たこ焼きと働く者の魂
たこ焼きは、大阪を代表する食べ物の一つです。出自が大阪の私には、たこ焼きについて数え切れないほどの思い出があります。
子どもの頃は、昼下がりのたこ焼き屋の前にできる子どもたちの行列によく並びました。そろばん塾帰りの子ども、バットやグラブをもつ野球帰りの子どもなど、一つのお店の前に10人くらいは並んでいて、ソースの匂いに胸を躍らせ、青海苔がふりかかるたこ焼きの姿に生唾を呑み、自分のたこ焼きが焼きあがるのを待つ間のわくわくした心持ちは、子どもたちの贅沢なひと時だったと思います。
大阪の各家庭には、必ずといっていいほどたこ焼き用の鍋(鉄板)があります。大阪の子どもたちは、家でもしょっちゅうたこ焼きを焼いて食べます。焼く工程でたこ焼きをキリで「くるっ」とひっくり返す技を習得することは、大阪の小学生が「一人前になる」ためには、どうしてもくぐらなければならない関門です。
ひっくり返した後に、たこ焼きを何回もひっくりかえしながら、上下の境目にできるバリをなくしていき、球状のたこ焼きを焼き上げる技をもっていることは、「大阪の小学生の沽券」にかかわる重大事でした。
今は、関東のお祭りや酉の市でも、タコの絵と「大阪名物たこ焼き」の字の入ったテントを張ったたこ焼きの屋台が並びますね。しかし、たこ焼きが「食い倒れの街」である大阪から全国に広がっていったことは事実としても、たこ焼きの起源は必ずしも大阪にあるわけではありません。
溶き小麦を主要な食材にした、たこ焼きのような丸い形状の食べ物は、他にもいくつかみられます。ちょぼ焼きにラジオ焼き(生地に醤油等で味つけがしてありソースはつけない、きざんだ蒟蒻・竹輪・葱・紅生姜など雑多なものが入っている大阪の食べ物)、そして甘党系列では、ベビーカステラもその類でしょうか。でも、卵入りの溶き小麦の中にタコを入れる食べ物をつくった起源は、兵庫県の明石にあります。明石ではこれを「玉子焼き」と言います。
熊谷真菜さんの『たこやき』(リブロボート、1993年)は、たこ焼きをめぐる古老を丹念に訪ね歩いてヒアリングすることによって、たこ焼きのルーツを明らかにした貴重な労作です。
これによると、明石では江戸時代の天保年間から明治時代の半ばあたりまで、珊瑚玉の模造品である「明石玉」の製造を主要な産業の一つにしていたそうです。明石玉は、本物の珊瑚玉を買えない女性の装飾品として、日本全国に普及していただけでなく、中国や東南アジアにも輸出するまでになり、地域の一大産業として活況を呈していました。
伝統的な明石玉は、卵白・ツゲの木・鉛などを材料に、今でいうたこ焼き用の鉄板のような形状の真鍮製の型にはめて製造するものでした。ところが、明治の半ばを過ぎたあたりからセルロイドが登場します。セルロイドを原料に大量生産される新しい装飾品に押された明石玉の製造は、どんどん廃れていきました。
構造不況の中で、一つまた一つと、明石玉を製造する町工場が閉じられ、そこで働いてきた大勢の職人さんたちは路頭に迷うことになりました。「これからどうして暮らしを立てれば良いのだろう」と。
廃れはてた工場の周りに放置された、明石玉の金型板。これを前に、これらの金属板を何とか使い物にして、溶き小麦と明石名産のタコを材料にする焼き物をつくり、屋台商売はできないか。資金がないわけですから、新しい商売は道具も材料も身近に使えるものから創り出すしかありません。ここから明石の「玉子焼き」が生まれ、大阪のラジオ焼きに「タコ」が入るように発展したものが、今日のたこ焼きであるそうです。
このように、たこ焼きの起源には、失業に直面して人生を切り拓かんとする労働者の魂が込められているのです。明石玉の製造工程をたこ焼きに移転したのですから、昔風の「技術移転」といえるかもしれません。
この発想は、後世にたこ焼きをさんざん頬張らせてもらった私としては、実にすばらしいものだと賞賛したい。明石の玉子焼きが発明された当時、タコは安い食材でしたから、地の食材から多くの人の味覚ニーズに応える食べ物をつくった方々の功績は大きいといえるでしょう。
このような魂を込めていれば、授産施設や作業所の製品開発も、道が拓かれるのではないでしょうか。
コメント
合宿お疲れ様でした。やはり新潟のたこ焼きにキャベツは入ってないみたいです。
来週大阪に行くので、本場のたこ焼き食べてきます。
ブログ読ませていただきました。
私もたこ焼きは大好きなので良く食べていましたが、このようないきさつで発明されたとは知りませんでした。明石玉の製造工程からたこ焼きに、この発想は確かに失業に直面して人生を切り拓かんとする労働者の魂が込められているからこその発想だと思います。
魂を込めての商品開発は、本当に必要なことだと思います。作業所や授産施設では様々な作業をしていますが、私には、それは利用者が何が出来るかを前提に考えて商品を作っているような気がしてなりません。確かに、利用者が何が出来るかという能力的なことは重要なのかもしれません。しかし私は、利用者それぞれの個々の力やこれからの伸びしろを考えて、それらの総合力で何もないところから何かを作り出すことも出来るのではないかと思います。
例えば私は、絵が好きなので様々な絵を見るのですが、その中には障害を持ちながらもすばらしい絵を描かれている方が大勢居ます。手が動かなくなった為に足を鍛えて、手に筆を括り付けて、目が見えなくなって、それでも絵を描けたのは本人に情熱があったからだと、私はその絵の前に立っていつも思います。
一見私達の目から見ると能力的には出来ないように見えることが、本当はその障害を持つ人に向いていたり、出来たりするのではないかと思い、また、それらの可能性を私達は偏見や押し付けで奪ってしまっているような気がしてなりません。
障害者の制度が大きく変わり、障害を持つ人にとって苦しい時代だからこそ、明石玉の労働者と同じように今までの既成概念にとらわれずに新しい発想で、もっと障害を持つ人が輝けるような、そんな魂の込もった商品開発が増えることを祈っています。
たこ焼きの起源を初めて知りました。
確かに、作業所や施設にもこのたこ焼きの例えはあてはまると思います。
作業所等で働いている障害者の方々の給料は、とても少なく、なのにその作業所を利用している利用料を支払わなければならないと聞きました。その時点で私は少しおかしいと思います。なぜなら、私は今アルバイトをしていますが、そのアルバイト先に利用料なんて支払っていません。作業所の運営費がどうのこうの言うのなら、それがまかなえるほどの製品開発をすればいいのにと思うのですが、見学に行った作業所の中には“ただやらせているだけ”といった感じのところもあり、なんだか残念に思ったこともあります。
障害を持つ方々にとって、苦しいこの時代から生まれた製品開発の道が、いずれ私たちの子の代になって、今の私たちがたこ焼きを頬張って食べているような日が来ることを願っています。
ブログを読ませていただきました。初めてコメントを投稿します。
たこ焼きは私も好きなのでよく食べるし、たこ焼き機でみんなで作って楽しい時間を共にしたりします。みんなに食べられ続けているたこ焼きはこのようにして生まれたんですね。
いまでも愛され続けているたこ焼きのように、その状況に適したもの、その地域に根付いたものを利用し、そのときのニーズに合った授乳施設や商品なら、これからも利用は拡大し、みんなに愛されていくのではないかと思います。
埼玉大学で講義を受講させていただいている者です。講義の中には出てこなかった話だと思いますが、興味をもったのでコメントさせていただきます。
私の姉が今大阪で就職しているため、大学に入ってから何度も大阪へ行く機会がありました。行くたびに思うことですが、大阪は人と人とのつながりを強く感じます。炉端焼きを食べましたが、みんなで円のように座り、囲って食べている雰囲気がとても温かく感じました。そして汗をかきながら焼いている店主の魂を感じました。
あの味や、雰囲気が懐かしくなりこちらの炉端焼きの店へ行きましたが、テーブルごとに分かれており、どこか冷たさを感じました。たまたまかもしれませんが、こちらは居酒屋でも個室で仕切られていることが多く、それを目当てに行く客も多いと思います。他人との接点をあまり持とうとしない。
対して大阪では、他の客、店主と接点を持つ機会が多いように感じます。だから私は大阪へ行くと、温かみを感じるのだと思います。そしてこの人と人とがつながっているからこそ、未だに商店街が栄えているのではないでしょうか。
住んでみるのとはまた違うかもしれませんが、私からすると、大阪はとてもヨコのつながりが深いように感じます。それでも虐待は多い。虐待の問題は本当に根が深い問題なんだなと改めて思いました。
たこ焼きの話から大きくそれましたが、虐待の問題がどんなに根が深い問題でも、関わる人々、講義で虐待の事実を知った人々が、なんとか解決できないかと魂をこめて解決しようと思うことで、道を切り拓くことができるのではないかと思います。
実家にタコ焼き機があります。しかし、上手にひっくり返せず、食べるほう専門になってしまいます。今後は、スキルを上げ、作る方と食べる方、両方楽しみたいと思います。
たこ焼きの歴史を知りませんでした。そのような過程があって生まれたものだとは…。たこ焼きと言えば、お好み焼きのように皆で卓を囲んで作ったり、路上で店主の巧みな技で丸くなる様子を見たりと楽しいイメージしか浮かびません。初めてたこ焼き作りに挑戦した時、思いの外丸くすることが難しいことに驚きました。お店の人が作っている様子を見るとくるくると簡単に返し、キレイな丸いたこ焼きが焼きあがっていきます。大阪に行ったことがないので本場のタコ焼きというものがわかりませんが、いつか食べてみたいと思っています。実際生まれたのが果たして大阪なのか、それはわかりませんが。食文化の中には厳しい経済状況の中、職人が苦労に苦労を重ね、その努力が実り生まれるものも数多くあります。大阪の職人に苦難を乗り越え、努力を実らせる大切さを学びました。
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