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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

生活文化考1

 これから暫くの間、庶民の生活文化について綴ってみようと思います。
 生活の土台には、それぞれの土地や風土に応じて、せちがらい世の中を庶民が生き抜くための「生活の知恵」が埋め込まれてきました。ところが、「生活支援」の援助技術的な議論になると、このような生活文化が具体的に語られてきた経緯が希薄なのではないかと思います。
 私が講師をしたことのある、障害のある人の「地域生活移行」への取り組みにおける広域の研究集会では、それぞれの地域の諸条件の違いとしてレポートとミーティングで言語化される部分は、「地価の違い」によるグループーホーム新設の条件の相違くらいなもので、地域ごとの生活水準・生活関係・生活時間・生活空間等をめぐる文化の具体性については、なかなか語られることはありませんでした。このままでは、障害のある人の地域生活保障に、地域の生活の知恵や民衆の理性を活かす取り組みが発展することはないのではないかと心配するのです。
 そこで、これから暫くの間、庶民の生活文化について綴ってみようと思います。私の出自が大阪であるために、関西ネタが多くなるかもしれませんが、それはあくまでも例示として皆さんに受け止めていただければと思います。つまり、生活文化にみられる民衆の培ってきた知恵を活かす発想が、生活支援の世界でもっとゆたかに展開されていいのではということを考える一助にして戴ければと願っています。

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 さて、今回は食文化についてです。
 私が大学院生の頃に読んだある福祉関係の雑誌に、関西のある児童養護施設で「関西の味付けを大切にする取り組み」が掲載されていました。詳細な内容についての記憶は薄れていますが、当時、施設の所在が関西であるのに今さら「関西の味付けに取り組む」ということに疑問を抱いたことだけは確かです。
 生活文化における「食」というのは、何も味付けに限られるものではなく、季節ごとの食材、盛り付けと器、労働を含む暮らしの中での「食」の位置づけ等と多様な広がりと歴史的な深みのある営みです。それを味付けに限定するという取り組みの意味が、私にはよくわからなかったのです。

 1ヶ月ほど前のことです。私の故郷の大阪道頓堀の飲食店「くいだおれ」が閉店しました。道頓堀は私の高校の学区内にあり、週末にはよく友人とこの付近を徘徊した思い出が残っています。とくに、「くいだおれ」の近くにあった天牛書店という古本屋で、何冊か本を売り払い、「くいだおれ」で何か食べるという習慣がありましたから、「くいだおれ」の閉店にはいささか寂しさを憶えました。

 このお店の屋号は「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」という慣用句に由来するものです。大阪の庶民には、せわしくなく働き続けたからといって懐具合にさほどゆとりができるわけではないから、せめて「たまには美味しいもんでも食べよか」とする生活文化のあることを指しています。この文化は、商都大阪が全国から食材の集積する「天下の台所」としての地歩を固めた江戸時代に出来上がったといわれています。
 私の生活感覚から平たく言えば、普段はあくせく働くしかなく、それでいて儲けや月給は上がらないという日々の生活と人生への欲求不満をなだめるように、せめて数ヶ月に1回くらいは美味しいものを食べて満足することによって、自分の身丈にふさわしい人生の帳尻を合わせておこう、というようなことでしょうか。

 ここで、大阪で生まれ育った人ならお分かりいただけることですが、「食い倒れ」にいう「美味しいもの」とは、決して「贅沢なもの」や「高価なもの」ではありません。もちろん、普段よりはちょっと値が張るかもしれませんが、あくまでも「値段の割にはなかなかいける」食べ物のことです。子どものおやつでいえば、平生は駄菓子屋の飴玉―当たりくじ付きの1個5円を2つで10円、運命の女神が微笑んで「当り」が2つ出れば4つに倍増する可能性あり、値段は小生の子ども時代のもの(以下同様)―くらいのものが、何とかして2~3週間に1回はたこ焼き(8個入り1舟で20~30円)に舌鼓を打つというような「贅沢」のことです。

 このあたりの生活感覚は、不確かなものではありません。大阪の「食い倒れ文化」を的確に表わす小説の一つに、織田作之助の『夫婦善哉』が有名です。夫婦となっていく柳吉と蝶子が入る「うまいもん」のお店は、湯豆腐やドテ焼きなどを出す庶民の店であるだけでなく、「一流の店はあかん、銭を捨てるようなもんや」と柳吉に言わしめています。

 ここで大切なことだと私が考えるのは、「食い倒れ」の営みは、普段は一所懸命に働いていることと対をなしているという点です。つまり、自足の念を育むことを抜きにしては「うまいもん」にはありつけないという筋が明白に入っていることです。IT関係の現代の「成金長者」が、六本木あたりの高級店で夕飯を食べることとは一線を画する営みなのです。

 このことを抜きに「食べもの」の味だけをテーマに据えるということは、民衆の生活の知恵から魂を抜いてしまうような蛮行ではないかと思えてきます。実際、大阪で有名な飲食店が東京あたりに店を出すと、何やらまるで違う食べ物に遭遇した気分になるのです。それは大抵、お店の構えや雰囲気がやたら高級な感じに変わり、値段も大阪の倍近くに跳ね上がっています。すると、例えば大阪のうどんすきへの懐かしさに駆られて、私が東京のお店に入った時など、人生の帳尻をあわせるどころか「余分な出費」に腹が立ってきて、うどんすきに向かっては「お前はいつからこんな偉そうな食べ物になったんや」と詰問する始末。うどんすきを代表して、うどんは即座に「えらいすんまへん、けど東京はテナント代が高うおまして…」と言いそうな…。

 こうして、生活文化が消失して「お金の問題」に還元されていくのでしょうか。


コメント


 大阪出身者からの意見として
 東京の方は「高い」=「うまい」という先入観を持っているのではないかというくらい高級志向だと思います。
 大阪の方は物の価値をしっかりと考えていて、だからこそ、値切りもすれば文句も言います。
 それは、はしたないことではないですし、お店のためにやっていることです。
 だから、お店側も「おまけ」を付けたり、「値切り」にもしっかり応対しています。
 東京のお店にはこういったお店とお客の信頼関係をもつお店が少ないです。
 なので、生活文化の復興と物の価値を考えられるようそのままの大阪の店が広がってほしいです。
 もちろんお客側の考え方も変えていくことも必要ですが。


投稿者: tear | 2011年07月11日 11:42

ずっと関東に住んでいる私からすれば、大阪はまだまだ未知の世界だなと感じました。やはり食文化だけでなくいろいろな文化が異なる東と西、そのせいか考え方にも違いがあるように感じます。
たしかに東京都心あたりでは高級なものは美味しいものであると決め付けられ、テレビでも良く取り上げられています。お金を出せばおいしいものが食べられる、その味がわからないのは貧乏人の証拠、そう言われている気分です。
けれどおいしいものは高級なものばかりじゃない、例えばおいしいものでも一人で食べるとなぜかおいしく感じない。みんなで食べてこそのおいしさもあると思います。関西の人からすると関東の人は冷たい、と聞いたことがあります。ものの価値を金額で決める、そんな考えは確かに冷たいのかもしれません。


投稿者: 栗 | 2012年05月07日 13:04

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
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発行:中央法規
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