グアンタナモ基地の収容所 その1
先月、アムネスティ・インターナショナル日本の講演会で、キューバの米軍基地、グアンタナモの収容所に収容されたムラトさんのお話を聞いてきました。
ドイツ在住のムラトさんは、現在27歳ですが、19歳のときグアンタナモ基地に連行され、2001年から2006年までの6年間拘禁されたとのことです。
ムラトさんはイスラム教徒で、19歳のときに、パキスタンにあるホームレスや薬物依存の若者を支援する奉仕学校を訪問し活動に参加したのですが、その帰り、パキスタンで身柄を拘束され、2ヵ月後にキューバのグアンタナモ基地に移送されたのです。
当時は、9.11事件(アメリカ同時多発テロ事件)の直後で、アメリカ軍は、9.11事件の首謀者を捕まえるために、テロ関係者を1人引き渡すと3千ドルの報奨金を渡していたのです。ムラトさんは、パキスタン政府が自分の国にいる人を引き渡すのには抵抗があったので、外国からきたイスラム教徒をアメリカ軍に引き渡していたのではないかと考えているそうです。
ムラトさんは、ドイツに戻るために空港に向かう途中、乗っていたバスが検問を受け、その際に拘束されました。その後ペシャワールの警察留置場に連れて行かれ、そこでまず、厳しい尋問をうけました。
「ビンラディンを見たことがあるのか」と警察に聞かれたので、テレビでテレビのニュースで見たことがあったムラトさんは「はい」と回答したところ、「どこで見たのか」と聞かれたので、「テレビで見た」と答えたそうです。
この後、理由も説明されないまま身柄拘束が決定し、カンダハルの米軍基地に連行され、そこで「私は2度とタリバンやアルカイダのために戦わない」ということが書かれた書類に署名を求められたそうです。しかし、ムラトさんは、もともとタリバンでもアルカイダでもなかったので、この署名を拒否しました。そうしたところ、激しい拷問を受け、グアンタナモ基地の収容所に移送されたのです。
パキスタンの留置場やグアンタナモの収容施設では、それは、本当に、筆舌に尽くしがたい拷問を受けたそうです。
頭を水槽の中にいれられ、お腹を蹴り上げられたために口から水が入ってきて、溺れるようになる水責めや、手足を縛られ足が床に届かない高さで天井から吊るされたり、足に電気ショックを与えられたり、犬のゲージのような小さな檻に入れられたり・・・。
このような直接的な拷問以外にも、銃口を向けられ、「お前を撃ってやる」といわれたり、「ヒトラーがユダヤ人にやったことと同じことをお前たちにやってやる」といわれたりしたそうです。このような状況の中、目の前で命を落としていく人を何人も見たそうです。
アメリカ軍は、アメリカ国内でこのような行為を行なうと拷問で違法行為になってしまうため、拷問が違法とされていない海外でこのような拷問行為を行なっているのです。
ただ、このような軍の行為については、末端の兵士を処罰しても根本的な解決になりません。ムラトさんの講演に先立って、「タクシー・トゥ・ザ・ダークサイド」が上映されましたが、このドキュメンタリー映画の中では、元兵士の証言や丁寧な調査により、このような拷問行為は、兵士個人の意思によって行なわれていたのではなく、米政府の指揮に基づいて行なわれていたということが示されています。
その後、ムラトさんは、世界中のアムネスティや市民団体等の働きかけにより解放されるのですが、この開放にも非常に時間がかかったのです。2002年頃から、アメリカ政府は「ムラトさんは無実である」といい始め、ドイツ政府に連れて帰るようにと連絡をしたようですが、それを受けたドイツ政府は、なぜか、ムラトさんの所に諜報機関を送り込みました。しかも、調査の結果無実であることがわかったにもかかわらず、当時の政治家によってグアンタナモに留め置かれたとのことです。無実であるとわかってからも4年間、拷問を受け続け、ある日突然、目隠しされ、手足を床につながれた状態で、飛行機でドイツに戻されたそうです。
ムラトさん自身は生きて帰ってこられましたが、収容中に拷問を受け死んでしまった人もたくさんおり、また自分の国に戻ってこられた人でもトラウマで話もできない人もいるそうです。
「この状況は未だ改善されず、現在も200人以上がグアンタナモ基地に収容されている。そこに収容されている人たちは、公正な裁判を一度も受けていないし、釈放された人たちも一度も謝罪を受けていない。一番若い人は9歳の少年、12歳、14歳の少年も拘束されている」とムラトさんはおっしゃられていました。
グアンタナモからドイツに戻ってきた今でも、ムラトさんの名前はドイツ中に知れ渡っているので、タリバンではないかと言われていまだに仕事に就くこともできないそうです。
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