たこ焼きとノーマライゼーション
昔ながらの大阪のたこ焼きになじんできた私には、昨今のたこ焼きにはいささか不満が募ります。
まず、表面をカリッと焼きあげるためなのでしょうか、たこ焼きが焼き上がる直前の段階に、食用油をまぶすように垂らしかけ、まるで「たこ焼きのから揚げ」のように仕上げるものがありますね。私の知るたこ焼きは、こんな油まみれのものではありません。
次に、「たこ焼き」というのに「タコ」を入れず、お好みに応じてチーズや餅、チョコレートなどを入れ込んだ、たこ焼きのオールド・ファンからすれば邪道であり、「たこ焼きの名を汚すふとどき者」と叫びたくなる代物があります。まあ、各人の好みの問題ですから、しつこく非難するつもりはありませんが、これは「たこ焼きもどき」というべきものです。
大阪では、たこ焼きが一つの立派な献立として夕飯に登場しますから、油っぽかったり、チョコレートが入っているのは、もはや耐えがたい代物です。それは、おやつになりこそすれ、夕飯の献立となる資格はありません。こうして、今のたこ焼きがときとして私の想像をはるかに超える食べ物になっている点に、個人的な不満がくすぶります。
前者の「たこ焼きのから揚げ」風は、舟(今は、ほとんど透明のプラスチック容器ですが…)に盛られ、ソースを塗られても、一つひとつがカリッとしたまま完全な球状をなし、舟の中でさえ、あたかも自己の存在をそれぞれに主張し続けているようにみえます。私の感覚では、これって「本来のたこ焼き」とは違うのですね。そもそもの存在様式が違います。
後者の「たこ焼きもどき」については、私は機会あるたびに、たこ焼き屋店主へのヒアリングを執拗に実施してきました。それによれば、このような「たこ焼きもどき」の商品化は、原料であるタコの高騰に起因するものだという点で一致しています。
あるたこ焼き屋の店主からヒアリングした内容は、大略次のようです。
「とにかくタコが高い。国産でもアフリカ産でも、最近出てきた北海道のミズダコでも、どれも値段が高い。100gあたりの値段は、中級の国産牛肉なみ。ところが、たこ焼きは単価を上げて売れるような食べ物じゃなく、あくまでも庶民的な食べ物だから、値段はそうそう上げることはできない」
「そこで、値の高いタコに換えて安い具材を用いた『たこ焼きもどき』の商品化を追求した。はじめは、万が一売れれば『めっけもの』程度の気持ちで始めた。長年タコを使ってきたのだから、僕自身もチョコレートなんかは正直気持ち悪いと思ってたよ」
「ところが、意外だったんだね。若い人を中心に結構売れるんだよ、これが。おそらく、たこ焼きというより『丸いクレープ』みたいな感じなんじゃないかな。商売としては、タコ以外の具材を選んでもらうと利幅が大きくなって助かるね」
うーん、時代が変わればかくもたこ焼きは変わるのでしょうか。では、私の主張したいたこ焼きのオーソドキシーとは何か?
溶き粉が鉄板に注がれ、タコ、刻み紅生姜に天かす(「揚げ玉」のこと)を入れて、くるっとひっくり返す。鉄板の上でコロコロとまわしながら、一つひとつ球状に仕上げていく。油をまぶすことなく、溶き粉と火の塩梅を工夫するだけで、表面はカリッ、中身はしっとりと仕上げる。
それぞれが一人前の丸いたこ焼きとして出来上がったものを、舟に盛る。このとき、舟の中はまるでピンポン球を並べたよう。そうして次に、刷毛でソースをつける。
この瞬間、ピンポン玉のように並んでいたたこ焼きたちは、梅干のように身を縮め、互いに身を寄せ合うようにしっとりと舟の中に納まります。
それぞれが確かなものとして存在し、身を寄せ合って舟の中でともに生きている。ここには(前回のブログにあるとおり)、働く者の生きる魂が込められている。たこ焼きのあり様は、ノーマライゼーションの思想に限りなく近いと思いませんか?
コメント
ブログ拝見させていただきました。
最近いろいろな種類のたこ焼きが売られているのを私もよく見ます。私も、昔はたこ焼きが大好きで、毎日といっていいほど食べていたほどです。
ところが最近では、たこが入ってないたこ焼きが売られている姿のほうが、たこが入っているたこ焼きよりも見る機会が多いような気がします。確かに、たこ焼きが大好きなものとしては、たこが入っていないたこ焼きは、たこ焼きではなく「ただの焼き」だと思います。
ですが最近では、たこ焼きを作る方がプライドや魂を持ってそれを作るのであれば、そういうたこ焼きがあってもいいのかなと思うようになってきました。
私もいろんな場所でたこ焼きを作った経験があります。たこ焼きを作るのは確かに難しく、おいしいものを作るまでには大変な努力が必要だと思います。作業所などでいろいろなものを作るにしても、それに対して生きる魂が込められているのであればそれはとてもすばらしいことであると思います。私もこういうことにおいて、たこ焼きの有様はノーマライゼーションの考え方に限りなく近いものがあると感じます。
初めて投稿させていただきます。
最近のたこ焼きは、タコを使用していないものがあるということを初めて知りました。食べてみたいという気もしますが、普通のたこ焼きしか食べたことも見たこともない私としては、ちょっと挑戦するのが怖いです。
ブログを拝見させていただいて、たこ焼きのあり様がノーマライゼーションの思想に限りなく近いという一文に大変驚きを覚えました。今までそういう風に考えたこともありませんでしたし、そのような考え方や視点を持つことが出来るという概念が、私の中には全くありませんでした。
今までの自分は、ひどく狭い世界しか見ていないように感じて、視野を広くすることが大切であり、すべての事柄が繋がっていることを再度教えられた気がしました。
ブログを拝見させていただきました。たしかにタコの入っていないたこ焼きはもう「たこ焼き」ではなく、「衣で何かを包んだもの」ですよね。もうそれは本来の姿とはかけ離れています。
ただ、私は最後の「ノーマライゼーション」という言葉を見て、たこ焼きとは別のことを思い浮かべました。それは、昨今のKYを嫌う風潮です。
これは私の個人的な解釈なのですが、ノーマライゼーションとは、『みんな違ってみんないい』という言葉に表されていると思っています。障害を持った人も持たない人もそれぞれ生まれ持った何かがあり、それを互いに尊重しあいながら生活すること。それがノーマライゼーションだと思います。
しかし、「空気を読む」とそれがおかしな方向に流れてしまいます。周りにばかり気を使いすぎ、本来の自分を表現できません。私は障害者だから(社会的弱者だから)健常者(社会的強者)に邪魔にならないようにしなければ。健常者にしろ、周りより自分が弱かったり、違ったりすると相手に合わせようとします。それでいいのでしょうか。
そんなの関係ありませんよね。障害を持っているからなんですか?違う面で誇れるものが必ずあるはずです。
またこのような考えもあると思います。世に生きる人にはそれぞれ役割がある。力を持つ人持たない人、器用なひと不器用な人、口が達者な人口下手な人、そして健常者と障害者。みんながみんな完璧なら世界は不安定なものになるでしょう。だから「みんな違ってみんないい」のです。大切なことは、それを認められるか、なのではないかと思いました。
初めてブログを拝見させていただきました。
確かに最近では、中身の具がタコではなく様々な物が使われたり、焼きあがる前に油を流し入れ、揚げたようなたこ焼きで、昔のたこ焼きと比べ、たこ焼きもどきみたいな食べ物となっていると、私も思いました。
しかし私自身としては、今のたこ焼きがこのような様変わりをしても、大好物なので好んで食べています。
たとえどんなたこ焼きであっても、作る人がたこ焼き一つ一つに精魂込めて作り、商売しているのには変わりなく、時代の変化や若者たちに合わせ、たこ焼きも日々進化していくものだと思います。
それが、宗澤さんの言われているノーマライゼーションにつながっていくのではないかと思います。たこ焼きもすべて異なり一つ一つが個性を持っているものだと思います。
私も今の世界に大事なのは、健常者と障害者が分け隔てなく生きていこうというノーマライゼーションの考えが国民全員に広がっていくことだと思います。
ブログ拝見させていただきました。
たこ焼きに関しては、私もたこ焼きが大好きなので、やはりたこあってこそのたこ焼きだと思います。だから、たこの入ってないたこ焼きには抵抗があります。でも、そうでないものを求めるお客さんもいると思うし、たこ焼き屋さんの事情もあるのでそれはそれで良いと思います。
むしろ、それぞれが自分を主張し個性を出すことは大事だと思います。そう言ったところからノーマライゼーションにつながっていくと思います。
私も宗澤さんの言うように、たこ焼きの有り様はノーマライゼーションの思想に近いものがあると感じます。
障害者福祉の面でも視野を広げ、多面的な見方をすることでいろんな人が同じ社会で同じような生活ができるようになるのではないかと思います。
私は普段、たこ焼きをあまり食べないのですが、この記事を見て、本来のたこ焼きぶって、多く店がたこ焼きを販売していくことは恐ろしいことだと思いました。本場のたこ焼きの美味しさがかつて認められたからこそ、ここまで広がったのだろうから、その美味しさを知らぬまま、間違ったたこ焼きの味を、人々が「たこ焼き」だ思いこむ事態はあまりにも悲しく思えるのです。しかし、このことは他の食べ物にも言えることではないでしょうか。
時代によって食が変わっていくのは仕方ないし、店のオリジナルとして新たな「たこ焼き」が開発されるのも仕方がないのかなとも思います。けれども、本来のたこ焼きの定義が消えていってほしくないと私は思います。
たこやきとノーマライゼーション
まったく関係ないように思えますが確かに似ている!
たこやき食べたい…
ブログ拝見させていただきました。
ノーマライゼーションとたこ焼きの類似点なんて、私には考えも及びませんでした。確かに似ているのかもしれません。
一人ひとりが確固たる意識を持って、確かな実感を持ちながら生きていけることがノーマライゼーション。言葉ではしっていても、実感としてなかった事象をここまで「なるほど」と感じたのは初めてです。
たこ焼き紹介のブログ中に「梅干しのように~」がありますが、私は特にここが大事なのではないかと思います。「身を寄せ合っている」実感が乏しければ、ノーマライゼーションは実現不可であると考えます。独りよがりではないが、確かに個人の利益や主張が平等に現れる社会。そういうものを、これからの時代を担う我々が築かねばならないのだろうな。
私も幼少のころを大阪で過ごし、家に鉄板のたこ焼き器があります。普段、たこ焼きを食べるとなると、家族でたくさん食べるため、専ら家で作るのですが、ごくたまにたこ焼きチェーン店のたこ焼きを食べると、家で作ったものとはまた別においしいと感じます。
ここで述べられた「たこ焼きのから揚げ」ですが、安いケーキバイキングの店で出されていた「冷凍のたこ焼きが揚げられたもの」を思い出しました。それがたこ焼きとして出されていたことに何の疑問も感じなかったといえば嘘になりますが、甘いケーキばかり食べていた中でしょっぱい「たこ焼きのからあげ」は口直しには最適で、それはそれでおいしく感じられました。
「たこやきのから揚げ」やバリエーション豊かな「丸いクレープ」などが挙げてノーマライゼーションを語られましたが、私はそのとき人々に受け入れられるものがまた大事であると思います。伝統も確かに大事です。しかし食べ物であるたこ焼きは、長い間変わらない大仏などとは違い人々に食べられなくなっては存在そのものがなくなってしまいます。手を替え品を替え、長い間愛されているものもたくさんあります。またたこ焼き自体も発祥は肉を入れたものですし、地域によってさまざまな種類が根付いています。無形である食べ物の伝統を守ると同時にその多様性を認めることも発展につながると私は考えます。これからもおいしいたこ焼きが食べたいですね。
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