えるのではないかと自分は思っています。
あらゆるものの捉え方の違いを意識することで初めて障害という概念を無くすことができるのではないかと自分は考えています。
授業でのビデオ鑑賞、また講義を通して全盲の人やその他の障害を持つ人への考えが変わりました。自分は障害のある人がすばらしいパフォーマンスが発揮できることに障害を持っているのにここまで出来るとはすごいな、と考えていましたが、講義を通して障害を持っているからこそ出来ること、また障害のあるなしに関係なしにすばらしいものを作り出すことは出来ると考えるようになりました。
私は正直このような音楽には疎いので、音楽界に全盲のピアニストの方いるとは知りませんでしたが、この人の演奏を聴いて思ったことは素晴らしい演奏でもっと聞きたいということでした。機会があったらこのアルバムをどこかで借りたいと思います。しかしこんなにもすごい演奏だからからなのか、どうしても「全盲なのにすごい…」と最初に感じてしまいました。全盲とは関係なしで彼の努力の力でこれほどの演奏の技術を身に付けたのに。これからは障害を持っているということからその人を評価するのではなく、一人の人間としての能力を評価できるようになりたいと思います。
先日の講義で辻井さんのピアノ演奏、マーカス・ロバーツ・トリオと小澤さんの指揮の演奏を聴きました。私は、音楽にあまり詳しくはないのですが、ただただ素晴らしいと感じ、演奏に聴き入ってしまいました。目の見えない方たちが演奏をしているとは信じられないくらい鮮やかでした。どうして音楽を始め、楽譜等見えないのにどうやってあんなに長い曲を引くことが出来るんだろう、、、疑問はたくさんありました。きっと彼らは自分の障がいを障がいと感じず当たり前のことと感じているのだと思いました。宗澤先生も講義中にフクロウの320度回る首を例にしておっしゃっていましたが、私たち障がいのない者でもその範囲でできることを行います。それと同じことで、障がいはその人にとって至って普通なのでしょう。上手く付き合っている彼らを尊敬するとともに、障がい者含め、私たち人間みんなが趣味、好きなこと、仕事等、社会に積極的に参加できるように支援していけたら素晴らしい。
現在ジャズピアノを学んでいるため、この映像は大変興味がありました。右手が奏でるメロディーの巧みさもさることながら、ジャズピアノでは何よりも左手のバッキング、いわゆる「合いの手」の位置の正確さが求められます。また、バッキングは表拍ではなく裏拍にいれるのでリズム感が難しいのですが、彼はそれを完璧にこなしつつ、何より全盲でありながら、コードを見ずに流れるメロディーにあわせてジャジーな和音を弾いているのを見て、私ももっと練習せねばという思いに駆られました。
全盲の方の演奏をじっくり聞くのは今回が初めてでした。彼らの演奏はとても素晴らしく聞き入ってしまいました。
私はこの演奏を聞きながら障がいも個性なんだなあと感じていました。
彼らは全盲であるがゆえに、とても敏感な聴力をもっています。それは才能となってこのような素晴らしい演奏を聞かせてくれます。障がいがハンデになるのではなく、そのひとの個性になる。とても素敵なことだと思います。
障がいがあるからと、特別視するのでなく、どの人とも同じように見ることができるといいと思います。
私は小さい頃から音楽をやっています。小学生の頃テレビ番組でスティービーワンダーをみたとき、とても衝撃を受けたのを覚えています。別に目が見えないからピアノが弾けないとも特別思ったことはなかったのですが、すごいなと。それは音楽性ではなく目が見えないのに普通の人以上にピアノを巧みに弾いていたからです。やはり目が見えないという話を聞いてしまうとそのような視点でしか見れなくなっていたと思います。大学からjazzを始めて、それからは目の見えないミュージシャンは馴染んできました。昨年の東京jazzにも名前を忘れてしまいましたが全盲の黒人の方が出演されていて、そのときは単純にその人のやっている演奏をすごいなと聴けました。
私はよく「もし目が 見えなくなったらどうしよう」「もし耳が聴こえなくなったらどうしよう」と小さい頃から考えるくせがありました。そう考えると自分の五感の大切さ、また五体満足であることにとても感謝するのです。今自分がしている生活にはどれも必要不可欠です。ピアノを弾くにしても、サックスを吹くにしても視覚も聴覚も大切で、その二つの欠けている音楽は全く想像できません。
誰しも何か他の人に比べて自分の身体で不満な点があると思います。例えば私は周りの人と比べて「もっと脚が長かったらよかったな」と思うことがあります。でも今の体型で生きていくしかありません。だから私は少しでも脚の短さがカバーされるような洋服を着ます。このように自分の欠点を補いながら自分のスタイルを確立してい きます。
これと同じことなんだなというのを先生の記事を読み感じました。マーカスロバーツは最初目が見えないから体軸のぶれない演奏をしていた。それは彼のスタイルとして確立されていった。辻井伸行さんは楽譜が読めないためお手本の演奏を聴いて覚えて演奏をする。何か欠けているとしてもそれを補って人生を送るのは私達が無意識に行なっていることと同じです。だから特別なこと、特別な人と感じずに、一人の人として認めることは当たり前だと思います。
私は前回の講義で全盲の方の音楽の演奏を初めてちゃんと聴いた。今までは、全盲の人の演奏は大してすごくないだろうと思っていた。しかし、マーカス・ロバーツさんの演奏は健常者の人と比べても圧倒的であり、かつ独特なパフォーマンスであり、私は本当に驚いたとともに感動した。彼の体軸のぶれない演奏法はとても合理的である。しかしそれは鍵盤の距離感覚をマスターすることや、曲を体に覚えさせるなどの多くの苦労があって確立されたものである。また、彼の持ち味である即興のジャズ演奏の時も周りととても息がぴったりである。周りとの「合わせ」も長年の苦労によってできるようになったのではないかと私は思う。
マーカスロバーツさんは自身のパワーとテクニックで、もはや全盲というハンディキャッップを感じさせない領域に達している。だから彼の演奏を全盲の方の演奏という括りで観るではなく、1人の人間としての演奏として観るべきなのではないかと思った。私はそれが障害を持つ人に対して接するときの大切さでもあると思った。
全盲の方が立派な舞台に立って評価を受けていることを嬉しく思う反面、メディアは物珍しさを一番の目当てにしているのではないかと不安な印象も受けました。珍しいということは、障がいを持つ方が特性を活かして働き、暮らす機会が、不足しているということでしょう。珍しさに飛びつくのではなく、技術や音楽性の豊かさを認める懐の深さが必要であり、障がいを持つ方が私たちと当然のように同じ場で生活できる環境が増えるべきだと考えさせられました。
私は前回の講義で初めてマーカスロバーツさんの演奏を鑑賞しました。私自身、ピアノなどの楽器をやっておらず音楽の知識は乏しく、記事に記載されている演奏法や体軸についてなどはよく分かりませんが、彼の演奏は何か引き込まれるような感覚がありました。今まで様々なピアノ演奏を聴いてきましたが、その中でもトップレベルであり、盲目だと言われなかったら盲目だと分からないくらい障害を感じませんでした。彼はその障害を努力でカバーし健常者と変わらない、むしろそれ以上のパフォーマンスを可能にしているのだと思い尊敬しました。
以前講義でいただいたプリントに書かれていた“障害のある人は、能力の上で劣弱性を免れないのか”“「障害があるのに、○○ができるなんてすごい」という発想に根拠はあるのか”という言葉に納得しました。音楽家というのは特にそういえるのではないかと思います。障害を持っていようがいまいが、音楽の世界では一人の音楽家として同じように評価される。評価されるのはその人の音楽が素晴らしいからであって障害があるから、とハンデをつけて評価しているわけではありません。今回の記事・講義でのDVD鑑賞を通して障害をもつ音楽家の方たちに対する考えが変わりました。
何をするにもたいてい「目が見えない」ということはハンディキャップになってしまうはずだ。しかしそれを逆に「武器」にしてしまったマーカスは本当に凄い。私も吹奏楽部で楽器を演奏しているが、目が見えなければ楽譜を読めないし、指揮者やほかの演奏者とアイコンタクトをとることもできなくなる。それは私にとって考えられないことだ。しかしマークスは「見えない」ことによって他の感覚が研ぎ澄まされているのであろうか。動画サイトで彼の演奏を聴いたが、あまりの美しさに感銘を受けた。澄みきった音をしていた。ハンディは時に強みにもなりうる、ということを学んだ。
私もそうですが一般的に、なにか障害を持っている人が特に障害を持っていない人と同じようなことができたり、さらにはその能力が私たちを上回ったりしていると、ついつい障害があるのにすごい!と思ってしまっています。私たちからすると目が見えないということはピアノを演奏するうえで大きなハンデなのではないかと感じてしまいます。しかし、実際は目が見えないことでほかの感覚が研ぎ澄まされ私たち以上の能力が発揮できるのだと思います。
先生の講義をうけたり、このブログを見るまで私は障害がある人は、なにをするにも不自由があるのではないかと感じていました。しかし、障害のある人はとても私にはできないような才能を発揮するチャンスを持っている人たちなんだなということを感じました。
講義で演奏しているDVDを鑑賞して、盲目の方がピアノを演奏していることなど考える余地もなく、聴き入っていました。はじめ、マーカスロバーツさんが盲目であり、盲目の方がこれほど素晴らしいパフォーマンスをすることができているのに目を疑いました。しかしながら、健常者と盲目の方との間に演奏の差などないということに気がつきました。盲目の方はもちろん、障害を持つ方への“障害を持つのに素晴らしい”という偏見はなくなりました。
僕はテレビ番組で初めて辻井さんのことを知り、障害者でありながら素晴らしい音楽を奏でる人が少なくないということも知り、なるほどと思いました。感覚をひとつ失っているということは他の感覚でそれを補っていくことが日常的に必要になってくるわけであり、逆にいえばそうして普段から感覚を磨くことができているからこの人達は素晴らしい音楽を奏でることができる。人間はここまでできるのだということを知り、感動しました。障害があるということはハンデばかりではないという認識をもって物事を考えていくことが必要なのだと改めて感じました。
先週の授業で彼が演奏している映像を見たが、衝撃的なものだった。『ピアノ』というもののかたちを知らない(はずな)のに、あの素晴らしい演奏ができるということは、イメージする力、想像力が豊かであり、健常者にはわかりえない別の感覚が存在しているように思えた。障がいを持つ人がアーティストとして活躍していることは、自分たち健常者の意識を変えることにもなるし、障がいを持っている人にも勇気を与えることになる。自分はそのような人々についてもっと知りたいし、世間の人々も知らなくてはならないことである。
世界的な活躍をしているピアニストの辻井さんがテレビなどで紹介されるときに、必要以上に「全盲」とか「障害があるのに」ということを強調して報道されているような気がします。自閉症の子どもが天才的な絵画を完成させただとか、日本のマスコミの報道の仕方に疑問を感じています。
私自身、辻井さんの音楽に惚れこんでいますし、ファンでもありますが、彼が健常者であったらこんなに知名度が急激に上がっただろうかと正直思ってしまいます。
障害の有無に関わらず、みんながみんなを平等に扱い、扱われ、平和に暮らせる世の中になると良いなと思います。
この講義は音楽をしているものとして非常に有意義でした。点字楽譜が存在していることには驚かされました。私は楽譜は目だけでとらえるものだという考えがあったからです。講義の映像を見て、障害を持っているからできることの制限は多すぎるという考えはなくなりました。ただ、今の社会には障害をもつ人たちの活躍できる場が少なすぎます。社会には様々な人がいて良いにもかかわらず、障害者だからと言って社会的に弱い立場にあるのはあってはならないことです。このことを改めて確認できたことは良い経験となりました。
今でもマーカス・ロバーツのラプソディー・イン・ブルーの感動が体の中に残っています。彼の演奏は、私の未知の部分のところに忍び込んで、体を震わせ、しびれるような鳥肌を何度もたたせました。それをまとめる小澤征爾の技量にも感服です。私は、この演奏を聴いてそうした素晴らしい感動をもらいました。しかしその感動は、彼の障がいが果たして影響しているのでしょうか? おそらく、その演奏をできるようになった経緯に存在する彼の努力には、その盲目であることが大いに影響しているでしょう。その努力の困難さは、目が見える私たちには全く分からないことです。しかし一方で、目が見えたとして、多くのピアニストは簡単な努力で演奏をしているわけではありません。果たして、その両者に努力の高低はあるのでしょうか? その疑問は、愚問でしょう。考えるに、たとえ目が見えなくとも見えても、その人の努力はそれぞれに色彩が違います。最初の疑問に戻りますが、彼の盲目は彼自身のものです。したがって、演奏にそのことが大きく影響していることは事実です。しかしながら、それを見る私たちが、盲目の、と銘打って彼を差別的に見ることは違うように思います。舞台に上がったピアニストはすべてピアニストであり、千差万別の感動があるのだと感じます。この演奏の感動は、盲目のピアニストの感動ではなく、マーカス・ロバーツの感動である、ということです。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。