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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

秋葉原の事件から1 事件をとらえる姿勢

 6月8日(日)、秋葉原の歩行者天国で「通り魔殺人事件」が起きました。この後、17日(火)に「連続幼女殺人事件」の宮崎勉の死刑が執行され、19日(木)には、警察庁が昨年1年間の自殺者に関する統計を発表し、10年連続で自殺者が3万人を超え、30歳代と高齢者が過去最多であることが報じられています。23日(月)には、JR大阪駅で起きた「通り魔傷害事件」の容疑者逮捕の報道が続きました。

 相次ぐこのような報道に接すると、「加害者-被害者」の枠をはるかに超えて、現在の日本の社会が「壊れている」という実感を抱くのは私だけではないでしょう。そこで、これらの事実から何を私たちは受け止めればいいのかが問われるように思います。

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 秋葉原の事件を取り上げて考えましょう。
 この種の事件が起きると、犯人の生い立ちや家族の問題が、当事者とその周辺に対する執拗な「取材」によって、「これでもか」と思われるほど犯人の個人情報を暴き立てて報道されます。今回も例外ではなく、「有名進学校」に至る軌跡とそこでの挫折、家庭教育と親の問題、そして犯人の雇用形態である「人材派遣の実態」の問題がクローズアップされました。これに符丁を合わせるように、新聞やテレビの報道に登場する「有識者」のコメントは、2つの焦点をもつ傾向にあったように思います。
 その一つは、本人の生い立ちに由来する何らかの「精神病理」「人格的な歪み」(肥大化した自尊心、自己愛への固着)がネット社会を通じて拡大されたことを指摘するもの。もう一つは、今や格差社会のシンボルともいうべき「日雇い派遣」労働者の困難を指摘するものです。前者は精神科医と心理学者が、後者は経済学者と弁護士が、それぞれの「コメンテーター」として多く登場していたと思います。
 これらの「コメント」は、事件に対するアセスメントが「個人」と「社会」の2極に置かれた、単純極まりない構成であることが分かります。つまり、「犯人が悪い」か「社会が悪いか」程度のアセスメントであって、報道機関の分析能力はこの程度でしかないのでしょうか。

 しかし、過熱気味の「教育家族」の中で成長を余儀なくされた人、「有名進学校」で挫折経験のある人、職業生活の上で困難に直面している人などは、今日、何も珍しいことではありません。また、これらの人たちがネット社会に参入し、そこで自尊心を保持しようと試みたり、あるいはその時に、プライドを肥大化させたり傷つけられたりすることも、日常不断に生じている出来事に過ぎません。
 秋葉原で犠牲になった方々の冥福を祈って「献花台」に訪れる人たちの中に、一方では、犠牲者の冥福を祈り、他方では、犯人と近似する境遇や境地から訪れる人たちが大勢いることも、一部で報道されていました。仮に、今回の事件の犯人とは明らかに異なる境遇・境地の人であっても、多くの人間は心のどこかに何かの「闇」を抱えているのもまた普通のことだといえるでしょう。
 このようにみてくると、これらのありふれた社会現象だけを通して、惨忍な「殺人事件」を説明することはできません。ここで採用される常套手段は、犯人の特定の「性格」と「環境」の問題を詳細に暴き煮詰め、「このような生い立ち」によって「このように歪められた性格」の犯人だからこそ、「殺人事件」まで引き起こしてしまったのだという文脈で総括することです。このようにして、あたかも事件の「原因」を突き止めたとするかのような報道とコメントの傾向的態度が目立つのではないでしょうか。報道された事実と犯人の負うべき責任の重さをすべて受け止めた上で、なお私には、大きな違和感が残ります。

 このような方向の理解では、事件を生み出した犯人の「特異性」だけを浮き彫りにし、犯人逮捕と刑の執行が行われさえすれば、多くの人が「一件落着」とばかりに胸を撫で下ろすことにしか帰結しません。犯人を「極悪人」に仕立て上げることによって安心感を得ようとする、安易な心の運びはないのでしょうか。
 私が唯一納得できる方向性をもった報道に、先日接することができました。それは、NHKが6月20日(金)に放送した「追跡・秋葉原通り魔事件」です。まだご覧になっていない方は、再放送の機会を逃さず、ぜひご覧になることをおすすめします。


コメント


 先生お久しぶりです。初めて書き書きしますが、いつも拝見しています。
 私も報道にはよく疑問を感じます。今回の秋葉原の事件のような犯罪の特集に限らず、お昼のワイドショー等で発信される情報というのはどこか上辺だけの薄っぺらなものに感じています。
 先生が仰るように、異質な事件ほどその犯罪者の生い立ちや性格、生活環境をこれでもかというほど各メディアが取り上げ、その人物の「特異性」を主張します。そして、それを事件の原因に練り込み、それに関する報道が終わり、いつの間にか風化されていっているような気がします。それが、今の報道の流行なのでしょうか。
 私自身が仕事をする上で癖付けていることがあります。その合言葉ではないですが、一言でいうと「現原対変」です。何か修復しなければならない事象に当たったとき、その「現状」を把握し、「原因」をあらゆる角度から推測し、前向きで建設的な「対策」を練り、良い「変化」を予測し求めるといった考えです。私はこれをマスメディアにも求めています。
 今日の一連の報道は、目に見える現状と、薄っぺらい情報による一面からの原因の発信で終わっています。それでは何も現状を捉えたとも言えず、もちろん変えることはできず、何も解決されたとは言えないのではないでしょうか。
 そんなことを偉そうに言っている私ですが、遅刻こそはしませんが、基本、定時ぎりぎり出社です。その現状は理解・把握していますが、なかなか直りません。早く出社するといいことは間違いなくありますが、早起きする対策を考えない私も各報道と同じかもしれません。
 それはともかく、先生一押しのNHKの報道が気になります。


投稿者: おかのまー | 2008年06月30日 00:42

 初めてコメントさせていただきます。
 この事件もそうですが、最近の凶悪犯罪に対する報道の姿勢というものに、私はいつも違和感を感じます。
 加害者の身辺を執拗に「取材」し、あたかもこれが事実であり、そして、加害者は凶行に至ったのである、というような報道の仕方は本当に事件を真っ向からとらえようとしているのか、という気になって仕方ありません。
 極端な話、「動機」というものは本人以外にわかりようがなく、それを社会のせいだ、ネット社会の発展によるゆがみだど、ただの側面にすぎないことをおおっぴらに報道する、マスメディアに求められる報道とはこのような紛糾だけで終わるものではないと思っています。
 この事件から、どんな問題点が浮き彫りになるのか、またそれを今後どういった風に改善していくべきなのか。将来につなげていく、報道というものを、今後マスメディアには期待したいものです。
 そして、私たち情報を受け取る側も、ただ情報を受け取るだけではなく、その報道からどんな教訓をうけ、変化していけるかということが大事だと思います。
 情報はただの情報であり、それ以上の意味はありません。だからこそ、送り手は偏った情報を流さず、また受けては情報をただ享受するだけでなく、自分で考えることが大事なのだと思います。


投稿者: ワッサー | 2008年11月20日 20:41

 初めてコメント致します。
 無差別殺傷事件―いつものように家でくつろいでいた私は、テレビから流れてきたこの信じられないニュースに言葉を失いました。その後連日あらゆる報道番組でこの事件の特集が組まれ、次々と明らかになっていく容疑者の素性。しかし、私もそれらの報道内容に疑問を感ぜずにはいられませんでした。
 人間は自分が解せない事柄を目の当たりにしたとき、その事柄に自分の納得できるような理屈をくっつけて、あたかもその事柄全てを理解したかのようなつもりになることがあります。
 今回の事件の場合も、容疑者の生い立ち、家族関係、ネット社会の闇などの諸原因を、この「無差別殺人」という理解し難いものにラベルのように手当たり次第貼り付けて、無理矢理に理解しようとしているように感じました。そうやって理解した(つもりになった)途端、また事件の報道が止んだ途端、私たちの中でもうその事件は「過去の出来事」となってしまうのです。
 事件が起こった背景について詳しく調査をすることはもちろん必要ですが、犯人本人にばかり事件の原因を求めようとすると、先生のおっしゃる通り犯人の「特異性」を浮き彫りにするだけで、根本的な解決には至らないと思います。
 このような事件が完全になくなることはないのかもしれませんが、少しでもその発生を防ぐために、私たちはもっと大きな視野を持つ必要があるのではないかと感じました。


投稿者: 黒うさぎ | 2008年11月24日 20:44

 初めてコメントさせていただきます。
 秋葉原事件だけではなく、すべての事件に関して言えることですが、マスコミ・視聴者ともに犯人捜し、事件の裏情報(犯人の人格、今日の社会)に躍起になっているということです。
 確かに視聴者が気になる視点だと思います。このような報道をすることで今問題となっている社会現状が見えてきますが、今後の事件の防止にはあまり効果がないのではないかと私は考えます。
 確かに「個人」「社会」の2つのアセスメントから報道することによって家庭教育の見直し、今日の社会を見直すきっかけにはなると思います。
 しかし、報道すべきことは事件の概要等だけでよく、執拗な犯人個人、関係者への取材(ネット難民への取材も含む)はあまり必要ではないと私は考えます。視聴率をあげるための策であって、逆に犯罪の起爆剤、関係者のストレスにつながるのではないでしょうか。
 それよりも今後このような事件を防ぐにはどうすればいいか考えなくてはいけないと思います。就職支援策、受験戦争の緩和等を視聴者とともに考えてみる。また、国に相談窓口の増設・利用者拡大策を提案してみる。このような報道がこれからは必要ではないかと考えます。


投稿者: 腹ペコ | 2008年11月25日 10:26

 この秋葉原の事件が過ぎて、一時してから模倣犯が続出していたことが何度もメディアで取り上げられていました。
 私が住んでいる福岡県でもそんな事件を予期させる模倣犯が現れ、私はその予期された日は外出しないようにと何度も母に念を押されていました。結局模倣犯は現れず、模倣犯を装った誰かのいたずらであったということで解決したようです。
 本当に最近は悪質な事件ばかりで、いつ自分がそんな事件に巻き込まれるのだろうかと不安を抱えながら生活しなければならない有様です。どこに恐怖は隠れているのか分からない状態なので、とにかく自分を守るのは自分しかいないのだろうと改めて感じています。
 一つの事件が犯人の死刑をもって終わったとしても、また同じような事件は必ず繰り返し起こります。誰が悪くて、何をどう変えていくべきなのかは正直私には分かりません。社会が悪いという人がいれば、教育や生い立ちに問題があるという人もいます。しかし私は、人を変えることができるのはやり人だと思います。
 パソコンなどのネット社会によって、人が人と触れ合う機会がものすごく減っているのだと感じます。それによって心を閉ざして、自分の世界だけを作り上げてしまう人間はたくさんいると思います。こんな寂しい社会からどうにか抜け出したいものです。


投稿者: あこ | 2008年11月25日 15:15

 初めてコメントさせていただきます。
 私はこの秋葉原での事件の報道を聞いたとき、こんな恐ろしい事を1人の人間が出来てしまう事にびっくりしました。
 しかし、報道によって加害者の過去や現在の状況を知り、加害者が特異な人物であるとは感じませんでした。
 これだけインターネットが普及した世の中では、誰もがネット社会で生きている一員です。
 また、格差が広がる社会で日雇い・派遣も珍しいことではありません。
 そして、挫折したことのない人はいないはずです。私も、大学受験で挫折した1人です。
 これらを考えると、犯人は決して特異な人物ではなく、私たちと同じ世界で同じように生活しており、誰もが犯人になり得る可能性があるという事です。犯人だけが特異な人物として捉えられることは、世の中が抱えている問題を見過ごすことになり、非常に危険なことだと感じました。
 事件直後、けが人を助けるわけでもなく写メを撮る人の姿も多く映し出されていましたが、犯人がした事と同じくらい残酷な行為だと思いました。
 しかし、これが現在の日本の現実なのかも知れません。
 誰もが抱える孤独さ・寂しさ、どこにもぶつけようのない思いがこのような事件に繋がったのかも知れません。
 個人で生きる現在からみんなで1つの社会を生きる時代へ!!
 もっともっと人に温かい社会になることを願います。


投稿者: あや | 2008年11月25日 20:57

 初めてブログを拝見、コメントさせていただきます。
 私が最初にこの事件を知ったのは、あるコミュニティサイトのニュースからでした。事が事だけに、とても衝撃を受けたのを覚えています。帰ってテレビをつけてみると、どの局もこの話題でもちきりでした。ある局では、中学か高校の時のアルバムまで持ち出してきて、いわゆる「オタク」の傾向が見られた、と取り上げてもいました。そしてどこもそうでしたが、それらが原因だから早急に制度の改善をということも言ってました。
 しかし、おっしゃっているように、それでは無数の人間が殺人者予備軍になってしまいます。あるテレビでは、小中学生の在宅中にしていることの平均時間数調査みたいなことをしていましたが、ゲームやネットが100分以上を占めていました。これでは、秋葉原のようなことを小中学生がしてしまうということにもつながることになります。
 このような問題について語るには、全面を見ないといけないと思います。ある側面だけに注目し、それについて語るのは簡単ですがそれでは今日のような偏った報道になるし、問題の解決方法も、ネット規制などの簡単なものになりかねないように思います。
 しかし、ネット利用の低年齢化は無視できません。人間関係が希薄になりつつあるのではないかと思えます。どこか不安、不満を吐き出せるゆとりある場を作る必要があるのではないかとおもいます。


投稿者: ケーティー | 2008年11月25日 22:38

 初めてコメントします。
 私はこのニュースが連日テレビなどのメディアを賑わせ、さまざまな憶測を飛び交わせていた時、犯人に関係のあるものをすべて悪者扱いして、なんとか理解しがたいこの事件に独自の理由をつけようとしているマスコミの報道の仕方に気分が悪くなり、ニュースを見なくなりました。
 犯人も被害者も関係なく、事件に関わった人について調べ上げ、被害者の葬式にまでカメラを持ち込み、犯人の人生を他の報道よりもより詳しく報道し、こじ付け的な犯行理由を無責任に挙げつらねていく姿は、事件を楽しんでいるようにしか見えませんでした。
 自分たちが憶測した犯人の心情を、さも真実であるかのように報道し、犯行理由やきっかけとして「教育」や「オタク文化」を攻撃し否定するような発言を繰り返すのは、洗脳にも似ていると思います。
 今回の秋葉原での事件では、何らかの絶対的な悪がなくてはいけないという安定を求める精神がさまざまなところで働き、本来批判されるべきではない一般の人にまで批判が及んでいたように感じました。


投稿者: ナツキ | 2008年11月27日 00:27

 初めてコメントさせていただきます。
 私も最近のニュースの報道を見て、どこか違和感を感じていました。
 特に最近では秋葉原の事件に、私は衝撃を受け、記憶に強く残っています。確かにこの事件はとても凶悪なもので、犯人の犯した罪はとても許されるものではないと思います。
 でも、どの報道でも、犯人は歪んでいる、こんなことできるなんて普通の神経じゃない、異常だ、こんなことがおこる社会になって恐ろしい、といったような内容しか見られず、私の納得のいかない報道ばかりでした。
 事件を表面上でしか捉えてないような気がします。犯人は異常だ、ではなく、どうして犯人は異常な精神状態になってしまったのか、犯人の本当の思いを、もっと深く掘り下げて考えてほしいと思います。そして、彼をそのような状況まで追い込んだ周りの環境や社会も、同時に見直して考える必要があると思います。
 確かに、犯人は悪いです。でも彼を犯罪者にしてしまったのは、彼の思いを理解しようとする人がいない周りの環境や社会の責任でもあり、悪いのは犯人一人ではないと思います。
 とても個人的な思いを書いてしまい、先生の記事のコメントになっているか微妙なところですみません。私もそのNHKの報道を見てみたかったです。


投稿者: サミー | 2008年11月28日 21:28

 ブログ拝見しました。僕も、このブログで宗澤さんがテレビや新聞などのメディアに対して感じたことと同じようなことを思っていました。
 僕は、最近のメディアは情報力がありすぎる、と常々感じていました。今回の秋葉原の事件でも犯人を徹底的に調べ上げ、事件にあまり関係ないような犯人の情報も公開していました。確かにそのような情報は視聴率もとれ、メディアにはプラスかもしれないけれど、他にもっと重要なことがあるんじゃないかなと思います。
 犯人の過去を調べるよりも、これからこのような事件が起きないようにするにはどうすればいいか、ということの方がよっぽど重要なはずです。
 もしメディアが本気になれば、この世界のほとんどの人の過去や情報があっという間に調べられてしまうのではないかと思うと、とても恐くなります。これからはメディアが持つ力をもっと他の方向に使ってくれることに期待したいです。


投稿者: アバン | 2008年11月29日 18:09

初めてコメントさせて頂きます。
この事件が起きたのは1年以上前のことですが、私には衝撃的であったので今でも鮮明に覚えています。
この事件についてマスコミは、あたかも容疑者が「異常者」であるかのような報道をしていました。私だって軽い気持ちではありますが「ああ、ちょっとあいつ殺してやりてえな」とか、逆に「ああ、もう死にたいな」などと思う時があります。私の場合友達と遊んだり、ゲームをしたり、自慰行為をするなどをして、そういった鬱憤を晴らすはけ口があります。しかし彼の場合、そのようなはけ口がなく、自分の中に溜め込むことしかできなっかたのではないかと思います。
そしてようやく見つけたはけ口が、間違った方向に行ってしまったのではないのでしょうか。
もちろん彼が犯した罪は「悪」です。しかし、彼の人格が「悪」であるかのようなマスコミの報道に私は疑問を持たずにはいられません。


投稿者: xxx.xxx | 2009年07月28日 13:26

 こんばんは。
 何度かメディアの報道については問題視される事がありますが、行き過ぎた情報の量、取材のやり方については、やはり報道が一般人に興味深い内容であり、少しでも多くの人に見てもらうことを目的にした「競争」として行なわれている現状が理由として考えられると私は思います。
 凶悪な事件が起こった、との第一報に、直接関係の無い人間が思うのは「誰がそんな事をしたのか」「どう育ったらそんなことができる人間になるのか」などといった思いであると考えられます。その事実を知り、「なるほど、それじゃ歪むのも仕方ない。問題はそんな環境をつくった社会にある!」と思う人もいれば、「犯人はどうかしてる。許せない!」と犯人に対する重い刑罰を望むものもいます。
 事件をどう捉えるにしても、事件とその容疑者のことを詳しく知る必要があり、そのために報道はあるのでしょう。事件をを経験していない人間が事件を考え、犯人の責任の重大性について議論するには、無知ではならない。このような考えの上で、報道の過熱は起こっているのではないかと考えます。
 また、今回の事件では、はっきりと犯人が社会への恨みを口にしていて、犯人の中にあるのはまさに自分と社会であり、その間の特定の個人というものは存在していなかったようにさえ感じられます。だからこそ原因は何故か、という問題に大して「社会」か「犯人」かという論議になってしまうのでしょう。
 しかし宗澤先生の言うとおり、これはもっと身近な人間の彼に対する関心、愛情が彼に届いていたのなら起こり得なかった事件だといえると思います。もちろん彼の身内の人々に事件の責任があるとは思っていません。しかしこのような親密圏への愛情の希薄化は現代の日本を象徴する問題ではないかと思われます。
 パソコンさえあれば、クリック一つでインターネット上の不特定多数、匿名の、顔の見えない人間との「交流」が出来てしまう世の中で、自分にとって都合のいい人間とだけ向き合い、問題を無視することも容易くできてしまう。そこにあるのは人間との交流ではなく、何か別の作られた存在との「交流」だけです。
 もちろんインターネットによって社会は便利な事だらけです。今こうして先生のブログを読めるのもインターネットのおかげです。しかし、現代の家族、地域との関わりの希薄化については、インターネットが理由の一つになっていることは確かだと私は思います。
 私は一人の人間の暴走によって多くの人の命が奪われたこの事件を、問題提起であるとは思いたくありません。まるでこの事件の発生は有意義であると言っているような気がしてならないからです。それでも、周りの情報全てを糧に、社会をよくしていきたいと考える人間がいる事は間違った事ではないと思います。社会から完全に孤立してしまう人々をまた社会へと迎える事ができるのは他人ではなく、家族であり、地域です。
 これから日本の社会はますます本当の人間同士のつながりを忘れ、一人一人が自分だけの力で立たなくてはならない社会になるのではないかと感じますが、それでも、日本がもっとあたたかい「住まい」になる事を心から願います。
 長くなってしまいましたが、以上とさせていただきます。


投稿者: 枕子 | 2009年07月29日 00:27

 秋葉原の「通り魔殺人事件」では、多くの人が刺された現場で、第三者の人たちが、刺されている人の救助ではなく、携帯でその場面を写真で撮っている姿が多く見られ、日本の社会が「壊れている」ことを強く感じる事件でした。
 
 残虐な事件が起きると、犯人の生い立ちやどこで人格が歪んでしまったのかなどが報道で細かく取り上げられ「~だから、このような殺人事件を起こしてしまった」というような報道をよく耳にします。
 私たちは、犯人があたかも特別な存在であるかのように感じてしまいますが、犯人も私たちと変わらない心の闇を抱えた普通の人間であることが分かります。

 事件の原因は何も解明されず、犯人に処罰を与えることで、事件を終わらせていることに、疑問を感じています。犯人を「極悪人」とすることは簡単にでき、それで何が解決したのかや過ちを犯した人間を排除すれば社会は良くなるのかという疑問ばかりが残ってしまいます。
 
 私たち報道の受け手が事件を通して影響を受けていることが分かり、心の闇を殺人を通して爆発させる人も出てくると考えると、ますます社会は壊れていくと感じます。


投稿者: ピンク | 2010年01月07日 20:02

 はじめてコメントさせていただきます。
 私も事件の報道の仕方に疑問を覚えることがあります。たしかにどのような理由で犯人が事件を起こしてしまったのかについては、多くの人が関心をもっており、報道する義務もあると思います。
 かし、テレビなどの取材は行き過ぎている部分があると考えます。犯人の生い立ちなどを事細かに説明し、「昔はいい子だったのに」や、「昔からどこかおかしかった」など周囲の人の発言まで報道します。いい子だったかなどは、周囲の人それぞれ感じ方は違うと思います。
 ある一人の人の意見をあたかもみんなそう思っていると視聴者に感じさせる報道の仕方はおかしいと思います。なかには、刑務所での生活を説明したり、更生しようとしているひとまで取り上げることがあります。このようなことはわたしは必要ないと思います。
 犯罪を犯した人はもちろん悪い。しかし、そうさせてしまった社会も悪いと思います。だれか一人でも話を聞いてくれる人がいたらこんな犯罪は起きなかったのではと思うことがあります。今はインターネットが普及していて、他者と顔を合わせなくても簡単に生活できる時代です。それはとても便利である反面、孤独な人をたくさんつくってしまうものでもあると思います。
 ひとりで悩みや葛藤を抱えきれなくなったとき、その人の中で何かが爆発してしまうのだと思います。犯罪は加害者だけではなくみんなにも責任があるということを自覚していかなければいけないと思います。


投稿者: P&P | 2010年01月27日 00:48

 初めてコメントさせていただきます。
 この事件の公判が始まって、また再びメディアでの報道合戦が復活したかのように感じます。
 今回の報道過熱で私が何に一番驚いたのかというと、それは現代社会に住む私たちの記憶力の乏しさです。
 確かにこの信じられないほど残虐な事件後から今まで、同じくらい、あるいはそれ以上に悲惨な事件も発生しました。しかし、この事件以前にもそれは言えたことであり、またこの報道がリアルタイムで流れていたときに至っては、思いのたけはどうであれ、多くの人がこんな残酷な事件を忘れるはずがないと考えていたのではないでしょうか。
 かくいう私もその一人だったことを今でも鮮明に覚えています。
 何らかの理由もなしに無差別で人を殺せる神経が理解できない、と憤っていたはずでした。
 けれど、そのときの憤りはあっという間にかすみ、気づけばついこの間に公判の情報がニュースで流れるまで私はこの事件のことをすっかり忘れてしまっていたのです。
 マスコミはその仕事柄仕方ないのかもしれないのですが、いつだって新しい事件を、より視聴率の取れる事件を求め、下世話な部分にまで報道の自由と称して土足で立ち入りすぎているように私は最近感じます。
 そして、散々荒らしまわった挙句、その後のフォローはなしですぐに目新しいものに目をやるのです。報道する側もされる側も、誰も事件の最終的結末までを追いかけようとすることはありません。
 その証拠に、私たちは刑の執行より何より、それがその事件に関係あるのかどうか怪しい情報をワイドショーで手に入れるだけで加害者や事件の概要、はたまたその本質までも見抜いた気になり満足して安堵します。そして興味を無くしてすぐ次に移るのです。
 確かに次々と報道される常軌を逸した様々な事件は恐ろしいしその加害者の思考も、行動も、恐ろしい。加害者の周りに存在した「社会」も恐ろしい。
 しかし、私は実際のところ一番怖いのは、口ではその事件を否定しながらもその数分後、あるいは数日後には自分には特に関係ないと事件自体をあっさり忘れてしまうような、暴くだけ暴いて気がすんだらそっぽを向いてしまうような、そんな私たち自身のすぐ近くにある「社会」なのではないだろうかと最近ふと考えてしまいます。


投稿者: スズ | 2010年02月03日 01:22

 今の日本に疑問をいだかずにはいられません。
 毎日のように異常な殺人事件が起こり、政治家の不正・最近では相撲会での賭博事件などが起こる日本。
 また、あることないこと報道するマスコミ。
 こんな世の中だったら、いっそ海外に移住したいなーと思ったりしますが、現実にはできないことを考えると憂鬱になったり。

 特に殺人事件にはいろいろな要因があるとは思いますが、いざ自分の子どもができるとすると心配でなりません。
 政治家も信用できないし、高い志をもって選挙を行っても結局は不正をしてしまう環境にある人が多いように思う。

 デンマークのように税金は高いが、福祉がしっかりしている国へ行きたい。


投稿者: みねぎし | 2010年06月29日 01:00

 初めてコメントさせていただきます。
 
 この事件に限らず、近頃の殺人事件などの凶悪な事件の報道は、加害者の「特異性」を際立たせることしかしていないと感じます。
 先生も仰っているように、加害者と同じような境遇の人はいくらでもいて、また私自身にも共通点はたくさんあると思います。つまり、誰でも加害者になり得るということです。それなのに、マスコミの加害者の「特異性」ばかり主張する報道によって、「あの人は私とまったく違う、普通じゃない」などと加害者を「特別な人」と認識させてしまい、自分自身の中に多分にある「加害者となる可能性」に気付くことができなくなっている、と思います。
 視聴率をとるために、何でもしているととれるマスコミの報道に疑問を感じます。
 また、報道を受け取る側の私たちにも問題はあると思います。
 世の中にはいい人と悪い人の2種類の人がいる、ということを私は幼いころは信じていましたが、実際はそんなに単純なものではありません。誰もが加害者になり得る、そんな社会に私たちは生きています。
 それを認めてしまうと、自分という存在の不安定さを思い知らされ精神的に辛く、日々の生活を安心して送ることができないから、マスコミのそんな報道がまかり通ってしまっているのではないでしょうか。
 このままでは似たような残酷な事件がますます増えていってしまうのではないかと思いました。


投稿者: ちょま | 2011年01月18日 22:41

 先生がおっしゃっているように、人は誰でも心の中に多かれ少なかれ「闇」を抱えていると私も思います。
 私は、初めてこの秋葉原の事件を聞いたとき、自分の中の「闇」も大きくなって爆発してしまうと、こういう風になってしまうのかなと正直少し思いました。しかし、私には辛い時や悲しい時に支えてくれるたくさんの友達がいて、その友達たちが「闇」を小さくしてくれている気がします。
 犯人は、職を失ったりして「現実の社会では、自分は相手にされなくなった」と言っていることを当時のニュースで聞きました。だから、犯人は「ネットの世界に踏み込んだ。しかし、ネットの世界でも無視されるようになり犯行に及んだ」というのも当時のニュースで聞きました。犯人には、誰か支えてくれる人が必要だったのではないかと私は思います。
 そして、今の日本が抱える社会問題も、この事件を通してもっと考えなければならないと思うことができました。人はやはり、人に支えられて生きているのだと思います。この世界に住む人々が、そのことを再認識して、誰もが人を支え、人に支えられる社会になればいいなと思いました。
 先生が紹介してくださっていた、NHKの番組もぜひ見てみたいと思いました。


投稿者: N★ | 2011年01月19日 17:15

 
 改めて被害者の方へご冥福をお祈りします。

 このような大きな事件が起こるとメディアは必ず犯人の過去、人間関係、精神状態、環境などを報道し、専門家が分析し、様々な意見を述べます。ここで、一番大切なことは、「何が悪かったのか」を突き止め終りにするのではなく、「このような悲惨な事件を繰り返さないための対策」を考えていくべきだと思います。このような悲惨な事件、裏を返せば、それは犯人のSOSともとれるのではないでしょうか?
 例えば去年の大阪2児放置死の犯人である、被害者の母、下村容疑者は仕事も育児もすべて一人で抱え込んでしまった末の事件だったらしい。こんな場合は(もし、近くに子ども預けられる施設があったら…)などと思ってします。事実、下村容疑者のような立場にいる方はたくさん存在しているでしょう。そのような方々も悲鳴を上げているかもしれません。
 そんなことを思うと犯人も被害者なんだ…と思ってしまいます。犯人のやったことは許せません。しかし、こうなる前に、救いの手を差し伸べられる世の中になってほしいです。


投稿者: 天剣の宗次郎 | 2011年01月21日 03:31

 参考文献を明記するのを忘れていました。

 参考文献は現代社会と福祉2(社会福祉言論2)
 《児童虐待(CHALD ABUSE)》 


投稿者: 天剣の宗次郎 | 2011年01月22日 00:55

 正義とは何か、問う授業がここ最近話題になっています。
 私はこのような事件が起こるたびに犯人への強い憎悪感と、同時に日本の報道機関への憤りを抱かざるを得ません。
 犯人側に正義があるわけないですが、正義面をして無責任な発言を続けるコメンテーターや、厚かましい取材を続ける報道機関にも正義は感じられません。
 かつて17歳の少年たちが事件をたびたびに起こした時期がありました。その時からこの報道機関の報道体制は全く変わっていないように感じます。
 犯人の人物像を執拗に取り上げ、ある意味でありふれた特徴をさも殺人犯にしかない特徴のように扱う。そして執拗に犯人の「可哀そうな生い立ち」を取り上げる。
 いったい何を報道したいのか、私にはまったくわかりません。
 我々視聴者が犯人の素性に興味を持ちやすいという事実があるため仕方ないのかもしれませんが、はたしてそれは私たちにとって本当に有益な情報なのでしょうか。


投稿者: shipwreck | 2011年01月30日 15:22

 「秋葉原の事件から1・2」を読ませていただきました。
 人はみんな「落ち込む」こともあれば「幸せ」な気持ちになることもあると思います。
 私は日々「何か良いことがあると、そのあといやなことがくる」と思って生活しています。息苦しいことではありますが、事実だから仕方ないのです。
 そんな人の「普通」な気持ちを、なぜメディアはあれだけ大々的に取り上げるのでしょうか。私は「殺す」までの気持ちはないですが、かっとなって叫びたいと思う気持ちは何度もあります。でも私は家族や地域、友人たちによって日々助けられています。
 犯行は犯人個人の問題だけではなく、周りの問題です。絶対に。


投稿者: MAX | 2011年02月02日 10:34

 初めてコメントさせていただきます。

 心の中の「闇」という言葉には、私は心を打たれました。人間誰しも闇の部分も光の部分もあります。私はいつもそう思っていました。しかし、誰も純粋な光の部分だけ持っているというのは間違いで、光あるところには影の部分、つまり闇があるのですよね?
 その闇の部分が光を飲み込んでしまうと秋葉原の事件のように凄惨な事件が起きてしまうのではないでしょうか。
 報道が一方的に加害者を叩く、まるで加害者の人権を無視しているかのごとく。確かに歪んでいるようにうつるかもしれませんが、それだけバッシングを受けるようなことをしている事実は変わりません。
 報道は、というよりも私たちは、被害者の冥福を祈りつつ、どのようにすれば同様の事件がおきなくなるのか考えないことには、被害者は報われないと思います。
 環境が個人を、個人が環境を変える。私たちは、そんなところにも気をつけなくてはならない、ひどい「社会」にいることを改めて痛感しました。


投稿者: takuyan | 2011年07月07日 18:41

犯人のすべてを「ありふれたこと」と捉えるのならばこの事件の背景とはいったいなんでしょうか。犯人は「犯行しない動機」を持ち合わせていなかったのではないでしょうか。「犯行しない動機」は自分にとってみれば「家族」「逮捕」「他者への同情」などでしょう。それは各人別々のものを持ち合わせているでしょうから、犯人にとっての「犯行しない動機」とは何であって、なぜ持ち合わせていなかったかは定かではありません。
 私は、自分の報道機関に対する自らの態度を顧みると、放送されているものは正しいこととみなし、そのまま受け入れる傾向にあることに気づきます。「公に開けているものは正しい」という思い込みと、それに伴う妙な安心感からのものでしょうか。なぜ「公に開けているものは正しい」と思い込むのでしょうか。それはたぶん、法律のように正しいとされるものが公に適用された結果、逆に、公に共有されるものは正しいという認識が生み出され、自分はその考えが癖になってしまっているのではないかと思います。私のように、報道を鵜呑みにしてしまいがちな人はたくさんいると思います。また報道機関も、正しいと思っているものを報道しているに違いありません。「報道の問題点やその改善策を自分は分かっている」というあかしに批判をくりひろげてもなにか生まれるとは思えません。報道に罪があるとしたら、その罪を負うのは報道の問題点やその改善策を知りつつも、批判に終始している人もまた同じなのではないでしょうか。報道に問題があるとしたら、その改善のために行動する人が現れることを望みます。


投稿者: SS | 2011年07月10日 13:25

 このブログを拝見して、一つの事件を個人に全ての原因があると考えるのではなく、もっと深い視点で捉えるべきだと改めて思いました。
 この事件に限ったことではなく、ネット社会をより真剣に考える必要があると思います。これは僕の完全な主観ですが、ネットやゲームに関わる時間が多い友人ほど、少しのことで頭に血が上る傾向にあるように感じます。人間社会は常に人と人とが直接かかわって形成されていますが、ネットやゲームの世界では相手が直接見えません。そういった状況ではやはり自分本位の行動が増えてしまうのではないでしょうか。
 これからの子供はより低い年齢からネットと関わることになると思うので、教育の現場での対応に期待したいです。


投稿者: ぐるり | 2012年01月18日 16:02

私も、多くの報道というものに疑問を抱かずにはいられません。
事件によって報道の仕方が平等でなかったり、必要な情報を伝えられなかったり、私たちの考え方を情報操作されているように思うこともあります。

この秋葉原通り魔事件でも先生がおっしゃるように、この加害者の境遇についてかなり詳しく、強調されて報道されています。
これでは、この被害者と同じ境遇の人々に対して良くないイメージが生まれることもあるでしょう。
決して同じ境遇だから同じような事件を起こすわけではないと分かっていたとしてもです。

事件の加害者を攻めるだけでなく、もっと深い問題点、例えば制度の問題などを伝えていくことも必要かと考えます。


投稿者: yama | 2012年06月06日 11:24

 初めてコメントをさせていただきます。
 時間経つのが速くて、今月は秋葉原の歩行者天国での「通り魔殺人事件」が発生してからちょうど四年間となります。当時の報道を振り返ると、確かに、簡単に犯罪者の生い立ちや性格、生活環境を事件の原因に練り込んで、薄っぺらい報道であった印象があります。当時の私も、これらの原因によって、あんなに惨忍な殺人事件を起こすところに至るのかという疑問を強く持っていました。
 先生が仰るように、日常生活の中で挫折に面することは珍しくありません。それが殺人の理由になるとしたら、犯人と近似する境遇や境地を持つ人が大勢いることによって、この社会にたくさんの残忍な潜在の殺人犯がいるわけなのかという問いが出てきます。どうも納得できません。
 これらの報道は事件の根本的な原因になりきれないことに対して、マスコミの報道の改善を求める一方、事件の傍観者である大衆の認識を求めるべきだと思います。マスコミだけだと、視角が限られていることもありますから、より多くの人々に真剣に多様な角度から考えてもらって、片方に寄らずに、まとめた報道をした方がいいと思います。


投稿者: ホタル | 2012年06月28日 22:14

僕もメディアにたまに疑問を持つことがあります。それは芸能人だからとか、容疑者だからと言って、何か問題が起きた時に経歴や学歴、その人の人生を視聴者に影響しやすいように報道している点です。確かに事件等では背景がどうなのか、どうしてそうなったのかは僕たちも気になります。でも、うまく言葉で表現できないのですが、もっと何か報道すべきことがあるのではないかなと思ったりします。


投稿者: 31S3KT | 2012年06月30日 23:55

秋葉原の事件から約4年。今でも「死刑になりたかった」という理由で通り魔事件が起こっています。報道で通り魔事件の起こった理由がいまの社会の現状(不況や学歴社会)にされることが多いですが、私もそのような報道に疑問を抱きます。いまの厳しい社会状況にはその事件の加害者だけじゃなくみんながその状況に立たされているので、そのことが本当に事件の理由にならないと私も思います。報道するならばいまの現状への解決策を全国へ知らせてほしいと思します。


投稿者: Lilium | 2012年07月02日 13:38

秋葉原の事件はつい最近のように感じていましたが、もう4年も経つのですね。わたしも先生の意見に同感です。このような凶悪とみられるような事件が起こると、犯人の人生や価値観をすべて否定するような報道が最近多いと思います。犯人を擁護するわけではありませんが、きっと犯人の心の中にはきっと葛藤があって、その上で犯行に至ったと思いますが、犯人からの情報の発信はほとんど無いように思えます。また報道などを見ていても、どれを信じたらの良いのか分かりません。わたしがこれをもっとも感じたのは、オセロの中島知子さんと元占い師についての報道です。どちらの主張を信じればいいのか、何が真実なのか分かりませんでした。真実は当事者しか分かりませんが、国民全員が真実を知る必要があるとは思いません。ですがせめて誤った情報が認識されるようなことはあってはならないと思います。そのためには加害者の人権を慎重に扱い、報道制度についても再度見直す必要があると思います。


投稿者: くるみ | 2012年07月03日 21:09

秋葉原の通り魔事件が起こった当初、わたしは高校生でまだ地元におり、東京で恐ろしい事件が起こった、怖いなーという認識しかありませんでした。思い返すと当時のニュースでは,加害者の環境や人格に焦点を当てられたものが多かったような気がします。
最近では無差別殺人に関係した犯人ということで、オウム心理教の容疑者が相次いで逮捕されています。彼らをみて、私はいつも「ふつうの人に見えるのに」と感じてしまいます。おそらく、電車で隣に座っていてもなにも特別なことは感じないであろう人々。そう考えると、どのように心が動いて犯行を起こしてしまうに至ったのか、わかるのは当事者だけなのではないでしょうか。メディアの報道に左右されることなく、真実の情報を見極める力というものがますます必要だと感じます。
しかし、最近の大津市で起こった自殺の事件には憤りを感じます。報道されているいじめは聞くに堪えないほど残忍だと思います。しかし、報道する側も被害者の少年がいかにひどいことをされていたのか、ということをあまりに際立たせる報道がされているような気がします。それにしてもいじめの加害者であった少年たちには、負うべき責任は負うべきであり、家族や学校において人と人とのつながりとはどのようにしてあるべきなのかを考えなおしてほしいと思います。


投稿者: もとの | 2012年07月11日 16:59

相次ぐ通り魔殺人事件、そして十年連続年間三万人を超える自殺者。これらが意味しているものとして、私は社会のやはりコミュニティの不足が原因の大きな一つであると思います。通り魔事件を起こしてしまった犯人も、犯行を起こした理由として「社会に自分の存在を認めさせたかった。」という主張がありました。これは、会社や地域とのコミュニティがしっかりと確立していれば起こらないようなことだったと思います。また、自殺者も様々な理由があるとは思いますが、孤立化して亡くなった人たちに言及してみるとコミュニティがしっかりと確立していれば未然に防げたことであると思います。以上のことから、現在重要視されていることですが、地域や会社などの中での人と人のつながりはとても大切であり、これらが少しでも改善されることで社会は良くなっていくと思います。


投稿者: てらのかっぱ | 2012年07月14日 17:47

初めてコメントさせていただきます。
この通り魔事件がおこったときに私はまだ中学3年生でしたが、今でも鮮明に覚えています。そしてこの事件に対する一連の報道が被告の人格の形成の過程とネット社会にクローズアップしているものであったことがきっかけで、過去の凶悪犯罪とそれを起こした犯人の動機に興味を持つようになりました。そして注意してTVなどの報道を見ていますと、確かに広い社会の中ではよくあるネガティブな側面や犯人の価値観などに答えを求めていく傾向にあると自分自身も思います。しかし大事なことは、どうやってその価値観が生まれ、その環境と関係してきたかのプロセスだと思っています。私たちもメディアから流れる情報を鵜呑みにしないで、その情報がなにを意味するのかを深く考える必要があると考えます。


投稿者: ぶぎう | 2012年07月22日 23:48

この事件に限らず、凶悪な殺人事件が起こると、メディアはまず加害者の背景を洗い出して原因を明確化しようとします。それを報道することによって、視聴者の「得体の知れないものに対する不安」の沈静化を図るのです。それは単に視聴者のニーズに応えているだけであって、そこから見えてくる本質的なものを探ろうという姿勢だとは思えません。
安易に答えを提示することは、人が物事に対して疑問を持ち、追及していこうという意欲を削いでしまうように思えます。自分の見たもの、聴いたものを疑い、自分の頭で考える知的活動の機会を自ら逃しているのか、もしくはメディアに意図的に奪われているのか。現代人は忙しない世の中で生きることに精いっぱいで、考える気力を失っている気がしてなりません。


投稿者: chi-410 | 2012年07月25日 10:24

初めてコメントさせていただきます。
この痛ましい事件から4年が経過したが、私はまだあの当時の連日の報道を覚えている。犯人の生い立ちや性格などを報道し残酷な犯人であるという感じの報道だった。そのことは間違ってはいないと思う。しかしただ犯人を非難するだけのマスコミに疑問を感じる。犯人は日雇い・派遣の仕事をしており強い挫折を味わった孤独な人物であると報道していたが、そのような人物は多くいると思う。問題は犯人を非難するだけでなくそのような人物を作りあげてしまった社会を考え直すようにすることで、それがマスコミの役目だと思う。現代は誰もが簡単にインターネットにアクセスでき、暴力的な映像やゲームを手に入れることができる。1番怖いことは、そのような痛ましい事件が起こり連日報道されても多くの無関係な人々は徐々に事件のことを忘れていくことだ。つい先月にここ福岡でも連続斬りつけ事件が起こったばかりです。しかしもう記憶から消えていこうとしている。このように事件が起きても関係ないと決めつけ忘れていくようではいつまでたっても次から次に犯人が出てしまうと思う。そのような報道を聞き流す社会を変えていく必要があると思います。


投稿者: ディオ | 2012年11月23日 22:29

初めてコメントさせていただきます。
わたしもマスコミの報道には日々違和感を感じています。秋葉原でおこった連続通り魔殺人事件をはじめ、特異とされる事件の加害者に関しては、しつこく取材をし、犯人の生い立ちを報道しています。
そして、優秀な人物の挫折、就職の失敗、家庭内問題、加害者の人間関係での問題などを特に強調し取り上げています。まるで、「挫折や就職難のせい」「家庭内で問題があるせいで事件が起きた」などといわんばかりにです。
この報道の仕方では、この世にごまんといる同じ境遇の人たちが同じことを犯しかねないと言っているように、私は感じてしまいます。
メディアの役割は、犯人の固定観念をつけるものではなく、視聴者に現実を提示し考えさせることであると、私は考えています。今の報道はメディアの考えを視聴者に押し付け、「刑罰」という形でその事件に終止符をうっているように感じられます。これでは、犯人の生い立ちをさらしただけで、事件の根本的な解決はなされてないどころか、事件は人々の中から風化され、また同じ事件が引き起こされてしまうと思います。
だから私たち視聴者は、メディアからの情報をただ視聴し、傍観しているのではいけないと思います。


投稿者: ちゃき | 2012年11月28日 14:42

 初めてコメントさせていただきます。
 報道・マスコミは面白いと思うことを記事やニュースにします。そこには他社との報道とは差別化を図らなければなりません。そうしないと記事は売れません。一通り事件の概要を述べたあとは、どこか違う視点からメスを入れて話題を膨らませないといけないのです。特に民放や週刊誌は顕著に表れます。
 差別化が過度に行き過ぎると今回のように「違和感」を感じるようなことがあるのです。加害者の生いたちや生活環境、被害者となった起因などを事細かに調べ、分析しようとします。そこで得た加害者又は被害者の特異な点を取り上げることで、民意の支持を得ようとするのです。それがあたかも事件の「原因」であるかのように「持ち上げ」るのです。
 それはある意味関係者の本質に迫まろうとした結果ですが、私も本質に迫られたら犯罪者と成りえます。誰もが心に隠し事や闇を持つものだからです。事件を引き起こす引き金を引いてしまうのは他人にはそうそう分かり得るものではないでしょう。そのことは報道をする側も、される側も分かってはいますが、人のもつ知りたいという欲求が関係者の精神をえぐることになっているのかもしれません。


投稿者: モンキー | 2012年11月29日 17:01

 秋葉原連続通り魔事件では、マスコミは執拗にネットを話題に取り上げていたような気がします。当時はオタクという言葉が世間ではやっていました。加害者のオタクっぽい風貌、秋葉原という場所、そして、事件直前まで加害者が書き込んでいたネットの掲示板。
 この事件を通して、マスコミは聴衆にネットへのネガティブなイメージを植え付けたかったのではないでしょうか。今となってはSNSコミュニティが一般的となり、多くの人々がそこで政治問題から最近のトレンドまで幅広く情報を交換しています。他のネットサービスもかなり充実してきました。それと同時にささやかれているのが、若者のテレビ・新聞離れです。
 マスコミは、自分たちのお客さんをネットに取り上げられることを当時から予測し、それを恐れていたのでしょう。秋葉原事件は、オタク=ネットのイメージを結び付け、ネットへのネガティブキャンペーンを行う絶好の機会だったのではないでしょうか。
 マスコミの偏見報道体質にとやかく言うつもりはありませんが、このような姿勢を改めない限り、自分たちの首を絞め続けるだけではないのだろうかと思います。


投稿者: チキンサンド | 2012年11月29日 23:41

初めて投稿させて頂きます。
この事件は私自身とても驚きました。当時私は、高校一年生だった思います。朝ニュースでこの事件を知り、その日の授業では、必ず先生がこの事件を話されていたことを覚えています。
この事件後は、若者のコミュニケーション力の低下や働かない若者など、様々な若者への問題があげられました。私もまだ、20で若者ですがコミュニケーション力の低下や働かないという事はかなりの問題だと思っています。
また、働かない事によって引きこもりになり、引きこもってはゲームやインターネットに入り浸っています。
そんな世界では、一度失敗したり、人を殺しても簡単にやり直しがきいたり、生き返る事ができます。そんな中にいるとゲームと現実の区別がつかなくなってしまいます。この事件は、もちろん起こした本人が一番悪いです。
ただ、社会が起こした事件であるかもしれません。

以後授業の感想です。
授業中は、よく寝てしまってすみません。
私は、大学生活のなかで障害のあるかたと接する事が多いです。
そのほとんどはスポーツ関係ですが、この障害者福祉論では違った側面から勉強させて頂いています。ありがとうございます。これからもどうかよろしくお願いいたします。


投稿者: ながぶち | 2013年01月08日 12:29

初めてコメントさせていただきます。
私はほかの授業で社会問題について調べる中でこの事件に非常に興味を持ちました。
この事件がメディアで取り上げられる中でよく耳にした言葉は「有名進学校での挫折」、「人材派遣」、そして「ネット依存」です。先生もおっしゃっているようにこのときのメディアの報道を見ていると、それらしい言葉を使って事件の『原因』を突き止めたかのような表現をしていると感じました。では、有名進学校で挫折を経験した人はみんな通り魔になるのか、殺人犯はみな派遣労働者なのか。ネット依存が事件を引き起こしたのか。もちろん、このような複数の要素が揃ってしまった結果が、犯人の心の闇になったというのはあるかもしれません。しかし、これらの要素があたかも『必要十分条件』であるという視点はあまりにも偏っていると感じました。
情報を受け取る私たちは受け身の姿勢になってはいけない、と改めて実感しました。しかし、この報道姿勢を真っ向から否定するつもりはありません。これを機に「人材派遣」や「ネット依存」に社会が注目を集めることは決して悪いことではないと思います。


投稿者: poco | 2013年01月19日 10:23

私も秋葉原の事件の犯人を「特異化」するメディアの報道には違和感を感じていました。
彼を極悪人として、私たちとは違う人間としてとらえ罰を与えて一件落着とするのは安易な発想としか思えません。
彼を取り巻く環境が彼の闇を作り、あんな残酷な行為を及ぶに至ったと断言するのはあまりにも危険だと思います。
彼を取り巻く状況は誰でも陥る状況で、だれでも闇を作る可能性があり殺人者になりうると思います。
彼と私たちの違いと言えば、周りに相談できる人がいるかいないかだと思います。
彼にも相談できる相手がいればすべてを自分で抱えこまずに孤立することもなかったと思います。

また、ありとあらゆる個人情報をばらまくメディアの報道も見直していく必要があると感じました。


投稿者: かきぴー | 2013年01月23日 11:52

私も,報道にはいつも違和感を抱いております。この事件の加害者は挫折,就職難,ネット依存が原因といわれていましたが,その状況は多くの人が経験しています。確かにそれが原因の一部ではあるかもしれませんが,それだけが原因でこの事件を起こしたとは思えません。しかし報道を見ているとそれだけが原因だというようなことを流しています。この事件に限らず,報道は他の事件でもこの事件と同様に加害者の挫折などを見つけ,それを原因だと強調する傾向があります。しかし報道とはそういう決めつけを流すものではなく,事実を伝えるものであるべきです。このようなこともあり,メディアを見る側はしっかり事実かどうか考えなければならないと思います。


投稿者: キャンディー | 2013年01月24日 22:28

 秋葉原の事件が起きた時は高校三年生だったが、その時は自分たちとは違う世界の人間が起こした事件だと思った。こんな自分の考え方だけでいいのかとも思ったが当時は深く考えなかった。それだけでは何の解決にはならない。報道からコメンテーターに共感するとか、意見を持つとかそれくらいしか多くの人はしない。将来につながるように社会の落とし穴、誰が加害者になるのかわからないと訴え、他人事でないと認識するような報道が必要と感じた。


投稿者: はりま | 2013年01月26日 13:53

結果をきちんと追いつめて考える習慣が無いからなのかと思います。報道などを見ていると視聴者に求めているのは考えることではなく共感することのように思えます。まず情緒的共感に訴えますが、記事にあるNHKの放送のように考える材料を与えてくれる報道は少ない。メディアだけではなく受け取る側にも問題はあり、受け取ったものを考えることができていないこと共感してそこで終わってしまうことがほとんどだと思います。考える材料を提供しないメディア、考えようとしない視聴者という構造、私達の文化の中で結果を考えることが定着していないこと、これが問題を問題のままにしてしまっていることの原因なのではないかと思います。


投稿者: にとり | 2013年06月18日 12:04


初めて投稿させて頂きます。
私も今日の報道についてはいくつか疑問を持つことがあります。
まず最初にその人の学歴や評判だけでその人を判断し、推測でその人が何か闇をかかえている人だと決めつけ、だから殺人をやってしまったんだとゆう結果にいつも落ち着いてしまうところです。
学歴が高ければ、プライドも高く自尊心も大きい。学歴が低ければ、それなりの考えしかできず、現実を受け入れられない。こういった勝手な固定概念に本当に疑問を持ちます。
そして、その人の生い立ちを色んな周りの人から話しを聞き、親がこうだから子供はこんなことをするような子になってしまったとゆう勝手な推測にも疑問を持ちます。
こう言った社会の中の勝手な固定概念やそこからの推測が1番社会の秩序を乱しているのではないか?と思います。
そう言った周りの目を気にしすぎて気を病んでしまう人も実際に沢山いらっしゃいます。
やはり、加害者にもちゃんとした人権があるとゆうことを考えて報道機関も行動しなければならないと思いました。


投稿者: KWTN | 2013年07月01日 14:13

この自演が報道されたとき、私はまだ中学生でした。事件の内容はもちろんのこと、犯人の出身高校が私の地元の進学校だったということもあり、非常に衝撃的だったことを記憶しています。
この事件で印象的だったのは、先生のおっしゃる通りの、マスコミのある種の偏向的な報道でした。犯人の挫折や苦悩を一つ一つ徹底的に取り上げ、まるでそれが原因だとでもいうような報道の仕方だったような気がします。また、マスコミは「ネット依存、ヲタク」についてもネガティブなイメージの報道を行い、私たち一般人に悪いイメージを植え付けていました。実際私は当時そういう人たちに対する理解がいまいちなかったために、ヲタクは犯罪者予備軍の集まりなどという事実無根のイメージを抱いてしまいました。
マスコミは慈善事業ではなく商売で報道を行っています。他社に負けないように、視聴者をくぎ付けにするために、多少の過激な報道を行うのは仕方のないことかもしれません。しかし勿論それが許されるわけではありません。報道の名のもとに、一人の個人の出生が一から洗い出されている現代の状況ははっきり言って以上であり、犯人側の人権も考えなければなりません。そうであるとするならば放送する側だけではなく私たち視聴者の意識改革が必要なのではないかと思います。垂れ流される大量の情報を受け取るだけで、それを考えることをしない今のままでは、マスコミという巨大な権力に人間の脳が支配されていくのではないかと思います。


投稿者: コブラ | 2013年07月04日 11:14

私がこの事件をテレビで見たときはまだ中学生であった。犯人の出身高校が私の家の近所の、地元でも有名な進学校だったということもあり、今でも鮮明に覚えている。
私がこの事件で印象に残っているのが、その凄惨な事件の内容とあと一つ、マスコミの彼に対する執拗なまでの報道である。マスコミは彼の過去を洗いざらいさらけ出し、彼の失敗や挫折を大々的に取り上げ、あたかも彼が失敗と挫折から生まれた極悪人のように報道した。また、「ネット依存、ヲタク」に対するネガティブな印象を持たせるような報道も行われ、一般人に悪意ある印象を持たせてしまった。
知識のある人ならまだ良いにしても、何も知らない人は「ネット依存やヲタクは犯罪者予備軍の集まり」という間違った意見を持ってしまうのは無理もない。
マスコミは慈善事業ではなく商売で報道を行っている。少々過激な報道を行うのは当然なのかもしれない。しかしだからといって、犯人とは言えども一個人の経歴を全国に向かって許可なく放送するというのは絶対にあってはならない事実であろう。そんな世の中で私たちができること、それは考えることである。メディアに対し批判的になることがひつようなのではないか。莫大な情報をうのみにし続け、マスコミの過激な報道を許すと、また誰かが犠牲になるかもしれないし、考えることをやめてしまったら私たちの脳はマスコミという巨大な権力に支配されてしまうのかもしれない。


投稿者: コブラ(上のと同じものです) | 2013年07月04日 16:41

本来ならば事実をありのままに伝えることを目的とするニュース番組や新聞が、視聴者や読者のニーズに合わせ、事実を脚色して報道してしまう、という問題は今でもあります。人々が安心したり面白がったりできるように都合よく事実を取捨選択しているように思います。これでは問題を解決したように見えているだけで、実は問題は放置されているままになってしまいます。問題が簡単に解決するかはさておき、ありのままの事実を受け入れ、それについてみんなで考え続ける、ということが重要だと思います。


投稿者: すずたく | 2013年07月10日 14:26

初めてコメントさせていただきます。
秋葉原での殺人事件が起こったのは私が高校生だった頃の話です。
当時の私はこの事件に対して恐怖を覚えたと同時にある種の共感を覚えていました。
なぜなら、この事件の犯人とされる人物の犯行動機は、どのような人も抱きうる負の感情から成り立っているものだと私は思うからです。
大きな挫折、誰だってあると思います。
見栄を張ること、誰だってあると思います。
挫折をすれば誰だって現実を直視させられます。
そうした重圧に耐え切れず、弱音を吐いたり、愚痴ったり、時には泣いたりすることで、自分の心を軽くすることは珍しいことではないはずです。
ただ彼の場合はそういった負の感情を発散できる環境がなかったことや、それを受け止めてくれる友達がいなかったことが彼の不運だったのではないかと思います。
ただこれだけの違いが、彼の中の闇を拡大させ、キャパがいっぱいになった時にドクドクとあふれ出て、あのような事件を引き起こしてしまったのではないかと思います。
適度にストレスを吐き出す術や、ストレスを受け流す術を身に着けていれば、彼の心の闇はここまで拡大することはなく、あのような事件にはならず、一般社会に少しずつではあるが、打ち解けていけるのではなかったのかと思います。
ほんの少しの人間関係の違いが、心の闇を最小限にとどめるか、火山のようにあふれ出るか、大きな違いを生むのです。
これらの心の闇を浄化するシステムが、現代社会には足りていないように思えます。
これらのシステムの構築が遅れていることが、最大の要因だと思います。


投稿者: 色白メガネちゃん | 2013年07月23日 15:55

マスコミが情報操作をし、人々の考えを特定の方向にもっていくのは容易いことだろう。そういったことからも、社会科や情報の授業では「情報の見極め」「情報の取捨選択」などについて習うのだろう。もちろん私はマスコミが悪者だとは思わない。さまざまな事実を即座に知ることができるのは彼らのおかげであり、彼らの恩恵は今の社会に必要だからだ。しかし一方で情報をひねっているのも事実である。私たちはそれを見抜く力を養っていかなければならないだろう。
秋葉原事件では、犯人はこんな人物だったと世間に印象づけ、事件の真相はきれいに明らかにされ、幕を閉じた、という情報操作によるマスコミの「予定調和」によって事件は影を薄めていったのだろう。だが、もっと重要な部分は十分に議論されることなく、人々の胸に刻まれることなく消えていってしまっただろう。だから、そういったところを私たちは普通の報道から考えなくてはいけないのだと思う。


投稿者: cosmos | 2013年07月23日 22:51

初めてコメントさせていただきます。
この痛ましい事件から数年経った現在も、日々悲惨な事件が報道されていますが、何か事件が起きると、マスコミは必ず犯人の生い立ちや家庭環境、性格などを事細かに調べ上げようとします。そして、その情報の中から犯人像となる特徴を拾い上げ、「犯人のこのような人格や境遇が彼/彼女を犯罪に走らせたのだ」と結論づけようとします。このような、マスコミが作り出した憶測によって、事件の報道が誘導されているのではないかと感じることも多々あります。 
また、何が「悪」であるかを何とかして探し出そうとし、自分たちが「悪」だと考えたものを頭ごなしに否定し批判していくマスコミの手法は、現代の社会や子どもたちにも大きく影響を与えていると思います。


投稿者: KS | 2013年07月24日 01:04

メディアはある事実に対して、その一部分だけを取り上げて報道されるという特性を持っている。また、それらの情報は発信者の視点も含まれる形で伝わる。その特性を完全に排除することは極めて困難だし、その発信者の提示する視点が受信者にとって新たな視点を生み出し、価値変容をうながすこともある。様々な事件の在り方について、メディアは、報道を通してオピニオンリーダーとして世論の再構築を常に試みなければならないし、その役割を担うべき機関であると考える。


投稿者: みよしの | 2013年07月24日 06:28

初めてブログを拝見、コメントさせていただきます。今回、秋葉原の事件についてのこのブログを読んで、ここに書いているように何が本当か嘘か分からないのにマスコミなどが世間の関心をひくために実際にはないような事までを報道しているという意見に同じ思いを持ちました。ニュースや新聞で報道される事は断片的なもので、まずその事が事実かどうかもはっきりせず、憶測のまま報道しているように思えます。しかし、その情報を受けた私たちは、報道されている事が本当に正しいと思い込み、犯人やその事件に対して、間違った考えを持っていると思います。そこで大事なのは、テレビや新聞で報道されている事が全てではないと理解することだと思います。本当に大事な事はテレビなどを通じて公にされることはないのです。見た聞いた事を真実かどうか自分で確認することなく、それをまた違う人に伝え、また間違った考えを持った人が増える。これでは悪い方向へいくばかりです。
また犯人の生い立ちや経歴を調べて、事件との因果関係を見つけようとしていますが、例え事件につながっていそうな出来事があったとしても、本当にそれが犯人に影響して事件につながったとは言えません。そのような報道をすると、今まで犯人を同じような出来事を体験した人がいれば、そこでまたその人が犯人や事件に対して、間違った考えを持つ可能性が出てきます。今考えてみると自分もテレビのニュースなどを見て、それが本当かどうかも疑う事なく、聞いたことをそのまま自分の考えにしてしまっていたと思います。今気付けた事をプラスに考えてこれからの人生生きていきたいと思いました。


投稿者: むねー | 2013年07月25日 22:56

秋葉原の「通り魔殺人事件」に関しては、私も衝撃を受けたことを覚えています。あれから5年がたった今、過去の事件として忘れてしまってはいけないと強く思います。思い返してみると、先生のおっしゃっている通り、犯人の生い立ちについてのニュースがひたすら繰り返されていたのを覚えています。今考えてみると、私が持っているこの事件に関する知識は、これらのニュースや新聞によるものだけしかありません。このような事件からは何かを感じとらなければならないと感じながら、結局は受動的な姿勢でしかなかったのかもしれないと強く感じています。


投稿者: マカロン | 2013年07月26日 15:34

今回私は初めて投稿させていただきます。
この秋葉原殺傷事件は、私も数年たった今でも世間に大きな影響を与え、恐怖におとしめたのを今でも覚えています。そして、真相のわからない世間に対して、マスコミの情報が何よりの事件を知る一つの手がかりだったかを今でも覚えています。だが、今回の事件で、マスコミは犯人の特定の性格や環境の問題を煮詰め、犯人がこのような生い立ちによって、このように歪められた性格の犯人だからこそ、殺人事件まで起してしまったと述べています。このように、マスコミは原因をあたかも探り当て、その情報に世間は安心してしまうといった傾向が当たり前の情報伝達になりつつあったと思います。今回のマスコミは固定概念にとらわれすぎていると私は感じました。今回の事件現場は秋葉原で当時は、オタクの集まる場所といったイメージが強かったでしょう。でもこれも偏見にすぎないと思います。また、その人の学歴、教育の場が必ずしも今回の原因かのように報道されていました。でも、この現場が今回の要因になったとは、言い切ることはできません。また、今でも有名進学校などの挫折や職場などでの挫折も世間的にあります。だから、これが、原因と言い張るのはマスコミの偏見にすぎないと思います。

でも、私は他に目を向けないといけないのは、加害者の心の闇の部分だと思います。今回、この人は、周りに助けを求めていたと思います。だが、その話し相手
、相談に乗ってもらう人がいなかったという部分が私は気になりました。これは、自分で溜めるしかないといった判断になりかねません。だから、同じ問題を抱えている人はまだまだ世間にはいると思います。そういった部分に目をむえてこれからの社会を作っていくことが大切だと思います。


投稿者: DAI | 2013年07月27日 15:25

初めてブログを拝見、投稿させていただきます。
今回これらの事件を振り返ってみて、やはり近年での日本は壊れかけつつあると私も感じております。
ここで書かれているように人は誰しも心のどこかに「闇」を抱えており、それを今回の秋葉原の事件や他でおきているテレビニュースなどで報じられている事件の犯人などを「極悪犯」と見て安心している傾向は5年たった今でも変わらずあると思います。
私はこうなった背景には本当か嘘かもわからない多くのコメンテーターに乗せられている現代人のありかたもそうですが、それより近年社会的に人の命を軽視しているような傾向に問題を感じます。殺人を行う人はもちろんですが自殺や事故で亡くなる人に関しても他人事であることもあり、テレビでも他のめでたいこととなんら変わらず軽く報じられているといったことがどうも私的には気になります。
専門家といったコメンテーターの本当か嘘かわからない話や盛った話が社会的悪影響を与えているということもそうですが、この命を軽視した傾向も社会現象だと感じております。
自分がなにを見て何を信じるのかは人それぞれですが、疑うべき時に信じ、信じるべき時に疑うといったことは人生を失敗させるような気がします。
今回の秋葉原の事件に至ったまでの本当の理由はそれを行った本人にしかわかりませんが、人尊い命が奪われたということに間違いはありません。私は「死」ということの重大さにこれからもっと目を向けていきたいと感じております。


投稿者: すみくん | 2013年07月29日 11:55

今回初めてブログを拝見し投稿させていただきます。私は事件当時高校生で、事件を知ったのは家で見たテレビニュースでした。大学生になった今でも事件のことは覚えています。今再び事件のことについて考えてみると残虐な事件が日本中で増えてきたように感じます。信じられないような動機で簡単に人を殺し、それがいつものニュースで流れ、いつの間にか忘れ去られたかのように報道されなくなる。今の日本の現状に正直に危機感を感じています。このような事件が起こる日本の問題点を私なりに考えました。(今回は私たち若者世代に絞りたいと思います)その中で出たのは私たち若者は打たれ弱いなということです。私たち若者の世代は不登校になったり、すぐにバイトや就職先をやめたりする人がたくさんいます。原因はいろいろあると思いますが、我慢できるような理由でそうなったケースもあると思います。何かあればすぐにあきらめそこで終わり。その先のことやそれに至るまでの自分の過程を見つめようとはしない。人のせいにして相手がどうだからと言い訳をする。そんなようじゃ世の中の理不尽さにうち勝っていけないと思います。私は今でも子供の時からやってきたスポーツを続けています。何度も怒られ、理不尽なことをさせられ、もう嫌だと思うことはたくさんありました。それでも私がスポーツを続けてきたのは途中で逃げ出したくなかったからです。世の中の理不尽さに負けたくなかったからです。もう嫌だと思った時に立ち向かうことが大切だと思います。うたれ弱いのが直接事件を起こすこととは関係があるとは思いませんが、世の中の風潮としてこのようなことがあるのは問題視すべきだと私は思います。

講義の感想としては、今まで自分自身が考えたことないようなところまで話を突っ込んでいたので正直難しかったです。しかし、学んだことも多くあり、自分のためになるものでした。授業で学んだ知識を活用し今後の大学での活動にいかしていきたいです。


投稿者: もっち | 2013年07月29日 22:06

この秋葉原殺傷事件が起こったとき、当時中学生の私は、とても衝撃をうけ、ニュースをみていたのを覚えています。その当時は、マスコミの情報がすべて正しいと思いどんなことでも信じていました。しかし、このブログをよんでみて考え方が甘かったと思います。マスコミが流している情報をすべて真実だと思い、何もかも犯人が悪いと思っていました。確かに殺傷はよくないことですが、この事件後の犯人への扱いはとてもひどいなと今は思います。犯人がこの事件を起こすまで何かしら、助けになれなかった社会も問題ではないかと思います。また、必要以上に犯人の過去を調べ上げ、生い立ちや挫折など報道し、このような生い立ちによってこのように歪められた性格の犯人だからこそ、「殺人事件」まで引き起こしてしまったのだというふうに僕の頭の中では、完全に犯人が極悪人という意識が強かったことを覚えています。マスコミの情報に疑問を持たず、信じて安心していた部分もあります。今、考えると犯人の生い立や挫折は事件を起こしたという原因につながるわけではないと思います。マスコミが作り上げたものを私は真に受け何もかもが受け身になっていたと思いました。事件から、約5年たった今でもマスコミの情報を信じているのでこれからは、受け身姿勢を変えるべきだと思います。自分自身の報道に対する見方もそうですが、マスコミの報道もかえるべきではないかなと思いました。


投稿者: モハメド・ジダン | 2013年07月30日 12:01

この秋葉原の通り魔殺人事件が起きてから5年という月日がたったので、現在、20代の私はまだニュースにあまり興味のなかった中学時代でした。しかし、この事件は私にとってはすごく衝撃的で、ニュースに興味のなかった私でも、テレビで放送された際は、食い付くように見ていたのを今でも覚えてます。私だけではなく、他の人にとっても衝撃的であり、また、多くの人を恐怖に陥れたことだと思います。あれだけ、テレビなどで報道されていたので、おそらくこの事件について知らない方は少ないと思います。今でも覚えているのですが、やはり、報道では犯人の生い立ち、性格、環境についてのことが多かったと思います。あたかも原因を探り当てたかようにしているとも思えます。昔はあまりよくわからなかったですが、今では違和感をすごく感じます。


投稿者: けんたむ。 | 2013年07月30日 22:48

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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